恋から逃げるのには理由(わけ)があって

第14話 向日葵の1回目の人生④(そして私はあの日に戻った)

「向日葵?」

太陽の声が、雨の音の向こうから聞こえた。

私は卵雑炊の器を両手で包んだまま、顔を上げられなかった。
しょうがの匂いはあたたかい。部屋の照明も、キッチンに立つ太陽の横顔も、いつもの夜と同じはずだった。

なのに、喉の奥に何か冷たいものが詰まっている。

「大丈夫だから」

そう言った声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

太陽はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、ローテーブルの向こうに腰を下ろし、私が雑炊を食べ終わるまで静かに待っていた。

その沈黙がやさしくて、苦しかった。

言えばよかったのだと思う。

駅のホームで押されたこと。
会社で不倫の噂が広がっていること。
机に、差出人のない封筒が置かれていたこと。
誰かが私たちの秘密を知っているかもしれないこと。

言えば、太陽はきっと動いてくれた。
事務所に相談して、マネージャーに連絡して、私を会社まで送ると言って、必要なら結婚を公表しようとまで言ったかもしれない。

でも、私は言えなかった。

太陽が15年かけてつかんだ王子様役。
公開前の大切な映画。
私を守るために何度も事務所と交渉して、やっと始めた秘密の結婚生活。

それを、私の怖さで壊してはいけないと思った。

思ってしまった。

「食べられた?」

太陽が静かに聞いた。

私はうなずいた。

「うん。おいしかった」

「よかった」

彼は本当にほっとした顔をした。

その顔を見るたびに、私は自分の沈黙を正しいものだと思い込もうとした。
この人を守るため。
この人の仕事を守るため。
私たちの生活を、もう少しだけ静かに続けるため。
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