定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。

第1話|十七時四十五分の裏切り


 オフィスの天井から降り注ぐ無機質な蛍光灯の光が、やけに白く感じられる時間帯。
 壁の時計の赤い秒針が、ジリッ、と鳴いた。
 十七時四十五分。定時まで、あと十五分。
 フロアに響き渡るキーボードの打鍵音は夕方特有の荒さを帯びていて、あちこちで鳴る内線電話の音に、誰かの隠しきれないため息が混ざり込んでいた。

 モニターから視線を外すと、ブルーライトに焼かれた目がシパシパと音を立てるように乾いていた。朝の八時から装着しているコンタクトレンズは、とうに水分を失って眼球に張り付いている。
 机の下で、すり減った黒いパンプスのつま先をそっとこすり合わせた。右足のかかとは少し削れていて、薄くなった底越しに、タイルカーペットの冷たさがじわじわと足の裏へ伝わってくる。一日中座りっぱなしだった身体は、関節という関節に油切れの錆が浮いているように強張っていた。

 「七野さん。これ、急ぎの伝票。俺、もう外に出るから」
 「七野さん。明日の会議室、誰か押さえてある?」

 手が、もう動いていた。「机の端に置いておいてください」「確認しておきます」。頭で考えるより先に、声が出て、伝票を引き寄せている。口角は自動で少し上がる。

 深く息を吸い込むと、給湯室のコーヒーが酸化した匂いと、雨に濡れた誰かのウールが混ざって漂ってくる。

 それでも今日だけは、机の上のシルバーのノートパソコンが、微かな希望のように見えた。
 画面に表示されているのは、営業部の小堀田部長から投げられた『過去三年分の顧客アンケート集計表』。
 「明日の会議で使うから、適当にまとめといて」
 昼下がりにすれ違いざまに落とされた、雑な丸投げ。全国からバラバラのフォーマットで届いたエクセルデータ。全角と半角が入り乱れ、電話番号のハイフンは不規則で、自由記述欄には謎の改行が散らばっている。三万件を軽く超えるデータ量。手作業なら三日は残業する量だと、この部署の誰もが知っていた。
 本来なら、これを一つ一つ目で追い、手作業で修正しながら電卓を叩く。三日は残業して仕上げるのが、この「丁寧さを重んじる」部署の常識だった。

 私はマウスを握り、昨夜スマートフォンで見様見真似でコピペして組んだ、マクロの実行ボタンにカーソルを合わせた。
 カチッ、と人差し指に力を込める。
 画面が一瞬だけフリーズしたように白く飛び、感情のない数字の列が完璧に整列した。そこには何の労いもないけれど数秒後、三万件の乱雑なデータが整列した。空白のセルは埋まり、表記揺れは統一され、見事なピボットテーブルへと姿を変えていた。
 あっけないほど一瞬の出来事だった。
 拍子抜けするほどの静けさの中で、背中に乗っていた重りが一つだけ、音もなく転げ落ちた気がした。

 これで、明るいうちに会社を出られる。
 頭の片隅に、駅前のスーパーの精肉コーナーが浮かぶ。いつもは赤いシールが貼られた冷たいお惣菜を奪い合うように買うけれど、今日は少しだけ高い国産牛の切り落としと、焼き豆腐を買って帰ろう。
 古いアパートの冷たい金属のドアを開けた先で待つ、小さな家族のことだけを考える。
 三年前に路地裏で拾ったキジトラ猫のジーク。
 ドアを開けるやいなや短く鳴いて、足元にすりすりと頭をこすりつけてくる。少し丸っこいお腹、喉の奥から鳴るゴロゴロという低い音。抱き上げ、その柔らかい背中に顔をうずめれば、私は「都合のいい事務員の七野奈々」という鎧を脱いで、ただの自分に戻れる。
 想像の中のその温もりだけを頼りに、私は印刷した紙の束をクリアファイルに挟み、立ち上がった。

 シワになったタイトスカートの裾を軽く引っ張って整え、斜め向かいの席へと向かう。
 九条先輩のデスクには、色分けされた付箋と赤青のボールペン、木製のハンコが、定規で測ったように並んでいる。プリントアウトされた分厚い資料を指でなぞりながら、電卓を叩いている。
 ターン、ターン。
 そのリズムが、彼女の領域の輪郭を作っていた。

 「九条先輩。例の集計、出しておきました」
 電卓の音が、ピタリと止まった。
 「……もう?」
 縁の細い眼鏡の奥の瞳が、ファイルと私の顔を交互になぞる。
 「データ量が多かったので、マクロで処理しました。傾向のグラフも別シートに入れてあります」

 九条先輩は無言でファイルを受け取り、一枚目をめくった。
 綺麗に罫線で区切られた表。私は無意識に息を止めていた。あとは「お疲れ様」の一言があれば、このまま駅へ向かえる。お肉を買って、ジークの待つ部屋へ。

 二枚目、三枚目。
 ページをめくる紙の音が、やけに大きく響く。先輩の細い眉間に、薄くシワが寄った。
 「七野さん」
 「はい」
 「これ、どこを拾ってこの数字を出したの」
 予想外の角度からの問いに、反射的な笑顔が少しだけ引きつる。
 「ええと、エラーのチェックはツールの方で弾くように設定してあります。数字は正確なはずです」
 「『はず』」
 先輩の視線が、完璧に並んだ数字の上を滑り、ゆっくりと私に向けられた。その指先が、ファイルを握りしめるように微かに白くなっていることに、私は気づいてしまった。
 長年、たった一つの数字のミスで頭を下げ、矢面に立ってきた彼女の指には、私には見えないタコがあるのかもしれない。
 「エラーが出ないことと、数字が合っていることは違うわ。中身のプロセスが分からない数字に、誰が責任を持つの」

 中身のプロセスが分からない。
 それは、手作業で一つ一つの数字に血を通わせてきた彼女にとって、得体の知れないブラックボックスへの恐怖にも似た感情なのだろう。
 「小堀田部長は、これが出処不明の数字でもそのまま会議に出すわ。もし質問されたら、あなたは『機械がやりました』と答えるの? ……元のデータを出して。もう一度、確認するから」

 壁の時計を見上げる。
 十七時五十五分。
 完璧に揃ったはずの数字が、急にただの無意味なインクの染みのように見え始めた。
 反論の言葉は、いくつもあった。マクロの正確性、手作業の非効率さ。でも、それを口にしたところで、彼女の不安を拭えるわけではないし、何より、波風を立てるエネルギーが私にはもう残っていなかった。

 「……わかりました。元のデータ、お送りします」
 口角を上げたまま、私はファイルを受け取った。すり減ったパンプスの中で、足の指をぎゅっと丸めこむ。

 自席に戻る。
 モニターの右下、時計の表示が「18:00」に変わるのを、ぼんやりと見つめた。
 引き出しから、すっかり冷めきったマイボトルの麦茶を取り出し、一口飲む。ぬるくて、少し金属の味がした。
 その瞬間だった。
 国産牛の切り落とし。ジークの喉の音。明るい時間のスーパー。
 今日手に入るはずだった小さなご褒美たちが、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。

 「……あ」

 誰にも聞こえないような小さな声が漏れた。
 キーボードの上に置いた自分の手が、微かに震えている。
 帰りたい。帰りたい。もう、頑張らなくていいって、誰かに言ってほしい。
 乾いた目に、急に熱いものが滲んで、目の前のエクセルの表がぐにゃりと歪んだ。
 その涙を誰かに見られるのが嫌で、私は慌てて、三万件の未処理データが並ぶファイルにカーソルを合わせる。
 カチ、カチッ。
 希望を起動した時と同じはずのダブルクリックの音が、今はひどく重く、乾いて響いた。
 
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