有罪愛
『……樹……』

 私は彼の名前を呼び、慣れないながらもあやしてみる。

 すると、樹は泣きやんで笑顔になった。

 作り物のように小さな手がにぎにぎと動いているのを見ていると、名状しがたい感情を抱く。

 ――私がいま両腕に抱いているのは、命だ。

 ――人道的に考えて、一番大切にすべきはこの子をきちんと育てる事。

 ――樹をどう思うかは個人的な感情だ。私はまずこの子を守って育てていかなければならない。

〝優那のために生きる〟という目的を失ったあと、私の目的は〝樹を愛し育てる〟に切り替えられた。

 自分が健全な感覚で樹を育てられると思えない。

 けれど、クズなりに頑張って優那の頼みを遂行してみせよう。

『……行こうか、樹』

 私は樹に話しかけ、一度彼をベビーベッドに戻す。

 そしてリュックのように体に装着するタイプのおんぶ紐を見つけ、慣れないながらも装着してサイズを調節する。

 それから室内にあった哺乳瓶や粉ミルクなど、必要な物を優那のバッグに入れ、その中に金も突っ込み、樹を抱っこしたあと持てるだけ紙おむつを持つ。

 最後に私は、優那の前に立ってしばし黙祷する。

『……確かに、あなたからバトンを受け取りました』

 私は静かに言ったあと、振り返らずに優那の家を出て、一人暮らししている自分のマンションへ向かった。

 あまりに突然の事すぎて、ろくに思考が回らない。

 これが連れ去りで罪を問われるであろう事も、非嫡出子として生まれた樹が本来なら施設で育てられるべき事も、分かっているようでいながら全力で否定した。

 ――この子は、私が育てるんだ。

 これが親にバレたら、また何か言われ、酷く叱られるだろう。

 バレないように育てていく方法を考えなくては。

 万が一知られてしまった時は、私が女性を妊娠させてしまった事にすればいい。

 その女性――仮名・カナコは子供を産んだあと、私のところへ来て子を置き去りにした。

【あなたの子供です】とメモに書かれていたなら、私も育てざるを得なくなる。

 カナコとは仕事がうまくいかなかった時に深酒して出会い、私の家で関係を結んだ。

 ゆえにカナコは私の家を知っている事にした。

 私の子が行方不明になった北條樹と同じ名前であれば、すぐに疑われてしまうので、彼の事は冬夜と呼ぶ事にした。

 私にとって優那は、北天の中心に位置する北極星(ポラリス)のような存在だった。

 優那は誰に対しても明るく分け隔てない女神のような存在だったが、私だけが知る孤独と苦悩を抱えている。

 心の底で欲している親の愛と期待を得られない彼女は、周囲の人たちに愛され、みんなの中心になる事で一際輝いていた。

 だから私は、いっそう彼女を北極星だと思っていたのだ。

 クリスマスイブに一人で樹を出産したあと、優那は泣き止まない子供をあやしながら、冬の空を見上げていたに違いない。

(……よし)

 私は頭の中で〝理由〟を考えながら、冬夜を自分の子供にする算段を立てていく。

 親がDNA鑑定を勧めてきても、『どんな形であれ私の子だ。疑いたくない』と言い張って、愛情深い父親のふりをすればいい。

 今後、いっさいDNA鑑定はしないし、周囲に勧められても応じない。

 私は片手に重たい荷物を持ち、片手で慎重に冬夜の後頭部を支えて歩いて行く。

 通りを歩く人たちは、私をただの〝子育てパパ〟としか見ていないようだ。

 そもそも、東京の人は他人にさほど注意を払わないし、生活感のある荷物を持った私を連れ去りの犯人と思わないだろう。

 加えて、私は陰気ななりをしているが、生まれてこの方職質を受けた事はない。

 誰かを害するようなタイプに見られない事が、今は味方してくれている。

(家に帰ったら育児書を買いに行かなくては。それから同じ粉ミルクや紙おむつのストックも買って、ミルクの作り方を練習する)

 私は頭の中でこれからすべき事を考えながら、自宅へと歩を進めた。







 育児は未知と苦難の連続だった。

 子が泣きやまない事で優那がノイローゼ気味になったのも分かるし、意思疎通のできない彼が、何を望んでいるか分からない事が一番つらい。

 私はトライアンドエラーを繰り返し、育児書を頼り、必死に冬夜を育てていく。

 冬夜のために働かなくてはならないので、最初はベビーシッターを雇うために電話帳を捲り、方々電話を掛けまくった。

 ようやく連絡のついた女性は五十代の人の良さそうな女性で、私が家に帰る頃には私の分まで作り置きの食事を用意してくれていた。

 彼女から子育てのいろはを教わった私は、平日夜や、土日祝日は冬夜にかかりっきりになる。

 助かったのは、ベビーシッターが緊急時に電話対応もしてくれた事だ。

< 53 / 76 >

この作品をシェア

pagetop