5倍に薄める幸せ

DILUTION 4 薄まる愛と、薄まらない絶望

「……」
 私は生まれて初めて男と男が真正面から見つめ合い、張り詰めた瞬間を目の当たりにしている。橘がネタバラシと言っていたけど、何か隠し事があるの?真っ先に口を開いたのは――
「お前の名前どこかで聞いたことがあると思ったら、まさかあのときの大学生だったなんてな……」
「お前こそ……あのときの黒髪眼鏡がド金髪とは変わりすぎだ」
 彼が大学生のときって私と付き合っていた頃?詳しく知りたい私だけど、美月さんを遠くに離した位置でもう聞こえることはなかった。

 俺はもうわかっている。橘がかつて若き医界の希望と呼ばれていたことを。奴がなぜ女性を騙し、澪を食いものにしたのかも俺にはわかる。コイツが変わってしまった理由は、間違いなく母さんの死にある……
「母さんがずっとあんたばかりに要望を押しつけたことも知っていた。それなのに俺はあんたを敬おうとしなかった……それは、俺から謝らせてくれ……」
 当時母さんの主治医の助手を務めた橘は俺たちに深く寄り添ってくれた。
「何が言いたい?」
「あんた……母さんの願いを叶えたくてあんな手段に出たんだろ?」
「……!?」
「あんたの想いは間違ってない……けど何で、未完成の薬なんて打ったんだよ!?」
「あの女はずっと、帰りたい帰りたいってうるさかったからだよ……!青木の奴はお前に任せるとほざいて逃げた……お前だって覚えているだろ?あの野郎がずっと顔を出さなかったこと」
 当時、がん治療の新薬として開発が進められていた『REVERSE-7』。主治医の青木が携わっていたが、橘もその研究に携わっていたと聞いている。だが青木はほとんど開発の責任を橘に押しつけた上、上司が起こしたトラブルの火消しに追われる毎日だった。
「俺は負けたくなかったんだよ……あんな身勝手で自分はおいしいとこばっか持っていくアイツにな!」
 よく部下に全部押しつけて手柄を横取りする上司はドラマで見るシーンとしか思っていなかったが、まさか実際にいるとは驚きだ。
「鏡千里が俺だけに帰りたいって言うならまだよかった。けど、あの女は青木にも訴えたんだよ……」
「それで、青木はあんたにいちゃもんをつけたってのか?」
「あぁそうだよ……!『あの女はお前に任せておいただろ』、とか!『ちゃんと言い聞かせてないのか』!ってな!」
「……」
「仕方なかったんだよ……確かに打ったのは俺だが、青木は『打っても問題ない』としか俺に説明しなかった。だから打ったんだよ……」
「橘……」
 橘の話をここまで聞けば、後のことは言わなくてもわかる。結果的にREVERSE-7は完成に至らず、がんを治療するどころか耐え難い激痛を与えた上、苦しみの中で母さんを死なせてしまった。
「もうわかるだろ?医界は責任を全部俺に押しつけたんだよ……」
「酷い話だ……」
「俺はあの人の願いを叶えたかっただけなんだ……」
「それであんたはヘリオス・ジャパンに拾われたのか?」
「あぁ……」
 当時橘の祖父である会長が存命だったのは間垣社長から証言を得ている。
「あんたは母さんの死を目の当たりにして、裏風俗でも始めて女性を自分のものにしようって考えたのか?」
「自分のものになれば死を見ないで済む……だから」
「違う……!」
「何……?」
「森田美奈子さん……」
 俺は美奈子さんが乗せられているトラックの荷台を指差した。
「お前は美奈子さんにペースメーカーが埋められていたこと、知っていたか?」
「何……!?」
「お前……元医療従事者だったくせに気づかなかったのか?」
「それは……」
 この状況で嘘をつく理由はない。おそらく奴は知らなかっただろう。奴にとって自分のものになれる女性は誰でもよかったんだ。だから一回り以上の年上女性も標的にかけたんだ。
「お前の愛は単なる支配だ……人の心を壊して手に入れられる幸せがあると思ってんのか……」
「ならお前の愛は甘い……薄っぺらい愛情なんかで本気で愛していますって言えるのか」
「言えるさ……」
「何だと……」
「愛し合っているなら、お互いを尊重しあって共に成長していくことが人を愛する本当の意味なんだ……」
「甘い……!支配してこそ本当に愛する意味だ……!だから俺は澪を社会的に潰し、俺から逃げられないようにしたんだ」
 澪を愛している想いは痛いほどわかる。澪が橘を恋人に選んだなら、俺は大人しく身を引く。だが違う……澪は今泣いてんだよ……!
 スッ……
 俺は魂のファイティングポーズを構える。
「何してんだ……」
「今のお前には、俺が語ってわかるほど利口じゃねぇ……俺がその身体に教えてやる……」
「フン……面白い!お前が語る余白がどれだけの血で……溢れるか見させてもらおうか!」

「ウワァァー……!」
「幸人……!?」
 突然橘が幸人に向かって走り出し――
 ドスッ……!
 殴られる瞬間に私は目を閉じた……しかし――
「何……?」
「ウゥ……魂の乗っていないお前の拳なんて、効かないんだよ……!」
 ドガァァン……!
「グァ……!?(なんて威力だ……)」
 圧倒的な力で吹き飛んだ橘は停めていたアルファードに思いきりぶつかり――
 ビィィー……ビィィー……!
 幸人は昔から喧嘩最強と恐れられていた。技術も、背負っているものの重さも、彼にかなうはずがなかった。だが奴も負けじと反撃を加え……
 ドス……!
「ウッ……!」
 頭から血を流す幸人と、血は流れていなくても動きが明らかに遅くなった橘。
「お前に勝てば、澪は俺のものなんだぁ……!」
「ヒ……!」
 遠くから聞こえた絶叫に私は思わず声が漏れた。幸人お願い……この男を止めて……!
「死ね幸人ぉお……!」
 奴は懐に隠していた折りたたみナイフで彼の心臓を目掛けて突き立てる!
「幸人ー……!」
「幸人さん……」
 グサ……!
「幸人……!?」
「クゥ……!」
 ギリギリ……!
「えっ……?受け止めた……」
 何と彼はナイフを思いきり左手で受け止めた……!左手から生ぬるい血が滴り落ちる……
「ぬ……抜けない!?」
「橘優真……お前の負けだ……」
「幸人ぉ……」
「ハァァー……!」
 ヒュン……!バゴォォ……!
「ぐわぁ……!」
 彼の拳が直撃した瞬間、骨が砕けるような鈍い音が響いたのがわかった。これでもう、幸人の勝利は明確だった。
 コツ……コツ……
「澪ちゃん……?」
 私は無意識に、戦いを終えた2人の男のもとへ駆け寄っていた。

「はぁ……はぁ……負けた……のか……」
「あぁ……お前は俺だけじゃなく、自分の愚かさに負けたんだ」
「幸人……」
 澪は足が震えながら、仰向けに倒れる橘に駆け寄った。
「澪……」
「あなたが私を尊重して愛してくれていたら、私もあなたのことを好きになれた……でもあなたのことが本当に怖かったの……!」
「……」
 澪は初めて自分の胸の内を明かした。
「でもあなたは美月さんを道具のように扱い、まだ幼い舞ちゃんも利用した……同じ女として、私はあなたのことを許さないわ……!」
 錯乱状態に近い澪はナイフを拾って振り下ろそうとした。
「やめろ……」
「何でよ……コイツは現に美奈子さんを殺したのよ……!私の目の前で女の子を汚したのよ……!?」
 ナイフを没収して澪をなだめると、俺は静かに……
「橘……俺もお前のことを許すことはできないが、俺が手にかける価値もない……」
 澪にとってこの男はトラウマを体現した存在。しかし俺にとっては、母さんを救おうとした恩人と言える存在でもある。
「お前は確かに間違った……俺たちが許さなくても、全ての人がお前を許さないとは限らない……」
「なっ……!何言ってんのよ……!?殴られて頭おかしくなったの!?」
 澪の気持ちは痛いほどわかる……だが俺はアイツの可能性を信じたいんだ。
「だったら私が殺る……!」
 俺からナイフを力ずくで奪おうとする!
「それを寄越せ……!」
 パチン……!
 俺はとっさに、澪の頬を叩いてしまった……
「……!?」
「澪……すまない……」
「ウゥ……グスン……!ウゥゥゥ……!」
「ハハハ……!お前は甘い……甘すぎんだよ!」
「それが俺の良いところでもあり、悪いところだ……」
「フン……俺の負けだ。澪もお前のことが好きみたいだしな……」
 すると奴はゆっくりと身体を起こし――
 カチッ……スゥ~……
「お前も吸うか?」
「けっこうだ……」
 たばこの銘柄は缶ピース……こんなのキツくて吸えたもんではない。
「確かに俺の負けだが、あくまで澪を賭けた戦いだ……まだお前と決着ついたわけではない……!」
「わかった……だがまずは帰って傷を癒せ……」
 スゥ~……
「だから……お前のこのアルファ――」
 ブーン……!ブーン……!
「ちょっと待てお客さんか?今来られても珈琲出せないぞ……お前の差し金が!?」
「違う……コイツら、マズい!社長に仕向けられた奴だ……!」
「何だって!?」
 社長ってあの橘には逆らえないって言っていた、あの間垣社長のことか!?一体何を考えて……
 バフッ……バフッ……!
「いやぁ~誠に残念ですよ優真さん……ですが、こちらとしては好都合です……」
「俺たちはずっとあんたが負けるのを待っていたんですよ……もうお前に残されたものは、ゼロだ……!」
「ヌゥ……!?」
 現れた車は2台、それに男は4人……全員が銃を俺たちに向けている……澪は地面に突っ伏したまま動ける状態じゃないし、美月さんは自力で歩けない……だったらこの男に手伝ってもらうしかないだろ。
「なぁ……」
「あぁん……?」
「俺が合図したら、舞ちゃんと美月さんを後部座席に乗せてくれ……澪は俺が乗せる」
「勝ったからって、何命令してんだよ……?」
「今は生きて帰るのが先決だろ……!今回の勝負はお前の負けなんだ。今日は言うことを聞け!」
 ボストンバッグを持っていた男の太ももにはホルスターがあり、ハンドガンを忍ばせていた。俺は視線を男の方へ移し
「あとジッポライターくれ……」
「チッ……」
「サンキュー……」
 果たしてうまくいくか……下手をすれば誰かを傷つけてしまうかもしれない。それでも、今ここで動かなければ全員が終わる。俺はゆっくり男のもとへ近づき……
「そこを動くな!動いたら撃つ!」
 呼吸を整えろ……俺は決めたんだ、これ以上傷を増やさせないってな!
「いくぞ……」
「……!」
 俺の声に続いて橘が身構える!
「いけ!」
「フッ……!」
 俺は拝借したハンドガンを構える……
 バンバン……!
 初めて使用する銃、あまりの発砲音に耳の鼓膜が破れそうになるが――
「おい早く逃げねぇと爆発するぞー!!」
「何!?チクショウ……!」
「逃げるぞ……」
 俺が撃ったのは車の給油口。2発程度ならドバァとは出ないはずだ。なるべく男たちが後ろに退散した瞬間を見計らい……
「早く乗るんだ……!」
「う……うん!」
「大丈夫か?乗せるぞ……」
 舞ちゃんと美月さんが乗った。よし今だ!
 ピューン……
 奴から貰ったジッポライターを投げ、そのまま漏れたオイルに引火し……
 ドカーン……!
 1台の車が小さく爆ぜる!炎は燃え広がっているが、とりあえず送り込まれた男たちはうまく逃げたようだ。
「澪……!」
 澪をお姫様抱っこして後部座席に寝かせ、橘は助手席へ無理矢理乗せた。
「シートベルトしたか!?よし逃げるぞ……!」
 アルファードのエンジンをかける。そのままUターンし、燃え続ける車をすり抜けるように走る。
「クソ……逃がすなぁ〜……!」
 バンバン……!……ガンガン……!
「チィ……!諦めが悪い奴らだ……!ここからどう向かえばいい!?」
「山をこのまま下りれば首都高につながるインターに入れる!」
「リョーカイだぜ……」
 ブーーン……!

 それからしばらくして。
 ブーン……ギギ……
 ようやく近くの総合病院に辿り着くことができた俺たちは、すぐ美月さんを急患として運び込んだ。
「この人を頼む!」
「わかりました!すぐ処置に入ります……!早く……!」
 ストレッチャーで運ばれる美月さんの息は既に絶え絶えだった……舞ちゃんの方は両親がすぐに駆けつけ、特に異常はなかったが念のため検査入院になったようだ。
「澪……!」
「……」
 澪は目を開いたまま、眠っているように動かなかった。身体のダメージ以上に、心が壊れてしまったのかもしれない……
「先生……澪をお願いします!」
「わかりました!あなたは付き添わないんですか?」
「後からすぐ行きます!」
 本当なら付き添いたいが、俺にはまだやらなきゃならないことがある。それは、一人の男と向き合うことだ。
「お前は病院行かないのか?」
 俺が問いかけたのは助手席に座る橘。車から降りず、ずっと何か考えている。
「今行ったら捕まるだけだ……さっき言っただろ?お前との決着がまだだと……」
「橘……でも、これからどうするんだ?まだお前を狙う奴だっているだろ?」
「お前に心配されるほど俺はヤワじゃねぇ……どうせヘリオス・ジャパンは終わりだ……間垣も長くは持たねぇよ……」
「そうか……」
 すると奴は助手席から運転席に移動し……
「ありがとな……」
「何だよいきなり……」
「お前のおかげで何が大切かわかった……俺の愛情がどれだけ歪んでいたかもな……」
 そう言う奴の表情は恨みと、感謝の想いが混ざっているようだった。
「だが勘違いするな……別にお前を認めたわけじゃねぇ……」
「認めてもらわなくてけっこうだ……」
「フン……」
 ギギ……ブーン……!
「逃げるなよ?」
「逃げねぇよ……俺は俺でやるべきことがある……決着はそれからだ。じゃあなマヌケ善人……」
 奴は感謝なのか憎まれ口なのかわからない台詞を吐き、どこかへと走り去って行った。
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