ぼくの裾が揺れる春
第10話 夏祭りの夜
机の上に、半分に折ったチラシが置いてあった。
駅の改札の横で取ったやつだ。赤い提灯の絵と、金魚の絵。川べりの広場でやる夏祭り。町内の祭りなら近すぎて無理だった。学校の子にも、母の知り合いにも会いそうで、最初から考えられない。その紙に書いてある町の名前は、五つ隣よりまだ先だった。
ぼくはチラシの端を指で押さえて、それから引き出しを開けた。
水色のワンピース。白い靴下。黒い靴。クリーム色のカーディガンは、今日は置いていく。日が落ちても、七月の空気はまだぬるい。水色のワンピースも、もともと薄い生地だったから、夏の夜ならそのままのほうが合う気がした。かわりに、小さな白いハンカチを入れた。汗を拭くためでもあるし、何か持っていたほうが落ち着く気がした。
文具店の前で逃げてから、もうしばらく外へ出ないほうがいいのかもしれないと思っていた。
あのときのことは、まだ身体のどこかに残っている。知らない町の人ごみの中なら平気でも、知っている誰かに似た気配が混じったとたん、足が勝手に逃げた。そのことを忘れたわけじゃない。
それでも、祭りの人ごみなら少しまぎれられる気がした。
駅前や本屋の前みたいに、ひとりで立っている形がはっきり見えにくい。提灯の明かりも、浴衣の柄も、屋台の煙もある。その中に入れば、自分の輪郭も少しだけ薄くなるかもしれない。そう思ってしまった。
家の中には、夕方の音がしていた。台所で包丁がまな板に当たる音。テレビの中のニュース。扇風機の首が、同じ速さで左右へ振れる音。
「どこ行くの」
母が冷蔵庫の前から聞いた。
ぼくは手さげ袋の口を閉じてから答える。
「図書館。あと、本屋も少し見る」
聞かれていないことまで足したのは、自分でもわかった。母はトマトを切る手を止めて、こちらを見る。
「遅くならないでよ」
「……うん」
父は居間で新聞を広げたまま、「財布持ったか」とだけ言った。ぼくがうなずくと、それ以上は何も言わない。玄関で靴を履いているあいだ、扇風機の風だけが足首に当たっていた。
駅へ向かう道には、浴衣の人が少しずつ増えていた。
女の子の帯の結び目。男の人の紺の甚平。下駄の音。コンビニの前で待ち合わせをしている中学生。そういうものが目に入るたび、胸の奥が少し浮く。浮くのに、足は妙に慎重になる。歩道の白い線ばかり見て歩いてしまう。
改札を抜けて、いつもより長く電車に乗る。
窓の外の景色が、知らない町の名前に合わせて少しずつ薄くなっていく。夕方の光はまだ残っているのに、ホームには提灯の絵が貼られていて、降りる人の手には団扇や小さな巾着が見えた。ぼくはその流れにまぎれて、だれでもトイレに入る。
鍵をかける。袋を床に置く。Tシャツを脱ぐ。
もう何度かやってきた手順なのに、今日は少しだけ違った。祭りへ行くのだと思うと、袖を通す前から胸の奥が細かく鳴る。水色のワンピースを頭からかぶる。肩に薄い布が落ちる。靴下を引き上げる。黒い靴のベルトを留める。鏡の前で裾をならして、前髪を指で押さえる。
家の鏡より、駅の鏡のほうがやっぱり冷たい。
それでも今日は、そこに映った自分から、すぐには目をそらさなかった。
水色は、昼より夕方のほうが少しやわらかく見える。薄い生地だから、歩けば裾が軽くついてくる。腕の出ているぶん、肩の線は落ち着かない。けれど膝の上で止まる布の軽さだけは、ちゃんと夏の夜のものに見えた。
改札を出ると、駅前からもう祭りの音がしていた。
太鼓の低い音。屋台の呼び声。どこかで鳴っている笛。ロータリーの先の道には提灯が続いていて、赤と白の光が少しずつ濃くなっていく。ソースの匂い、焼きとうもろこしの匂い、甘い綿あめの匂いまで混ざって、駅前のいつもの空気が別のものになっていた。
人が多い。
それが、今日は少しだけ助かった。
駅前の広場や本屋の前みたいに、ひとりで立っている形がはっきりしない。浴衣の柄も、子どもの声も、提灯の赤も、全部がごちゃごちゃに重なっていて、その中では自分の輪郭まで少し薄くなる気がした。
川べりの広場へ向かう道には、屋台が並んでいた。
金魚すくいの水面が電球を揺らしている。りんご飴の赤は、昼間よりずっと濃く見える。射的の景品には、小さいぬいぐるみと光る剣がぶら下がっていた。ぼくは人の流れに押されるみたいに歩きながら、ときどき立ち止まる。止まっても、すぐ後ろから別の人が来る。そのせわしなさが、今日はむしろありがたかった。
浴衣の女の子たちが、何人も目に入る。
白地に朝顔。濃い紺に花火。薄い桃色に小さな金魚。帯の色だけでもずいぶん違う。背中できっちり結ばれている子もいれば、少し柔らかく崩れている子もいる。うなじのところだけ白く見えて、髪を上げた首筋に汗が光っている。
いいな、と思った。
浴衣そのものが、というより、そういう姿でこの景色の中にいることがだ。提灯の下を歩いて、立ち止まって、屋台をのぞいて、誰にも変なふうに見られずにそこにいる。その自然さが、目に刺さるみたいにうらやましい。
自分も、いつかもっとちゃんと装いたいと思う。
女の子たちと同じになりたい、とは少し違う。ただ、裾の揺れ方も、足もとの見え方も、肩に乗る布の形も、この景色の中で途中で止まらないくらいには、きちんとしたい。
屋台の列の端で、ラムネの瓶が氷水に首まで浸かっていた。
青いガラスが光を返していて、喉が急に渇く。ぼくは少し迷ってから、列の後ろについた。前の子が焼きそばを受け取る。店の人が団扇で鉄板をあおぐ。ソースの甘い匂いがいっそう濃くなる。
「次、どうぞ」
言われて、ぼくは瓶のほうを見た。
「……ラムネ、一本」
声は、人のざわめきにまぎれるくらい小さかった。けれど店の人は普通に一本抜き出して、栓を押してくれた。玉が落ちる音が、ひとつ澄んで鳴る。
それだけのことなのに、胸のあたりが少し熱くなる。
お金を払って、冷たい瓶を受け取る。ガラスの首のところに水がついていて、指先がすべる。炭酸の甘い匂いが鼻に上がった。ぼくは人の流れから半歩だけ外れて、ひとくち飲む。
冷たい。
喉を通る音まで、自分にだけ聞こえた気がした。
そのまま川べりのほうへ出ると、風が少しあった。水の匂いが、屋台の油の匂いの下に混じっている。広場の向こうでは、やぐらのまわりに人が集まり始めていた。太鼓の音がさっきより近い。ラムネの瓶を持ったまま、ぼくは人の間を抜ける。
そのとき、後ろから来た子どもが急に走った。
肩に何かが当たる。瓶を落としそうになって、あわてて持ち直す。避けようとして一歩横へ出た足が、石の段差に引っかかった。身体が前へ傾く。裾が膝にからむ。次の一歩が出ない。
危ない、と思ったとき、腕をつかまれた。
ぐっと引かれて、身体が戻る。
ラムネの瓶が胸に当たって、少し痛かった。けれど転ばなかった。ぼくは息を止めたまま、その手の力だけを感じていた。細い指。手のひらは思っていたよりしっかりしていて、ひじの少し下をまっすぐ支えている。
「危ない。裾、踏まれる」
声がした。
聞いたことがある気がした。
やわらかいのに、言い方が正確で、そこだけはっきりしている。ぼくは顔を上げかけて、途中で止まった。上げたら終わる気がした。かわりに見えたのは、淡い色の浴衣の袖だった。白に近い地に、細い青の柄。帯は薄い灰色に見えた。
「……ありがとう」
それだけ言うのがやっとだった。
腕を離される。
その一瞬に、相手が前髪を耳にかけるみたいな動きをした気がした。ほんとうに見たのか、そう思っただけなのか、自分でもわからない。けれど胸の奥では、さっきまでと違う音がしていた。
顔を見たらいけない。
見られてもいけない。
ぼくはほとんど反射みたいに一歩下がった。ラムネの瓶を持ち直し、人の流れの中へ体をねじこむ。後ろから何か言われた気がしたけれど、太鼓の音と呼び声に飲まれて聞き取れない。提灯の赤が目の端で揺れる。浴衣の袖、団扇、子どもの頭、屋台ののぼり。その全部が重なって、もう振り返る場所がなかった。
広場を抜けて、橋の手前まで来て、やっと足が止まる。
喉がからからなのに、ラムネはもうぬるくなりかけていた。瓶の口を歯に当てそうになって、あわてて離す。左の腕だけが、まださっきの形のままだった。つかまれた場所に、指の幅が残っている気がする。
聞き覚えのある声だった。
そう思った瞬間、胸の奥がひやっとする。
気のせいかもしれない。祭りの人ごみの中なら、似た声なんていくらでもあるかもしれない。浴衣の色だって、よく見えていない。顔はぜんぜん見ていない。それでも、あの短い言い方だけが、教室の中で聞く声と勝手に重なりそうになって、ぼくは頭を振った。
帰ろうと思った。
まだ太鼓は続いていたし、花火までは時間がありそうだった。けれど、ここから先までいたら、また会うかもしれない。今度こそ顔を見られるかもしれない。そう思ったとたん、祭りの色が一気に遠くなる。
駅まで戻る道で、屋台の明かりがさっきよりまぶしかった。
人の流れに逆らうと、肩が何度もぶつかりそうになる。裾を踏まないように気をつける。足もとの石畳ばかり見て歩く。改札の前まで来たときには、ラムネは半分も減っていなかった。ごみ箱に捨てるとき、瓶の口が金属に当たって、軽い音が鳴る。
そのままだれでもトイレへ入った。
鍵をかけた途端、祭りの音が一段遠くなる。壁の向こうで太鼓が鳴っているのに、ここだけ白く明るくて、急に現実へ戻されたみたいだった。
靴のベルトを外す。汗のせいか、指先が少しすべる。ワンピースの裾が膝にまとわりつく。さっきまで外の風の中にあった布が、狭い個室の中では妙に近い。急いで脱ごうとするほど、腕や背中に張りついて、うまくいかない。
ようやくTシャツをかぶったとき、胸の奥だけがまだ祭りのままだった。
鏡の中には、いつもの小学生がいた。
水色のシャツ。半ズボン。見慣れた髪。さっきまでの提灯も、浴衣の袖も、そこには何も映っていない。なのに左の腕だけは、まだあの手の形を覚えている気がした。
脱いだ服をたたむ。白い靴下をそろえる。黒い靴を袋の底へ入れる。結び目をきつくしてからも、一度だけ左腕を押さえた。
電車の中では座れたのに、窓は見なかった。
映るものがこわかったからだ。膝の上で手さげ袋の口を握り、もう片方の手で、何度も左腕の同じところを押してしまう。浴衣の袖。淡い色。前髪を耳にかけるような動き。聞き覚えのある声。
家の最寄り駅へ着いたころには、祭りの音はもうどこにもなかった。
玄関の明かりはついていた。母に「遅かったね」と言われて、ぼくは「本屋、人多かった」とだけ答える。靴を脱ぐ手つきが少し乱れて、スニーカーのかかとを踏みかける。母は台所から「ごはん残してあるから」と言っただけだった。
部屋に戻って、引き出しを開ける。
水色の布をたたみ直す。白い靴下をそろえる。黒い靴を箱へ戻す。いつもなら、しまってしまえば少し静かになる。今日はそうならなかった。
服をしまい終わっても、左腕だけがまだ祭りの中にある。
つかまれたのはほんの一瞬なのに、その短さだけが消えない。助かった、と思うより先に、見られたかもしれない、という考えが戻ってくる。顔は上げなかった。たぶんちゃんとは見られていない。そう言い聞かせようとするたび、逆に、あの声が聞き覚えのあるものだったことだけが残る。
ベッドに腰を下ろす。
窓の外では、遠くのどこかでまだ花火が上がっているらしかった。音だけが、少し遅れて届く。ぼくは自分の腕にもう一度だけ触れて、それから手を離した。
見られたのかどうかは、まだわからない。
わからないままなのに、その夜は、祭りの提灯よりも、浴衣の袖よりも、腕をつかまれたときのひと言ばかりが長く残った。
駅の改札の横で取ったやつだ。赤い提灯の絵と、金魚の絵。川べりの広場でやる夏祭り。町内の祭りなら近すぎて無理だった。学校の子にも、母の知り合いにも会いそうで、最初から考えられない。その紙に書いてある町の名前は、五つ隣よりまだ先だった。
ぼくはチラシの端を指で押さえて、それから引き出しを開けた。
水色のワンピース。白い靴下。黒い靴。クリーム色のカーディガンは、今日は置いていく。日が落ちても、七月の空気はまだぬるい。水色のワンピースも、もともと薄い生地だったから、夏の夜ならそのままのほうが合う気がした。かわりに、小さな白いハンカチを入れた。汗を拭くためでもあるし、何か持っていたほうが落ち着く気がした。
文具店の前で逃げてから、もうしばらく外へ出ないほうがいいのかもしれないと思っていた。
あのときのことは、まだ身体のどこかに残っている。知らない町の人ごみの中なら平気でも、知っている誰かに似た気配が混じったとたん、足が勝手に逃げた。そのことを忘れたわけじゃない。
それでも、祭りの人ごみなら少しまぎれられる気がした。
駅前や本屋の前みたいに、ひとりで立っている形がはっきり見えにくい。提灯の明かりも、浴衣の柄も、屋台の煙もある。その中に入れば、自分の輪郭も少しだけ薄くなるかもしれない。そう思ってしまった。
家の中には、夕方の音がしていた。台所で包丁がまな板に当たる音。テレビの中のニュース。扇風機の首が、同じ速さで左右へ振れる音。
「どこ行くの」
母が冷蔵庫の前から聞いた。
ぼくは手さげ袋の口を閉じてから答える。
「図書館。あと、本屋も少し見る」
聞かれていないことまで足したのは、自分でもわかった。母はトマトを切る手を止めて、こちらを見る。
「遅くならないでよ」
「……うん」
父は居間で新聞を広げたまま、「財布持ったか」とだけ言った。ぼくがうなずくと、それ以上は何も言わない。玄関で靴を履いているあいだ、扇風機の風だけが足首に当たっていた。
駅へ向かう道には、浴衣の人が少しずつ増えていた。
女の子の帯の結び目。男の人の紺の甚平。下駄の音。コンビニの前で待ち合わせをしている中学生。そういうものが目に入るたび、胸の奥が少し浮く。浮くのに、足は妙に慎重になる。歩道の白い線ばかり見て歩いてしまう。
改札を抜けて、いつもより長く電車に乗る。
窓の外の景色が、知らない町の名前に合わせて少しずつ薄くなっていく。夕方の光はまだ残っているのに、ホームには提灯の絵が貼られていて、降りる人の手には団扇や小さな巾着が見えた。ぼくはその流れにまぎれて、だれでもトイレに入る。
鍵をかける。袋を床に置く。Tシャツを脱ぐ。
もう何度かやってきた手順なのに、今日は少しだけ違った。祭りへ行くのだと思うと、袖を通す前から胸の奥が細かく鳴る。水色のワンピースを頭からかぶる。肩に薄い布が落ちる。靴下を引き上げる。黒い靴のベルトを留める。鏡の前で裾をならして、前髪を指で押さえる。
家の鏡より、駅の鏡のほうがやっぱり冷たい。
それでも今日は、そこに映った自分から、すぐには目をそらさなかった。
水色は、昼より夕方のほうが少しやわらかく見える。薄い生地だから、歩けば裾が軽くついてくる。腕の出ているぶん、肩の線は落ち着かない。けれど膝の上で止まる布の軽さだけは、ちゃんと夏の夜のものに見えた。
改札を出ると、駅前からもう祭りの音がしていた。
太鼓の低い音。屋台の呼び声。どこかで鳴っている笛。ロータリーの先の道には提灯が続いていて、赤と白の光が少しずつ濃くなっていく。ソースの匂い、焼きとうもろこしの匂い、甘い綿あめの匂いまで混ざって、駅前のいつもの空気が別のものになっていた。
人が多い。
それが、今日は少しだけ助かった。
駅前の広場や本屋の前みたいに、ひとりで立っている形がはっきりしない。浴衣の柄も、子どもの声も、提灯の赤も、全部がごちゃごちゃに重なっていて、その中では自分の輪郭まで少し薄くなる気がした。
川べりの広場へ向かう道には、屋台が並んでいた。
金魚すくいの水面が電球を揺らしている。りんご飴の赤は、昼間よりずっと濃く見える。射的の景品には、小さいぬいぐるみと光る剣がぶら下がっていた。ぼくは人の流れに押されるみたいに歩きながら、ときどき立ち止まる。止まっても、すぐ後ろから別の人が来る。そのせわしなさが、今日はむしろありがたかった。
浴衣の女の子たちが、何人も目に入る。
白地に朝顔。濃い紺に花火。薄い桃色に小さな金魚。帯の色だけでもずいぶん違う。背中できっちり結ばれている子もいれば、少し柔らかく崩れている子もいる。うなじのところだけ白く見えて、髪を上げた首筋に汗が光っている。
いいな、と思った。
浴衣そのものが、というより、そういう姿でこの景色の中にいることがだ。提灯の下を歩いて、立ち止まって、屋台をのぞいて、誰にも変なふうに見られずにそこにいる。その自然さが、目に刺さるみたいにうらやましい。
自分も、いつかもっとちゃんと装いたいと思う。
女の子たちと同じになりたい、とは少し違う。ただ、裾の揺れ方も、足もとの見え方も、肩に乗る布の形も、この景色の中で途中で止まらないくらいには、きちんとしたい。
屋台の列の端で、ラムネの瓶が氷水に首まで浸かっていた。
青いガラスが光を返していて、喉が急に渇く。ぼくは少し迷ってから、列の後ろについた。前の子が焼きそばを受け取る。店の人が団扇で鉄板をあおぐ。ソースの甘い匂いがいっそう濃くなる。
「次、どうぞ」
言われて、ぼくは瓶のほうを見た。
「……ラムネ、一本」
声は、人のざわめきにまぎれるくらい小さかった。けれど店の人は普通に一本抜き出して、栓を押してくれた。玉が落ちる音が、ひとつ澄んで鳴る。
それだけのことなのに、胸のあたりが少し熱くなる。
お金を払って、冷たい瓶を受け取る。ガラスの首のところに水がついていて、指先がすべる。炭酸の甘い匂いが鼻に上がった。ぼくは人の流れから半歩だけ外れて、ひとくち飲む。
冷たい。
喉を通る音まで、自分にだけ聞こえた気がした。
そのまま川べりのほうへ出ると、風が少しあった。水の匂いが、屋台の油の匂いの下に混じっている。広場の向こうでは、やぐらのまわりに人が集まり始めていた。太鼓の音がさっきより近い。ラムネの瓶を持ったまま、ぼくは人の間を抜ける。
そのとき、後ろから来た子どもが急に走った。
肩に何かが当たる。瓶を落としそうになって、あわてて持ち直す。避けようとして一歩横へ出た足が、石の段差に引っかかった。身体が前へ傾く。裾が膝にからむ。次の一歩が出ない。
危ない、と思ったとき、腕をつかまれた。
ぐっと引かれて、身体が戻る。
ラムネの瓶が胸に当たって、少し痛かった。けれど転ばなかった。ぼくは息を止めたまま、その手の力だけを感じていた。細い指。手のひらは思っていたよりしっかりしていて、ひじの少し下をまっすぐ支えている。
「危ない。裾、踏まれる」
声がした。
聞いたことがある気がした。
やわらかいのに、言い方が正確で、そこだけはっきりしている。ぼくは顔を上げかけて、途中で止まった。上げたら終わる気がした。かわりに見えたのは、淡い色の浴衣の袖だった。白に近い地に、細い青の柄。帯は薄い灰色に見えた。
「……ありがとう」
それだけ言うのがやっとだった。
腕を離される。
その一瞬に、相手が前髪を耳にかけるみたいな動きをした気がした。ほんとうに見たのか、そう思っただけなのか、自分でもわからない。けれど胸の奥では、さっきまでと違う音がしていた。
顔を見たらいけない。
見られてもいけない。
ぼくはほとんど反射みたいに一歩下がった。ラムネの瓶を持ち直し、人の流れの中へ体をねじこむ。後ろから何か言われた気がしたけれど、太鼓の音と呼び声に飲まれて聞き取れない。提灯の赤が目の端で揺れる。浴衣の袖、団扇、子どもの頭、屋台ののぼり。その全部が重なって、もう振り返る場所がなかった。
広場を抜けて、橋の手前まで来て、やっと足が止まる。
喉がからからなのに、ラムネはもうぬるくなりかけていた。瓶の口を歯に当てそうになって、あわてて離す。左の腕だけが、まださっきの形のままだった。つかまれた場所に、指の幅が残っている気がする。
聞き覚えのある声だった。
そう思った瞬間、胸の奥がひやっとする。
気のせいかもしれない。祭りの人ごみの中なら、似た声なんていくらでもあるかもしれない。浴衣の色だって、よく見えていない。顔はぜんぜん見ていない。それでも、あの短い言い方だけが、教室の中で聞く声と勝手に重なりそうになって、ぼくは頭を振った。
帰ろうと思った。
まだ太鼓は続いていたし、花火までは時間がありそうだった。けれど、ここから先までいたら、また会うかもしれない。今度こそ顔を見られるかもしれない。そう思ったとたん、祭りの色が一気に遠くなる。
駅まで戻る道で、屋台の明かりがさっきよりまぶしかった。
人の流れに逆らうと、肩が何度もぶつかりそうになる。裾を踏まないように気をつける。足もとの石畳ばかり見て歩く。改札の前まで来たときには、ラムネは半分も減っていなかった。ごみ箱に捨てるとき、瓶の口が金属に当たって、軽い音が鳴る。
そのままだれでもトイレへ入った。
鍵をかけた途端、祭りの音が一段遠くなる。壁の向こうで太鼓が鳴っているのに、ここだけ白く明るくて、急に現実へ戻されたみたいだった。
靴のベルトを外す。汗のせいか、指先が少しすべる。ワンピースの裾が膝にまとわりつく。さっきまで外の風の中にあった布が、狭い個室の中では妙に近い。急いで脱ごうとするほど、腕や背中に張りついて、うまくいかない。
ようやくTシャツをかぶったとき、胸の奥だけがまだ祭りのままだった。
鏡の中には、いつもの小学生がいた。
水色のシャツ。半ズボン。見慣れた髪。さっきまでの提灯も、浴衣の袖も、そこには何も映っていない。なのに左の腕だけは、まだあの手の形を覚えている気がした。
脱いだ服をたたむ。白い靴下をそろえる。黒い靴を袋の底へ入れる。結び目をきつくしてからも、一度だけ左腕を押さえた。
電車の中では座れたのに、窓は見なかった。
映るものがこわかったからだ。膝の上で手さげ袋の口を握り、もう片方の手で、何度も左腕の同じところを押してしまう。浴衣の袖。淡い色。前髪を耳にかけるような動き。聞き覚えのある声。
家の最寄り駅へ着いたころには、祭りの音はもうどこにもなかった。
玄関の明かりはついていた。母に「遅かったね」と言われて、ぼくは「本屋、人多かった」とだけ答える。靴を脱ぐ手つきが少し乱れて、スニーカーのかかとを踏みかける。母は台所から「ごはん残してあるから」と言っただけだった。
部屋に戻って、引き出しを開ける。
水色の布をたたみ直す。白い靴下をそろえる。黒い靴を箱へ戻す。いつもなら、しまってしまえば少し静かになる。今日はそうならなかった。
服をしまい終わっても、左腕だけがまだ祭りの中にある。
つかまれたのはほんの一瞬なのに、その短さだけが消えない。助かった、と思うより先に、見られたかもしれない、という考えが戻ってくる。顔は上げなかった。たぶんちゃんとは見られていない。そう言い聞かせようとするたび、逆に、あの声が聞き覚えのあるものだったことだけが残る。
ベッドに腰を下ろす。
窓の外では、遠くのどこかでまだ花火が上がっているらしかった。音だけが、少し遅れて届く。ぼくは自分の腕にもう一度だけ触れて、それから手を離した。
見られたのかどうかは、まだわからない。
わからないままなのに、その夜は、祭りの提灯よりも、浴衣の袖よりも、腕をつかまれたときのひと言ばかりが長く残った。