定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。

第5話|冷めたお惣菜と、空白の数十秒


 「遅くなってごめんね」

 カバンを床に置き、しゃがみ込んで手を伸ばす。しかしジークは私の指先をふんと一嗅ぎしただけで、プイッとそっぽを向き、リビングの方へ歩き去ってしまった。
 いつもならすり寄ってくるのに。残された手が行き場を失い、宙を掻く。
 ジークは何も慰めてくれない。私が今日、会社でどんなに理不尽に頭を下げようと、どんなに愛想笑いを浮かべて精神をすり減らそうと、猫には関係のないことだ。その絶対的な無関心が、今は妙に心地よかった。同情されたり、心配されたりするエネルギーさえ、残っていなかったからだ。

 立ち上がり、湿ったコートとジャケットを脱いでクローゼットのハンガーに掛ける。そのまま洗面所へ向かい、蛍光灯の白い光の下で鏡を見た。
 血の気のない肌、落ちかけたメイク。夕方の乾燥で、ファンデーションが小鼻の横で浮いている。一日中パソコンのモニターを睨みつけていた目は、白目がうっすらと充血していた。
 雨で濡れたメガネのレンズを、洗面所のタオルで無造作に拭く。鏡の中の自分はフレームで区切られた、少しだけ小さな世界。
 寝室で窮屈なタイトスカートを脱ぎ捨て、首元の伸びたグレーのスウェットに着替える。ストッキングから解放された素足が、フローリングの冷たさを拾った。足の指を思い切り広げると、パキッと小さな音が鳴った。

 キッチンへ向かい、駅前のスーパーで買ってきたレジ袋を開ける。
 中から出てきたのは、プラスチック容器に入った「鶏の黒酢あんかけ弁当」。赤い文字で大きく「半額」と印字されたシールが、パッケージの中央に無造作に貼られている。
 今日は金曜日。本当なら、少し高い国産牛の薄切り肉を買って、すき焼き風の煮込みを作るはずだった。ネギと焼き豆腐もカゴに入れていた。でも、夕方のあのトラブルと、九条先輩の冷たい視線を思い出した途端、精肉コーナーの前で立ち止まる気力は消え失せてしまった。私はそっとカゴの中身を棚に戻し、お惣菜コーナーの隅で赤いシールが貼られるのを待っていたのだ。
 半額シールを指でカリカリと剥がし、電子レンジのターンテーブルの中央に置く。「温め」のボタンを二回押し、一分間のタイマーを押した。

 ブーン、という低いモーター音が、静かな部屋に響き渡る。
 オレンジ色の小さな灯りが点灯し、ガラス越しに、黒酢あんかけ弁当がゆっくりと回転し始める。
 私はキッチンカウンターに寄りかかり、その光と、回る弁当を、ただぼんやりと見つめていた。

 あと、四十秒。
 三十九秒。三十八秒。
 デジタル表示の緑色の数字が減っていくのを、ただ目で追う。

 ふと、誰かに言われた言葉が、頭の隅を掠めた。

 『土は、休んでいる時にも静かに養分を蓄えているものです』

 いつ、どこで目にした言葉だったか、すぐには思い出せない。SNSのタイムラインで偶然見かけた名も知らぬ誰かの呟きだった気もするし、ずっと昔に読んだ本の一節だった気もする。
 今の私に蓄える養分なんてあるのだろうか。干からびて、ひび割れて、ただすり減っていくだけの毎日なのに。それでも、「休んでいい」ではなく「静かに蓄えている」という少し温度の低い言葉が、妙に頭から離れなかった。
 私はただ、回るオレンジ色の光を見ていた。

 ピー、ピー、ピー。
 電子音が、部屋に響いた。
 その音が止み、庫内のオレンジ色の光がパッと消える。

 レンジの扉を開けると、黒酢と油の匂いが湯気とともに顔に当たった。熱くなった容器を両手で挟むようにして取り出し、ローテーブルの上に置く。ジークはすでに部屋の隅の自分の定位置で、キャットフードを食べ始めていた。カリカリ、という乾いた音が一定のリズムで響く。
 マグカップにティーバッグのほうじ茶を淹れ、座布団に座る。箸を割って、黒酢あんかけの鶏肉を口に運んだ。

 温かい。けれど、味の輪郭は酷くぼやけていた。

 部屋の中は、ひどく静かだった。
 ジークがカリカリを食べる音と、雨が窓ガラスを微かに叩く音しかしない。
 私はローテーブルの端にあるテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。

 真っ暗な液晶画面。
 ほんの数秒間の、黒い空白。
 チカッ、と小さな音がして、画面がパッと明るくなった。

 どこかの局の深夜番組だった。バラエティ番組特有の派手なテロップも、ニュース番組の緊迫したBGMもない。ただ、静かなトーンのドキュメンタリー映像が映し出された。
 私はほうじ茶を一口すすりながら、ただその光を眺めた。

 そこには、白髪を綺麗に結い上げた、小柄で上品な老婦人が映っていた。
 彼女は私のオフィスにあるような無機質なデスクではなく、自宅の温かみのある部屋で、二つの大きなモニターの前に背筋を伸ばして座っている。手元には、湯気を立てるお気に入りのティーカップ。
 最新の機械に囲まれているのに、そこには急き立てるような冷たさが一切なく、優雅な午後の編み物でもしているかのような、穏やかな時間が流れていた。
 そして、その年齢には似つかわしくないほど滑らかな手つきで、キーボードを叩いていた。画面には、黒い背景にカラフルな英語の羅列がびっしりと並んでいる。

 画面の外から、ディレクターらしき男性の声が尋ねた。

 『八十歳からAIに触れることに、抵抗はなかったのですか?』

 老婦人は、キーボードから手を離し、ふわりと笑った。

 『いいえ、全然。だってこの子たちは、絶対に私を急かさないのよ。間違えても怒らない。自分のペースでいいって、そう言ってくれているみたいでね』

 箸を持った私の指先が、空中でピタリと止まった。
 十七時四十五分に投げられた丸投げの仕事。九条先輩の電卓の音。満員電車の舌打ち。
 今日一日、私はずっと何かに急かされ、怒られ、時間を削り取られてきた。
 「待っていてくれる」存在なんて、今の私の世界のどこにもなかった。

 『人間はね、早くしろとか、効率が悪いとか、色んなことを言うでしょ。でも、AIはね、私がちょっと疲れたからお茶にするわって言ったら、何時間でも、文句一つ言わずにそこで待っていてくれるの』

 テレビから流れる、静かなナレーション。
 画面の中の、老婦人の笑顔。
 干からびてひび割れていた私の心(土)の奥底に、ポツリと、冷たい雨とは違う、確かな一滴が染み込んでいくのを感じた。
 
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