有罪愛
「そのあと、偶然、神保町で小村さんを見たの。だから私、思わず彼女に声を掛けてしまった。『お兄ちゃんに迫って困らせているなら、やめてください』って」

 本当はもっと子供っぽい感情からだったが、その辺りはぼかした。

 冬夜は嘘をついたのがバレたと悟り、溜め息をついて脚を伸ばした。

「小村さんには恋人がいて、お兄ちゃんとはそんな仲じゃないって言ってた。恋人の写真も見せてくれたし、嘘をついているようには見えなかった。……だから『お兄ちゃんが私に嘘をついたかもしれない』と疑ってしまったの。最初は私にモテていると思わせるためと思ったけど、お兄ちゃんが今さらモテを意識する必要はない。……『なら、どうして?』と思った」

 兄はジュースを一口飲んだあと、興味を失ったようにテーブルの上にコップを置く。

「……怒られても仕方がないけど、お兄ちゃんが何を考えているか知りたくて、部屋を捜してしまった。……本当にごめんなさい」

 絞り出すような声で謝ると、冬夜は溜め息をついて腕を組んだ。

「……うすうすは気づいていた。様子がおかしかったし、書斎に入って違和感を抱く事もあった。……春佳も、俺が〝気づいている〟理由を分かっているんだろう?」

 監視カメラの事を匂わされ、彼女は頷く。

「……怒られるのを覚悟で言うと、お兄ちゃんがお風呂に入っている間、小村さんから来たメールを見ちゃった。【妹さんに勘違いされてるみたい】ってあって、お兄ちゃんに嘘をつかれている確信が深まった」

 冬夜は諦めたように、目を閉じて春佳の言葉に耳を澄ます。

「それから私は家捜しをした。あちこち探しても何もなくて、最後にパソコンの中身を見てしまった。……PINコードは私の誕生日だったから、あっさり開いた」

 そこまで言うと、観念したらしい冬夜が自虐混じりに言った。

「なら、俺のスマホのパスワードも分かるな? 122433だ。自分の誕生日と、春佳の誕生日。……キモいだろ」

「……気持ち悪くなんてないよ。……そんなふうに言わないで」

 悲しげに言い返したが、冬夜は何も言わなかった。

 春佳はさらに白状していく。

「……パソコンにあった『春佳』ファイルと、『日記』ファイルを見ました」

 それだけで、兄にすべてが通じた。

 彼はしばらく黙っていたが、何回か頷いたあと、息を震わせてからズッと洟を啜った。

「お前だけには、〝頼りがいのある格好いい兄〟と思ってもらいたかったんだけどな」

「思ってるよ! 今でもそう思ってる!」

 春佳は弾かれたように言い、彼の手を両手で握った。

「……っ気付けなくてごめんなさい。私はあまりにも鈍感すぎた。……お兄ちゃんが何を考えていたか知ろうともしなかったし、自分が一番可哀想だと思い込んでた。……っ、違う。お兄ちゃんの事が可哀想って言いたいんじゃなくて……っ」

 必死に伝えようとした時、冬夜は春佳の腕を引いて抱き締めてきた。

 兄の力強い腕を感じ、春佳はドキッと胸を高鳴らせる。

 ――大人の男の人になってる。

 こんな時なのに、兄へのときめきが止まらない。

「……っ、ごめんな。俺なんかが、兄貴でごめんな……っ。お前は綺麗で可愛い子なのに、たった一人の兄貴がこんな奴でごめんな……っ」

 二十六歳の兄が、声を震わせて謝る。

 今まで聞いた事のない悲愴な声を耳にし、春佳は兄の背中に回した手に力を込め、彼をかき抱いた。

「謝らなくていいの……っ! お兄ちゃんが謝る事なんて、何一つない……っ! 悪いのは……っ」

 そのあと、「お父さんなの」と言えなかった。

 この期に及んで、春佳は父を悪者にできなかった。

 生まれた時から悪い人なんていないし、父にも事情があったに決まっている。

 けれど、冬夜が受けた心と体の傷を、「仕方ない」なんて言葉で済ませたくない。

 幼い頃から刻まれた心の傷を、なかった事になんてできない。

 冬夜が味わった憎しみも恨みも怒りも悲しみも、信じていた父親に裏切られた絶望も、せめて自分だけは受け止めないといけない。

「畜生……っ!」

 冬夜は吠えるように叫び、力一杯妹を抱き締めて嗚咽した。

 春佳は気が遠くなるほどの痛みを抱えてきた兄を、抱き締めるしかできない。

 兄は傷付きながらも進み、生きる事を諦めず、その心に憎悪を抱きながらも妹に無償の愛を注ぎ続けた。

 今ここに彼がいる事が、地獄を生き抜いてきた証拠だ。

 冬夜は果てしない絶望を抱きながらも、妹という一筋の光に縋り、足を引きずって進んだ。

 そしてようやく彼は、最愛の妹の腕の中で、秘め続けてきた悲しみを解放する事ができたのだ。

「ずっと一人で我慢していて、つらかったよね」

 涙で崩れた声で言うと、冬夜の嗚咽が激しくなる。

 春佳は子供のように泣く彼を抱き締め、祈りにも似た想いを感じる。

 ――あぁ。私は透明でとても尊いものを抱いている。

 滂沱の涙を流した春佳は、腕の中で震える兄に頬を寄せる。

 傷付いた冬夜の長くつらい旅は、ここで終わり迎えたのだ。

「もう、一人で苦しまなくていいよ。私が半分、お兄ちゃんの荷物を背負うから」

 春佳は涙を零して笑い、慈愛の籠もった表情を浮かべて兄の背中をさすった。

「おかえり」

 十三歳の時、家を出ていく兄を見送ったあと、いつ彼に「おかえり」を言えるのだろうと考えていた。

 けれど今こそ、そう言うべきだと感じた。

「私はここにいるよ。ずっと側にいるから」

 春佳は素直に涙を流す冬夜に愛しさを感じ、安心させるように言う。

「……あとね、私、お父さんに乱暴された事なんて一度もない」

 そう言った途端、冬夜はガバッと顔を上げ、瞠目して見つめてくる。

「……本当か?」

 震える声で尋ねられ、春佳はしっかり頷く。

「こんな事で嘘をつかないよ。私は……、その。…………まだ、処女です」

 ボソッと呟くと、兄は涙を流したまま呆けた顔をする。

「……良かった……」

 呆然として言ったものの、二人の胸には疑問が残る。

「……じゃあ、なんであいつはあんな嘘をついたんだ? わざと俺を煽って、憎ませて……。殺されたかったならともかく、自分で飛び降りた……」

「私も思ってた」

 しばし兄妹は手を取り合ったまま考え、同じ結論を出す。

「……お母さんなら何か知ってるかも」

「……かもしれないな」

 頷き合ったあと、冬夜は決意したように提案した。

「これから行けるか?」

「すぐ準備する」

 残された謎を解き明かすため、兄妹はすみやかに出かける支度をし、涼子が入院している病院へ向かった。



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