有罪愛
(自分から距離をとったくせに)
現在、列車のドア近くに立った春佳は流れる景色を見ながら、苛立ち混じりに心の中で呟く。
兄の事が好きだったから、彼が家から出て〝知らない大人〟になったのが寂しかった。
自分はまだ実家にいる〝子供〟なのに、冬夜だけが独り立ちして、置いて行かれた気持ちになった。
春佳は自分にあまり口出ししない父や、何かあったらヒステリックに怒鳴る母より、優しく面倒を見てくれる冬夜に懐いていた。
庸一はヘビースモーカーだが、深酒はせず、ギャンブルも女遊びもしない。
春佳にとっては温厚な性格の〝いい父〟だ。
けれど父は困っている時に相談に乗ってくれ、道を指し示してくれるタイプではない。
〝父親〟という存在ではあるが、彼に父性を感じた事はあまりなかった。
母は情緒不安定な人で、春佳に対して愛情は持っているのだろうが、過保護なところもあり、上手く接する事ができずにいた。
子供の頃は少し帰りが遅くなっただけで打たれたし、大学生になった今も門限が厳しい。
母は確かに難しい人だけれど、自分を愛しているからこそだと思っている。
だから、酷く怒られた時は自分が悪い。
(あーあ、怒られるだろうな。禁止されてた合コンに行った挙げ句、朝帰りだもの。お兄ちゃんの所にいたって言ったら、少しは怒りを収めてくれるかな)
母の事を思うと、ズンと気持ちが沈む。
(お詫びにコンビニスイーツでも買おうかな。最近お酒ばっかりでご飯を食べないし、甘い物なら入るかも)
春佳は地元駅に着いたあとの事を考える。
だが一度過去の事を思い出すと、つられてポロポロと嫌な事が脳裏に蘇った。
**
高校生になったあとも、春佳は大人しい生徒として目立たず過ごしていた。
彼女は中学生ぐらいから将来の夢を描き、高校生の頃には夢を実現させるために英語に注力していた。
春佳が通う私立高校の数学教師、多田は三十代半ばの妻子持ちで、どこか陰のある冷たい美形だからか。女子生徒に人気があった。
噂では何人かの女子生徒と関係があると聞いたが、そんな事が発覚すれば大事件になるだろうから、特に信じていなかった。
だが〝それ〟は春佳が高校二年生の時、数学準備室に行って多田に勉強の分からないところを聞いていた時に起きた。
『他の生徒から聞いたけど、瀧沢、先生の事が好きって本当か?』
勉強していたのにいきなりそう尋ねられたものだから、春佳は驚いて顔を上げた。
『先生も瀧沢の事、可愛いと思ってるぞ』
――気持ち悪い。
その時芽生えた感情は、とてもシンプルなものだった。
『なに言ってるんですか?』
春佳は嫌悪と畏れが混じった表情で尋ねる。
『先生は知ってるんだ。そんなに怖がらなくていい』
だが多田は笑みを深め、春佳の手を握ってきた。
春佳は知らない。
多田と懇意にしている女子生徒たちが、からかいの一環で『瀧沢さんも先生の事を好きみたいだよ』と言った事を――。
彼女たちはこうなる事など予想せず、いじめにも至らない感情で言っただけだろう。
だが自分は女子生徒に人気があると思い込んだ多田が勘違いし、このような悲劇が生まれた。
『…………用事を思いだしたので、失礼します』
春佳は手早く教科書とノートを纏めると、シャープペンシルと消しゴムをペンケースに入れて立ちあがった。
が、その腕を、座ったままの多田に強く引っ張られる。
恐怖の混じった目で見ると、彼はねめあげるように春佳を見て笑った。
『先生の膝の上に座ってごらん。可愛がってあげるから』
全身に悪寒を走らせた春佳は、多田の腕を振り払うと一目散に出入り口に向かった。
だがドアノブを回そうとした時、後ろから多田がドアを押さえ、春佳は彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
うなじに男の息がかかり、この上なくおぞましい。
『やめてくださいっ』
小さく悲鳴を上げた春佳に、多田は嗜虐心を煽られのだろうか。
『しー、大人しくしていたらいい事してあげるから』
彼は小声で春佳を窘めたあと、セーラー服の裾から手を差し込んできた。
――いやだ!
その瞬間、春佳は思いきり多田の足を踏んだ。
『いてっ!』
彼が怯んだ瞬間、春佳は力任せにドアノブを引き、廊下にまろびでたあと一目散に走って逃げた。
その恐怖を、春佳は兄に泣きながら訴えた。
冬夜は『怖かったな』と妹を慰め、震える彼女を優しく抱き締めてくれた。
兄の腕の中で安心を得た春佳は、気持ちが落ち着くまで泣き続けた。
一連の出来事があった直後、学校内で多田に関する噂がまことしやかに流れ始めた。
加えてネットの匿名掲示板で、多田から被害を受けたという女子生徒が声を上げ、それらをプリントアウトされたものが学校に送りつけられたそうだ。
そして実際に多田から性的に触られた女子生徒が警察に被害届を出し、学校は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
最終的に多田は懲戒解雇となり、学校から去る事になる。
春佳は自分の他にも似たような事をされた人がいたと知って安堵し、『自分だけではない』と言い聞かせてなるべく日常に戻るよう努めた。
だがどうしても、多田に触られた感触や生ぬるい息づかいは記憶の底にこびりつき、しばらく離れる事はなかった。
**
現在、列車のドア近くに立った春佳は流れる景色を見ながら、苛立ち混じりに心の中で呟く。
兄の事が好きだったから、彼が家から出て〝知らない大人〟になったのが寂しかった。
自分はまだ実家にいる〝子供〟なのに、冬夜だけが独り立ちして、置いて行かれた気持ちになった。
春佳は自分にあまり口出ししない父や、何かあったらヒステリックに怒鳴る母より、優しく面倒を見てくれる冬夜に懐いていた。
庸一はヘビースモーカーだが、深酒はせず、ギャンブルも女遊びもしない。
春佳にとっては温厚な性格の〝いい父〟だ。
けれど父は困っている時に相談に乗ってくれ、道を指し示してくれるタイプではない。
〝父親〟という存在ではあるが、彼に父性を感じた事はあまりなかった。
母は情緒不安定な人で、春佳に対して愛情は持っているのだろうが、過保護なところもあり、上手く接する事ができずにいた。
子供の頃は少し帰りが遅くなっただけで打たれたし、大学生になった今も門限が厳しい。
母は確かに難しい人だけれど、自分を愛しているからこそだと思っている。
だから、酷く怒られた時は自分が悪い。
(あーあ、怒られるだろうな。禁止されてた合コンに行った挙げ句、朝帰りだもの。お兄ちゃんの所にいたって言ったら、少しは怒りを収めてくれるかな)
母の事を思うと、ズンと気持ちが沈む。
(お詫びにコンビニスイーツでも買おうかな。最近お酒ばっかりでご飯を食べないし、甘い物なら入るかも)
春佳は地元駅に着いたあとの事を考える。
だが一度過去の事を思い出すと、つられてポロポロと嫌な事が脳裏に蘇った。
**
高校生になったあとも、春佳は大人しい生徒として目立たず過ごしていた。
彼女は中学生ぐらいから将来の夢を描き、高校生の頃には夢を実現させるために英語に注力していた。
春佳が通う私立高校の数学教師、多田は三十代半ばの妻子持ちで、どこか陰のある冷たい美形だからか。女子生徒に人気があった。
噂では何人かの女子生徒と関係があると聞いたが、そんな事が発覚すれば大事件になるだろうから、特に信じていなかった。
だが〝それ〟は春佳が高校二年生の時、数学準備室に行って多田に勉強の分からないところを聞いていた時に起きた。
『他の生徒から聞いたけど、瀧沢、先生の事が好きって本当か?』
勉強していたのにいきなりそう尋ねられたものだから、春佳は驚いて顔を上げた。
『先生も瀧沢の事、可愛いと思ってるぞ』
――気持ち悪い。
その時芽生えた感情は、とてもシンプルなものだった。
『なに言ってるんですか?』
春佳は嫌悪と畏れが混じった表情で尋ねる。
『先生は知ってるんだ。そんなに怖がらなくていい』
だが多田は笑みを深め、春佳の手を握ってきた。
春佳は知らない。
多田と懇意にしている女子生徒たちが、からかいの一環で『瀧沢さんも先生の事を好きみたいだよ』と言った事を――。
彼女たちはこうなる事など予想せず、いじめにも至らない感情で言っただけだろう。
だが自分は女子生徒に人気があると思い込んだ多田が勘違いし、このような悲劇が生まれた。
『…………用事を思いだしたので、失礼します』
春佳は手早く教科書とノートを纏めると、シャープペンシルと消しゴムをペンケースに入れて立ちあがった。
が、その腕を、座ったままの多田に強く引っ張られる。
恐怖の混じった目で見ると、彼はねめあげるように春佳を見て笑った。
『先生の膝の上に座ってごらん。可愛がってあげるから』
全身に悪寒を走らせた春佳は、多田の腕を振り払うと一目散に出入り口に向かった。
だがドアノブを回そうとした時、後ろから多田がドアを押さえ、春佳は彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
うなじに男の息がかかり、この上なくおぞましい。
『やめてくださいっ』
小さく悲鳴を上げた春佳に、多田は嗜虐心を煽られのだろうか。
『しー、大人しくしていたらいい事してあげるから』
彼は小声で春佳を窘めたあと、セーラー服の裾から手を差し込んできた。
――いやだ!
その瞬間、春佳は思いきり多田の足を踏んだ。
『いてっ!』
彼が怯んだ瞬間、春佳は力任せにドアノブを引き、廊下にまろびでたあと一目散に走って逃げた。
その恐怖を、春佳は兄に泣きながら訴えた。
冬夜は『怖かったな』と妹を慰め、震える彼女を優しく抱き締めてくれた。
兄の腕の中で安心を得た春佳は、気持ちが落ち着くまで泣き続けた。
一連の出来事があった直後、学校内で多田に関する噂がまことしやかに流れ始めた。
加えてネットの匿名掲示板で、多田から被害を受けたという女子生徒が声を上げ、それらをプリントアウトされたものが学校に送りつけられたそうだ。
そして実際に多田から性的に触られた女子生徒が警察に被害届を出し、学校は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
最終的に多田は懲戒解雇となり、学校から去る事になる。
春佳は自分の他にも似たような事をされた人がいたと知って安堵し、『自分だけではない』と言い聞かせてなるべく日常に戻るよう努めた。
だがどうしても、多田に触られた感触や生ぬるい息づかいは記憶の底にこびりつき、しばらく離れる事はなかった。
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