有罪愛
《俺が対応するから、春佳はいつも通り過ごせ》

 一歩間違えたら母が死んでいたかもしれないのに、冬夜は淡々としている。

 けれど冬夜の落ち着いた声を聞くと少し冷静になり、兄がいて良かったと思えた。

「私、お母さんの入院に必要な物、用意する」

《いいって。今日、俺が帰りに病院に寄って必要な物があるか聞く。春佳は佃のマンションに帰って、飯でも作ってて》

 冬夜は春佳をあの家から遠ざけたがっているが、何から何までやってもらうほど、子供ではない。

「私、大丈夫だから!」

 講義室から出た春佳は、廊下のベンチで少し大きな声を出す。

《意地悪で言ってるんじゃない。せっかくあの家から出て、精神的に自立しようとしているのに、あの女に関わらせたくないんだ。『自分がいなきゃ駄目なんだ』と思ったら、お前はまたかいがいしく母親の世話をするだろう。それじゃあ、同じ事の繰り返しだ》

 冬夜の言葉を聞き、胸の奥で凝っていた感情がゆっくりとほどけていく。

《面会すれば、あの女はお前の優しさを利用して、支配するに決まっている。それに、あの女はいつも以上に不安定になっている。顔を合わせたら酷い事を言われて、余計に傷付くだろう。あの女は元から情緒不安定だったが、今は『自分が不幸なのは娘のせいだ』と思っている可能性もある。あいつはつらい事が起こっても一人で乗り越えられず、誰かのせいにしないと自分を保てない、弱い女なんだ》

 言われて、納得した。

(そうか……。面会したらまた怒鳴られるんだ)

 冬夜のもとに身を寄せてから、怒鳴られず暴力も振るわれない日々を送り、あれは何かの間違いだったのではと思うようになってきた。

 引っ越してから一週間も経っていないし、心の傷がそう簡単に癒える訳がない。

 春佳は虐待された心の傷から目を逸らして己を保ち、必死に現実を生きようとしていた。

 なのに冬夜の言う通り、母と会って怒鳴られ人格否定をされれば、せっかく兄が環境を変えてくれた事が台無しになる。

 今は再出発して自分の人生の基礎を積み始めたばかりなのに、母に会えばその努力がすべて水泡に帰す。

 兄はそれを危惧しているのだ。

「……お兄ちゃんに任せていいの?」

《ああ。……むしろ任せてほしい。俺は家を出てお前を一人にした事に、負い目を感じてきた。今は何があっても春佳を守ると決めている。……だから償いのためにもそうさせてくれ》

(償いなんて……)

 ――自己犠牲の気持ちなんて持ってほしくない。

 心の中で呟いたものの、今は冬夜に任せるのが一番なのだと言い聞かせた。

「じゃあ、お願い」

《分かった。代わりに飯頼むよ》

「うん」

《勉強、しっかりな》

「はい」

 春佳は電話を切ったあと、溜め息をつく。

 考えなければならない事が沢山あるのに、何一つまともに受け止められていない。

 父の死すら悲しめていないのに、母の世話をする生活に岩淵が乱入し、これだ。

(これが人生か)

 一つ一つの出来事を満足いくまで納得させてくれるほど、時の流れは優しくない。

 絶えず流れ、時に濁流となって荒れ狂い、春佳が悲鳴を上げて「もう許して」と言っても流れる事をやめない。

 時にはゆるゆると穏やか流れ、美しい景色を見せてくれるかもしれない。

 けれど、いつから人生が楽になるかなんて、決して分からないのだ。

(今は自分のやる事をしよう)

 深呼吸をしたあと、春佳はコソコソと講義室に戻った。




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