5倍に薄める幸せ
DILUTION 4.5 サバイバーズ・ギルト
1か月後の年明け。
ゴトッ……
「おはよう。今日はアップルパイ作ってきたぞ……」
「おはよう……ありがとう……」
澪は橘が引き起こした事件のショックで今も入院している。入院当初は看護師さんにまで暴力を振るうほどだったが、徐々に落ち着きを取り戻しつつある。
「今日はいい天気だしさ、散歩にでも行かないか?澪のためにマフラー編んできたんだ!」
「……」
恋人としてやはり気になってしまうのが、入院してから一度も外に出ていないことだ。
「アイツはもう、私の前に現れないよね……?」
「大丈夫だ。アイツも自分の行いをきちんと反省しているし、何より二度とあんなことはしないって約束したんだ」
この質問をされるのは、もう何度目か覚えていない。俺がいくら大丈夫だと言っても澪は安心してくれない。
「俺も一緒に食べるからさ、食べたらちょっとだけ風に当たろうぜ?」
「うん……」
今日のアップルパイは俺の自信作だ。なぜなら、長野県から取り寄せたサンふじを使用しているからな。
「元気がないときこそ、甘くて美味いアップルパイだ!ほらっ?」
パクッ……
「うん……甘い……」
「甘いな……」
甘いものを食べたら苦い珈琲を飲みたくなるだろう。
「澪が美味しいって言ってくれた白夜、持ってきたよ」
俺は保温水筒に入れておいた珈琲をあげた。中身は澪の好きな白夜であるはずだが……
ゴク……
「?これ違くない……?いつもの味じゃないような……」
やっぱりな……澪は俺が作る珈琲の味を覚えていた。中身はスーパーに売られているインスタントコーヒーで作ったもので、俺の自信作ではない。
「いじわるしたの?」
静かに怒っている表情だが、俺は澪の我慢しない顔を見て安心した。
「フフ……冗談だよ。ちゃんと白夜、持ってきたよ」
「フフフ……持ってきてんなら最初からちょうだいよ……!」
澪は苦笑いを浮かべて白夜を受け取ると――
「もう……!これ飲んで!いじわるしたんだから……」
「じゃあ澪も白夜……いっぱい飲んでくれよ!」
「早くちょうだい!あっつ……!」
澪の笑顔が戻った瞬間、俺は涙を堪えることに必死だった。薬による治療を拒否し、先生のカウンセリング、毎日見舞いに行った積み重ねが回復につながった。先生によると、もうすぐ退院していいみたいだ。
「美味しかったわ……」
「なぁ、あと2日か3日で退院していいみたいなんだ」
「そうなの……?でも退院したところで、私には仕事もないし……」
「……」
確かに澪は新卒から勤めたルミエール商事を解雇されている。それに山本さんから聞いた話によると、社長はヘリオス・ジャパンの騒動を知ったショックが大きかったらしく、経営はガタガタみたいだ。後に知った話だが、社長さんは数年前、橘に命を救われたらしい。ルミエール商事は現在、新社長を決める会議で話が持ちきりみたいだ。
「懲戒免職って聞いたときは驚いたけどさ、でも本当はただの解雇みたいなんだ。山本さんからね、『いつでも戻ってこい!』って伝言を受けたんだ……」
「部長が……」
「澪には帰る場所がある……一人が怖いなら俺のとこに帰ってきてもいいし」
「え……?幸人に……?」
一人暮らしの澪にはやっぱり家は不安だろう。だからさり気なく提案をしてみた。すると……
「……うん!」
「よし!そうと決まったら、これから俺と楽しい散歩だ!」
「えぇ〜……?もう最初から連れ出す気満々で言ったの?」
「まぁな。マフラー早速巻いて、行こうぜ!」
「わかったわよ……!」
橘優真に騙された被害者の中には、私のように回復に向かう人ばかりではない。特にサバイバーズ・ギルト(生き残り症候群)の症状が重いのは、頚椎を折ってしまった美月さん……
スゥー……
全身麻痺でもう自分の足で歩くことはできないみたい……それ以上に辛いのが……
「相澤さん?娘さんが来てくれましたよ?」
「ママ……」
「……」
娘さんの顔を見ないどころか、言葉を発することもない……それに美月さんがいる病棟は女性の患者しかいない。アイツのせいで、彼女は今も男性に怯えて生きているのよ……!
トントン……
「……」
肩を叩けば反応はする。でも……
サッ……
麻痺した震える手で振り払う……
「海咲ちゃん……今日もママお話できないみたい……」
「うん……」
自分が知らない時間に息子さんを亡くし、担任教師から何度も指名されては法外なプレイを強要され続けた……それなのに自分が生きている。意識を取り戻してから、心が壊れてしまったのは一瞬だった。当然ゲームセンターの仕事は辞め、今の精神状態では社会復帰も難しい。海咲ちゃんは諦めて今日も帰ろうとした。でもそのとき……!
スゥー……キュッ……キュッ……
「……?ママ……?」
美月さんは車椅子をゆっくり動かし、食堂のテーブルから
カタカタ……
「パンケーキですか?」
看護師さんに車椅子を押してもらうと、自分が食べ切れなかったパンケーキを……
「……」
「ママ……」
表情は笑ってないけど、確かに美月さんはパンケーキを両手で渡した。もちろん、震える手を必死で抑えながら……
「ママ……グスン……!」
海咲ちゃんは顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣きながら……パンケーキを受け取り――
「ママぁー……!」
ギュッ……!
海咲ちゃんは遂に、お母さんを抱き締めることができた……美月さんは愛を受け取ったのか、震えながらゆっくり、海咲ちゃんを抱き締め返す……その光景に、他の患者さんや看護師さんも泣き崩れた……
3日後。
「お世話になりました……」
「いえいえ〜お大事になさってください!」
入院から1か月、私はようやく退院することができた。
ブーン……
「お待たせ!待ったかな?」
「大丈夫よ!私もちょうど出たばかりだから」
「そっか。あぁ乗って!」
「うん!じゃあ失礼しまっす!」
バンッ……
彼、デカい身体でこんな可愛い車に乗っているのか……しかもピンクのラパン。でも高級車の助手席より、軽自動車の助手席が一番落ち着く!
「お腹空いてる?」
「もう空きすぎだよ……」
「じゃあ、早速俺のとこ行こっか?」
「賛成」
初めての余白か。写真だけ見たけど実際の店内はどんな感じなんだろうなぁ?
「幸人ってさ、何の料理が一番得意なの?」
「一番得意か……何だろうなぁ?」
彼が食べさせてくれたアップルパイや特製サンドイッチ、正直どれも美味しかった。私も家で料理するけど、彼氏の方が美味しいもの作れるのは少しだけ嫉妬してしまう。
「それ、澪が見つけてくれないか?」
「えっ……?」
「やっぱ自分では何が得意かってわからないんだよな……だから、澪が食べて一番美味しいって思えるものが、俺の得意料理かも」
「何それ……?フフフ……」
それってもしかして、これからも私のために作ってくれるってこと……!?でも幸人、前はそんな明るい感じじゃなかったのにな……やっぱり大人になると変わるんだね。素敵なのは変わらないけど……
「さぁ着いたぞ。ようこそ、我が余白へ……」
「何ようこそ王女様みたいに?」
いざお店に入ってみると、まず広がってきたのはレトロな雰囲気と鼻に抜ける珈琲の良い香り。別荘みたい。そんなお店だからお値段張るのではないかと見たら……
「えっ!ナポリタン800円……しかも大盛り無料!?カレーライスも……」
これで赤字にならないのかな?
「ここは余白だからさ、無理せずリラックスしていいよ」
確かに落ち着く雰囲気だからいつまでも居れそうだけど……
シャー……カラン…
「まだ飲んでなかったよな?」
「カプチーノ?」
「うん。白雪だ」
へぇ〜……何か思ったけど珈琲の名前に全部「白」が付いている気がするな……肝心の彼だが服の色は、真っ黒……
「お待たせ。今日のおすすめはボロネーゼだ。食べてみてくれ」
「ありがとう……」
パクッ……スルスル……
「美味しいぃ……!」
赤ワインがお肉の旨味を引き立てている……!白雪ってカプチーノも甘味の中に苦味が隠れてて美味しい!
「何度も言うけどここは余白だ。思う存分休んでてくれ……」
優しい味……1か月前までアイツに無理矢理食べさせられていたのが嘘みたい。薄味だからダイエットにも向いてそう!
「幸人……!私、やってみたいこと思いついた!」
「本当?何やりたい……?」
「笑わない?」
「笑うわけないだろ?さぁ何やりたいんだ!?」
「ダイエット……」
彼の裸は一度だけ見たことがあるけど、すごい筋肉だったのを覚えている……きっと今の身体はストイックな生活にあるんだ!
「いいのか?俺のダイエットメニューは、厳しいぞ……?」
「……あんまり厳しいのはやめてよ?」
ただでさえ病み上がりだしお手柔らかにしてよ……しかも表情が真剣だし、これはガチな予感しかしない……やっぱりジョギングとかするのかな?
「そうは言ったけど、俺は澪に合わせて最適なメニューを組んであげるよ」
「本当にいいの?」
「本来なら有料級だけど、澪限定無料サービスだ……」
何そんな自信満々に言うのよ?でも彼は今のボディを仕上げるのにどれくらいかかったのだろう?でも、どんなにキツくても彼にずっとついていきたいかも……
「でもダイエットはけっこう難しいんだ。食べなくても痩せないし、運動のしすぎも痩せない。だから、美味しいもの食べて楽しく痩せようよ?」
食べなくても痩せないことは知っている。リバウンドしやすいとか……彼が言うことなら間違いないはず。だからまた好きになっちゃう!
「で、何するの?」
「とりあえず今日は俺の家を紹介するよ」
紹介とダイエットは全く関係ないし……でも今日から一緒に住むのよね?私のアパート引き払ったし……
「家どこなの?」
すると彼は上を指差した。まさかお店の上?
「家は上の階だよ。早起きしなくて済むのがよくてね」
キッチンの隣にある階段から自宅につながっているようで、寝室はカーテンを開けると夜景がわずかに見える感じだった。ベッドはあるけど私はどこで寝るんだろう?
「狭くてごめんな……」
サイズはビジネスホテルにあるセミダブルと同じくらい。まさか……!
「一緒に寝るの……?」
「違うのか?嫌なら床で寝てもかまわないけど……」
見た感じ他に敷布団は見つからない。床なら硬いところに寝かせるのかよ……
「一緒に寝るわよ……!」
もし結婚とかしたら毎日一緒に寝るんだ。花嫁修業の一発目はまさか添い寝?花嫁修業なら料理くらい超えてやるっての!
「あなたはさぁ、私に求めるものって何?どんな彼女であってほしいの?」
けっこう極端な質問だけれど、何て答えてくれるのかな?
「今から考えることじゃないよ。確かに考えることは楽しいけど、お互い探していくのが一番楽しいと思う」
相変わらず考えるより行動タイプね……
「まぁ、今ならあのとき別れを言われた理由がわかるし、だから幸せにする自信があるよ」
「じゃあ、ダイエットとか、治療にも付き合ってくれるの?」
「もう決めたんだ。俺は一生澪の傍にいるってね……」
「……ありがとう」
あのとき彼と再会していなければ、今頃どうなっていたのかな?考えるとやっぱり恐ろしいけど、過去ばかり振り返っても仕方ない。大事なのはこれからの人生よ!
「俺、澪のためにパジャマ買ったんだ。お風呂沸いたから入ってきちゃいな?」
「一番風呂なんかいいの?」
「いいよ。上がったら何飲む?お酒もあるけど」
入院中は一切お酒を飲まなかった。飲みたいかな……
「うん、じゃあお酒で……」
「わかった。美味しいの作っとくね」
作る?彼が作るのは珈琲が専門だと思ったがお酒も作れるの?
パサッ……シャー……
「……」
私の身体には強い力で押さえつけられた痣、引っかき傷、シャワーで洗い流せない汚い傷が鏡に映る……
シャー……
『さあお客様を存分に楽しませてくれよ……』
『若くてピチピチじゃねぇか!こりゃぁ気持ち良さそうだ!』
『生でかまわねぇよな!』
シャー……
「キャァー……!」
まだシャワーの音が怖い……
トントン……
「大丈夫か……?」
「幸人……!」
でも今は違う……!幸人が傍にいるんだ……!
「ごめんね……大丈夫よ」
部屋で音楽を流しても聞こえた澪の悲鳴……たとえ退院しても、心の余白は、空っぽを通り越して空白な状態。
カランカラン……シュワシュワ……
よしできた!芋焼酎にレモンの皮を削り、砂糖に漬けたレモンを入れて甘味を引き出すレモンサワーだ。
ガチャ……ゴシゴシ……
「ふぅ~……」
「温まった?レモンサワー作ったよ」
「ありがとう……」
澪の表情はまた沈んでいた。
フワ……ゴクゴク……
「美味しい……けどちょっと薄いかも」
「薄かった?ちょっと濃くしてみるか」
「それISAINAじゃん?」
俺のお気に入りは芋焼酎のISAINA。
ブォー……
「ちょっと……髪くらい自分で乾かすわよ?」
「ゆっくり飲んでな……それに同じ空間だからここも余白だ。無理するな……」
いざやってみたけど髪は長いし髪質も全然違うな……
「……」
「よしできた!」
俺はあえて腕まくりをした。その理由は――
「えっ……まさかあなたも……何か病気を……?」
俺は仕事中やプライベートではいつも長袖のシャツを着て、常に腕時計も身につける。
「すごい傷……」
俺の左手首にはリストカット、根性焼きの痕が無数にある。
「でも付き合っているとき、そんなのなかったじゃない……!?」
「澪と別れてからちょっとして母さんにがんが発覚してさ……なぜか自分も傷つくべきだって、思ってしまったんだ……」
澪は人に傷つけられたが、俺は自分自身で傷をつけた。
「まさか……」
今の言い方だと罪悪感を与えてしまったか?だが意外な答えが返ってきた。
「じゃあ今度から私がそんなことさせないわ!」
「澪……?」
「私はずっと幸人に助けられた。だから、今度は私が助ける番よ……!」
「澪……!」
ギュゥ……!
「わっ……!」
「澪……ありがとう……!」
彼にもそんな過去があったなんて……あのときの一方的だった自分を殴りたい。頑なに腕まくりをしなかったり、時計を外さないのはそれが理由だったのね……
「あなたはよく無理しないでいいっていうけど、あなたも私の前では無理しないでほしい」
お互いを支え合ってこそ本当の恋人よ。付き合うしか選択肢はない。
スリスリ……
「さっ!あなたも早くお風呂入っちゃって!」
お酒が入った私は急かすように言った。だって、今日は一緒にお酒を飲んでゆっくりしたいから……
「そんな急かすなよ〜まあサッと入ってくるよ!」
話し合っていたらお腹も空いてきた。ボロネーゼ食べたのはけっこう早い時間だったし。数分すると――
ゴシゴシ……
「お待たせ!」
彼が飲むお酒は缶ビール。冷蔵庫にはキリン一番搾りがストックされている。キリン派なのね……
プシャッ……
「今日私が言ったこと、信じてくれる……?」
「俺は澪のこと一度も疑ったことないし、君のことをずっと信じているよ」
「だから、自傷行為しないことを約束して。もしやったら」
「やったら……」
「殴る……」
やってしまったこと、やってしまうのは仕方ない。彼がこんなになるまでやってしまったのは、私の責任でもあるから。だからこそ増やさせない!
「キッチン借りていい?」
「いいけど、何か作るの?」
「大したものはできないわよ?おつまみになるの作ってあげるわ!」
私が作ったのは冷凍うどんを茹でて明太子とバター、顆粒コンソメを少量加えた明太バターうどんだ。
「お待たせ」
「ありがとう!」
今は簡単なものを作ったけど、いつかは幸人を超えるくらい美味しいもの作ってみせるから!
「ご馳走様!」
満足してくれたみたいでよかった……
「ふぅ~わ……」
コトッ……
眠くなった私は安心するようにもたれかかった。
「眠くなったかな?」
「うん……」
「よし……ベッドに行こっか!」
「連れてってぇ……」
「ふぅ……しょうがないな……」
ふわっ……
気づいたらお姫様抱っこでベッドに運ばれた。彼の愛で、支配の愛が徐々に薄まっていくこの瞬間。私はようやく幸せを手に入れられる気がした。そんなことを考えていたら、アイツと付き合った当初、原液のカルピスを飲まされたことを思い出してしまった……原液を飲める濃さに薄めるのと、幸せを感じられる愛の濃さって、何だか同じように感じる……短い月日で私は、濃縮と希釈の意味を知った。いつかあなたと飲んでみたいな……5倍に薄めたカルピス。
ゴトッ……
「おはよう。今日はアップルパイ作ってきたぞ……」
「おはよう……ありがとう……」
澪は橘が引き起こした事件のショックで今も入院している。入院当初は看護師さんにまで暴力を振るうほどだったが、徐々に落ち着きを取り戻しつつある。
「今日はいい天気だしさ、散歩にでも行かないか?澪のためにマフラー編んできたんだ!」
「……」
恋人としてやはり気になってしまうのが、入院してから一度も外に出ていないことだ。
「アイツはもう、私の前に現れないよね……?」
「大丈夫だ。アイツも自分の行いをきちんと反省しているし、何より二度とあんなことはしないって約束したんだ」
この質問をされるのは、もう何度目か覚えていない。俺がいくら大丈夫だと言っても澪は安心してくれない。
「俺も一緒に食べるからさ、食べたらちょっとだけ風に当たろうぜ?」
「うん……」
今日のアップルパイは俺の自信作だ。なぜなら、長野県から取り寄せたサンふじを使用しているからな。
「元気がないときこそ、甘くて美味いアップルパイだ!ほらっ?」
パクッ……
「うん……甘い……」
「甘いな……」
甘いものを食べたら苦い珈琲を飲みたくなるだろう。
「澪が美味しいって言ってくれた白夜、持ってきたよ」
俺は保温水筒に入れておいた珈琲をあげた。中身は澪の好きな白夜であるはずだが……
ゴク……
「?これ違くない……?いつもの味じゃないような……」
やっぱりな……澪は俺が作る珈琲の味を覚えていた。中身はスーパーに売られているインスタントコーヒーで作ったもので、俺の自信作ではない。
「いじわるしたの?」
静かに怒っている表情だが、俺は澪の我慢しない顔を見て安心した。
「フフ……冗談だよ。ちゃんと白夜、持ってきたよ」
「フフフ……持ってきてんなら最初からちょうだいよ……!」
澪は苦笑いを浮かべて白夜を受け取ると――
「もう……!これ飲んで!いじわるしたんだから……」
「じゃあ澪も白夜……いっぱい飲んでくれよ!」
「早くちょうだい!あっつ……!」
澪の笑顔が戻った瞬間、俺は涙を堪えることに必死だった。薬による治療を拒否し、先生のカウンセリング、毎日見舞いに行った積み重ねが回復につながった。先生によると、もうすぐ退院していいみたいだ。
「美味しかったわ……」
「なぁ、あと2日か3日で退院していいみたいなんだ」
「そうなの……?でも退院したところで、私には仕事もないし……」
「……」
確かに澪は新卒から勤めたルミエール商事を解雇されている。それに山本さんから聞いた話によると、社長はヘリオス・ジャパンの騒動を知ったショックが大きかったらしく、経営はガタガタみたいだ。後に知った話だが、社長さんは数年前、橘に命を救われたらしい。ルミエール商事は現在、新社長を決める会議で話が持ちきりみたいだ。
「懲戒免職って聞いたときは驚いたけどさ、でも本当はただの解雇みたいなんだ。山本さんからね、『いつでも戻ってこい!』って伝言を受けたんだ……」
「部長が……」
「澪には帰る場所がある……一人が怖いなら俺のとこに帰ってきてもいいし」
「え……?幸人に……?」
一人暮らしの澪にはやっぱり家は不安だろう。だからさり気なく提案をしてみた。すると……
「……うん!」
「よし!そうと決まったら、これから俺と楽しい散歩だ!」
「えぇ〜……?もう最初から連れ出す気満々で言ったの?」
「まぁな。マフラー早速巻いて、行こうぜ!」
「わかったわよ……!」
橘優真に騙された被害者の中には、私のように回復に向かう人ばかりではない。特にサバイバーズ・ギルト(生き残り症候群)の症状が重いのは、頚椎を折ってしまった美月さん……
スゥー……
全身麻痺でもう自分の足で歩くことはできないみたい……それ以上に辛いのが……
「相澤さん?娘さんが来てくれましたよ?」
「ママ……」
「……」
娘さんの顔を見ないどころか、言葉を発することもない……それに美月さんがいる病棟は女性の患者しかいない。アイツのせいで、彼女は今も男性に怯えて生きているのよ……!
トントン……
「……」
肩を叩けば反応はする。でも……
サッ……
麻痺した震える手で振り払う……
「海咲ちゃん……今日もママお話できないみたい……」
「うん……」
自分が知らない時間に息子さんを亡くし、担任教師から何度も指名されては法外なプレイを強要され続けた……それなのに自分が生きている。意識を取り戻してから、心が壊れてしまったのは一瞬だった。当然ゲームセンターの仕事は辞め、今の精神状態では社会復帰も難しい。海咲ちゃんは諦めて今日も帰ろうとした。でもそのとき……!
スゥー……キュッ……キュッ……
「……?ママ……?」
美月さんは車椅子をゆっくり動かし、食堂のテーブルから
カタカタ……
「パンケーキですか?」
看護師さんに車椅子を押してもらうと、自分が食べ切れなかったパンケーキを……
「……」
「ママ……」
表情は笑ってないけど、確かに美月さんはパンケーキを両手で渡した。もちろん、震える手を必死で抑えながら……
「ママ……グスン……!」
海咲ちゃんは顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣きながら……パンケーキを受け取り――
「ママぁー……!」
ギュッ……!
海咲ちゃんは遂に、お母さんを抱き締めることができた……美月さんは愛を受け取ったのか、震えながらゆっくり、海咲ちゃんを抱き締め返す……その光景に、他の患者さんや看護師さんも泣き崩れた……
3日後。
「お世話になりました……」
「いえいえ〜お大事になさってください!」
入院から1か月、私はようやく退院することができた。
ブーン……
「お待たせ!待ったかな?」
「大丈夫よ!私もちょうど出たばかりだから」
「そっか。あぁ乗って!」
「うん!じゃあ失礼しまっす!」
バンッ……
彼、デカい身体でこんな可愛い車に乗っているのか……しかもピンクのラパン。でも高級車の助手席より、軽自動車の助手席が一番落ち着く!
「お腹空いてる?」
「もう空きすぎだよ……」
「じゃあ、早速俺のとこ行こっか?」
「賛成」
初めての余白か。写真だけ見たけど実際の店内はどんな感じなんだろうなぁ?
「幸人ってさ、何の料理が一番得意なの?」
「一番得意か……何だろうなぁ?」
彼が食べさせてくれたアップルパイや特製サンドイッチ、正直どれも美味しかった。私も家で料理するけど、彼氏の方が美味しいもの作れるのは少しだけ嫉妬してしまう。
「それ、澪が見つけてくれないか?」
「えっ……?」
「やっぱ自分では何が得意かってわからないんだよな……だから、澪が食べて一番美味しいって思えるものが、俺の得意料理かも」
「何それ……?フフフ……」
それってもしかして、これからも私のために作ってくれるってこと……!?でも幸人、前はそんな明るい感じじゃなかったのにな……やっぱり大人になると変わるんだね。素敵なのは変わらないけど……
「さぁ着いたぞ。ようこそ、我が余白へ……」
「何ようこそ王女様みたいに?」
いざお店に入ってみると、まず広がってきたのはレトロな雰囲気と鼻に抜ける珈琲の良い香り。別荘みたい。そんなお店だからお値段張るのではないかと見たら……
「えっ!ナポリタン800円……しかも大盛り無料!?カレーライスも……」
これで赤字にならないのかな?
「ここは余白だからさ、無理せずリラックスしていいよ」
確かに落ち着く雰囲気だからいつまでも居れそうだけど……
シャー……カラン…
「まだ飲んでなかったよな?」
「カプチーノ?」
「うん。白雪だ」
へぇ〜……何か思ったけど珈琲の名前に全部「白」が付いている気がするな……肝心の彼だが服の色は、真っ黒……
「お待たせ。今日のおすすめはボロネーゼだ。食べてみてくれ」
「ありがとう……」
パクッ……スルスル……
「美味しいぃ……!」
赤ワインがお肉の旨味を引き立てている……!白雪ってカプチーノも甘味の中に苦味が隠れてて美味しい!
「何度も言うけどここは余白だ。思う存分休んでてくれ……」
優しい味……1か月前までアイツに無理矢理食べさせられていたのが嘘みたい。薄味だからダイエットにも向いてそう!
「幸人……!私、やってみたいこと思いついた!」
「本当?何やりたい……?」
「笑わない?」
「笑うわけないだろ?さぁ何やりたいんだ!?」
「ダイエット……」
彼の裸は一度だけ見たことがあるけど、すごい筋肉だったのを覚えている……きっと今の身体はストイックな生活にあるんだ!
「いいのか?俺のダイエットメニューは、厳しいぞ……?」
「……あんまり厳しいのはやめてよ?」
ただでさえ病み上がりだしお手柔らかにしてよ……しかも表情が真剣だし、これはガチな予感しかしない……やっぱりジョギングとかするのかな?
「そうは言ったけど、俺は澪に合わせて最適なメニューを組んであげるよ」
「本当にいいの?」
「本来なら有料級だけど、澪限定無料サービスだ……」
何そんな自信満々に言うのよ?でも彼は今のボディを仕上げるのにどれくらいかかったのだろう?でも、どんなにキツくても彼にずっとついていきたいかも……
「でもダイエットはけっこう難しいんだ。食べなくても痩せないし、運動のしすぎも痩せない。だから、美味しいもの食べて楽しく痩せようよ?」
食べなくても痩せないことは知っている。リバウンドしやすいとか……彼が言うことなら間違いないはず。だからまた好きになっちゃう!
「で、何するの?」
「とりあえず今日は俺の家を紹介するよ」
紹介とダイエットは全く関係ないし……でも今日から一緒に住むのよね?私のアパート引き払ったし……
「家どこなの?」
すると彼は上を指差した。まさかお店の上?
「家は上の階だよ。早起きしなくて済むのがよくてね」
キッチンの隣にある階段から自宅につながっているようで、寝室はカーテンを開けると夜景がわずかに見える感じだった。ベッドはあるけど私はどこで寝るんだろう?
「狭くてごめんな……」
サイズはビジネスホテルにあるセミダブルと同じくらい。まさか……!
「一緒に寝るの……?」
「違うのか?嫌なら床で寝てもかまわないけど……」
見た感じ他に敷布団は見つからない。床なら硬いところに寝かせるのかよ……
「一緒に寝るわよ……!」
もし結婚とかしたら毎日一緒に寝るんだ。花嫁修業の一発目はまさか添い寝?花嫁修業なら料理くらい超えてやるっての!
「あなたはさぁ、私に求めるものって何?どんな彼女であってほしいの?」
けっこう極端な質問だけれど、何て答えてくれるのかな?
「今から考えることじゃないよ。確かに考えることは楽しいけど、お互い探していくのが一番楽しいと思う」
相変わらず考えるより行動タイプね……
「まぁ、今ならあのとき別れを言われた理由がわかるし、だから幸せにする自信があるよ」
「じゃあ、ダイエットとか、治療にも付き合ってくれるの?」
「もう決めたんだ。俺は一生澪の傍にいるってね……」
「……ありがとう」
あのとき彼と再会していなければ、今頃どうなっていたのかな?考えるとやっぱり恐ろしいけど、過去ばかり振り返っても仕方ない。大事なのはこれからの人生よ!
「俺、澪のためにパジャマ買ったんだ。お風呂沸いたから入ってきちゃいな?」
「一番風呂なんかいいの?」
「いいよ。上がったら何飲む?お酒もあるけど」
入院中は一切お酒を飲まなかった。飲みたいかな……
「うん、じゃあお酒で……」
「わかった。美味しいの作っとくね」
作る?彼が作るのは珈琲が専門だと思ったがお酒も作れるの?
パサッ……シャー……
「……」
私の身体には強い力で押さえつけられた痣、引っかき傷、シャワーで洗い流せない汚い傷が鏡に映る……
シャー……
『さあお客様を存分に楽しませてくれよ……』
『若くてピチピチじゃねぇか!こりゃぁ気持ち良さそうだ!』
『生でかまわねぇよな!』
シャー……
「キャァー……!」
まだシャワーの音が怖い……
トントン……
「大丈夫か……?」
「幸人……!」
でも今は違う……!幸人が傍にいるんだ……!
「ごめんね……大丈夫よ」
部屋で音楽を流しても聞こえた澪の悲鳴……たとえ退院しても、心の余白は、空っぽを通り越して空白な状態。
カランカラン……シュワシュワ……
よしできた!芋焼酎にレモンの皮を削り、砂糖に漬けたレモンを入れて甘味を引き出すレモンサワーだ。
ガチャ……ゴシゴシ……
「ふぅ~……」
「温まった?レモンサワー作ったよ」
「ありがとう……」
澪の表情はまた沈んでいた。
フワ……ゴクゴク……
「美味しい……けどちょっと薄いかも」
「薄かった?ちょっと濃くしてみるか」
「それISAINAじゃん?」
俺のお気に入りは芋焼酎のISAINA。
ブォー……
「ちょっと……髪くらい自分で乾かすわよ?」
「ゆっくり飲んでな……それに同じ空間だからここも余白だ。無理するな……」
いざやってみたけど髪は長いし髪質も全然違うな……
「……」
「よしできた!」
俺はあえて腕まくりをした。その理由は――
「えっ……まさかあなたも……何か病気を……?」
俺は仕事中やプライベートではいつも長袖のシャツを着て、常に腕時計も身につける。
「すごい傷……」
俺の左手首にはリストカット、根性焼きの痕が無数にある。
「でも付き合っているとき、そんなのなかったじゃない……!?」
「澪と別れてからちょっとして母さんにがんが発覚してさ……なぜか自分も傷つくべきだって、思ってしまったんだ……」
澪は人に傷つけられたが、俺は自分自身で傷をつけた。
「まさか……」
今の言い方だと罪悪感を与えてしまったか?だが意外な答えが返ってきた。
「じゃあ今度から私がそんなことさせないわ!」
「澪……?」
「私はずっと幸人に助けられた。だから、今度は私が助ける番よ……!」
「澪……!」
ギュゥ……!
「わっ……!」
「澪……ありがとう……!」
彼にもそんな過去があったなんて……あのときの一方的だった自分を殴りたい。頑なに腕まくりをしなかったり、時計を外さないのはそれが理由だったのね……
「あなたはよく無理しないでいいっていうけど、あなたも私の前では無理しないでほしい」
お互いを支え合ってこそ本当の恋人よ。付き合うしか選択肢はない。
スリスリ……
「さっ!あなたも早くお風呂入っちゃって!」
お酒が入った私は急かすように言った。だって、今日は一緒にお酒を飲んでゆっくりしたいから……
「そんな急かすなよ〜まあサッと入ってくるよ!」
話し合っていたらお腹も空いてきた。ボロネーゼ食べたのはけっこう早い時間だったし。数分すると――
ゴシゴシ……
「お待たせ!」
彼が飲むお酒は缶ビール。冷蔵庫にはキリン一番搾りがストックされている。キリン派なのね……
プシャッ……
「今日私が言ったこと、信じてくれる……?」
「俺は澪のこと一度も疑ったことないし、君のことをずっと信じているよ」
「だから、自傷行為しないことを約束して。もしやったら」
「やったら……」
「殴る……」
やってしまったこと、やってしまうのは仕方ない。彼がこんなになるまでやってしまったのは、私の責任でもあるから。だからこそ増やさせない!
「キッチン借りていい?」
「いいけど、何か作るの?」
「大したものはできないわよ?おつまみになるの作ってあげるわ!」
私が作ったのは冷凍うどんを茹でて明太子とバター、顆粒コンソメを少量加えた明太バターうどんだ。
「お待たせ」
「ありがとう!」
今は簡単なものを作ったけど、いつかは幸人を超えるくらい美味しいもの作ってみせるから!
「ご馳走様!」
満足してくれたみたいでよかった……
「ふぅ~わ……」
コトッ……
眠くなった私は安心するようにもたれかかった。
「眠くなったかな?」
「うん……」
「よし……ベッドに行こっか!」
「連れてってぇ……」
「ふぅ……しょうがないな……」
ふわっ……
気づいたらお姫様抱っこでベッドに運ばれた。彼の愛で、支配の愛が徐々に薄まっていくこの瞬間。私はようやく幸せを手に入れられる気がした。そんなことを考えていたら、アイツと付き合った当初、原液のカルピスを飲まされたことを思い出してしまった……原液を飲める濃さに薄めるのと、幸せを感じられる愛の濃さって、何だか同じように感じる……短い月日で私は、濃縮と希釈の意味を知った。いつかあなたと飲んでみたいな……5倍に薄めたカルピス。