定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。

第2話|誠意という名の呪い

 

 ペラ、ペラ。
 九条先輩がクリアファイルのページを繰る音だけが、静かに繰り返されていた。
 私は、口角を上げたまま、立っていた。
 「七野さん」
 少し低い、輪郭のはっきりした声。肩が、意思とは無関係にわずかに跳ねる。
 「これ、全部プログラムで処理したのよね」
 咎めでも怒りでもない。ただ、事実の構造を確かめる声。
 「……はい。データが三万件を超えていたので、マクロを組みました」
 「自動で」
 「はい」
 「……そう」
 先輩は足元に視線を落とし、引き出しの下から段ボール箱を引きずり出した。デスクに持ち上げると、スチールの天板がわずかに軋んだ。古いインクと乾いた紙の匂いが、鼻先をかすめる。
 箱の中には、各店舗から郵送されてきた手書きのアンケート用紙が、地層のように積み重なっていた。
 先輩は一枚を抜いて、私の前に滑らせた。
 「四番の回答欄」
 指さされた先には、『やや不満』のチェックボックスの枠外まではみ出した、異様に強い筆圧の丸があった。裏までインクが滲んで、紙がわずかに波打っている。
 「……丸が、濃いですね」
 「ええ。このお客様は、よっぽど腹を立ててこのアンケートを書いたはずよ。あなたのプログラムは、これをどう処理したの?エラーで弾いた?それとも、ただの『1』として数えた?」
 「それは……枠の座標に近ければ、『1』としてカウントされているはずで……」
 「『はず』!!」
 先輩の視線が、私の足元から顔へとゆっくり移動した。
 「機械は数字を拾えても、この紙に滲んだ熱までは拾えない。自分の手を通していない数字を、あの会議の場に出してはいけないわ。小堀田部長は、自分の思い通りの結論が出なければ、必ず数字の根拠を叩きにくる。そのとき、あなたはどう答えるつもり」
 「ですが……」
 声が、途中で止まった。
 「やり直し。原本と突き合わせて、説明できる数字だけ持ってきなさい」
 私は、黙った。
 先輩は使い込んだ事務用電卓を引き寄せる。キーの印字が薄く消えかかっている。
 周囲の同僚たちが、モニターを見つめたまま息を潜めているのがわかった。
 これ以上言葉を重ねれば、何かが壊れる。言葉を発する気力が、私の中にはもう残っていなかった。
 「……申し訳ありませんでした。確認し直します」
 「お願いね。私、月末処理があって動けないから」
 ドサリ。アンケートの束が、私のデスクに移ってきた。

 キーン、コーン、カーン、コーン。
 十八時のチャイムが鳴り、フロアの空気がいっきにほどけた。
 「お疲れ様でしたー」「お先に失礼します」
 電源が落ちる音。鞄が擦れる音。革靴が床を叩く、軽やかな足音。
 それがひとつ、またひとつと遠ざかっていくのを、私はただ聞いていた。
 精肉コーナーの薄切り肉。ジークの丸い背中。
 白くなった。

 誰もいなくなったフロア。
 私は引き出しの奥から電卓を取り出し、一番上のアンケート用紙を手にした。
 インクの匂い。紙のざらつき。強い筆圧が残した、かすかな凹凸。
 ターン。
 最初のキーを押す。冷たいプラスチックの感触が、指先から腕の芯へ伝わってくる。
 あと、二万九千九百九十九件。
 一枚三秒で処理したとしても、二十五時間かかる。明日の会議には、どうあがいても間に合わない。
 モニターの青白い光に照らされた私の口角は、まだ、貼り付いたように上がったままだった。
 ただ、キーを叩く右手の甲に、ぽつりと、生温かい水滴が落ちた。
 自分が泣いていることにすら、私は気づいていなかった。
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