5倍に薄める幸せ

DILUTION 4.8 再発

「何なんだコイツ?イカれちまったのか?」
「キャキャキャキャ……!」
 このときの記憶はほとんどない。記憶がなくなるほど狂っていた。私は初めて、夢野澪が壊れていく音を聞いた。幸人を殺してみたい……たとえ狂っても私は素人。間垣を引っ掻こうとしても届くことはない。
「この女面白いな……もしかしたらお前、鏡幸人の唯一の弱点かもしれないな」
「キャキャ!」
「コイツはキャしか言えねぇのか?」
 私は抵抗できず、そのまま両手両足をロープで縛られた。むしろそれは不幸中の幸いだった。私が狂うことがなければ今頃殺されている。私は、幸人を闇討ちする人員として生かされただけだった。

 カシャ……カシャ……
 美月さんが襲われる前に殺害されたのは市川菜々子さん。43歳で高校生のお子さんがいる人だった。殺害手口は同様に、肉切り包丁で滅多刺しにされたのだった。
「警部、凶器はおそらく肉切り包丁ですかね?」
「それに同一犯で間違いないだろうな」
「ですが、御上は逮捕するなって言うのが魂胆ですかね?」
「さすがに天下のヘリオス様を敵に回したくないのだと……」
 倒産してもヘリオス・ジャパンの名前は残り続ける。100年近くの歴史を誇る会社ならなおさら。
「犯人は35歳の橘優真っていう専務ですかね?」
「バカ言え……!橘優真は自らの悪行やら不祥事を公にしたんだ。証拠なんかなくても、橘優真の犯行じゃないことは考えなくてもわかる。それに妙なことを聞いたんだ」
「妙なこと?」
「何ともな、ヘリオス・ジャパンは喫茶のオーナーに潰されたって話だ」
 新米刑事には寝耳に水。別に潰したのは俺ではないのだが……
「どこの喫茶ですか?」
「確か港区の余白だったかな」
「余白……あっ知ってます!俺食ったことありますよ!自家製のカレーがめっちゃ美味くてぇ、それで」
「今腹が減る話するな……!」
「すみません……」
 しばらくお店を休ませていただくが、再開したら是非最高のおもてなしを提供してあげよう。

「相澤さん、これは何ですか?」
「りんごです」
「ではこれは?」
「みかんです」
 間垣に襲撃された2日後。美月さんはすさまじいほどの回復を見せた。おそらく橘への怒りが感情を爆発させたことにより、それが一気に言葉を取り戻すトリガーとなった。
「では、娘さんのお名前は?」
「海咲です……」
「相澤さん……!」
 美月さんは再び娘さんの名前を口にした。
「海咲ちゃん!お母さんが海咲ちゃんの名前を呼んだよ」
「本当ですか……!?」
 海咲ちゃんは母親のもとへ駆け寄る。すると……
「海咲……」
「ママ……!」
 ギュッ……!
「ごめんね海咲……ごめんね!」
「いいんだよママ……私、またママと暮らせるだけで幸せだから……!」
 美月さんは伶君を失い、そして自らの足で歩ける自由を失った。死にたいくらい絶望しているかもしれない……それでも海咲ちゃんというかけがえのない愛娘がいる。
「ママね、来週には退院できると思うの。だからもう少し待ってくれる?」
「うん!」
「よかったね!」
 あとは男性に対する恐怖心の治療だ。今のままではまだ厳しい部分が多い。翌日から少しずつ男性医師と面談し、慣れるための治療を行うそうだ。
「いい子ね……じゃあ今日はママとごはん食べよっか!」
「うん!」
 俺は信じています美月さん。あなたならきっと、強く生きていけると。

 ドスッ!
「ぐがぁ!」
 ドゴッ!
「どわぁー!」
 間垣の野郎、散々殺しておきながら自分は雲隠れか?せっかく要求の品全部持ってきたのに雑魚しか寄越さないじゃないか?
「これで終わりか……?」
「何だコイツはぁ……?」
 金欠のくせに半グレなんか雇いやがって……おかげでいい肩慣らしになったよ。さあどこだ?隠れても俺に見つかるなんて時間の問題だぞ?なぜなら――
 ドッドッドッ……!
「鏡さん!はぁ……!間垣社長の目撃情報を入手しました!」
「仕事が早くて助かるよ!で、どこにいる?」
 猛ダッシュで情報を伝えに来てくれたのは間垣に雇われていたチンピラの山根君。俺があっさりボスを倒したことで、すっかり心酔しきっている可愛い子だ。
「やっぱり予想通りでした!ヘリオス・ジャパンの本社に逃げてます……あと、女性を連れてました。顔は見えなかったですが……」
「そうか。情報感謝するよ」
 もうすぐ陽が沈む。夜の闇に紛れて逃れられたら厄介だな……本社ならタクシーを捕まえるより走った方が早い!
「じゃあな山根君!ちゃんと親御さんに謝ってきちんと働くんだぞ!」
「はーい!」
 走っている道中で半グレどもが襲ってこない……さっきので全員だったのか?もう少し余興に用意しておいてもよかったのに……
 ドッドッドッ……!
 これから相手にするのは連続殺人犯の間垣博明だ。澪を拉致した時点で人質を利用する作戦に出ることはわかっている。澪の命と引き換えに俺の財産全ていただこうって肚なのか?だが、考えたくないが澪が無事とは言い切れない!
「待ってろ澪……!必ず助ける!」
 俺は息が切れそうな中、踏み込む力を強めて走り続けた。

「フン……やはり行ったか」
 相変わらず幸人は真っ直ぐな奴だ。澪もそういう部分に惚れたんだろう。間垣の小物に、せいぜい負けないでくれよ?しかし、狙われているのは澪だけではないようだ。
 コソコソ……
「橘……!」
「見ねぇ顔だな?どっかで会ったか?」
「悪く思うな……これは間垣さんからの命令だ!」
 カチ……
 素人が。そんなんじゃいつまで経っても撃てねぇだろ……
 ガシッ……バーン……!
 俺は奴の腕を曲げて自分の方向へ向かせる。そうすると引き金をひいた瞬間、撃った弾丸は言うまでもなく自分自身の身体に命中する。
「ウワァァ!?」
「遅ぇんだよ……」
 俺は少し幸人の様子を見たかっただけだ。もうこんなところに用はない。申し訳ないが、予定通り間垣の始末はアイツに任せておこう。鏡幸人という男は、社会的地位が高くなければ上級国民でもない。ゆえに、凡人によって潰される絶望感は計り知れない。逃げ切れるといいなぁ……?

「ここか……」
 再び見上げるヘリオス・ジャパンの本社。前と違うのは、1か月足らずですっかり廃れた風景に変わり果てたことだ。伝わるかわからないが、前まで賑わっていたパチンコ店が潰れ、動かないパチンコ台が並んでいるみたいだった。
「澪!」
 どうか無事であってくれ!俺、まだ君に言えなかったことが沢山あるんだ!まだ愛し足りない……
 バリィーン……!
 わざわざドアを丁寧に開けるより、ガラスを蹴破った方が早い。やはり潰れた会社だけあって非常に暗い。ここは心霊スポットか?入った瞬間に背中が一気に重くなる。スマホのライトを照らしながら進んでいき――
「ん……?この匂い、澪か?」
 さすがに立てこもる場所は社長室ではないか?1階……それに入口の傍に停まっていたマクラーレン。この時点で考えていることはわかる。
「……!」
 今の匂い……血か!?俺は一気に悪寒を感じた。澪の甘い匂いと血生臭い匂いが交じる。このときの俺に、ドアを蹴破る勇気はなかった。
 ガチャ……キィ
「澪……!……!?」
 そこにいたのは不気味な笑い方の澪、そして破れたビニール袋を被った女性。
「大丈夫ですか!?……クソッ!」
 ダメだったか……お腹が大きい……間垣の外道!妊婦さんまで……!
「澪!聞こえるか?」
「キャキャ……キャキャキャ!」
「澪……?」
 まさか目の前で女性を殺されたのか?本来ならこのまま澪を連れて帰りたいが、このまま帰るのはさすがに腑に落ちない。だが考えていることくらいわかるぞ?この状況なら俺を闇討ちできると考えたのか?
 コソコソ……シャキン!
「やっぱりな……」
 わざわざオフィス用品が散らばった場所を選んでしまうとはな。ゴソゴソうるさいんだよ!
「オラァ!」
 ドスッ!ボキィ……!
「ガガガ……!」
 たった一発のパンチで奴の鼻の骨が折れた。鼻から壊れた蛇口のように血が流れる。闇討ちするどころか、これでは店の権利書すら強奪できないだろう。当然渡す気はないが。
「残念だったな?まさか二度もかの有名な間垣博明社長にお会いできるなんて、光栄です」
 さて、このまま警察に突き出してやろうか。俺も過剰防衛で少しお咎めを受けるかもしれないが、こうでもしなければ犠牲が増え続ける。
「ハハハ……!ハハハハハ……!」
「何がおかしい?諦めの高笑いか?」
「後ろには気をつけておくんだな……?」
「何だと……」
 俺は奴に言われるがまま後ろを振り向いた。まさか殺意を向けられているとは知らず……
「……!?」
 ブンッ……! 
「キャキャキャ……!」
 澪が振り下ろした消火器が俺の頭部を直撃する。
 ドガァ!
「グゥゥ……!」
 ドガァ!ボキィ……!
「アグゥ……!」
 バタン……
「ウゥ……澪……君は……」
「この女、腹のガキ殺したら狂ったんだよ……」
 澪……そんな!?まるで肉食獣のようによだれを垂らす彼女は、人間とはほど遠い姿をしていた。
「キャキャキャ……!」
 ギリギリ……
「ググ……澪……!」
 ここまでか……澪の手のひらが俺の首に食い込んでいく。でもいいか……好きな人に殺されるなら、俺は幸せかな……
「キャキャ……」
 ギリギリ……
「……」

 ――俺は、君と最後にデートした日のことを思い出していた。アルバイトで貯めたお金と、母さんに頭を下げてもらった小遣いで夢の国へ行った……あの日。
「ねえ次あれ乗ろうよ!」
「……」
 恥ずかしくて言えなかったが、俺は絶叫系のアトラクションが大の苦手だった。当時は本当に君に合わせていたな……当然乗らざるを得なかった……
「楽しかったね!」
「あぁ……うん!」
 ブルブルブル……
「もしかして怖かったのぉ?」
「絶叫系はもう勘弁して……」
 結局言ってしまった。でも、当時進路について悩んでいる君に最高のプレゼントができたかな。君が幸せになってくれることで、俺は本当にお腹いっぱいだよ……
「じゃあ次は俺の番だ!」
「お化け屋敷……!?」
「散々連れ回したんだから付き合えよ」
「もう……いいわよ!行こっ!」
 これから先、何年も先も、君との思い出を更新していきたい。そして、君の可愛い笑顔を……俺に見せて――

「……!」
 力が弱まっている……!澪、君は壊れてなんかいない!
「さあそろそろ死ね……!」
 油断しきった間垣が包丁を高らかに上げる。俺は目をうっすらと開け――
「おりゃー!」
 振り下ろされる瞬間、俺は目を一気に見開き、澪の両腕を握り潰す勢いで引き剥がす。
「キャァァ……!?」
「悪いな……」
「な……何!?」
「ゲーム……オーバー……」
 澪を利用して殺そうと思っただろうが、甘いな。俺と澪は、全世界の何者も引き裂けない、最強の恋人なんだよ……
「やめろ!来る……」
 ドスッドスッ……!
「がぁ!」
「これはお前に殺された女性たちと、残されたご家族の無念の分だ……」
 ドスッドスッドスッ……!
 爆発しそうな殺意を抑えることは、こんなにも難しいのか……?
「これは、生まれることのできなかった赤ちゃんの分だ……!」
 ドゴッドゴッ……!
 せめて一生ハンデを背負って生きてもらう。殺す価値もない……もう全世界の人たちがお前の敵だ!
「そしてこれは、澪の心を壊した……俺の怒りの分だ!」
 ドガァーン……!
「がが……」
 これでもかなり手加減をした方だ。人殺しの罪はさすがに背負いたくない。それよりも……
 ドッドッ……!
「澪……!俺がわかるか?」
「……キャ……キャ」
「遅くなってごめんな……でももう大丈夫だ」
「ゆき……ひ……」
 澪の目から血が混じった涙が溢れ出る。
「はぁ……はぁ……」
「帰ろう……」
 澪はまたサバイバーズ・ギルトを再発してしまうだろう。心配しなくても、俺はいつまでも君の味方だ。
「もう暗くなっちゃったぞ?お風呂沸かして一緒……」
 おや?間垣のおっさんはどこへ行った?
「クソが!お前なんかに捕まってたまるかぁ……!」
 俺は彼女をおんぶしながら、よろよろと走り去る奴を見ていた。どうせ長くは逃げられない。放っておこう……
 バフッ!ブォォォン……!
「クソゥ……!どうしてこんな目に遭うんだ……!?」
 ブォォォン……!
「……このまま逃げ切れると思うなよ」

 ブォォォン……!
「逃げ切ってやる!捕まってたまるか!」
 奴は少しでも遠くへ逃げようと高速道路へ乗り、猛スピードで走り続ける。だが車のドリンクホルダーにはストロング系のチューハイが。まさか飲酒運転しているのか……?スピードの出しすぎ以前の問題だ。
 グビグビ……!
「ぶあぁ……!クソが……!」
 ブォォォン……!
「な……!」
 飲酒はほんの少量でも判断力を鈍らせる。前方の車にぶつかりそうになり急ハンドル!
 キュゥゥン……!
「クソ……」
 目の前は渋滞。奴は慌ててブレーキを踏む。はずだった……
 ガコン……グシャ……!
「何で止まらねぇ!?ああちくしょう……!止まれ止まれ……!」
 運悪く空き缶がブレーキペダルに挟まり、車は一切制御が効かず、ガードレールに突っ込み……
 ガシャーン……!ボォォォッ!
 猛スピードで突っ込んだ衝撃に車が一気に燃え上がる。
「ちくしょう……熱い!あちぃ……!誰か助けてくれ……!」
 バチバチバチ……!
「何で誰も助けねぇんだ……!?私はヘリオス・ジャパンの社長だぞ……!誰か助けろ……!」
 高速道路のド真ん中で燃え上がる。炎の勢いから見て既に手遅れだ……
 ドガァァン!
 会社の炎上の次は、最後は自分の肉体も炎上してしまうとは……気の毒だが、散々やり散らかしてきた奴にとって似合いの最期だろう。せいぜい地獄で反省しろ……

 澪を救出して家に帰れたが、帰る道中で一切言葉を交わしてくれなかった。
「……」
「澪……お風呂沸いたから入ろう?」
「……」
 やはり怒っているのか?無責任に『俺が守る』と言い、その約束すら果たせなかった俺は恨まれて当然だ。
「澪、本当にごめん……」
 バシッ……!
「触らないで……」
「……」
 彼女の目は俺を哀れんでいるようだった。それに、まだ俺への殺意が消えていないように感じた。
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