5倍に薄める幸せ
DILUTION 4.9 恋人の誓い
あれから1週間後。私はサバイバーズ・ギルトを再発してしまい、症状の重さからほぼ毎日の通院が欠かせなくなってしまった。間垣に監禁されたこと、命が宿ったちかさんのお腹を刺される瞬間を目の当たりにしたトラウマ……何より、幸人を本気で殺そうとしたことが一番のショックだった。
「娘さんは鏡さんに愛される、愛することに恐怖を感じているようです」
「そうですか……」
しばらく私は幸人と離れてビジネスホテル生活をしていた。病院に付き添ってくれたのは私の父。彼と別れたときは『そんな男なんか忘れちまえ!』と言ったくせに、今となっては私たちを再び結ぼうとしている。
「ですが諦める必要はありません。澪さんと鏡さんならこの先もずっと愛し合えるはずですから」
「そうですよね。よかったな澪!」
「……」
「ダメか……」
「時間はかかると思いますが、澪さんを信じてあげてください。きっと大丈夫ですから……」
今の私に励ましの言葉を言って何の意味があるの?あなたたちにわかるはずがないわ!消火器で殴ったとき、当たりどころが悪くて即死だったら……?私が彼の首を絞め続けてそのまま殺してしまったら……!?私の恐怖がわかるの……!?
「澪、父さん誤解してたよ……あのとき付き合っていた鏡君がこんなにいい人だったなんてね……」
割と古い人間の父は幸人のことを『娘を捨てたろくでなし』と思っていたみたい。
「ぶっちゃけ、父さん憧れちまったよ……」
「……」
「もちろん、これから先の人生で鏡君を選ぶか選ばないかは澪が決めることだ。けどな、悪いことは言わないが、鏡君ほどいい男はいないと思うぞ?」
そんなことはわかっている。あの人は太っていた私でも愛してくれて、私を守るために命をかけてくれた。だからこそ怖いの……!私がいつ、幸人を襲うのではないかって……サバイバーズ・ギルトだって克服できていたはずなのに!
「もし本当にダメだったら帰って来るといい。澪が選んだことなら、父さんも母さんもサポートするから……」
「お父さん……」
「どうした?」
やっぱり、今立ち止まっていても仕方がない……
「幸人に会いたい……」
「会えそうか?」
「でも、付き添ってほしい。できれば……お母さんも」
まだ2人きりで会ってはダメ。通院を続けていても何するかわかったものではない。昔両親によく言われたのは『本気で支えてくれる、自分もその人を支えられる人を選べ』。幸人も言っていたな……『お互いを尊重し合えるのが、本当の恋人と言えるんだ』って。彼ったら語ること多すぎるのよ……余白のコンセプトもそうだけど。それでも彼の場合は語るだけで終わらない。語ったことは全部理にかなっているし、それらには全て理由があるからこそ、また信じられる。
「連絡は私からするから」
「わかった。鏡君なら絶対大丈夫だから、緊張する必要はない」
「うん……」
いざというときになると『幸人♡』と書かれた連絡先、隣の着信ボタンが押せない……
「ハートマークつけてるな?」
「あっ……勝手に見ないでよ……」
さすがに上司や同僚の人の連絡先はフルネームで登録しているが、やはり恋人の名前をフルネームで登録するのは堅苦しい。アイツの連絡先は『橘の野郎』なんて登録したっけな……もう消したけど。とりあえず幸人にかけてみると、女王蜂の有名な曲が鳴り響いた。80年代や90年代の曲好きな彼が唯一聴く最近の曲。
「澪?」
「幸人!あの……」
「1か月ぶりだな……ちょうど病院終わった頃かな?」
「うん……」
「せっかくだしさ、昼ごはんまだだったら余白来なよ?俺の奢りだからさ……」
「奢りは大丈夫よ……でも行っていいの?」
「いいよいいよ!」
アルバイトを無断欠勤した上、連絡もなしに辞めた私を招いてくれる。優しいのかお人好しすぎるのか、逆に心配になってしまう。
「両親も呼んでいい?」
「大歓迎だ!」
「ありがとう……じゃあ、これから向かうわ……」
プツッ……
「その様子じゃ出たみたいだな?どうだった?」
「全然怒ってなかった……お昼さ、余白にしない?」
「余白いいな!」
父はすっかり余白の常連みたい。本当にあの頃の硬い父はどこへ行ったのやら。
「じゃあ、行きましょっか……」
澪が俺の前からいなくなって1か月。俺の日常に一つ消えただけで、こんなにつまらないなんてな……俺の人生に足りないのは、間違いなく君なんだ。
「お待たせしました。こちらグラタンランチとオムそばランチ」
「そこ置いといてくれ!あとハイボール追加だ」
「お客様、かなり酔われているようですが?」
「金払ってんだからいいだろ?」
「あなたダメ……」
「うるせぇ!」
ランチタイムからお酒を飲むことについて俺は本来何も言うことはない。だが俺は一緒にいる女性のお客様が気になった。普通に見ればカップルだが、自分の腕をさする動作……俺はあえて大人げないことをしてみる。
「お待たせしました。こちらハイ――あっ……!?」
バシャ……
「わっ……冷たい!?」
「おい何してんだよ!さっさと拭けよ……」
俺の演技力は俳優並みだ。狙い通り女性の服にハイボールがかかる。
「……申し訳ありませんでした!すみませんお客様……お洋服が」
「あっ……」
「おい待て!?」
「お着替えありますので、クリーニング代こちらでお出ししますから」
俺は流れるような動作で袖をまくる。やはりな……
「お客様……お怪我されているようで?」
「お前に何の関係があんだ!?」
「これ、あなたがやったんですか?」
「違うよな彩香!?この前階段から落ちたんだよな?」
「落とした……の間違いでは?」
「……!?」
女性は図星を見抜かれたように目を見開く。ここまでひどい傷は階段から落ちた程度ではつかない。日常的にやっているな。
「それとお客様、きちんと代行は手配しましたかね?」
男性の方が車のキーを持っている。大人しく代行を呼べばいいが。
「酔ってねぇよ俺は!」
「おや、飲酒運転はいけませんね」
すると女性は急に立ち上がり、
「助けてください!彼、毎日飲酒運転するし……家ではしょっちゅう殴られるんです……!」
人は味方ができると一気に安心するものだ。冷たい思いをさせたのは申し訳ない。
「お客様……」
「おい彩香こっち来い!帰ったら覚えとけよ!」
ブルブルブル……
「僕は傷ついた女性を見るのは好きじゃありません。ですが、彩香さんにこんな痛々しい傷をつけたあなたは、もっと好きじゃねぇ……」
「ウッ……!」
圧をかければビビって立ち向かえないだろうが、そもそもそんな細い腕じゃ俺には勝てない。
「警察です!通報を受けてきました」
「すみません、こちらのお客様、飲酒運転をするおつもりのようです」
「おいまたあんたか!?町田 雄平!あんたにはスピード違反の反則金未払いの件含め連行する!」
「ちっくしょう……!」
反則金の未払いは年金の未払いよりもヤバい気が……これを機に反省してほしいものだ。
「あの……ありがとうございます!」
「いいんですよ!こちらこそお洋服を汚して申し訳ありません。お料理冷めちゃったので、すぐ作り直します!」
「いえ……そんな!ありがとうございます……」
これは休憩時間にでも食べよう。お客様には常に温かいものを提供したい。
ジュジュジュ……
「グラタンランチお待たせしました。こちらお熱いのでね、お気をつけください」
「美味しそう……」
「当店の食材は産地直送ですから。スウィートチリソースをかけても美味しいですよ」
「美味しい!」
元気を取り戻して本当によかった。母さんから『美味しい料理は人生を変える力がある』と言われたが、今このときがそれだろう。
カランカラン……
「いらっしゃいませ。あっお父さん!どうぞどうぞ!」
「また来たぜ。それにな……」
コツ……コツ……
「澪!」
「幸人……」
澪はお母さんに肩を支えてもらいながら訪れた。
「3名様ですね、こちらどうぞ」
中々目を合わせてくれないが、きっと照れているだけだ。
幸人のやつ、仕事中だから私をチラチラ見ている場合じゃないでしょ?
「鏡さん、さすがにご馳走は悪いよ?」
「いいんですよ。澪……娘さんが来てくれたのが本当に嬉しくて」
別に私の回帰祝いではないでしょ。
「幸人……」
「ではこうしますか。最近商品にしようか悩んでいるメニューがあるんですよ。あくまで試食、貴重なご意見聞かせてくれませんか?」
「新メニュー?」
「はい。期間限定メニューで出そうと思ってて」
2月の期間限定メニュー。何だろう?出てきた料理はクリームパスタとドリア。上に乗っているのは牡蠣かな?
「旬の牡蠣を使ってみました。牡蠣のクリームパスタに牡蠣ドリア、あと牡蠣のアヒージョです」
商品にすべきだと思うくらいの出来栄え。
パクッ……
幸人はやっぱりわかっている。私が生もの嫌いなことを知っていて、牡蠣を乗せる前にきちんと焼いて火を通している……生牡蠣はもちろん食べられないが、これなら食べられそう!同時に思い出したのは、山本部長が生牡蠣を食べすぎて思いきり当たってしまい、1週間以上も休んでいたことがあったな……
「アヒージョうま!鏡さん、白のデキャンタちょうだい!」
「おっ、今日は飲んじゃいますか?」
「まった昼間から……」
笑顔で提供する幸人と、談笑しながら料理を楽しむ両親。彼は私に対して一切怒っていない、むしろ好きな気持ちが変わっていないことはわかる。でも、やっぱりまだ怖かった。
ゴシゴシ……ジャブジャブ……
「美味かったよ!これ絶対商品にしてほしいよ」
「本当ですか?貴重なご意見ありがとうございました」
よし。明日から期間限定、牡蠣シリーズを発売だ!
「鏡さん……澪が話したいことあるそうだ」
「娘さんがですか?」
「……」
「澪」
彼女の手が震えている。いつでも君を待っていると言ったのに、そんなに緊張されたら雰囲気が硬いままだぞ?
「あらら……もしかして私たち邪魔じゃない?」
「ハハハッ!そうかもな!」
「ああちょっとぉ……!?」
カランカラン……
久しぶりの2人きり。澪はおろか、熱湯を持つ俺の手も震えてしまう。親御さんなんか店の外から『頑張れ!』とガッツポーズしている。運動会を見守る親か……
「幸人……」
「……おかえり」
「えっ……?」
「俺、ずっと待ってたんだ……澪を」
自分からアピールすることは好きではないが、我慢できなくなって……言いたくなった。
「愛してるよ……」
言ってしまった。けど、俺の気持ちはわかっているだろ?
「それは私もよ……でも私はあなたを殺そうとしたのよ?」
「……」
やっぱり黙るじゃない!?
「そうかもしれない……」
「認めてんじゃない……!だから――」
「けど、どうせ私なんかダメだと諦めたり、これからどう向き合っていこうか考えなかったとか、努力を一切しなかったか……?違うだろ?」
本当なら幸人に見放されたかった……『嫌い』という言葉を待っていた!ハッキリと嫌われれば、私も心置きなく諦められるのに……!
「逆に聞くよ。自分をどうしたいと思って治療に励んだんだ?何の目的もなしだったか?」
「それは、今のままじゃダメだと思ったから……」
「よくわかっているじゃないか。確かに治療することが全てじゃない。治療で埋められない余白は、俺が埋めるから」
彼の言うことは説明するように聞こえることもあるが、最後には大切なことを教えてくれる。それくらい私には足りていない、埋められていない心の余白があることを物語っていた。
「前言ったじゃないか?俺は君のことを誰よりも知っているって。それともう一つ」
もう一つ?どうせクレオパトラとか言うんでしょ?
「君は俺だけのクレオパトラ……女神様なんだよ」
一つランクが上がっただけじゃん!?さすがにそこまで語れる言葉が思いつかないのだろう。逆にこれくらいの褒め言葉がちょうどいい。
「私、またここで働いてもいいかな……?」
余白で働けばまた夢野澪としての私を取り戻せる。そんなことを考えていたかな。さすがに図々しいと思ったけれど……
「待っていたよ……それに、君がいなかったから『澪』を淹れられなくて困ってたんだよ!」
「幸人……ありがとう……!」
「礼を言うのは俺だよ。俺のとこに、帰って来てくれてありがとう。おかえり!」
彼の優しい言葉に私は涙が溢れた。お店の中なのに、彼は近づいて私の背中をさすってくれる。
「やったな澪……!」
「そうね……グスン……あの子、勇気を出したわね……!」
「あっ……」
「えっ?ってなぁ……!?もう見ないでよ……!」
吹奏楽部のコンクール直後か……中学生のとき惜しくも銀賞になった直後と同じ反応。
カランカラン……
「鏡君ありがとう!娘をこれからもよろしくお願いします!」
「これから幸せになるんだよ!」
今年で私26だったのに……まだ結婚の段階ではないのに両親は大喜び。いつか結婚したいけど……
「親御さんから聞いたよ。しばらくビジホ生活してたんでしょ?今日から家賃無料!あと君を一人占め券も……」
「それは有料……ってのは嘘。無料よ」
ヤッバ両親の前で恥ずかしいこと言ってしまった。言い出しっぺは彼だけど……
あれから数週間。私たちは何の問題もなく共同生活をしている。はずだった……
仕事を終えた私たちは、何か面白い番組でもやっていないかとテレビをつける。
「先日起きた殺人事件――」
「……」
深夜のニュース番組。画面には『長野県松本市 介護疲れか』というテロップが映し出されていた。
「長野県松本市で、山岸恒一容疑者(79)が妻を殺害した疑いで逮捕されました。調べによりますと、長年介護を続けていたということで――」
私はニュースを見て身体が一気に固まるのを感じた。
「介護疲れか……最近多いよなぁ?」
「……」
「澪……?」
「……えっ、ごめん!何でもないわ……」
長年寄り添った夫婦が、介護疲れで殺してしまった……そんな!
「警察によりますと、山岸容疑者は容疑を認――」
ピッ……!
「あっ!ちょっと何で変えちゃうんだよ?」
「暗いニュースよりさ!サブスクで映画とか観ようよ?」
「ああそう?何観る?」
「うぅん……」
結局何が観たいかわからなくなる。とりあえず身内の人を殺害してしまったニュースは本当に嫌だった……
「じゃあ録画しておいた月9でも観るか?」
「そうね……」
彼にとって悪気のない一言でも、私からしたら再び不安になるには十分な一言だった。
「……」
「もう眠くなっただろ?」
「うん……」
「ほらっ……やっぱ疲れてんだよ」
どうして気づいてくれないのよ?私がいきなりチャンネルを変えた時点で察してほしかった……けどそれは私の都合ばかりを押しつけている。やっぱり怖い……あなたのことを世界一愛してる。だから……
翌朝。
「ふぅわ……ふう、今日は休みだ!はい起きろ澪……あれ?澪?」
隣で寝ていたはずの澪がいない。テーブルには彼女のスマホと財布。さらに、
「置き手紙……?」
まるで震える手で書かれた手紙。字が全体的にグラグラしている。
「あなたのことは愛せません、ごめんなさい。何だよこれ……!?」
俺は一瞬でパニックになった。スマホを置いていったことも忘れて電話をかけてしまう。本当に身一つで出て行ってしまったのか……!?
「澪!」
大変だ!言うまでもないが、警察に相談をしても『1日だけなら何とも言えない』と言われるのが関の山だ。俺が探しに行くしかない!
「……」
どれくらい歩いたのかな……貴重品も何も持たず出て行くなんて、行方不明扱いされて警察に発見されるとか、悲劇のヒロインでも演じたかったのかな?
ザー……
寒いよ……身一つの私は傘も買えない。2月の冷たい雨が私の服に纏わりつく。東京の都会では傘をささずに雨の中を歩くのは珍しいことではない。当然誰かに声をかけられることもない……
ザー……
覚えているのは、今日は1日中雨が降り止まないという天気予報。誰にも発見されずにこのまま、凍死した方がきっと楽だ……でも私は簡単に死ねない身体になってしまった。幸人が強い身体に鍛えたせいよ……!辛い……人はそう簡単には死なないと言われるが、死にたいときにどうして強くなってしまうの……?
「もう夜か……」
いくつ区を跨いだのだろう?気づいたら都会ではなく、下町感のある川沿いへ辿り着いていた。体力の限界を迎えた私は、雨の中ベンチに座り込む。
「おっ!なぁに雨の中たそがれてんの?」
「何なら俺たちが介抱してあげるよ?」
「放っといてください……」
今日初めて私に声をかけたのはガラの悪い男たち。
ガシッ……!
「温まっちゃえば楽になるよぉ?」
「もう離して!」
「ほらほら!気にしない気にしない!連れてくぞ……」
「よぉし車回せ!」
トントン……
「何だおい……」
ドスッ……!
「どわぁー!?」
私を連れ去ろうとした男が突然吹き飛ばされた。
「おい大丈夫かぁ……?」
騒ぎを聞いてガラの悪い男たちが集まる。しかも増えている……
「あなた……!?」
「何だテメェは!?」
「クレオパトラを守る、下僕だ……」
ザー……バシャバシャ……!
「澪……!どこへ行っちまったんだ……!?」
俺は血眼になって澪を探し続けた。大雨の中、地図アプリを確認し続けた俺のスマホは壊れてしまった……今頼れるものは腕時計だけ。もう夕方じゃないか……澪が行きそうな場所を全て回ったが、どれも外れた。
ザー……
「澪!?」
やっと見つけた……!さあ早く帰ろう!
「澪!」
トントン!
「キャッ!?ちょっと何なのよあんた……?」
人違いか……
「おいお前!人の彼女に何してんだ……おおゴラァ!」
「申し訳ありません……!」
「何かコイツキモくねぇ?」
「おおゴラァ!罰として殴らせろや……ストレス溜まってんだよなぁ!」
ドスッ……ドスッ……ドゴ……!
「ウゥ……!」
「コイツ何でやり返さねぇんだ……」
「彼女を……グゥ!探しているからですよ……あなただって、彼女さんいるなら……わかるでしょ……」
俺は殴り返したい気持ちを必死に抑える。それでも俺は耐え続ける。
「うわ気持ち悪……何なのコイツ……?」
「はぁ……はぁ……」
「……」
「ねぇもう行こう……?コイツ気味悪いわ!」
「クソ……覚えとけ……!」
痛い……大事なところまで蹴りやがって……
ザー……
雨が傷口を洗う。
「……澪」
せっかく帰って来たのに……これじゃ振り出しに戻ってしまっただけじゃないか……澪、会いたいよ……また可愛い笑顔を見せてよ……
「……?笑顔……?」
俺は頭の中の記憶を全て思い出そうと、雨に打たれながら目を閉じる。
――流れた記憶は共同生活を始めてすぐの頃、澪がYouTubeでとある動画を観て笑っている姿。
「フフフ……」
「何観てんの?」
「やっぱり面白いね!」
澪が好きなのは葛飾区出身の超人気YouTuber。俺も好きでアスレチックの動画はよく観ていた。
「私はずっと港だったけど、いつか葛飾も歩いてみたいなぁ。下町とか私好きだし!」
「そうだな、せっかくだし柴又帝釈天なんかも行ってみたいな?」
「うん!」
退院して初めて見せた笑顔だった。色んな場所に行ってみたいって、楽しく話したな……葛飾なら、いつかすぐに行けそうだな――
「葛飾……!」
閃いた!葛飾なら、歩き続ければ辿り着けない距離じゃない。今日の東京は大雨、きっと凍えているに違いない!
バシャバシャ……!
ジャケットからシャツ、靴下にまで入り込んだ雨。無我夢中で走る俺の身体に冷たい風が沁みる。
ブォォォ……ジャバァッ!
走る車が容赦なく水たまりを跳ねる。
「クゥ……痛ぇ……」
手足の感覚が薄れ、冷え切った身体が俺の体力を奪う。
「はぁ……!」
ドテッ……!
「クソ……!」
赤信号、明るく光るコンビニ。夜になるとどこにいるのかも曖昧になる。ここはどこの区だ?澪を見つけられない自分の無能さ、澪の余白になれなかった愛情のなさに、俺の精神も既に限界だった。
バシャッ……!
「澪……!ウワァァー……!」
俺は人目も気にせず叫んでしまった。もう、無理なのか……?寒さにくたばる程度では澪を救えるはずがない……俺にできることは一つか二つ。一つ、凍死するまで澪を探す。二つ、自分の命を優先して澪を諦める……
「探すに決まってんだろ……澪!」
俺は1時間以上止まることなく走り続けた。俺は自分の命を危険に晒しながら、遂にその執念が実を結び、ようやく安堵するときが来る。はずだった……
「ほらほら!気にしない気にしない!連れてくぞ……」
「よぉし車回せ!」
「やめて……!」
澪!?やっと見つけた……だがクレオパトラに手を出す奴らは誰だ?
トントン……
「何だおい……」
ドスッ……!
「どわぁー!?」
店の中なら俺はどんな要求でも従う。土下座もするし靴だって舐めてやる……それはあくまで店の中の場合だ。今は店の外、余白のルールなんて関係ねぇんだよ……
「あなた……!?」
「何だテメェは!?」
「クレオパトラを守る、下僕だ……」
「厨二病かましてんなコイツ……やっちまおうぜ!」
シャキン……シャキン……!
「逃げて……!」
こんなずぶ濡れになるまで歩きやがって……寒かっただろ?
「うるさい……!少しだけ待ってろ……」
「あなた……」
何だか、闘争心が俺の魂を熱くさせたようだ……相手は5人。容易いことだ……
シャキン……!
「オラァ!」
「フッ……!」
ドスッドスッ……!
「ぐわっ……」
「おわぁぁ……!」
ドゴッ……!
「アァァ……!」
甘いな。まともに鍛えずによく人を連れ去ろうと考えたものだ。それも俺の愛しの彼女を。
「くそう……おい逃げるぞ……」
「うわぁぁ〜!」
全く……痛い思いをしたくなければきちんと反省すべきだな。
バシャ……バシャ……
「遅くなって悪かったな……」
「何で来たのよ……?置き手紙見なかったの!?」
「見たよ」
「探さないでって書いてあったでしょ……!」
それは書かれていなかったぞ。そんなことはどうでもいい。
「悪かった……俺が無神経なせいで……」
昨日の夜、介護疲れにより奥さんを殺害したニュースを見せてしまい、俺が『最近多いよな』と無神経なことを言ってしまった。
「信じてくれるかわからないけど、俺はずっと、澪のこと愛してるよ……だから約束してほしいんだ……」
「何をよ?あなただって我儘な私を受け入れる覚悟なんかあるの……!?」
覚悟があるのはわかっている。でなければここまで探しに来てくれるはずがない……
「覚悟がどうとか、そういう問題じゃない!」
「……!?」
「我儘だっていいんだよ。言ってなかったかもしれないけど、俺という余白の前ではありのままの自分をぶつけていいんだ。言っておくけど、何も言わずにいなくなるだけはなしな?」
「……」
スマホも置いて行ったのは正直助けてほしかったかもしれない。いざ外に出て大雨だったことで、もしかしたら凍死できるかもしれないと考えたのも事実。なのに私を助けてくれた。それでも、私にはどうしても確かめたいことがある。
「本当に私のこと、一生愛してくれるの?」
私の涙は雨で流れていく。こんな雨の中でも、彼が愛してくれると言うのなら、幸人の愛は雨なんかに流されない。だから今聞きたい……!
「そんな愚問、俺に投げてどうすんだよ……」
やっぱり……
「嫌い……」
「嫌いって言ったじゃん!だからもう」
「最後まで聞け……!」
「順番を変えた方がよかったな……なら、澪が俺を嫌いになっちゃうくらい、愛しちゃうよ」
「何よそれ……」
私が嫌いになったら意味ないじゃん?でも、元々意味深な発言が多い彼をよく知っているためか、自然と理解できた。幸人こそ私を本気で愛してくれる人なんだ。
トン……
雨が止まない夜、私のおでこに手を当て、おでことおでこを合わせる。私を目覚めさせるのは、やっぱり王子様のキスだよね……
チュ……チュ……
あのときと同じ。私の中にある情熱が甦ってくる瞬間……私には愛してくれる人、王子様がいる。今さらだけど、幸人は世界一格好良い!
「寒い……さあ帰ろっか?今日は一緒に温まろう?」
「そうだね……あっ私ばっか裸見せたんだから、今日は幸人の裸、見させてもらうわね……!」
「好きなだけ見ろ……その代わり、一緒にケータイ買いに付き合ってくれよ?」
「賛成……!」
遠回りはしたけれど、私はようやく幸人と恋人の誓いを交わした。本当にゴメンね……もう私、あなたのこと裏切らないから……!私はあなたを、呆れるくらい愛しちゃうから!
「娘さんは鏡さんに愛される、愛することに恐怖を感じているようです」
「そうですか……」
しばらく私は幸人と離れてビジネスホテル生活をしていた。病院に付き添ってくれたのは私の父。彼と別れたときは『そんな男なんか忘れちまえ!』と言ったくせに、今となっては私たちを再び結ぼうとしている。
「ですが諦める必要はありません。澪さんと鏡さんならこの先もずっと愛し合えるはずですから」
「そうですよね。よかったな澪!」
「……」
「ダメか……」
「時間はかかると思いますが、澪さんを信じてあげてください。きっと大丈夫ですから……」
今の私に励ましの言葉を言って何の意味があるの?あなたたちにわかるはずがないわ!消火器で殴ったとき、当たりどころが悪くて即死だったら……?私が彼の首を絞め続けてそのまま殺してしまったら……!?私の恐怖がわかるの……!?
「澪、父さん誤解してたよ……あのとき付き合っていた鏡君がこんなにいい人だったなんてね……」
割と古い人間の父は幸人のことを『娘を捨てたろくでなし』と思っていたみたい。
「ぶっちゃけ、父さん憧れちまったよ……」
「……」
「もちろん、これから先の人生で鏡君を選ぶか選ばないかは澪が決めることだ。けどな、悪いことは言わないが、鏡君ほどいい男はいないと思うぞ?」
そんなことはわかっている。あの人は太っていた私でも愛してくれて、私を守るために命をかけてくれた。だからこそ怖いの……!私がいつ、幸人を襲うのではないかって……サバイバーズ・ギルトだって克服できていたはずなのに!
「もし本当にダメだったら帰って来るといい。澪が選んだことなら、父さんも母さんもサポートするから……」
「お父さん……」
「どうした?」
やっぱり、今立ち止まっていても仕方がない……
「幸人に会いたい……」
「会えそうか?」
「でも、付き添ってほしい。できれば……お母さんも」
まだ2人きりで会ってはダメ。通院を続けていても何するかわかったものではない。昔両親によく言われたのは『本気で支えてくれる、自分もその人を支えられる人を選べ』。幸人も言っていたな……『お互いを尊重し合えるのが、本当の恋人と言えるんだ』って。彼ったら語ること多すぎるのよ……余白のコンセプトもそうだけど。それでも彼の場合は語るだけで終わらない。語ったことは全部理にかなっているし、それらには全て理由があるからこそ、また信じられる。
「連絡は私からするから」
「わかった。鏡君なら絶対大丈夫だから、緊張する必要はない」
「うん……」
いざというときになると『幸人♡』と書かれた連絡先、隣の着信ボタンが押せない……
「ハートマークつけてるな?」
「あっ……勝手に見ないでよ……」
さすがに上司や同僚の人の連絡先はフルネームで登録しているが、やはり恋人の名前をフルネームで登録するのは堅苦しい。アイツの連絡先は『橘の野郎』なんて登録したっけな……もう消したけど。とりあえず幸人にかけてみると、女王蜂の有名な曲が鳴り響いた。80年代や90年代の曲好きな彼が唯一聴く最近の曲。
「澪?」
「幸人!あの……」
「1か月ぶりだな……ちょうど病院終わった頃かな?」
「うん……」
「せっかくだしさ、昼ごはんまだだったら余白来なよ?俺の奢りだからさ……」
「奢りは大丈夫よ……でも行っていいの?」
「いいよいいよ!」
アルバイトを無断欠勤した上、連絡もなしに辞めた私を招いてくれる。優しいのかお人好しすぎるのか、逆に心配になってしまう。
「両親も呼んでいい?」
「大歓迎だ!」
「ありがとう……じゃあ、これから向かうわ……」
プツッ……
「その様子じゃ出たみたいだな?どうだった?」
「全然怒ってなかった……お昼さ、余白にしない?」
「余白いいな!」
父はすっかり余白の常連みたい。本当にあの頃の硬い父はどこへ行ったのやら。
「じゃあ、行きましょっか……」
澪が俺の前からいなくなって1か月。俺の日常に一つ消えただけで、こんなにつまらないなんてな……俺の人生に足りないのは、間違いなく君なんだ。
「お待たせしました。こちらグラタンランチとオムそばランチ」
「そこ置いといてくれ!あとハイボール追加だ」
「お客様、かなり酔われているようですが?」
「金払ってんだからいいだろ?」
「あなたダメ……」
「うるせぇ!」
ランチタイムからお酒を飲むことについて俺は本来何も言うことはない。だが俺は一緒にいる女性のお客様が気になった。普通に見ればカップルだが、自分の腕をさする動作……俺はあえて大人げないことをしてみる。
「お待たせしました。こちらハイ――あっ……!?」
バシャ……
「わっ……冷たい!?」
「おい何してんだよ!さっさと拭けよ……」
俺の演技力は俳優並みだ。狙い通り女性の服にハイボールがかかる。
「……申し訳ありませんでした!すみませんお客様……お洋服が」
「あっ……」
「おい待て!?」
「お着替えありますので、クリーニング代こちらでお出ししますから」
俺は流れるような動作で袖をまくる。やはりな……
「お客様……お怪我されているようで?」
「お前に何の関係があんだ!?」
「これ、あなたがやったんですか?」
「違うよな彩香!?この前階段から落ちたんだよな?」
「落とした……の間違いでは?」
「……!?」
女性は図星を見抜かれたように目を見開く。ここまでひどい傷は階段から落ちた程度ではつかない。日常的にやっているな。
「それとお客様、きちんと代行は手配しましたかね?」
男性の方が車のキーを持っている。大人しく代行を呼べばいいが。
「酔ってねぇよ俺は!」
「おや、飲酒運転はいけませんね」
すると女性は急に立ち上がり、
「助けてください!彼、毎日飲酒運転するし……家ではしょっちゅう殴られるんです……!」
人は味方ができると一気に安心するものだ。冷たい思いをさせたのは申し訳ない。
「お客様……」
「おい彩香こっち来い!帰ったら覚えとけよ!」
ブルブルブル……
「僕は傷ついた女性を見るのは好きじゃありません。ですが、彩香さんにこんな痛々しい傷をつけたあなたは、もっと好きじゃねぇ……」
「ウッ……!」
圧をかければビビって立ち向かえないだろうが、そもそもそんな細い腕じゃ俺には勝てない。
「警察です!通報を受けてきました」
「すみません、こちらのお客様、飲酒運転をするおつもりのようです」
「おいまたあんたか!?町田 雄平!あんたにはスピード違反の反則金未払いの件含め連行する!」
「ちっくしょう……!」
反則金の未払いは年金の未払いよりもヤバい気が……これを機に反省してほしいものだ。
「あの……ありがとうございます!」
「いいんですよ!こちらこそお洋服を汚して申し訳ありません。お料理冷めちゃったので、すぐ作り直します!」
「いえ……そんな!ありがとうございます……」
これは休憩時間にでも食べよう。お客様には常に温かいものを提供したい。
ジュジュジュ……
「グラタンランチお待たせしました。こちらお熱いのでね、お気をつけください」
「美味しそう……」
「当店の食材は産地直送ですから。スウィートチリソースをかけても美味しいですよ」
「美味しい!」
元気を取り戻して本当によかった。母さんから『美味しい料理は人生を変える力がある』と言われたが、今このときがそれだろう。
カランカラン……
「いらっしゃいませ。あっお父さん!どうぞどうぞ!」
「また来たぜ。それにな……」
コツ……コツ……
「澪!」
「幸人……」
澪はお母さんに肩を支えてもらいながら訪れた。
「3名様ですね、こちらどうぞ」
中々目を合わせてくれないが、きっと照れているだけだ。
幸人のやつ、仕事中だから私をチラチラ見ている場合じゃないでしょ?
「鏡さん、さすがにご馳走は悪いよ?」
「いいんですよ。澪……娘さんが来てくれたのが本当に嬉しくて」
別に私の回帰祝いではないでしょ。
「幸人……」
「ではこうしますか。最近商品にしようか悩んでいるメニューがあるんですよ。あくまで試食、貴重なご意見聞かせてくれませんか?」
「新メニュー?」
「はい。期間限定メニューで出そうと思ってて」
2月の期間限定メニュー。何だろう?出てきた料理はクリームパスタとドリア。上に乗っているのは牡蠣かな?
「旬の牡蠣を使ってみました。牡蠣のクリームパスタに牡蠣ドリア、あと牡蠣のアヒージョです」
商品にすべきだと思うくらいの出来栄え。
パクッ……
幸人はやっぱりわかっている。私が生もの嫌いなことを知っていて、牡蠣を乗せる前にきちんと焼いて火を通している……生牡蠣はもちろん食べられないが、これなら食べられそう!同時に思い出したのは、山本部長が生牡蠣を食べすぎて思いきり当たってしまい、1週間以上も休んでいたことがあったな……
「アヒージョうま!鏡さん、白のデキャンタちょうだい!」
「おっ、今日は飲んじゃいますか?」
「まった昼間から……」
笑顔で提供する幸人と、談笑しながら料理を楽しむ両親。彼は私に対して一切怒っていない、むしろ好きな気持ちが変わっていないことはわかる。でも、やっぱりまだ怖かった。
ゴシゴシ……ジャブジャブ……
「美味かったよ!これ絶対商品にしてほしいよ」
「本当ですか?貴重なご意見ありがとうございました」
よし。明日から期間限定、牡蠣シリーズを発売だ!
「鏡さん……澪が話したいことあるそうだ」
「娘さんがですか?」
「……」
「澪」
彼女の手が震えている。いつでも君を待っていると言ったのに、そんなに緊張されたら雰囲気が硬いままだぞ?
「あらら……もしかして私たち邪魔じゃない?」
「ハハハッ!そうかもな!」
「ああちょっとぉ……!?」
カランカラン……
久しぶりの2人きり。澪はおろか、熱湯を持つ俺の手も震えてしまう。親御さんなんか店の外から『頑張れ!』とガッツポーズしている。運動会を見守る親か……
「幸人……」
「……おかえり」
「えっ……?」
「俺、ずっと待ってたんだ……澪を」
自分からアピールすることは好きではないが、我慢できなくなって……言いたくなった。
「愛してるよ……」
言ってしまった。けど、俺の気持ちはわかっているだろ?
「それは私もよ……でも私はあなたを殺そうとしたのよ?」
「……」
やっぱり黙るじゃない!?
「そうかもしれない……」
「認めてんじゃない……!だから――」
「けど、どうせ私なんかダメだと諦めたり、これからどう向き合っていこうか考えなかったとか、努力を一切しなかったか……?違うだろ?」
本当なら幸人に見放されたかった……『嫌い』という言葉を待っていた!ハッキリと嫌われれば、私も心置きなく諦められるのに……!
「逆に聞くよ。自分をどうしたいと思って治療に励んだんだ?何の目的もなしだったか?」
「それは、今のままじゃダメだと思ったから……」
「よくわかっているじゃないか。確かに治療することが全てじゃない。治療で埋められない余白は、俺が埋めるから」
彼の言うことは説明するように聞こえることもあるが、最後には大切なことを教えてくれる。それくらい私には足りていない、埋められていない心の余白があることを物語っていた。
「前言ったじゃないか?俺は君のことを誰よりも知っているって。それともう一つ」
もう一つ?どうせクレオパトラとか言うんでしょ?
「君は俺だけのクレオパトラ……女神様なんだよ」
一つランクが上がっただけじゃん!?さすがにそこまで語れる言葉が思いつかないのだろう。逆にこれくらいの褒め言葉がちょうどいい。
「私、またここで働いてもいいかな……?」
余白で働けばまた夢野澪としての私を取り戻せる。そんなことを考えていたかな。さすがに図々しいと思ったけれど……
「待っていたよ……それに、君がいなかったから『澪』を淹れられなくて困ってたんだよ!」
「幸人……ありがとう……!」
「礼を言うのは俺だよ。俺のとこに、帰って来てくれてありがとう。おかえり!」
彼の優しい言葉に私は涙が溢れた。お店の中なのに、彼は近づいて私の背中をさすってくれる。
「やったな澪……!」
「そうね……グスン……あの子、勇気を出したわね……!」
「あっ……」
「えっ?ってなぁ……!?もう見ないでよ……!」
吹奏楽部のコンクール直後か……中学生のとき惜しくも銀賞になった直後と同じ反応。
カランカラン……
「鏡君ありがとう!娘をこれからもよろしくお願いします!」
「これから幸せになるんだよ!」
今年で私26だったのに……まだ結婚の段階ではないのに両親は大喜び。いつか結婚したいけど……
「親御さんから聞いたよ。しばらくビジホ生活してたんでしょ?今日から家賃無料!あと君を一人占め券も……」
「それは有料……ってのは嘘。無料よ」
ヤッバ両親の前で恥ずかしいこと言ってしまった。言い出しっぺは彼だけど……
あれから数週間。私たちは何の問題もなく共同生活をしている。はずだった……
仕事を終えた私たちは、何か面白い番組でもやっていないかとテレビをつける。
「先日起きた殺人事件――」
「……」
深夜のニュース番組。画面には『長野県松本市 介護疲れか』というテロップが映し出されていた。
「長野県松本市で、山岸恒一容疑者(79)が妻を殺害した疑いで逮捕されました。調べによりますと、長年介護を続けていたということで――」
私はニュースを見て身体が一気に固まるのを感じた。
「介護疲れか……最近多いよなぁ?」
「……」
「澪……?」
「……えっ、ごめん!何でもないわ……」
長年寄り添った夫婦が、介護疲れで殺してしまった……そんな!
「警察によりますと、山岸容疑者は容疑を認――」
ピッ……!
「あっ!ちょっと何で変えちゃうんだよ?」
「暗いニュースよりさ!サブスクで映画とか観ようよ?」
「ああそう?何観る?」
「うぅん……」
結局何が観たいかわからなくなる。とりあえず身内の人を殺害してしまったニュースは本当に嫌だった……
「じゃあ録画しておいた月9でも観るか?」
「そうね……」
彼にとって悪気のない一言でも、私からしたら再び不安になるには十分な一言だった。
「……」
「もう眠くなっただろ?」
「うん……」
「ほらっ……やっぱ疲れてんだよ」
どうして気づいてくれないのよ?私がいきなりチャンネルを変えた時点で察してほしかった……けどそれは私の都合ばかりを押しつけている。やっぱり怖い……あなたのことを世界一愛してる。だから……
翌朝。
「ふぅわ……ふう、今日は休みだ!はい起きろ澪……あれ?澪?」
隣で寝ていたはずの澪がいない。テーブルには彼女のスマホと財布。さらに、
「置き手紙……?」
まるで震える手で書かれた手紙。字が全体的にグラグラしている。
「あなたのことは愛せません、ごめんなさい。何だよこれ……!?」
俺は一瞬でパニックになった。スマホを置いていったことも忘れて電話をかけてしまう。本当に身一つで出て行ってしまったのか……!?
「澪!」
大変だ!言うまでもないが、警察に相談をしても『1日だけなら何とも言えない』と言われるのが関の山だ。俺が探しに行くしかない!
「……」
どれくらい歩いたのかな……貴重品も何も持たず出て行くなんて、行方不明扱いされて警察に発見されるとか、悲劇のヒロインでも演じたかったのかな?
ザー……
寒いよ……身一つの私は傘も買えない。2月の冷たい雨が私の服に纏わりつく。東京の都会では傘をささずに雨の中を歩くのは珍しいことではない。当然誰かに声をかけられることもない……
ザー……
覚えているのは、今日は1日中雨が降り止まないという天気予報。誰にも発見されずにこのまま、凍死した方がきっと楽だ……でも私は簡単に死ねない身体になってしまった。幸人が強い身体に鍛えたせいよ……!辛い……人はそう簡単には死なないと言われるが、死にたいときにどうして強くなってしまうの……?
「もう夜か……」
いくつ区を跨いだのだろう?気づいたら都会ではなく、下町感のある川沿いへ辿り着いていた。体力の限界を迎えた私は、雨の中ベンチに座り込む。
「おっ!なぁに雨の中たそがれてんの?」
「何なら俺たちが介抱してあげるよ?」
「放っといてください……」
今日初めて私に声をかけたのはガラの悪い男たち。
ガシッ……!
「温まっちゃえば楽になるよぉ?」
「もう離して!」
「ほらほら!気にしない気にしない!連れてくぞ……」
「よぉし車回せ!」
トントン……
「何だおい……」
ドスッ……!
「どわぁー!?」
私を連れ去ろうとした男が突然吹き飛ばされた。
「おい大丈夫かぁ……?」
騒ぎを聞いてガラの悪い男たちが集まる。しかも増えている……
「あなた……!?」
「何だテメェは!?」
「クレオパトラを守る、下僕だ……」
ザー……バシャバシャ……!
「澪……!どこへ行っちまったんだ……!?」
俺は血眼になって澪を探し続けた。大雨の中、地図アプリを確認し続けた俺のスマホは壊れてしまった……今頼れるものは腕時計だけ。もう夕方じゃないか……澪が行きそうな場所を全て回ったが、どれも外れた。
ザー……
「澪!?」
やっと見つけた……!さあ早く帰ろう!
「澪!」
トントン!
「キャッ!?ちょっと何なのよあんた……?」
人違いか……
「おいお前!人の彼女に何してんだ……おおゴラァ!」
「申し訳ありません……!」
「何かコイツキモくねぇ?」
「おおゴラァ!罰として殴らせろや……ストレス溜まってんだよなぁ!」
ドスッ……ドスッ……ドゴ……!
「ウゥ……!」
「コイツ何でやり返さねぇんだ……」
「彼女を……グゥ!探しているからですよ……あなただって、彼女さんいるなら……わかるでしょ……」
俺は殴り返したい気持ちを必死に抑える。それでも俺は耐え続ける。
「うわ気持ち悪……何なのコイツ……?」
「はぁ……はぁ……」
「……」
「ねぇもう行こう……?コイツ気味悪いわ!」
「クソ……覚えとけ……!」
痛い……大事なところまで蹴りやがって……
ザー……
雨が傷口を洗う。
「……澪」
せっかく帰って来たのに……これじゃ振り出しに戻ってしまっただけじゃないか……澪、会いたいよ……また可愛い笑顔を見せてよ……
「……?笑顔……?」
俺は頭の中の記憶を全て思い出そうと、雨に打たれながら目を閉じる。
――流れた記憶は共同生活を始めてすぐの頃、澪がYouTubeでとある動画を観て笑っている姿。
「フフフ……」
「何観てんの?」
「やっぱり面白いね!」
澪が好きなのは葛飾区出身の超人気YouTuber。俺も好きでアスレチックの動画はよく観ていた。
「私はずっと港だったけど、いつか葛飾も歩いてみたいなぁ。下町とか私好きだし!」
「そうだな、せっかくだし柴又帝釈天なんかも行ってみたいな?」
「うん!」
退院して初めて見せた笑顔だった。色んな場所に行ってみたいって、楽しく話したな……葛飾なら、いつかすぐに行けそうだな――
「葛飾……!」
閃いた!葛飾なら、歩き続ければ辿り着けない距離じゃない。今日の東京は大雨、きっと凍えているに違いない!
バシャバシャ……!
ジャケットからシャツ、靴下にまで入り込んだ雨。無我夢中で走る俺の身体に冷たい風が沁みる。
ブォォォ……ジャバァッ!
走る車が容赦なく水たまりを跳ねる。
「クゥ……痛ぇ……」
手足の感覚が薄れ、冷え切った身体が俺の体力を奪う。
「はぁ……!」
ドテッ……!
「クソ……!」
赤信号、明るく光るコンビニ。夜になるとどこにいるのかも曖昧になる。ここはどこの区だ?澪を見つけられない自分の無能さ、澪の余白になれなかった愛情のなさに、俺の精神も既に限界だった。
バシャッ……!
「澪……!ウワァァー……!」
俺は人目も気にせず叫んでしまった。もう、無理なのか……?寒さにくたばる程度では澪を救えるはずがない……俺にできることは一つか二つ。一つ、凍死するまで澪を探す。二つ、自分の命を優先して澪を諦める……
「探すに決まってんだろ……澪!」
俺は1時間以上止まることなく走り続けた。俺は自分の命を危険に晒しながら、遂にその執念が実を結び、ようやく安堵するときが来る。はずだった……
「ほらほら!気にしない気にしない!連れてくぞ……」
「よぉし車回せ!」
「やめて……!」
澪!?やっと見つけた……だがクレオパトラに手を出す奴らは誰だ?
トントン……
「何だおい……」
ドスッ……!
「どわぁー!?」
店の中なら俺はどんな要求でも従う。土下座もするし靴だって舐めてやる……それはあくまで店の中の場合だ。今は店の外、余白のルールなんて関係ねぇんだよ……
「あなた……!?」
「何だテメェは!?」
「クレオパトラを守る、下僕だ……」
「厨二病かましてんなコイツ……やっちまおうぜ!」
シャキン……シャキン……!
「逃げて……!」
こんなずぶ濡れになるまで歩きやがって……寒かっただろ?
「うるさい……!少しだけ待ってろ……」
「あなた……」
何だか、闘争心が俺の魂を熱くさせたようだ……相手は5人。容易いことだ……
シャキン……!
「オラァ!」
「フッ……!」
ドスッドスッ……!
「ぐわっ……」
「おわぁぁ……!」
ドゴッ……!
「アァァ……!」
甘いな。まともに鍛えずによく人を連れ去ろうと考えたものだ。それも俺の愛しの彼女を。
「くそう……おい逃げるぞ……」
「うわぁぁ〜!」
全く……痛い思いをしたくなければきちんと反省すべきだな。
バシャ……バシャ……
「遅くなって悪かったな……」
「何で来たのよ……?置き手紙見なかったの!?」
「見たよ」
「探さないでって書いてあったでしょ……!」
それは書かれていなかったぞ。そんなことはどうでもいい。
「悪かった……俺が無神経なせいで……」
昨日の夜、介護疲れにより奥さんを殺害したニュースを見せてしまい、俺が『最近多いよな』と無神経なことを言ってしまった。
「信じてくれるかわからないけど、俺はずっと、澪のこと愛してるよ……だから約束してほしいんだ……」
「何をよ?あなただって我儘な私を受け入れる覚悟なんかあるの……!?」
覚悟があるのはわかっている。でなければここまで探しに来てくれるはずがない……
「覚悟がどうとか、そういう問題じゃない!」
「……!?」
「我儘だっていいんだよ。言ってなかったかもしれないけど、俺という余白の前ではありのままの自分をぶつけていいんだ。言っておくけど、何も言わずにいなくなるだけはなしな?」
「……」
スマホも置いて行ったのは正直助けてほしかったかもしれない。いざ外に出て大雨だったことで、もしかしたら凍死できるかもしれないと考えたのも事実。なのに私を助けてくれた。それでも、私にはどうしても確かめたいことがある。
「本当に私のこと、一生愛してくれるの?」
私の涙は雨で流れていく。こんな雨の中でも、彼が愛してくれると言うのなら、幸人の愛は雨なんかに流されない。だから今聞きたい……!
「そんな愚問、俺に投げてどうすんだよ……」
やっぱり……
「嫌い……」
「嫌いって言ったじゃん!だからもう」
「最後まで聞け……!」
「順番を変えた方がよかったな……なら、澪が俺を嫌いになっちゃうくらい、愛しちゃうよ」
「何よそれ……」
私が嫌いになったら意味ないじゃん?でも、元々意味深な発言が多い彼をよく知っているためか、自然と理解できた。幸人こそ私を本気で愛してくれる人なんだ。
トン……
雨が止まない夜、私のおでこに手を当て、おでことおでこを合わせる。私を目覚めさせるのは、やっぱり王子様のキスだよね……
チュ……チュ……
あのときと同じ。私の中にある情熱が甦ってくる瞬間……私には愛してくれる人、王子様がいる。今さらだけど、幸人は世界一格好良い!
「寒い……さあ帰ろっか?今日は一緒に温まろう?」
「そうだね……あっ私ばっか裸見せたんだから、今日は幸人の裸、見させてもらうわね……!」
「好きなだけ見ろ……その代わり、一緒にケータイ買いに付き合ってくれよ?」
「賛成……!」
遠回りはしたけれど、私はようやく幸人と恋人の誓いを交わした。本当にゴメンね……もう私、あなたのこと裏切らないから……!私はあなたを、呆れるくらい愛しちゃうから!