有罪愛
 冬夜と共同生活をして半月が経ったが、兄いわく母の容態は「相変わらず」らしい。

 恐らく母は若い頃に何かがあって精神科に通うようになった。

 長い間通院して不安定ながらも小康状態を保っていたが、夫の死が大きなショックとなって自暴自棄になった。

 自死しようと思った引き金が岩淵の事だったかは、母に聞かないと分からない。





 九月頭の週末、冬夜は風呂上がりに麦茶を飲みながら言う。

「母親は病んでいる人だけど、持病や親父の死、先日のクソオヤジの件以外にも、色んな要因を抱えていたと思う。何か一つの出来事が理由なら、その直後に自殺しようとしたはずだ。でもグダグダと病みながらも、あの女は生き続けてきた。少なくとも『生きたい』と思う理由はあったはずだ。……今回の自殺未遂にクソオヤジが関わっているとしても、きっかけの一つに過ぎないんじゃないかな。長年溜め続けたつらさが、表面張力を超えて溢れてしまったんだと思う」

「そうだね……。私にとって〝いいお母さん〟であった事もあるから、生きる事そのものがつらかった訳じゃないと信じたい」

 頷いて母の良かった点を口にしたが、冬夜はあまり認めたくないようだった。

「多分、とてもつらい経験をしたのかもしれない。だからといって娘の人生を支配し、奪っていい理由にはならない。それに年頃の娘がいるのに不審な男を家に上げて、好き放題させて自分は寝ていた? そんなの許されるはずがないだろう。母親なら自分の娘ぐらい守ってみせろっていうんだ」

 冬夜は春佳が暴行を受けた事を思い出し、目に暗い火を灯す。

「……お母さんはつらい事があって、自分の事しか考えられなかったのかもしれないね。普通の母親は、何より子供を優先するって聞くけど、人それぞれだと思うし」

 なるべく広い心を持ちたいと思っているが、嫌な事があったら「自分だってこんなにつらいのに……」と言いたくなる。

 人は楽な道を選びたがり、簡単に堕ちてしまうと分かっている。

 だから春佳は落ち込んだ時は本を読んだり風呂に入ったり、別の事をして気持ちを切り替えている。

 けれど母はそう上手く切り替えられないのだろう。

 母は専業主婦だったし、たまに心のスイッチをオンにして出かける事はあったが、基本的に家に閉じこもっていた。

 家事はしたりしなかったりで、冬夜が家にいた頃は彼が料理をしていた事が多かった。

 春佳は少しでも家族の役に立ちたくて、レシピ動画を参考に少しずつ料理を覚えていった。

 でも母は春佳の作った食事を一度も「美味しい」と言わなかったし、家事をしても感謝される事はなかった。

 麦茶をもう一口飲んだ冬夜は、何かをそらんじるように言う。

「優しい人はまず自分の心を満たし、余力で他人を気に掛ける。自分の時間や気力を削って他人を気にかければ共倒れになってしまう。だから優しい人は余裕があるように見えるんだ。……春佳はまず、自分の幸せを考えろ。自分のために勉強して、働いて、友達と遊ぶ。たまに少し贅沢ができる程度の生活を送る。そう過ごしながら、余力で母親の事を考えればいい」

 兄の言葉は一理ある。

 それでも、どうしても母が気になる。

「でも家族だし。お母さんが大変な時に遊んでたら駄目だよ」

 だが冬夜は首を左右に振った。

「親父が死んで世界が変わったか? 大ニュースにもならないし、時間も止まらない。ポストは赤いし、日は昇って沈むし、海外情勢も何も変わらない」

「……そんな意地悪言わなくても」

 春佳はムッとして唇を尖らせる。

「冷たい事を言えば、大災害が起こっても、自分の住んでいる街が被害を受けていないなら、普通に過ごすしかないんだ。生きて、飯を食って寝て起きて、学校に行き、会社に行き、社会と経済を回す。あと数年経って春佳が社会人になったあと、お前の仕事が何かに貢献するかもしれないし、誰かの人生を変えるかもしれない。そのためにいま勉強する手を止めてはいけないんだ。悲しいからって、自分の人生を投げ出したらいけない」

 兄の言葉は正しく、正しいがゆえに春佳の心を刺す。

「それに事情を知った友達に、最初は『大変そうだけど、たまに息抜きしたら?』って言ってもらえるかもしれないが、断り続ければそのうち誘われなくなる。父親を喪っても、母親が病気でも、葬儀は行ったし、入院したなら病院に任せるしかない。あとは自分の生活をすべきだ」

 兄の言葉を聞き、春佳は溜め息をつく。

「……言ってる事は分かる。……お兄ちゃんの言う通りなんだと思う。……でも、私には両親への情がある。お兄ちゃんにも家族への愛情はあるだろうけど、先に家を出て自立している人の上から目線の説教に思える。……私の家族は他人から見て酷い家庭かもしれない。でも、私にはあの両親しかいないの」

 言いながら、兄もまた〝強者〟なのだと思った。

 バリバリと働き、立地のいいマンションに住んで経済的な余裕もある。

 それに比べて春佳は自立できていない、ごく普通の女子大生だ。

〝日常〟が一番だというなら、春佳にとって両親が揃い、母に文句を言われながらも過ごしてきた今までの日々だって、とても大切なものだった。

「言っても仕方ないけど、お父さんさえ死ななければ……。どうして自殺なんて……っ」

 春佳の声が涙に歪む。

 父が何を思って、マンションから飛び降りたのか分からない。

 なぜ父が死んだのか分からないのに、結局そこに行き着いてしまう。

 しばらく春佳が嗚咽する声が室内に響き、冬夜はそれを黙って聞く。

 やがて兄はグラスに残っていた麦茶を飲み干し、呟くように言った。

< 20 / 38 >

この作品をシェア

pagetop