5倍に薄める幸せ

DILUTION 3 血の嵐

 ビービービー……!
「母さん……!?誰か!誰かー……!」
 あのとき、抗がん剤治療を受けていた母さんの容態が急変したのは、本当に一瞬の出来事だった。
「先生!急に母さんが……!」
「血圧が低下している……!すぐに緊急オペだ……橘君!ICUまで運ぶぞ」
「……」
 あのときなぜ橘は一言も発さずに黙り込んでいたのか。まるで上の空。
「しっかりしろ……母さん!」
 昨日まで普通に会話していたのにどうして突然……頼むから母さんを助けてくれ!
 
「ハッ……!?イテテ……!クソ……血出てねぇか、これ……?イテ……」
 どれくらい気を失っていただろうか。車のトランクに入れられたみたいだが、外は見えないかつ両腕は後ろに縛られて時計も見えない。それに寒い……身体の自由が利かない状態でどう逃げればいい?
 ゴソゴソ……
「足縛られてない……?」
 腕は縛っても足は縛らなかったわけか……トランクから出たら反撃のチャンスがあるじゃないか。それに結束バンドで縛った程度じゃ詰めが甘いんだよ……
 ゴソゴソ……
 俺はヨガで習得した脱骨技術で一気に力を緩め――
「よし……」
 これで解けた……あとはトランクが開くのを待つのみ。倍にして返してやるから待っておけ!その前に俺のスマホスマホ……あった!人通りの多い会社の前ではあまり悠長にしていられなかったのか、俺の所持品はそのまま。最初から最後まで橘が自分でやっていればこんなヘマしなかっただろうに。だがスマホを開いてロック画面に表示されたネットニュースを見て俺は言葉を失う。
「運転手が自殺……?」
 何と伶君を撥ねてしまったトラックの運転手は逮捕後、罪の意識と罪悪感に耐えられず留置所で命を絶ってしまったという……結果的に防げなかった犠牲が増えただけじゃないか……!これはもう俺や美月さんだけの問題ではない。
 ブーン……バフッ……
「止まった……?」
 バコッ……
 遂にトランクが開いた。冬で暖房が効いていないから寒かったよ……拘束が解けているとバレたら厄介だ。裾を伸ばして再び手を後ろに回し――
「歩け……」
「……」
 コツ……コツ……
 俺の周りにいるのは2人だけ。この状況となれば、もう問題ないな……
「バカ野郎が……」
「あぁ~?」
「フッ……!」
 ドゴッ……!ドスッ……!
 俺は一切容赦ないパンチと蹴りで制圧。もちろん殺しはしない。
 バタッ……
「おい……お前誰に雇われた?」
 もしこの男がヘリオス・ジャパンの社員であるなら、裏社会と関わっていないと言った俺の言葉は前言撤回だ。
「まっ……言ってくれないなら勝手に行くだけだけどな……あんたのスマホ貸して……どれどれ?」
「おいやめろ……!」
 指紋認証でロックを解除させたら出てくる出てくる……
「へぇ……橘優真とがっつり連絡取ってんじゃないの?」
 奴からのメッセージに女2人を今から西成に向かわせる。俺も後から行く……
「女2人って誰のことだ?相澤美月さんのことか!?」
「名前までは知らねぇよ……だが確かに、みづきとか……その名前だけは聞いたことある!」
 メッセージが送られたのは約10分前。今ならそう遠くに行っていないはずだ。
「女がいる場所はどこだ?」
「おそらくだが優真さんの家だ……何度か俺、色んな女の家から優真さんの家まで送ったことがある」
 すると男が差し出したメモに若専務の住所が書かれている。港区……カクカクシカジカ……俺のラパンはヘリオス・ジャパンに置いて行ってしまった。戻る時間はない!
「おい!何する気だ……?」
「見りゃわかるだろ?車借りるんだよ」
「おい!ちょっと待て……」
 ブーン……
 初めての左ハンドル……しかも高級車。ウィンカーとワイパーも逆じゃないか。俺はウィンカーを出したいのにワイパーを動かすという間違いを何度かしたが、ようやく住所が示す場所に辿り着く。
「この部屋か……」
 俺は部屋を間違えていないことを確認し――
「イテ……!」
 俺の手から血が流れている……
「有刺鉄線……!」
 ドアに有刺鉄線を仕掛けていたのか。だが鍵をかけられていないのかドアはすぐに開き――
「誰かいるか?」
 ここは豆腐の部屋か?だがドアが開いているってことはまだ部屋にいるかもしれない。俺は持っていたハンカチを握って血を止めようとする。すると――
「ふぁ〜……今日もマジ気持ち良かったなぁ〜……」
 現れたのはもろ出しの中年男性。ここは銭湯じゃないだろう。
「気持ち良かったぁ?それ教えてくれないかな?なぁんか興味湧いちゃうな……」
「な……あんた橘さんじゃない……!いやぁ、俺はただの客ですよ……ほら、毎回指名してんじゃないですか」
「指名……?」
 やはり奴は自分の家で裏ピンク店を営業していたのか。当然自宅マンションの前に看板を出していないため、ネットで検索し、知った人間がこぞって利用していた。
 ピタ……ピタ……
「今日も……ありがとうございました……」
「……!?」
 濡れた裸足で歩いてきたのは上半身裸の女性。目が閉じかけている……でも待て、この人!俺はスマホから美月さんの写真と、目の前の女性の顔を照らし合わせる。
「美月さん……!?」
 俺はハンカチを離して美月さんの肩に手をかけ――
 ヌルゥ……
「うわっ……あんた血出てんじゃねぇか……」
「おいお前……まさか伶君の担任の先生ってこと、ないよなぁ?」
 彼が緊急搬送された際、絞り出すように「先生が……」と言っていた。
「新しいお客さんですか……服脱いでください……ははぁ……」
 いきなり学校から飛び出したこと、直後トラックに撥ねられて緊急搬送、それで彼が放った証言。
「ななな……そうだ……!相澤伶の担任だ!」
「じゃあお前、美月さんが誰かわかって指名したのか!?」
「そうだよ!だって生徒の母親なんだぞ?指名したくなるだろ……」
「お前の趣味趣向は知らねぇよ……美月さん、立てますか?」
 美月さんは上半身裸で身につけているのは下着のパンツのみ。まず彼女の安全を確保するのが先決だと思うが、まだこの部屋に誰かいるはずだ。
「お兄さん……遊ばないんですかぁ……」
「落ち着くまで時間かかるか……おい、お前は今すぐ警察に自首しろ……わかったら俺の前から消えろ」
「わかった!わかったよ!うわぁぁ〜……!」
 服着てから行けよ。公然わいせつが追加されるだけだがな……
「これ着て……」
 俺はジャケットを美月さんに羽織る。
「いい匂い〜……キャキャキャ……!」
 ジャケットを抱いている男と勘違いするくらい錯乱している。これはマズイな……とりあえず刃物や危険物がない位置に美月さんを移して――
「ちょっと待っててください」
 コツ……コツ……
 事務所らしき部屋に入るとバスローブ姿で待機する女性。4人か?俺の存在に気づいていないのか振り向かない。待ってろ、必ず助けるからな……これだけいるなら他の部屋はどうだ?俺があるシャワールームの前を通過したとき――
「?……この匂い……」
 ある匂いが俺の歩きを止めた。間違えるはずがない……恐る恐るシャワールームの扉を開けると……
「澪……!?マズい……!」
 シャワールームで倒れているのは全裸の澪だった……!シャワーが出っ放しで顔にかかっている。俺は慌ててシャワーを止め息を確認。
「澪……まだ息がある……!」
 久しぶりに澪の美しい裸体を見て一瞬動揺してしまったが、必死で感情を抑える。
「もう大丈夫だ……さぁうちに帰ろう……」
 近くにあったバスタオルを澪の身体にかけて抱っこする。だが俺の真後ろには――
「ウワ……!?こりゃマズいね……」
 俺を待ち受けていたのは物騒な武器を持った男たち。
「クソ……」
「詰めが甘いな……お前がここに来ることなど想定済みだ。女どもを助けたければ言う通りにしろ……」
「クッ……!」
 俺は女性という人質を盾にされたことによって、一切抵抗もできず奴らに従うしかなかった。

 一方その頃……
「どういうことですか!?夢野さんが懲戒免職なんて……」
 連日の無断欠勤、AQUASTYLE+による健康被害、値も葉もない噂で叩かれる風評被害……全ての責任は私、夢野澪にあると社長は判断したみたい。無断欠勤せず私が正々堂々戦えばよかったんだけど、奴に捕まったことで責任から逃げたと判断されたみたい……うまく逃げれたとしても無一文は確定。
「夢野さんが責任から逃れるなんてありえません」
「じゃあ何で会社に姿を見せないんだ?」
「それはきっとどうにもならない理由があるんです……!」
 幸いなことに私の顔と名前はまだ風俗サイトに掲載されていなかった。だから部長と社長も知らない。
「山本君……会社だって慈善事業じゃないんだ。今回の件で我が社は大赤字……もう夢野君は置いておけない」
「そんな……」
 やっぱり私の懲戒免職は覆せないか……
「ちなみにお聞きしたいんですが……社長はこの男に見覚えありませんか?」
 部長が見せたのはフェラーリに乗っている橘の写真。会社までアイツが迎えに来たとき、部長はこっそりカメラを構えたみたいだけど……
「橘優真さんか……この人の祖父には長く世話になったもんだ」
「ご存知なんですか?」
「君こそ知らないのか?彼は元医師でヘリオス・ジャパン会長のお孫さんだぞ?」
 部長はもしかしたら橘の仕業なんじゃないかと睨み始めていたみたいだけど、まさか社長が知っているなんて……
「もし一連の騒動、この男の仕業だったらどうするつもりですか?」
「冗談も休み休みにしたまえ……!君が橘さんの何を知ってると言うんだ!?」
「……!?」
「いいか?さっきも言ったが、橘さんのご家族には長年世話になったんだ。この方が我が社を追い詰めて何のメリットがある?理由がないだろ?」
「それは……」
 当てずっぽうで言ったところで証拠があるわけじゃないし、何より私が橘の車に乗り込んだくらいじゃ罪にならない。
「いいか。今後一切あの方の侮辱は許さん……まだ言うようなら、君の処分も視野に入れることを覚えておきなさい……」
「……」
 プルプルプル……ただ今、電話に出ることができません……
「ダメか……夢野さん、どこ行っちゃったんだよ……」
 私の行方を知る人間はこの会社にいない。結局私は誰からの連絡に気づけないまま、懲戒免職が決まってしまった……

「うぅ……ってキャアー……!?」
「……」
「幸人……?って何でここにいんのよ?」
「助けに来たんだぞ?」
 私が目を覚ますとトラックの荷台に乗せられていた。しかも助けに来た幸人は服着てんのに私はブラとパンツ……それよりも幸人、服から見てわかるけど凄い筋肉だなぁ……当然彼は下着姿の私をチラチラ見る。
「ねぇ……太った私を見て何とも思わないの?」
「何って?」
「だってあなた……痩せた私しか知らないじゃん……!私の全裸とかどうせ見たんでしょ?」
 ブラとパンツだけだからほぼ全裸だけど……でも、ずっと彼には見てもらいたかった。
「ねぇ……もう一度私の裸見て……!」
「澪……一体何を……」
「目を逸らさないで……!」
 私はブラのホックを外しパンツも脱ぎ捨てた……どこかに運ばれる状況だってのに、今しかないと私は覚悟を決めた。
「澪……」
「ねぇ……こんな私でも好きになれる?」
「……」
 何で下向くのよ……?やっぱり太った私は眼中にないってこと……!?でも返ってきた答えは意外なものだった。
「美しい……」
「えっ……?」
「君は相変わらず美しいな……俺だけのクレオパトラ……」
「クレオパトラ……」
 クレオパトラとは彼がよく私に言っていた比喩表現のようなもので、簡単に言えば美しくてどうしようって意味。
 チュ……チュ……!
「んん……!?」
「ようやく手に入れたよ……俺だけの……君を……」
 チュ……!
 ホテルで再会したときは拒否したのに、今日の私は抵抗ができなかった……
「今はダメ……?」
「あぁ……」
「そう……」
 今回ゴムがないからとりあえずおあずけ……でもまさか彼からキスしてくれるなんて思ってもみなかった。私たちはやっぱり、心の中でつながっていたんだ……
「何でそんなに……泣いちゃうの?」
「だって……あなただけが、ずっと私を愛してるって……確信が持てたから……!」
 私は感じた。橘の濃縮された愛が、幸人によって希釈される瞬間を……

 チュ……チュ……!
 澪の唇からあの珈琲の味がする。気づいてくれたんだな……俺が入れた愛してるのSOS。受け取ってくれてありがとう……それだけで俺の心が埋まる。
「んん~……ふぁ……あの珈琲、幸人が入れたんでしょ?」
「あぁ……あのときな……」
「私の太もも触ったんだね?今なんて胸触ってるけど……」
「ダメだったか?」
「ダメなわけないじゃん……」
 途中で息継ぎをしても俺たちのキスは止まらない……このまま何時間でも抱いていたい……俺はずっと澪の考えを尊重し、任せるように生きてきたけど、今の俺にはわかる……澪という俺だけのクレオパトラ……誰にも渡したくないってことを。
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