5倍に薄める幸せ
DILUTION 0.5 まだ私のこと好きだったの……?
朝起きるたびに私は家の中のものを見てため息が出てしまう。断捨離をしてスッキリさせたいのに、高額品で部屋が埋まっていくのは本当にストレスだ。
「……」
ハイヒール、毛皮のコート、ブランドもののバッグに香水。さらに際どい下着まで……あの男からは逃れられないんだ。太り続ける身体と抜け始めた髪……まだ付き合って1か月だよ!?そんな中で私の心を少しだけ安心させてくれるのは、職場の温かい同僚や上司の方だった。
私は大きめのブラウスとジャケットで太ってしまった身体を隠し、髪はまとめて結ぶ形で出勤。
「おはようございます!」
「……」
「……?」
なぜか無視される。やっぱり無理矢理身体を隠すのはあからさまにおかしいのかな?けれどどこか険しい表情をしながらパソコンと睨めっこしている。
「あの……どうかしたんですか?」
「最近な……あの、君のAQUASTYLEあるだろ?何か知らない会社がAQUASTYLE+っていう似たやつが出回ってるんだ……」
何これ?特徴あるゴシック体の表記に杜撰にも「+」を書き足しただけ。本来のAQUASTYLEは透明な液だが問題のやつはピンク色で気持ち悪い。これくらいなら商品の出所を掴んで訴えに行けばいいだけなんだけど……
プルプルプル……!ガシャッ……
「はいルミエール商事です。はい?はい……わかりました。夢野さん……お客様からお電話だよ」
「……?はいお電話変わりました」
「あの……私AQUASTYLE+を使ったんですけど、前のやつと全然違うんですけど……!?何か臭いし……泡立つんですけど……どうなってるんですか?」
一瞬冷や汗を感じたが、私が自信を持って世に出した商品だ。一呼吸置き
「いえ……本来のAQUASTYLEには今回のようなものはありません。それにAQUASTYLE+は弊社の商品ではありません」
「本当ですか?まぁ確かに、発売してからずっと使ってるから、変だとは思ってました……」
臭くて泡立つって何入れているのよ……?
「他にどういったことがありましたか?」
「娘が知らず使ったら、顔にブツブツが……」
「ブツブツですか……!?と…とにかく、今はAQUASTYLE+は使わないでください!なるべく早く弊社の方で調査しますから!」
「わかりました……!」
ガシャン……
「大丈夫だったか?」
「いえ……健康に被害があったみたいです」
もう全国に出回っているから店舗から撤去なんて無理だ。とりあえず今できることはホームページに似た別商品が出回っていると注意喚起し、一刻も早く被害を抑えなければならない。でもそんな私たちを嘲笑うかのように――
「大変だ!夢野君のAQUASTYLEの件でかなりの問い合わせが来ている!」
許せない!一体どこの誰が私のAQUASTYLEをパクったっていうのよ!?真っ先に橘の仕業ではないかと疑ったけど、どうしても社会的に追い詰める理由が見つからなかった。
「お待たせ致しましたぁ!」
「今度は何よ……?」
「鮨しら波です!ご注文の商品をお届けに参りました!」
「誰か頼んだか?」
「いえ……」
私はしら波の店員さんが持つお寿司を見て吐き気を催した……元々生ものが食べられないのもあるけれど、それ以上に大量の食べ物が太らされるトラウマを呼び起こした……!
「はぁ……はぁ……!」
ラップ越しからでもわかる生ものの匂い。今度は嫌いなお寿司を食べて太れって言うの!?私は吐き気をこらえながら……
「とにかくうちでは頼んでないです!」
「そんな困ります!お届け先きちんとそちらになっているので……!」
コツ……コツ……
私の責任感なのか、無意識に身体が動いていた。
「申し訳ありません……!私です!私です……!私が会社に出前を頼んでしまいました!間違えて……あんな大量に!」
「夢野さんが!?」
「でも君、寿司とか?」
「あぁ~!すみません、いくらになりますか?」
「えっと……35300円です」
私は慌てて財布の中身を確認したけれど、入っていたのは4万円ちょっと。ここで払ってしまったら給料日まで10日以上5千円で生活しなきゃいけないなんて……
「すみません、これで……」
「4470円のお返しです、毎度ありがとうございました!」
「はぁ~……」
橘……どこまで嫌がらせするのよ!?さっきのAQUASTYLEもどきと今の出前攻撃で私の疑惑は確信へと変わった。でも届いてしまったお寿司はしょうがない……皆さんに食べていただこう。
「皆さんで食べてください。私は大丈夫ですから……」
お蕎麦なら食べられたけど、お寿司は小さい頃から刺身の生臭さとグニュッとした食感が大嫌い。
「あぁ〜」
もうため息しか出ない。銀行口座も見てみたら2千円と少しは残っていたけど、これで10日以上しのぐのは女の一人暮らしでも厳しい……
「すみません夢野さん……いただきます」
社員の皆様は私に申し訳ない顔をしながらお寿司を食べる。見ても別に何とも思わないし、食べ物が粗末にならなかったのが救いに感じていた。できるなら橘と関係を絶ちたい。いやできるなら既にやっている!けど私のことは名前と顔、さらに職場までバレている。唯一知られていないのは遠方に住む実家の両親くらいかな?
「何も食べなかったようだけど大丈夫か?」
「はぁ……」
「今日はもう帰りなさい」
「はい……」
今日はもう働く気にもなれず、山本部長に勧められるまま帰宅することを決めた。私が帰る頃はちょうどお昼休憩が終わる時間。黙々と仕事に取り組む社員さんを前に私は、謝罪の意思と気遣ってくれた感謝に対して深々と頭を下げた。
後日。都内のホテルでは――
「いらっしゃいませ。メロンパンとクロワッサンですね、340円でございます」
「これで」
「60円のお返しです。ありがとうございます」
普段の俺は余白のオーナーだが、月曜日の定休日には当店自慢の自家製パンを外に行って売りに出している。ちょうど今日は複数の企業が集まって大学生たちに向けた合同説明会が行われる。これから就職活動に勤しむ学生が、甘いパンを食べて元気になってくれればと思う。
「おお梶田君!君も来てたんだな?」
「鏡さんこそ美味いパン売ってたんですね!」
彼は小さい頃から知っている梶田耀君だ。今まさに就活に臨む大学4年生。
「第一志望どこだっけ?」
「めっちゃ高望みにはなるんですけど……ヘリオス・ジャパン」
「ヘリオス・ジャパン?」
そこは外資系企業の中でもトップクラスだぞ……何度か記事で見たことはあったが、社長は普通のおじさん風だが専務がやたら若かった覚えがある。俺より少し年上くらいではないか。
「でも俺はシステムエンジニアやりたいんでやっぱ風間エンジニアリングですね!やっばい、そろそろ受付だ!じゃあ鏡さん行ってきます!」
「おう!」
さてと。パンも完売したし、そろそろ帰る準備でもしようか。今日はこのあと買い出しでもして……
「……」
同刻。
私は結局、橘の濃厚な愛情と恐怖に逆らえず、ズルズルと関係を続けていた。いつもならアイツの気まぐれルートでデートの場所が決まるのだけど、今日は都内のホテルに辿り着いていた。確かここのホテル、私の会社が説明会を行う場所だわ……どうしてここに?
「是非我が社の魅力を君に知ってもらいたいなと思ってね」
それかよ……それでも外資系企業の専務をしているだけのプロ意識があることに少し安心していた。言っておくけど私に転職したい意思はない。それよりも説明会長引いてほしいな……
「君も会場来るか?」
「いや私は、ゴホン……私の上司が会場にいるし、あんまり目立ちたくないから」
「見られると不都合か?」
「うん……」
何を言われるかわからない状況に私の背筋が凍りそう。
「ま、でも俺は時間だ。そろそろ行くよ」
「わかったわ……」
よかった。とりあえずアイツの目が届かない時間はフリータイムだ。近くのカフェに行って珈琲でも飲もうかと思ったがまだ給料日前だった……財布がすっからかんの私ができる暇潰しはスマホをポチポチするだけ。それでも会う日なのに安心できる時間があるだけでいいと思えた。
ザワザワ……
「ん?」
何か誰かに見られているような……まさか監視されているの?私は慌てて視線がする方向へ目を向ける。どうしてなのかな?鈍感で勘の悪い私が反応してしまうなんて。
「えっ……?」
まさか今見えたのって?いやそんなわけない……彼がここのホテルにいる理由なんてないはず!そう自分に言い聞かせても私の足は勝手に動き出していた。
スッ……スッ……
追いかけても姿が見えなくなって、また背中を追いかける。
「ねぇ、お願い待って……!」
今の私に息切れを気にする余裕なんてなかった。けど、もう歩けない……
「はぁ……はぁ……」
きっと私の勘違いだわ。そう諦めてアイツの演説が終わる前に来た道を戻ろうとした瞬間――
ガシッ……!
「キャッ……!?」
ガチャン……!
「ゆき……」
トン……
彼は私のおでこに優しく触れ、一瞬の吐息の後――
チュ……チュ……
「んんっ……!?」
彼とキスをした瞬間に、私の身体から失われた情熱が甦ってくるのを感じた。けれど、今の私に濃厚なキスはダメ……!
「やめてっ……」
「おっと……やっぱり、澪は相変わらずわかりやすいな……」
「幸人……?」
「久しぶりだな」
やっぱり私の勘違いではなかった。嬉しさと同時に、濃厚な愛を受け止められない現状と、剥げて太った私を見られたくない気持ちで心が張り裂けそうになる……
「まだ私のこと好きだったの……?」
「俺を見て嫌いと言っているように見えるか?」
私を相変わらずと言うくせに、あなたの冷たい言い方だって相変わらずじゃない……!?彼は私にはああしろこうしろと言うのに、自分の悪いところを一切改善しようとしない。それでも少し強引なところも、我儘な彼が好きだった。
「澪発案のAQUASTYLE+はあまりにも酷いもんだね」
「……!?それは私じゃない!私のやつはAQUASTYLEよ!」
「わかっているよ……」
「えぇっ……!?」
彼が見せたのは私の顔と名前が載った会社のホームページ。AQUASTYLEのPRで使ったやつだ。
「言っておくけどさ、澪のことは誰よりも知っているんだ。君がそんな杜撰なものを作らないことくらいわかるよ」
「何が言いたいの?」
まさか何か察しているの?でも元々意味深な発言が多い彼だからなぁ……それよりヤバッ!早く戻らないとアイツが戻ってきてしまう!
「ごめんもう帰らなきゃ……!」
「おっとそれは残念……もう少しゆっくり話したかったけど、しょうがないな……」
「ごめんね。話ならまた今度ね……」
私は彼の腕をすり抜けるように駆け足で戻った。こんな短期間でまだ愛したいアイツと、もう一度愛したい幸人に出会うなんて……私はどうしたらいいの?いや、結局私はどうしたいの……!恋愛問題で自分を見失うのがバカげているなんてわかっている……でも、それくらい追い詰められていた。
「はぁ……はぁ……」
「お待たせ」
「あぁ!お疲れ様」
何とか終わるまでに戻れた……それ以上に彼の甘い香りが私の服についていないかだけ気になった。
「じゃあ行こうか」
「うん」
よかった気づかれてなさそう……やっぱり無理よ。金と地位、権力を持った男から逃れるなんて……逃げても追われる末路しか見えない。幸人がいくら強くてもアイツを敵に回してはダメ!それに今さら彼に頼るのはお門違いすぎる。でも、やっぱりあなたに会いたい……
俺は慌てて去る澪を追うことはなかった。それにしても前と比べて太っているように見えた。別れたとはいえ彼女は俺の大切な人。ちょっと様子を見た方がいいかもしれない。そんなとき
「あれは?」
俺の視界に映ったのはヘリオス・ジャパンの社長と若専務だった。見ただけならあれが会社の重役さんだなで話は済むのだが、専務が俺の横を通り過ぎると、なぜか生臭い匂いを感じた。
「……?」
あんなに着飾っているのにお手入れは雑なのか?だがどこか覚えているような匂いだ。なぜか匂いにつられた俺は見逃すことができなかった。
スッ……スッ……
「社長!ちょっと忘れ物しました!」
「あいよ……」
男に近づきすぎてしまい、振り向いて戻ろうとした拍子に下手を打ってしまい――
ドンッ!
「失礼……」
「チッ……!」
ぶつかった瞬間に鋭い視線で睨まれる。別に何も盗んでいないのに舌打ちとは。また俺をギロッと睨んでから去っていった。俺は突っ立っていることしかできなかった。
「何だアイツは……」
確かに俺は何も盗んでいない。だが、それはあくまでものの話。あんたの生臭い匂いと鼻につく態度は、俺の記憶に盗ませてもらったよ……
「……」
ハイヒール、毛皮のコート、ブランドもののバッグに香水。さらに際どい下着まで……あの男からは逃れられないんだ。太り続ける身体と抜け始めた髪……まだ付き合って1か月だよ!?そんな中で私の心を少しだけ安心させてくれるのは、職場の温かい同僚や上司の方だった。
私は大きめのブラウスとジャケットで太ってしまった身体を隠し、髪はまとめて結ぶ形で出勤。
「おはようございます!」
「……」
「……?」
なぜか無視される。やっぱり無理矢理身体を隠すのはあからさまにおかしいのかな?けれどどこか険しい表情をしながらパソコンと睨めっこしている。
「あの……どうかしたんですか?」
「最近な……あの、君のAQUASTYLEあるだろ?何か知らない会社がAQUASTYLE+っていう似たやつが出回ってるんだ……」
何これ?特徴あるゴシック体の表記に杜撰にも「+」を書き足しただけ。本来のAQUASTYLEは透明な液だが問題のやつはピンク色で気持ち悪い。これくらいなら商品の出所を掴んで訴えに行けばいいだけなんだけど……
プルプルプル……!ガシャッ……
「はいルミエール商事です。はい?はい……わかりました。夢野さん……お客様からお電話だよ」
「……?はいお電話変わりました」
「あの……私AQUASTYLE+を使ったんですけど、前のやつと全然違うんですけど……!?何か臭いし……泡立つんですけど……どうなってるんですか?」
一瞬冷や汗を感じたが、私が自信を持って世に出した商品だ。一呼吸置き
「いえ……本来のAQUASTYLEには今回のようなものはありません。それにAQUASTYLE+は弊社の商品ではありません」
「本当ですか?まぁ確かに、発売してからずっと使ってるから、変だとは思ってました……」
臭くて泡立つって何入れているのよ……?
「他にどういったことがありましたか?」
「娘が知らず使ったら、顔にブツブツが……」
「ブツブツですか……!?と…とにかく、今はAQUASTYLE+は使わないでください!なるべく早く弊社の方で調査しますから!」
「わかりました……!」
ガシャン……
「大丈夫だったか?」
「いえ……健康に被害があったみたいです」
もう全国に出回っているから店舗から撤去なんて無理だ。とりあえず今できることはホームページに似た別商品が出回っていると注意喚起し、一刻も早く被害を抑えなければならない。でもそんな私たちを嘲笑うかのように――
「大変だ!夢野君のAQUASTYLEの件でかなりの問い合わせが来ている!」
許せない!一体どこの誰が私のAQUASTYLEをパクったっていうのよ!?真っ先に橘の仕業ではないかと疑ったけど、どうしても社会的に追い詰める理由が見つからなかった。
「お待たせ致しましたぁ!」
「今度は何よ……?」
「鮨しら波です!ご注文の商品をお届けに参りました!」
「誰か頼んだか?」
「いえ……」
私はしら波の店員さんが持つお寿司を見て吐き気を催した……元々生ものが食べられないのもあるけれど、それ以上に大量の食べ物が太らされるトラウマを呼び起こした……!
「はぁ……はぁ……!」
ラップ越しからでもわかる生ものの匂い。今度は嫌いなお寿司を食べて太れって言うの!?私は吐き気をこらえながら……
「とにかくうちでは頼んでないです!」
「そんな困ります!お届け先きちんとそちらになっているので……!」
コツ……コツ……
私の責任感なのか、無意識に身体が動いていた。
「申し訳ありません……!私です!私です……!私が会社に出前を頼んでしまいました!間違えて……あんな大量に!」
「夢野さんが!?」
「でも君、寿司とか?」
「あぁ~!すみません、いくらになりますか?」
「えっと……35300円です」
私は慌てて財布の中身を確認したけれど、入っていたのは4万円ちょっと。ここで払ってしまったら給料日まで10日以上5千円で生活しなきゃいけないなんて……
「すみません、これで……」
「4470円のお返しです、毎度ありがとうございました!」
「はぁ~……」
橘……どこまで嫌がらせするのよ!?さっきのAQUASTYLEもどきと今の出前攻撃で私の疑惑は確信へと変わった。でも届いてしまったお寿司はしょうがない……皆さんに食べていただこう。
「皆さんで食べてください。私は大丈夫ですから……」
お蕎麦なら食べられたけど、お寿司は小さい頃から刺身の生臭さとグニュッとした食感が大嫌い。
「あぁ〜」
もうため息しか出ない。銀行口座も見てみたら2千円と少しは残っていたけど、これで10日以上しのぐのは女の一人暮らしでも厳しい……
「すみません夢野さん……いただきます」
社員の皆様は私に申し訳ない顔をしながらお寿司を食べる。見ても別に何とも思わないし、食べ物が粗末にならなかったのが救いに感じていた。できるなら橘と関係を絶ちたい。いやできるなら既にやっている!けど私のことは名前と顔、さらに職場までバレている。唯一知られていないのは遠方に住む実家の両親くらいかな?
「何も食べなかったようだけど大丈夫か?」
「はぁ……」
「今日はもう帰りなさい」
「はい……」
今日はもう働く気にもなれず、山本部長に勧められるまま帰宅することを決めた。私が帰る頃はちょうどお昼休憩が終わる時間。黙々と仕事に取り組む社員さんを前に私は、謝罪の意思と気遣ってくれた感謝に対して深々と頭を下げた。
後日。都内のホテルでは――
「いらっしゃいませ。メロンパンとクロワッサンですね、340円でございます」
「これで」
「60円のお返しです。ありがとうございます」
普段の俺は余白のオーナーだが、月曜日の定休日には当店自慢の自家製パンを外に行って売りに出している。ちょうど今日は複数の企業が集まって大学生たちに向けた合同説明会が行われる。これから就職活動に勤しむ学生が、甘いパンを食べて元気になってくれればと思う。
「おお梶田君!君も来てたんだな?」
「鏡さんこそ美味いパン売ってたんですね!」
彼は小さい頃から知っている梶田耀君だ。今まさに就活に臨む大学4年生。
「第一志望どこだっけ?」
「めっちゃ高望みにはなるんですけど……ヘリオス・ジャパン」
「ヘリオス・ジャパン?」
そこは外資系企業の中でもトップクラスだぞ……何度か記事で見たことはあったが、社長は普通のおじさん風だが専務がやたら若かった覚えがある。俺より少し年上くらいではないか。
「でも俺はシステムエンジニアやりたいんでやっぱ風間エンジニアリングですね!やっばい、そろそろ受付だ!じゃあ鏡さん行ってきます!」
「おう!」
さてと。パンも完売したし、そろそろ帰る準備でもしようか。今日はこのあと買い出しでもして……
「……」
同刻。
私は結局、橘の濃厚な愛情と恐怖に逆らえず、ズルズルと関係を続けていた。いつもならアイツの気まぐれルートでデートの場所が決まるのだけど、今日は都内のホテルに辿り着いていた。確かここのホテル、私の会社が説明会を行う場所だわ……どうしてここに?
「是非我が社の魅力を君に知ってもらいたいなと思ってね」
それかよ……それでも外資系企業の専務をしているだけのプロ意識があることに少し安心していた。言っておくけど私に転職したい意思はない。それよりも説明会長引いてほしいな……
「君も会場来るか?」
「いや私は、ゴホン……私の上司が会場にいるし、あんまり目立ちたくないから」
「見られると不都合か?」
「うん……」
何を言われるかわからない状況に私の背筋が凍りそう。
「ま、でも俺は時間だ。そろそろ行くよ」
「わかったわ……」
よかった。とりあえずアイツの目が届かない時間はフリータイムだ。近くのカフェに行って珈琲でも飲もうかと思ったがまだ給料日前だった……財布がすっからかんの私ができる暇潰しはスマホをポチポチするだけ。それでも会う日なのに安心できる時間があるだけでいいと思えた。
ザワザワ……
「ん?」
何か誰かに見られているような……まさか監視されているの?私は慌てて視線がする方向へ目を向ける。どうしてなのかな?鈍感で勘の悪い私が反応してしまうなんて。
「えっ……?」
まさか今見えたのって?いやそんなわけない……彼がここのホテルにいる理由なんてないはず!そう自分に言い聞かせても私の足は勝手に動き出していた。
スッ……スッ……
追いかけても姿が見えなくなって、また背中を追いかける。
「ねぇ、お願い待って……!」
今の私に息切れを気にする余裕なんてなかった。けど、もう歩けない……
「はぁ……はぁ……」
きっと私の勘違いだわ。そう諦めてアイツの演説が終わる前に来た道を戻ろうとした瞬間――
ガシッ……!
「キャッ……!?」
ガチャン……!
「ゆき……」
トン……
彼は私のおでこに優しく触れ、一瞬の吐息の後――
チュ……チュ……
「んんっ……!?」
彼とキスをした瞬間に、私の身体から失われた情熱が甦ってくるのを感じた。けれど、今の私に濃厚なキスはダメ……!
「やめてっ……」
「おっと……やっぱり、澪は相変わらずわかりやすいな……」
「幸人……?」
「久しぶりだな」
やっぱり私の勘違いではなかった。嬉しさと同時に、濃厚な愛を受け止められない現状と、剥げて太った私を見られたくない気持ちで心が張り裂けそうになる……
「まだ私のこと好きだったの……?」
「俺を見て嫌いと言っているように見えるか?」
私を相変わらずと言うくせに、あなたの冷たい言い方だって相変わらずじゃない……!?彼は私にはああしろこうしろと言うのに、自分の悪いところを一切改善しようとしない。それでも少し強引なところも、我儘な彼が好きだった。
「澪発案のAQUASTYLE+はあまりにも酷いもんだね」
「……!?それは私じゃない!私のやつはAQUASTYLEよ!」
「わかっているよ……」
「えぇっ……!?」
彼が見せたのは私の顔と名前が載った会社のホームページ。AQUASTYLEのPRで使ったやつだ。
「言っておくけどさ、澪のことは誰よりも知っているんだ。君がそんな杜撰なものを作らないことくらいわかるよ」
「何が言いたいの?」
まさか何か察しているの?でも元々意味深な発言が多い彼だからなぁ……それよりヤバッ!早く戻らないとアイツが戻ってきてしまう!
「ごめんもう帰らなきゃ……!」
「おっとそれは残念……もう少しゆっくり話したかったけど、しょうがないな……」
「ごめんね。話ならまた今度ね……」
私は彼の腕をすり抜けるように駆け足で戻った。こんな短期間でまだ愛したいアイツと、もう一度愛したい幸人に出会うなんて……私はどうしたらいいの?いや、結局私はどうしたいの……!恋愛問題で自分を見失うのがバカげているなんてわかっている……でも、それくらい追い詰められていた。
「はぁ……はぁ……」
「お待たせ」
「あぁ!お疲れ様」
何とか終わるまでに戻れた……それ以上に彼の甘い香りが私の服についていないかだけ気になった。
「じゃあ行こうか」
「うん」
よかった気づかれてなさそう……やっぱり無理よ。金と地位、権力を持った男から逃れるなんて……逃げても追われる末路しか見えない。幸人がいくら強くてもアイツを敵に回してはダメ!それに今さら彼に頼るのはお門違いすぎる。でも、やっぱりあなたに会いたい……
俺は慌てて去る澪を追うことはなかった。それにしても前と比べて太っているように見えた。別れたとはいえ彼女は俺の大切な人。ちょっと様子を見た方がいいかもしれない。そんなとき
「あれは?」
俺の視界に映ったのはヘリオス・ジャパンの社長と若専務だった。見ただけならあれが会社の重役さんだなで話は済むのだが、専務が俺の横を通り過ぎると、なぜか生臭い匂いを感じた。
「……?」
あんなに着飾っているのにお手入れは雑なのか?だがどこか覚えているような匂いだ。なぜか匂いにつられた俺は見逃すことができなかった。
スッ……スッ……
「社長!ちょっと忘れ物しました!」
「あいよ……」
男に近づきすぎてしまい、振り向いて戻ろうとした拍子に下手を打ってしまい――
ドンッ!
「失礼……」
「チッ……!」
ぶつかった瞬間に鋭い視線で睨まれる。別に何も盗んでいないのに舌打ちとは。また俺をギロッと睨んでから去っていった。俺は突っ立っていることしかできなかった。
「何だアイツは……」
確かに俺は何も盗んでいない。だが、それはあくまでものの話。あんたの生臭い匂いと鼻につく態度は、俺の記憶に盗ませてもらったよ……