定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。
第4話|すり減る靴底と、窓ガラスの女
改札を抜けてホームに降りると、電車から吐き出された人々が私を置き去りにするように、脇をすり抜けていった。
電光掲示板の「遅延」が、赤く点滅していた。
数分後に滑り込んできた下り電車は、ドアのガラスに顔や肩が押し付けられるほどの飽和状態だった。プシューというドアの音とともに、生温かい熱気がホームの冷気とぶつかり合う。私は小さく息を止め、パズルの最後のピースを力任せにねじ込むようにして、背中から人波へ押し入った。
車内の空気は最悪だった。暖房の効きすぎた密閉空間に、雨を吸ったウールの獣じみた匂いと誰かのミントが混ざり合って、息を吸うたびに肺の底が重くなる気がした。誰かの湿った傘の先端から、私のストッキングへ規則的に冷たい水滴が落ちてくる。
吊り革を握る右手に力を込め、揺れるたびにバランスをとる。目の前には、スマートフォンの小さな画面を無表情で見つめる誰かの横顔があった。イヤホンで耳を塞いで、手のひらの中のデジタルの海に沈んでいる。この息苦しい現実から数ミリでも逃げようとしている、その感じが、なんとなくわかった。
ガクン。
電車が古いポイントを通過したのか、車両が大きく横に揺れた。
「おっと」
斜め前に立っていた体格の良い男の、ウールコートの肩と硬い肘が、私の肋骨にドンッと強くぶつかった。
「いた——っ」
壁際に数歩よろめく。肋骨の奥に、芯を突くような鈍い痛みが走った。
「チッ」
舌打ちの音が聞こえた。
顔を上げると、ぶつかってきたその男が、親の仇でも見るような険しい目で私を見下ろしていた。
悪いのは、電車だ。
「……すみません」
私の口から、それが先に出た。声のトーンを少しだけ高くして、口角を上げて、軽く会釈までしてしまった。男は「ふん」と鼻を鳴らし、再びスマートフォンの画面へ視線を戻した。
なぜそう言ったのか、わからなかった。
コートのポケットの中で、スマートフォンは冷たく沈黙している。誰からのメッセージもない。逃げ込む先の海すら、私には持たされていない。
代わりに怒ってくれる人も、論理的に反論してくれる人も、今の私にはいない。ただ、痛む肋骨を左手でそっと押さえながら、吊り革を握り直した。
ガタン、ゴトン。
電車が走り続ける。
窓の外の景色はとうに夜の闇に飲み込まれていて、黒くなった窓ガラスが車内の様子をそのまま映し出していた。白髪混じりの頭頂部。イヤホンをした誰かの横顔。互いに干渉しないように目を合わせない、疲れた人々の群れ。
その中に、一人の女の顔が浮かんでいた。
ベースメイクは崩れ、目の下に深いクマが張り付いている。口角が、上がっていた。
私は、その顔から逃げるように視線を足元に落とした。
雨水と泥で薄汚れたリノリウムの床の上に、自分の足がある。右足のヒールの底が、外側だけ斜めに、ひどくすり減っていた。いつからこうなっていたのか、記憶にない。気がついたら、こうなっていた。
ただそれだけのことを、しばらく、ぼんやりと見つめていた。
ガタン、と電車が大きく揺れ、目的地の駅に到着するアナウンスが流れた。
私はすり減ったパンプスに力を込め、人波とともにホームへ降り立つ。改札を抜けても、雨はまだ降り続けていた。骨が一本だけ不自然に曲がったビニール傘を開き、冷たい風の中を歩き出す。街灯のオレンジ色が、濡れたアスファルトに滲んで伸びていた。
最寄り駅から続くシャッターの閉まった商店街を抜ける。金曜日の夜だというのに人通りはまばらで、時折通り過ぎる車のタイヤが、濡れたアスファルトをシャーッと滑る音だけが響いていた。
街灯が一つ切れたままの細い路地を入る。雨の匂いを含んだ夜風が、ストッキング越しの足首を撫でていった。
築三十年を超える木造モルタル二階建てのアパートが、私の帰る場所だ。
外階段の鉄の手すりは所々赤茶色に錆びついている。 雨上がりで湿った階段を上ると、カンッ、カンッ、と薄っぺらい音が周囲に響いた。右足のヒールの先だけが妙に響くのは、歩き方の癖でそちら側だけが削れているからだ。
一段上るたびに、電車で男にぶつかられた右の肋骨が、ヒールの音と連動するように鈍く痛んだ。
駅前の靴修理屋に持っていかなきゃ、と思いながら、もう一か月が過ぎている。
自分のことにお金と時間を使うのが、今の私にはひどく億劫だった。
薄暗い階段を二階まで上がり、一つ手前の「二〇三号室」の前に立った。
冷たい金属のドアノブを握った瞬間、指先に伝わるその冷たさが、今夜の仕事のあれこれ全部を現実として確定させるような気がして、一秒だけ手が止まった。
それでも、鍵を差し込む。
濡れたビニール傘をたたみ、バサッと水滴を払う。カバンの底から冷たい鍵の束を探り出した。指先に触れる交通系ICカードや、丸めたままのレシート、剥き出しのリップクリームをかき分け、ようやく金属の鍵を引き当てる。ドアノブに鍵を差し込み、右に回した。ガチャリ、という重くて少し鈍い音。
重い鉄のドアを押し開けると、ひんやりとした空気が頬に張り付いた。窓を閉め切っているせいか、古い建物特有の埃っぽさと、少し甘い動物の匂いが混ざっている。
ドアを開けると、暗い玄関のたたきにキジトラ猫のジークが丸くなっていた。
「……ただいま、ジーク」
靴を脱ぐことも忘れて、コンクリートの床にしゃがみ込んだ。ジークは片目を細めてこちらを見て、小さく「にゃ」と鳴いた。それから、のそりと立ち上がり、私の足元へ近づいてきた。
そして、斜めにすり減って泥に汚れた右足のヒールに、鼻先を一度だけ当てた。
数秒。
ただそれだけだった。確かめるような、あるいは何も確かめていないような、その仕草をして。それからすっと背を向けて、玄関の隅で毛づくろいを始めた。
解決しない。慰めない。何も言わない。
ジークの小さな舌が、前足の付け根を丁寧になぞっている。その音だけが、狭い玄関に静かに響いていた。
張り付いていた私の口角が、崩れ落ちた。
息の吸い方が、わからなくなった。
暗い玄関のコンクリートの床に座り込んだまま、コートも脱がず、傘も畳まず、私はただジークの背中を見ていた。ジークは振り返らなかった。毛づくろいを続けていた。
それで、よかった。
誰かに「大丈夫?」と聞かれていたら、きっと口角を上げて「大丈夫です」と答えていた。でも今、誰もそれを聞かなかった。ジークも聞かなかった。
だから、崩れたままでいられた。
「……っ」
喉の奥から、空気が漏れるような、小さな、ひどく不格好な音がした。
それが自分の泣き声だと気づくまで、少しだけ時間がかかった。