友達以上恋人未満

第二章 純子編 出逢い

第二章

純子編

出逢い

真子との縁は、すべて終わった。そう自分に言い聞かせるまでに、一年かかった。季節はまた春を迎えようとしていた。去年の今頃は、スマホの通知音ひとつで胸が高鳴り、コンビニの駐車場ですれ違うだけでも心が揺れていた。しかし今は、LINEの画面を開くこともなくなった。既読のつかないトーク画面は、まるで役目を終えた古いアルバムのように静まり返っている。それでも、人は完全には忘れられない。新聞配達を終えた帰り道。赤い軽自動車を見るたびに、一瞬だけ視線を追ってしまう癖が残っていた。ラジオから西野カナの曲が流れると、胸の奥に鈍い痛みが走る。忘れたつもりでも、身体のどこかに真子の記憶が染みついているのだ。だが、時間というものは残酷でもあり、優しくもある。真子の存在は、「会いたい人」から「過去の人」へと少しずつ変わっていった。代わりに龍太郎の周囲には、新しい人間関係が生まれ始めていた。その中にいたのが――荻野純子45歳だった。純子は真子とは正反対の女性だった。派手さはない。むしろ地味で、感情を大きく表に出さない。だが、時折見せる笑顔には、不思議と人を安心させる温度があった。龍太郎はまだ知らない。この出会いが、自分の中に残っていた「恋愛」という幻想を、もう一度現実へ引き戻すことになるとは。

純子と最初にまともに言葉を交わしたのは、作業所の休憩時間だった。その日、龍太郎は珍しく気分が沈んでいた。春先特有の湿った空気が身体にまとわりつき、新聞配達の疲れも抜けきっていない。缶コーヒーを片手に窓際の椅子へ腰を下ろし、ぼんやり外を眺めていた。すると、不意に隣から声がした。
「龍太郎さんって、いつも何か考えてますよね」
振り向くと、純子が立っていた。グレーのカーディガンに黒いパンツ。派手さのない服装だったが、清潔感があった。髪は肩の少し上で切り揃えられ、化粧も薄い。真子のような目を引く華やかさはない。しかし、その代わりに、長く一緒にいると安心してしまいそうな空気を持っていた。
「そうですかね」
龍太郎が苦笑すると、純子は小さく笑った。
「うん。なんか、頭の中で小説書いてる人みたい」
その言葉に、龍太郎は少し驚いた。これまでにも「変わってる」と言われたことはある。しかし、“小説を書いている人みたい”と言われたのは初めてだった。
「実は書いてますよ」
そう答えると、純子は「やっぱり」と呟き、隣の椅子へ静かに腰を下ろした。沈黙が流れる。だが、不思議と気まずくはなかった。真子といる時のような、感情が暴走する感覚もない。ただ、春の午後の空気がゆっくり流れているだけだった。
「どんな話を書くんですか?」
龍太郎は少し迷ったあと、ぽつりと答えた。
「恋愛小説……かな」
純子は意外そうに目を細めた。
「へえ。なんか純文学っぽい感じしますけど」
龍太郎は思わず笑ってしまった。その瞬間だった。
長い間、自分の中を支配していた“真子の残像”が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。

「今度、映画見に行きますか」すると純子は映画は好きですと答えてきた。その映画は、“過去を忘れられない男女”を描いた古い恋愛映画だった――。
純子が小さな声で言った。
「こういう静かな映画、好きなんです」
龍太郎は少し意外だった。もっと明るい作品を選ぶタイプだと思っていたからだ。だが、純子はスクリーンを見つめたまま、どこか遠い表情をしている。映画館の暗闇の中、その横顔だけが時折スクリーンの光に照らされ、白く浮かび上がっていた。物語の中では、若い頃に別れた男女が、二十年後に偶然再会していた。もう互いに別の人生を歩いている。だが、完全には忘れられない。そんな内容だった。龍太郎は、不思議な気持ちになった。まるで、自分と真子を見ているようだったからだ。すると隣で、純子がぽつりと呟いた。
「人って、“忘れる”んじゃなくて、“慣れていく”だけなのかもしれませんね」
龍太郎は返事ができなかった。その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。スクリーンでは、ラストシーンの雪が降り始めている。館内は静まり返り、誰も喋らない。龍太郎はその瞬間、初めて思った。真子を忘れたいんじゃない。もう、“過去”として抱えたまま生きていけばいいのかもしれない。そして上映終了後。館内が明るくなると、純子が微笑みながら尋ねた。
「……コーヒー、飲んで帰りますか?」
「今。月に2度。食事を楽しんでいる。男友達がいるんです」龍太郎にとっては意外な言葉だった。
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