有罪愛
 その親指が唇に触れようとした時、春佳はパンッと兄の手を叩いていた。

「ふざけるのやめて!」

 彼女は両手でドンッと兄の胸板を押し、荷物を置いてある客室に向かう。

(何あれ!? さっきの仕返しにしてもやり方がずるくない?)

 兄に恋をするつもりはないが、冬夜の整った顔を間近に見ると胸がドキドキする。

 幅の広い二重に、彫りの深い目元。意志の強そうな黒い目に、スッと通った鼻筋に形のいい唇。

 潔癖そうなその唇が、誰かにキスしたのかと思うと胸が苦しくなる。

(私、妹だし。お兄ちゃんの恋愛事情なんてどうでもいいし)

 春佳は兄に『恋人はいないのか』と聞いたくせに、必死に『兄の事など意識していない』と自分に言い聞かせる。

 洗面所に向かった春佳は、バッグから折りたたみのブラシを出すと、洗面台の前でガシガシと髪を梳かす。

 すると、鏡越しに冬夜の姿が見えた。

 彼は溜め息混じりに言う。

「なに俺ごときで動揺してるんだよ。彼氏ができたらキスだってするし、胸にも触られるしセックスもする。昨日の合コンで、男一人あしらえなかったくせに、そんなんでお前こそ恋人できるのかよ」

 苛立ちの籠もった声で言われ、怒りが湧いてくる。

「偉そうに言わないでよ! お兄ちゃんには関係ないでしょ? 『詮索されたくない』って言うなら、私にも干渉しないでよ」

 冷静になれば、こんな些事で喧嘩する必要はない。

 父が死ぬ前なら、友達のようにポンポン言い合って終わっていたはずだった。

 ――お父さんがいなくなってから、私たちはどこか変になってしまった。

 そう感じるものの、どこをどう修正したら元に戻れるか分からない。

 側にいるのは血を分けた兄なのに、知らない人が立っているように感じられる。

 存在感もぬくもりも、匂いも声も、「私の兄ってこんな人だっけ?」と思ってしまう。

 そう思った瞬間、後ろに立つ兄が生々しい一人の男になったように感じられた。

 寒気と違和感を覚えた春佳は、兄から視線を外すとガシガシと髪を梳かし続ける。

 髪を梳かし終えると、冬夜の側をすり抜けて客室に戻り、鏡を見ずにリップクリームを塗った。

「昨日は助けてくれてありがとう。でも殴る蹴るはやりすぎだと思う。同じ事にはならないから、もう心配しないで」

 春佳は早口に言ったあと、玄関のドアを開け、振り向かずに廊下を歩きエレベーターホールへ向かった。





 自宅マンションまでは、大江戸線で一本だ。

 月島駅に向かう途中、春佳はあまり男運に恵まれなかった自分の過去を思いだしていた。




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