5倍に薄める幸せ
DILUTION 4.7 大きすぎる代償
ある日の朝。
「さあ相澤さん!今日は散歩にでも行きましょうか?」
「……」
コクン……
美月の命は確かに助かった。助かったのは命だけで、美月から言葉、感情、尊厳……何もかも俺は奪ってしまった。あまり良いことアピールはしたくないが、俺の伝手を利用して働き口を用意しておいた。社会福祉法人、確か障害者就労支援センターだったか?俺の自己満足かもしれないが、俺ができる唯一の罪滅ぼし。
ガラガラ……
「相澤さん、退院したら働くんですね?」
コクン……
徐々に感情を取り戻している。まだ時間がかかるとは思うが。
ピーポーピーポー!
「……」
「こっちに向かってこないわね?何かあったのかしら……」
病院の近くなら当たり前に鳴り響く救急車のサイレン。だがこのとき、病院の外ではとんでもないことが起こっていた。
――超大手の外資系企業、ヘリオス・ジャパンの専務の橘優真(35)が起こした売春事件! 社長の間垣は黙認! 長年の歴史が遂に終了(笑)――
「ぐぬぬ……!あのクソ野郎……!」
俺は女を騙した時点で、いつかすべてを失う覚悟はできていた。だが元社長の間垣は俺を恨むのではなく、奴はなぜか被害者の女を恨んでいる。
「女さえ黙っていれば、俺はこうなることはなかったんだ!」
俺が全てをリークした直後、澪を含む女が一斉に声を上げた。ヘリオス・ジャパンの経営は瞬く間に悪化。倒産までは秒の出来事で、延べ2347人の残された社員に失業手当と休業補償、残業代を全額支払ったことで無一文だ。
「そうだ!女がいなくなればいいんだ……最初からそうしときゃよかったじゃないか……」
俺が言える義理ではないが、逆恨みとはいい迷惑だ。だが悲しいことに、全てを失った人間は強盗や殺人、どんな犯罪にも手を染める。
スッ……
遂に間垣は切れ味の良い肉切り包丁を手に取った。これはもうガセじゃない。奴が真っ先に狙いを定めた女は、家族がいる熊井 絢音……
私が退院してすぐの頃、私の知らないところで戦慄する出来事が起こり始めていた。私も会ったことがある熊井絢音さんは31歳。会社員の旦那さんと小学生の息子さんがいるママさん。彼女はサバイバーズ・ギルトの症状が比較的軽く、1か月で仕事に復帰。私からしたら羨ましい。でも、自分の命が狙われていることは、もちろん知らない……
トントン……ジュー……
家族の帰りを待つ絢音さんは晩ごはんを作っていた。元々前向きな彼女は、活き活きとした表情で平穏な毎日を送っている。橘に風俗へ陥れられた過去を感じさせない笑顔。
コソコソ……
「よしできた!」
家族が大好きな生姜焼き。これから楽しいディナータイムが訪れる。はずだった……
ガチャ……
「あれ、もう帰って来たのかな?景斗?おかえり!」
バレーボール教室に通う息子の景斗君。いつもより帰って来る時間が少し早く感じた彼女は、満面の笑みで迎え入れた。のだが……
「……」
「だ……誰……!?」
玄関に立つのは旦那さんでも、景斗君でもなかった。
シャキン……
「お前らのせいで俺は全部失ったんだよ……」
「何のことよ……やめて……来ないで!」
わけのわからないことを言われて困惑する。全く知らない中年の男が包丁を持って迫る。
「助けてー……!」
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇー!」
グサ……グサ……!
被害者が次々と殺される事件。犯人は橘優真ではなく、元社長の間垣博明だった……絢音さんは身勝手極まりない理由で滅多刺しにされ、上半身から噴水のように血が流れて息絶えた……
「ただいま〜!……ママ……!?」
ギロ……
「うわぁぁ〜……!?ママー!」
ぽたぽた……
「ママ……そんな……」
最悪の光景を目の当たりにする景斗君に逃げる気力などなかった。
「悪いが死ね……」
奴は冷酷に包丁を突き立てる。だがそのとき!
「熊井さーん?何かすごい音聞こえ……お前何してんだ!?」
「クソが……!」
ドン……!
「うわっ!クソ待ちやがれぇ……!」
近所に住む男性が絢音さんの悲鳴と物音を聞き、心配になって様子を見に行ったみたい。
「景斗君!景斗君!早く警察に……!もしもし!?大変なんです!すぐ来てください!」
奴の最初の犠牲者は熊井絢音さん。家族を持つ女性を狙った理由は、大切な人を殺せば残された家族が絶望する。絶望の中で不様に生きるべきだと考えたらしい……後に奴は家族を持つ山崎 真奈さん、高木 ふみかさん、市川 菜々子さんを殺害……既に4人を殺害した奴が定めた次の標的は、入院中の相澤美月さんだった。
「さあお食事の時間ですよ!」
「……」
美月さんの容態は徐々に回復し、一人で食事ができるくらいになった。
「ですから!ここは女性専用病棟なんです!お引き取りくださ……」
グサ……!
「う……!?」
バタン……
「キャー!?」
「何かしら……?」
「どけー!」
女性専用の病棟に乗り込んで来たのは間垣だ!
「見つけたぞぉ……!」
ピンポンパンポン……
「緊急事態発生。職員は直ちに5階病棟へ向かってください」
院内に緊急事態を報せる警報が鳴り響く。
「相澤さん!」
看護師さんは恐怖に震えながら美月さんを庇う。必死の訴えを無視して包丁を向ける。だがそんなとき、意外な救世主が現れる!
トントン……
「ああ〜何だテメ……」
ドゴォン……!
「がぁ……!?」
「往生際が悪いですよ……間垣、元社長……」
「ゆ……優真ぁ……!?クソ!」
ドッドッドッ……!
美月さんを救ったのは何と橘だった。奴は事態を重く見て病院に乗り込んだらしい。
ギシッ…… グググ…… ヨロ……
「相澤さん!降りちゃダメです!」
「た……た……!」
さっきまで無表情だった美月さんが怒りに満ちた形相で橘を睨みつける。
「たち……ばな……!たちば……な!」
「しゃ……喋った……?って違う!相澤さん!申し訳ありませんが、ここは女性専用の病棟です……お引き取りください……」
「殺す……殺す」
「悪かったな……」
奴は平謝りだけしてすぐに去った。いいのか悪いのかわからないけど、美月さんは橘を見て感情を取り戻すきっかけを作った。
「待ちなさい……」
バタン……
「相澤さん!?」
美月さんは怒りが限界に達し、強いストレスによって意識を手放した。
2日後。美月さんの殺害を諦めた間垣が次に選んだ標的は、私。夢野澪だった……
シャー……ポトポト……
「よし、ちょっと飲んでみて?」
「どれどれ?」
ふ〜ふ〜ゴク……
「うん!ちょうどいい苦味だ。これは美味しい」
「よかった!」
私が淹れる新商品の名前は『澪』。結局私の名前になっちゃったよ……確か同じ名前の日本酒があるような気がするが。それはさておき、澪は甘いパンやスイーツと一緒に飲みたくなるデザート感覚の珈琲。
「澪と相性がいいデザートって何かな?」
「そうだな、やっぱりチョコパフェかな」
余白はデザートメニューも充実している。これから私が淹れる珈琲が商品になると考えると、AQUASTYLEのときのように嬉しくなった。
「あっそうだ、今日発注が間に合わなくて食パン切らしたんだった!」
「いつ届くの?」
「明日の昼だな……それだと朝セット作るの間に合わないんだよな」
朝はピザトーストやハニートーストなどの朝セットを食べるお客様が多い。
「私買ってこよっか?」
「いいよ。俺買ってくるから」
「私一人じゃ店番は重いわ。近くのスーパーだし、問題ないっしょ?」
「そこまで言うなら、お願いしていいか?」
「わかったわ。すぐ帰るから!じゃあ行ってきます!」
私は自分に迫る危険を知らず、無防備な状態で外に出てしまった。まさか、今度は本当に死にかけることになるなんて……
1時間後。
「いらっしゃいませ!」
「あれ?今日新人の子休みなのか?」
「いえ……そろそろ戻ってくると思いますが……」
澪のやつ遅いな……どこか寄り道でもしているのか?俺は完全に忘れていた。忘れていたのではなく、橘が美月さんを助けた話を聞いて安心しきっていた。そんなことを能天気に考えていた俺は、澪を再び恐怖に陥れることになるなど、このときは知る由もなかった。
プルプルプル……!
「ん?澪だ。ちょっとすみません」
ピッ……
「澪!どこに行ったんだ?1時間も……」
「お前の女を誘拐した」
「お前、間垣か?随分な挨拶じゃぁないのか……?」
「そう言っていられるのも今のうちだ……女を助けたければ店の権利書、通帳と判子を持ってこい……従わないならこの女の命はない!」
プツッ!プープー……
「……!」
ギリッ!ミシミシ……!
俺はスマホを潰す勢いで力いっぱい握り締めた。今ならデカいりんごも搾れるかもしれないな……!
「オーナー?」
「申し訳ありません……本日はテイクアウトの形で許してください……」
「どうしたんだ?まさか彼女とデートか!」
「と思ってください。これから楽しいデートです……」
来ていただいたお客様を手ぶらで帰したくない俺は、ご注文の料理をテイクアウトで提供した。お会計を済ませた後、俺は静かにジャケットを羽織る。間垣博明、俺が警察……いや甘い。俺がヤクザじゃなくて本当によかったなぁ!そうなればお前は魚のエサになっているところだが、俺は野蛮なことはしない。せめて動けない身体にしてやるよ……お前の余白は、もうすぐ俺の『恐怖』で埋まる。
30分前。余白から徒歩10分のスーパーで食パンを探していた。最低でも5袋は必要と言われ、パンコーナーを探したが同じ種類の食パンが揃っていない。山崎製パンとフジパンの食パンでいいかな?パンのメーカーは違っても、彼の手にかかればどれも絶品になるから問題なしね!
「さて、あとこれは私の奢り!」
私は買い出しのついでに、彼の好きなカサーレという赤ワインをカートに入れた。これは私の奢り。仕事終わりの彼はきっと喜んでくれる!
「ありがとうございました」
あとは帰るだけ。マイバッグはパンパンだが食パンを少し多く買って7袋と、ワインボトル1本だけなら軽い。余白まで10分。歩き慣れた道、車の通りも少ない場所なら事故に遭うはずもない。でも、人通りが少ない道ほど狙われる確率が格段に高くなる……
ガシッ……ミキキ……!
「ウグ……!?」
バリィーン!
後ろから突然首を絞められ、私は苦しさで手からマイバッグを離し、彼のために買ったワインが割れる。意識が徐々に遠のいていく。息ができない……幸人、助けて……!苦しいよ……
もし俺が本当に暴走したら、止めてくれる人はいるのだろうか?アイツから聞いた話によると、間垣の毒牙にかかった女性は4人。それも被害者全員が家族持ち。確かに俺は女性たちの顔と名前を知らない。だからこそ俺は許せない。家族を持つ女性が殺されたら、残された家族や恋人、大切な友達はどうなる?自分の大切な人を失うということは、自分にとってもう一つの命を失うことと同じ。俺には痛いほどわかる。母さんを失った、あの日から……
コツ……コツ……
俺は街にいるチンピラや半グレを捕まえては、痛い目に遭わせて尋問を繰り返していた。まさか学生時代の、喧嘩最強と言われた力を今になって発揮するとは……今だから言えることだが、俺は高校2年生のとき、同級生の女子生徒を拉致した半グレ集団をたった一人で壊滅させたことがある。
ドス……ドス……!
「おい……この男を見たらすぐに報せろ」
「コイツ……ヘリオスの社長!?」
「いいな?すぐに報せろよ」
いざというときのために余白の権利書、貯金が入った通帳と判子を持っている。いざとなれば渡すのか?答えは否だ。心の余白を埋められる男なんて、俺しかいないだろ?
同刻。
「ウゥ……ここは……?」
私が目を覚ますと、そこはデスクや資料などが片づけられている途中のオフィスだった。その後ろには――
「ヘリオス・ジャパン!?」
『HELIOS JAPAN』と書かれた銘板と、太陽と思われるロゴが貼られている。まさかここは、アイツが勤めていたヘリオス・ジャパンなの!?私はすぐにその部屋から出ようとした。しかし……
ガチャガチャ!ガタガタ!
「嘘……全然動かない……!?」
ドアは鎖で繋がれているようにびくともしなかった。当たり前だがスマホと財布は奪われている。お店の経費が入った財布もあるのよ……!
「……?」
直後私の目に映ったのは部屋の隅っこに座る女性。なぜか下を向いてぐったりしている。
「あの、すみません!大丈夫……ですか?」
私は恐る恐る女性に近づいた。反応がなかったため少しだけ揺さぶってみたが……
ゾク……
「キャァー……!?」
その女性は厚手のビニール袋を頭に被された状態で亡くなっていた。それも目が見開き、口は大きく開けた状態で……警察でもない私は見た瞬間に窒息死だとわかった。私は慌ててビニール袋を爪で破ってみたが――
「……」
「そんな……!?」
私は女性の顔に見覚えがあった。同時に私は戦慄した。なぜなら、この人は同じくアイツに騙された人だった……確か、ちかさんと呼ばれていた……
「ちかさん……!?ちかさん!」
反射的に名前で呼びかけていた。
「そんな……!」
これで何人殺されたの?私にはわからない……この状況で確信した。次は私の番であることを……!
ガチャ……
「……!?誰!?」
あんなにびくともしなかった扉が突然開いた。
「あとはお前だけだ……ようやく見つけたぞ。夢野澪……」
「誰よ?」
「俺はなぁ……優真に鏡幸人、そしてお前に人生を潰された間垣博明だよぉ……!」
「間垣博明……まさか!?」
ヘリオス・ジャパンの社長!?幸人からある程度の話を聞いている。コイツ……連続殺人犯だ!
「この女の腹を確認したか?」
「……?」
そっ……
「えっ……この人、妊婦さん……?」
ちかさんのお腹が大きい……まさか妊婦さんを惨たらしく殺したの!?ちかさんの表情は必死で酸素を求め、最後まで息をしようとしたことを物語っている。
「……!?」
待って!今ちかさんのお腹が動いた!?間垣のことはもちろん許せないが、橘も妊婦さんを騙して人生を壊した罪は重い……それでも橘は反省した。今なら助かるかもしれない……!私はちかさんのお腹を守るような体勢を取る。だが、人は必死になるほど周りが見えなくなりがちになる。
「何大事に庇ってんだ?おい!」
「キャッ……!?」
「まさか腹のガキが動いてんのか?」
「……!?やめて!やめなさい……!」
グサッ……グサッ!
「……」
私は一瞬で力が抜けた。赤ちゃんが……!そんな……
「う……うわぁぁ〜……!」
私は拳を破壊する勢いで床を叩き続ける。
「当然の報いだ……!女どもは俺から全て奪ったんだ……だからなぁ!俺は家族がいる女を狙ったんだよ!ただ手に掛けるだけじゃつまらない。残された恋人とガキは、絶望の中を生きてもらうのが一番いい……」
私は間垣への沸騰しそうな怒り。そして幸人への怒りを募らせる。確かに無防備で外出した私にも責任はあるけれど、幸人のやつ、あれほど「心配するな」って強く言っていたのに……!私は歪んでしまった。狂気に満ちた笑顔で女性を殺している姿を見たら、私は幸人への殺意まで湧いてしまった……帰ったら覚えておきなさぁい……キャキャキャ……!
「さあ相澤さん!今日は散歩にでも行きましょうか?」
「……」
コクン……
美月の命は確かに助かった。助かったのは命だけで、美月から言葉、感情、尊厳……何もかも俺は奪ってしまった。あまり良いことアピールはしたくないが、俺の伝手を利用して働き口を用意しておいた。社会福祉法人、確か障害者就労支援センターだったか?俺の自己満足かもしれないが、俺ができる唯一の罪滅ぼし。
ガラガラ……
「相澤さん、退院したら働くんですね?」
コクン……
徐々に感情を取り戻している。まだ時間がかかるとは思うが。
ピーポーピーポー!
「……」
「こっちに向かってこないわね?何かあったのかしら……」
病院の近くなら当たり前に鳴り響く救急車のサイレン。だがこのとき、病院の外ではとんでもないことが起こっていた。
――超大手の外資系企業、ヘリオス・ジャパンの専務の橘優真(35)が起こした売春事件! 社長の間垣は黙認! 長年の歴史が遂に終了(笑)――
「ぐぬぬ……!あのクソ野郎……!」
俺は女を騙した時点で、いつかすべてを失う覚悟はできていた。だが元社長の間垣は俺を恨むのではなく、奴はなぜか被害者の女を恨んでいる。
「女さえ黙っていれば、俺はこうなることはなかったんだ!」
俺が全てをリークした直後、澪を含む女が一斉に声を上げた。ヘリオス・ジャパンの経営は瞬く間に悪化。倒産までは秒の出来事で、延べ2347人の残された社員に失業手当と休業補償、残業代を全額支払ったことで無一文だ。
「そうだ!女がいなくなればいいんだ……最初からそうしときゃよかったじゃないか……」
俺が言える義理ではないが、逆恨みとはいい迷惑だ。だが悲しいことに、全てを失った人間は強盗や殺人、どんな犯罪にも手を染める。
スッ……
遂に間垣は切れ味の良い肉切り包丁を手に取った。これはもうガセじゃない。奴が真っ先に狙いを定めた女は、家族がいる熊井 絢音……
私が退院してすぐの頃、私の知らないところで戦慄する出来事が起こり始めていた。私も会ったことがある熊井絢音さんは31歳。会社員の旦那さんと小学生の息子さんがいるママさん。彼女はサバイバーズ・ギルトの症状が比較的軽く、1か月で仕事に復帰。私からしたら羨ましい。でも、自分の命が狙われていることは、もちろん知らない……
トントン……ジュー……
家族の帰りを待つ絢音さんは晩ごはんを作っていた。元々前向きな彼女は、活き活きとした表情で平穏な毎日を送っている。橘に風俗へ陥れられた過去を感じさせない笑顔。
コソコソ……
「よしできた!」
家族が大好きな生姜焼き。これから楽しいディナータイムが訪れる。はずだった……
ガチャ……
「あれ、もう帰って来たのかな?景斗?おかえり!」
バレーボール教室に通う息子の景斗君。いつもより帰って来る時間が少し早く感じた彼女は、満面の笑みで迎え入れた。のだが……
「……」
「だ……誰……!?」
玄関に立つのは旦那さんでも、景斗君でもなかった。
シャキン……
「お前らのせいで俺は全部失ったんだよ……」
「何のことよ……やめて……来ないで!」
わけのわからないことを言われて困惑する。全く知らない中年の男が包丁を持って迫る。
「助けてー……!」
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇー!」
グサ……グサ……!
被害者が次々と殺される事件。犯人は橘優真ではなく、元社長の間垣博明だった……絢音さんは身勝手極まりない理由で滅多刺しにされ、上半身から噴水のように血が流れて息絶えた……
「ただいま〜!……ママ……!?」
ギロ……
「うわぁぁ〜……!?ママー!」
ぽたぽた……
「ママ……そんな……」
最悪の光景を目の当たりにする景斗君に逃げる気力などなかった。
「悪いが死ね……」
奴は冷酷に包丁を突き立てる。だがそのとき!
「熊井さーん?何かすごい音聞こえ……お前何してんだ!?」
「クソが……!」
ドン……!
「うわっ!クソ待ちやがれぇ……!」
近所に住む男性が絢音さんの悲鳴と物音を聞き、心配になって様子を見に行ったみたい。
「景斗君!景斗君!早く警察に……!もしもし!?大変なんです!すぐ来てください!」
奴の最初の犠牲者は熊井絢音さん。家族を持つ女性を狙った理由は、大切な人を殺せば残された家族が絶望する。絶望の中で不様に生きるべきだと考えたらしい……後に奴は家族を持つ山崎 真奈さん、高木 ふみかさん、市川 菜々子さんを殺害……既に4人を殺害した奴が定めた次の標的は、入院中の相澤美月さんだった。
「さあお食事の時間ですよ!」
「……」
美月さんの容態は徐々に回復し、一人で食事ができるくらいになった。
「ですから!ここは女性専用病棟なんです!お引き取りくださ……」
グサ……!
「う……!?」
バタン……
「キャー!?」
「何かしら……?」
「どけー!」
女性専用の病棟に乗り込んで来たのは間垣だ!
「見つけたぞぉ……!」
ピンポンパンポン……
「緊急事態発生。職員は直ちに5階病棟へ向かってください」
院内に緊急事態を報せる警報が鳴り響く。
「相澤さん!」
看護師さんは恐怖に震えながら美月さんを庇う。必死の訴えを無視して包丁を向ける。だがそんなとき、意外な救世主が現れる!
トントン……
「ああ〜何だテメ……」
ドゴォン……!
「がぁ……!?」
「往生際が悪いですよ……間垣、元社長……」
「ゆ……優真ぁ……!?クソ!」
ドッドッドッ……!
美月さんを救ったのは何と橘だった。奴は事態を重く見て病院に乗り込んだらしい。
ギシッ…… グググ…… ヨロ……
「相澤さん!降りちゃダメです!」
「た……た……!」
さっきまで無表情だった美月さんが怒りに満ちた形相で橘を睨みつける。
「たち……ばな……!たちば……な!」
「しゃ……喋った……?って違う!相澤さん!申し訳ありませんが、ここは女性専用の病棟です……お引き取りください……」
「殺す……殺す」
「悪かったな……」
奴は平謝りだけしてすぐに去った。いいのか悪いのかわからないけど、美月さんは橘を見て感情を取り戻すきっかけを作った。
「待ちなさい……」
バタン……
「相澤さん!?」
美月さんは怒りが限界に達し、強いストレスによって意識を手放した。
2日後。美月さんの殺害を諦めた間垣が次に選んだ標的は、私。夢野澪だった……
シャー……ポトポト……
「よし、ちょっと飲んでみて?」
「どれどれ?」
ふ〜ふ〜ゴク……
「うん!ちょうどいい苦味だ。これは美味しい」
「よかった!」
私が淹れる新商品の名前は『澪』。結局私の名前になっちゃったよ……確か同じ名前の日本酒があるような気がするが。それはさておき、澪は甘いパンやスイーツと一緒に飲みたくなるデザート感覚の珈琲。
「澪と相性がいいデザートって何かな?」
「そうだな、やっぱりチョコパフェかな」
余白はデザートメニューも充実している。これから私が淹れる珈琲が商品になると考えると、AQUASTYLEのときのように嬉しくなった。
「あっそうだ、今日発注が間に合わなくて食パン切らしたんだった!」
「いつ届くの?」
「明日の昼だな……それだと朝セット作るの間に合わないんだよな」
朝はピザトーストやハニートーストなどの朝セットを食べるお客様が多い。
「私買ってこよっか?」
「いいよ。俺買ってくるから」
「私一人じゃ店番は重いわ。近くのスーパーだし、問題ないっしょ?」
「そこまで言うなら、お願いしていいか?」
「わかったわ。すぐ帰るから!じゃあ行ってきます!」
私は自分に迫る危険を知らず、無防備な状態で外に出てしまった。まさか、今度は本当に死にかけることになるなんて……
1時間後。
「いらっしゃいませ!」
「あれ?今日新人の子休みなのか?」
「いえ……そろそろ戻ってくると思いますが……」
澪のやつ遅いな……どこか寄り道でもしているのか?俺は完全に忘れていた。忘れていたのではなく、橘が美月さんを助けた話を聞いて安心しきっていた。そんなことを能天気に考えていた俺は、澪を再び恐怖に陥れることになるなど、このときは知る由もなかった。
プルプルプル……!
「ん?澪だ。ちょっとすみません」
ピッ……
「澪!どこに行ったんだ?1時間も……」
「お前の女を誘拐した」
「お前、間垣か?随分な挨拶じゃぁないのか……?」
「そう言っていられるのも今のうちだ……女を助けたければ店の権利書、通帳と判子を持ってこい……従わないならこの女の命はない!」
プツッ!プープー……
「……!」
ギリッ!ミシミシ……!
俺はスマホを潰す勢いで力いっぱい握り締めた。今ならデカいりんごも搾れるかもしれないな……!
「オーナー?」
「申し訳ありません……本日はテイクアウトの形で許してください……」
「どうしたんだ?まさか彼女とデートか!」
「と思ってください。これから楽しいデートです……」
来ていただいたお客様を手ぶらで帰したくない俺は、ご注文の料理をテイクアウトで提供した。お会計を済ませた後、俺は静かにジャケットを羽織る。間垣博明、俺が警察……いや甘い。俺がヤクザじゃなくて本当によかったなぁ!そうなればお前は魚のエサになっているところだが、俺は野蛮なことはしない。せめて動けない身体にしてやるよ……お前の余白は、もうすぐ俺の『恐怖』で埋まる。
30分前。余白から徒歩10分のスーパーで食パンを探していた。最低でも5袋は必要と言われ、パンコーナーを探したが同じ種類の食パンが揃っていない。山崎製パンとフジパンの食パンでいいかな?パンのメーカーは違っても、彼の手にかかればどれも絶品になるから問題なしね!
「さて、あとこれは私の奢り!」
私は買い出しのついでに、彼の好きなカサーレという赤ワインをカートに入れた。これは私の奢り。仕事終わりの彼はきっと喜んでくれる!
「ありがとうございました」
あとは帰るだけ。マイバッグはパンパンだが食パンを少し多く買って7袋と、ワインボトル1本だけなら軽い。余白まで10分。歩き慣れた道、車の通りも少ない場所なら事故に遭うはずもない。でも、人通りが少ない道ほど狙われる確率が格段に高くなる……
ガシッ……ミキキ……!
「ウグ……!?」
バリィーン!
後ろから突然首を絞められ、私は苦しさで手からマイバッグを離し、彼のために買ったワインが割れる。意識が徐々に遠のいていく。息ができない……幸人、助けて……!苦しいよ……
もし俺が本当に暴走したら、止めてくれる人はいるのだろうか?アイツから聞いた話によると、間垣の毒牙にかかった女性は4人。それも被害者全員が家族持ち。確かに俺は女性たちの顔と名前を知らない。だからこそ俺は許せない。家族を持つ女性が殺されたら、残された家族や恋人、大切な友達はどうなる?自分の大切な人を失うということは、自分にとってもう一つの命を失うことと同じ。俺には痛いほどわかる。母さんを失った、あの日から……
コツ……コツ……
俺は街にいるチンピラや半グレを捕まえては、痛い目に遭わせて尋問を繰り返していた。まさか学生時代の、喧嘩最強と言われた力を今になって発揮するとは……今だから言えることだが、俺は高校2年生のとき、同級生の女子生徒を拉致した半グレ集団をたった一人で壊滅させたことがある。
ドス……ドス……!
「おい……この男を見たらすぐに報せろ」
「コイツ……ヘリオスの社長!?」
「いいな?すぐに報せろよ」
いざというときのために余白の権利書、貯金が入った通帳と判子を持っている。いざとなれば渡すのか?答えは否だ。心の余白を埋められる男なんて、俺しかいないだろ?
同刻。
「ウゥ……ここは……?」
私が目を覚ますと、そこはデスクや資料などが片づけられている途中のオフィスだった。その後ろには――
「ヘリオス・ジャパン!?」
『HELIOS JAPAN』と書かれた銘板と、太陽と思われるロゴが貼られている。まさかここは、アイツが勤めていたヘリオス・ジャパンなの!?私はすぐにその部屋から出ようとした。しかし……
ガチャガチャ!ガタガタ!
「嘘……全然動かない……!?」
ドアは鎖で繋がれているようにびくともしなかった。当たり前だがスマホと財布は奪われている。お店の経費が入った財布もあるのよ……!
「……?」
直後私の目に映ったのは部屋の隅っこに座る女性。なぜか下を向いてぐったりしている。
「あの、すみません!大丈夫……ですか?」
私は恐る恐る女性に近づいた。反応がなかったため少しだけ揺さぶってみたが……
ゾク……
「キャァー……!?」
その女性は厚手のビニール袋を頭に被された状態で亡くなっていた。それも目が見開き、口は大きく開けた状態で……警察でもない私は見た瞬間に窒息死だとわかった。私は慌ててビニール袋を爪で破ってみたが――
「……」
「そんな……!?」
私は女性の顔に見覚えがあった。同時に私は戦慄した。なぜなら、この人は同じくアイツに騙された人だった……確か、ちかさんと呼ばれていた……
「ちかさん……!?ちかさん!」
反射的に名前で呼びかけていた。
「そんな……!」
これで何人殺されたの?私にはわからない……この状況で確信した。次は私の番であることを……!
ガチャ……
「……!?誰!?」
あんなにびくともしなかった扉が突然開いた。
「あとはお前だけだ……ようやく見つけたぞ。夢野澪……」
「誰よ?」
「俺はなぁ……優真に鏡幸人、そしてお前に人生を潰された間垣博明だよぉ……!」
「間垣博明……まさか!?」
ヘリオス・ジャパンの社長!?幸人からある程度の話を聞いている。コイツ……連続殺人犯だ!
「この女の腹を確認したか?」
「……?」
そっ……
「えっ……この人、妊婦さん……?」
ちかさんのお腹が大きい……まさか妊婦さんを惨たらしく殺したの!?ちかさんの表情は必死で酸素を求め、最後まで息をしようとしたことを物語っている。
「……!?」
待って!今ちかさんのお腹が動いた!?間垣のことはもちろん許せないが、橘も妊婦さんを騙して人生を壊した罪は重い……それでも橘は反省した。今なら助かるかもしれない……!私はちかさんのお腹を守るような体勢を取る。だが、人は必死になるほど周りが見えなくなりがちになる。
「何大事に庇ってんだ?おい!」
「キャッ……!?」
「まさか腹のガキが動いてんのか?」
「……!?やめて!やめなさい……!」
グサッ……グサッ!
「……」
私は一瞬で力が抜けた。赤ちゃんが……!そんな……
「う……うわぁぁ〜……!」
私は拳を破壊する勢いで床を叩き続ける。
「当然の報いだ……!女どもは俺から全て奪ったんだ……だからなぁ!俺は家族がいる女を狙ったんだよ!ただ手に掛けるだけじゃつまらない。残された恋人とガキは、絶望の中を生きてもらうのが一番いい……」
私は間垣への沸騰しそうな怒り。そして幸人への怒りを募らせる。確かに無防備で外出した私にも責任はあるけれど、幸人のやつ、あれほど「心配するな」って強く言っていたのに……!私は歪んでしまった。狂気に満ちた笑顔で女性を殺している姿を見たら、私は幸人への殺意まで湧いてしまった……帰ったら覚えておきなさぁい……キャキャキャ……!