ぼくの裾が揺れる春

第11話 似ていた子

 九月の朝の教室は、夏休みの前より少しだけにぎやかだった。

 窓は全部開いているのに、風は弱い。黒板の上の時計の音より、先に子どもたちの声が届く。日焼けした腕。机の横にぶら下がった水筒。自由研究の紙を丸めた筒。教室のそこかしこに、夏休みの続きみたいなものが残っていた。

 ぼくはランドセルを机の横に掛けて、連絡帳と夏休みの宿題を順に出した。画用紙の角が少し折れている。指でそこをならしてから、ノートの端をそろえる。

「相沢、おはよ。焼けてなさすぎだろ」

 横から声が落ちてきた。蓮がもうこっちの机に半分もたれかかっている。

「……別に、外あんまり行ってないし」

「俺なんか見て。ほら」

 腕を出してくる。たしかに少し色が濃くなっていた。

「町内プール三回でこれ。安い」

「安いって何」

「努力の値段」

 朝からよくわからない。そう思ったのに、口元が少しだけ動いたらしい。蓮はすぐにそれを見つけた。

「いま笑った」

「笑ってない」

「いや、いまのは笑ったって」

 向こうから、ひよりの声が飛んでくる。

「朝からうるさい。先生来る前にもう疲れるんだけど」

 言いながら、ひよりは自分の机の上でプリントの束をそろえていた。爪の先で端をぴたりと合わせて、それから前髪を耳にかける。夏休みのあいだに少しだけ髪が伸びたのか、耳の横へ流れる量が前より増えて見えた。

 二学期の最初のホームルームは、提出物と予定の確認だけで終わった。先生の声より、後ろの席で小さく回しているお土産の箱の音のほうが気になる。包装のこすれる音。飴の袋の色。紙袋の中で当たるプラスチックの音。

 一時間目と二時間目のあいだの休み時間、教室はすっかり夏休みの続きになっていた。

 海へ行った話。祖父母の家の話。花火。虫取り。祭り。言葉があちこちで跳ねていて、黒板の前まで出なくても誰かの思い出が勝手に耳へ入る。

 ぼくは机の上でシャーペンを持ったまま、漢字ドリルを開いていた。書くつもりだった字を、まだ一画も書いていない。

「私、この前の祭りで、すごいかわいい子見たんだよね」

 ひよりの声が、二つ前の列から聞こえた。

 胸の奥じゃなくて、先に左腕のところが固くなった。

 顔を上げる前に、シャーペンの先が紙にひっかかった。細い線が、書くはずじゃないところへ伸びる。

「え、なにそれ。男?」

 蓮がすぐ食いつく。

「なんでそうなるの」

「かわいい子って言ったじゃん」

「言ったけど、そういう話じゃない」

 ひよりは笑いながら否定して、それでも少し考えるみたいに首を傾けた。

「人にぶつかりそうになってて。危ないから、ちょっと支えただけなんだけど」

 その一言で、紙の上の線がもう一度ずれた。

 太鼓の音。提灯の赤。ラムネの瓶の冷たさ。左腕をつかまれた場所だけ、あの夜のまま戻ってくる。

「顔はちゃんと見えなかったの。すぐ行っちゃったし」

「じゃあかわいいかどうかわかんなくない?」

「わかるでしょ、雰囲気で」

 ひよりはそう言って、自分のハンカチの角を指で折った。何でもないしぐさなのに、ぼくはその指先まで見てしまう。

「薄い色の服で、たぶんワンピースだったと思う。夏っぽい感じで」

 喉の奥が急に乾いた。

 教室の窓は開いているのに、風が来ない。消しゴムのかすが机に貼りつく。ぼくはシャーペンを持つ手に力を入れすぎて、芯を折った。

 ぱき、と小さい音がした。

 真帆が斜め前から振り向く。

「相沢くん、芯」

「……あ」

 蓮までこっちを見る。ぼくはあわててシャーペンを持ち直した。

「だいじょうぶ?」

 ひよりがそう言った。

 その声に悪意はない。ただ、さっきまで祭りの話をしていた同じ口で言われたせいか、ぼくには妙に近く聞こえた。

「うん。別に」

 言いながら、新しい芯を出そうとしてうまく入らない。ケースのふたが指に引っかかる。普段ならこんなことしないのに、今日は手元のほうがぼくより先に落ち着かない。

「それでさ」

 蓮はもう話の続きを待っていた。

「知ってる子に似てたとか、そういうやつ?」

 その言い方に、心臓が一回だけ強く鳴る。

 ひよりはすぐには答えなかった。机の上に置いた指を少しだけ動かして、それから笑う。

「そこまでじゃないんだけど。でも、なんか見たことある感じだった」

「こわ。前世じゃん」

「ちがうって」

 まわりが笑う。ぼくも笑った顔をしなきゃいけない気がしたけれど、口元だけがうまく動かなかった。

「祭りなんて人多いし、似てる人くらいいるでしょ」

 出た声は、自分で思ったより早かった。

 言ってから、余計だったと思う。

 蓮が「お、相沢が会話に入ってきた」と変なところで感心した顔をする。ひよりはこっちを見た。まっすぐじゃなく、少しだけ横から。前みたいにすぐ返事をするんじゃなく、半拍ぶんだけ置いてから言う。

「まあ、そうなんだけどね」

 それだけだった。

 でも、その短さが、かえって残った。

 三時間目のあいだ、黒板の字は見えていたのに、頭に入ったのは半分もなかった。ノートの上の自分の字が、いつもより少し細い。先生に当てられなくてよかったと思う。蓮は途中で消しゴムを落として、真帆に「静かにして」と小さい声で言われていた。ひよりは窓側の席で、外の雲を一度だけ見てからノートへ戻る。その横顔を見た瞬間、祭りの夜の浴衣の袖が勝手に重なりそうになって、ぼくはすぐ目を落とした。

 給食の時間になっても、食欲はあまり戻らなかった。

 スプーンでポタージュをすくっていると、向かいの蓮が言う。

「相沢、今日ほんと変」

「朝から言ってる」

「朝から変だからな」

「それ、理由になってないでしょ」

 ひよりがパンの袋を開けながら入ってくる。ふつうのやりとりの速さだった。ふつうの顔だった。なのに、ぼくにはそこへひとつ余計な意味が混ざって見える。

「夏休みボケじゃない?」

 ひよりがそう言って、牛乳瓶のふたを机の端に置く。

「相沢くん、休み中ずっと家いた感じするし」

 いつもなら軽く返せたかもしれない。けれど今日は、「家」という言葉だけで机の引き出しの中まで思い出してしまう。

「……そんなことない」

 思ったより強く聞こえたらしい。ひよりが一瞬だけ目を上げる。蓮も口を閉じた。

 その短い沈黙を、真帆だけが見ていた気がした。

 掃除の時間、ぼくは黒板の溝にたまった白い粉を集めた。小さいチョークの欠片がいくつも出てくる。窓から入る風は弱いのに、カーテンの端だけが少し揺れていた。

「相沢くん」

 後ろから静かな声がした。真帆だった。

 ぼくが振り向くと、真帆は机を運ぶ手を止めないまま言う。

「さっきから、消し方が雑」

「……え」

「そこ、まだ残ってる」

 ほんとうに少しだけ、白い線が残っていた。ぼくはあわてて黒板消しを持ち直す。

 真帆はそれ以上何も言わなかった。ただ、自分の机を少しずらして、通りやすいように端へ寄せる。その手つきが妙に静かで、逆に落ち着かなかった。

 放課後、教室の空気がまたほどける。

 ランドセルへノートをしまう。筆箱を入れる。連絡帳を入れる。順番を間違えないようにしているのに、手だけが少し急いでいる。ここから早く出たかった。ひよりがまだ教室にいるうちに帰るのが、今日はなぜかむずかしい。

「相沢、もう帰んの?」

 蓮が後ろから言う。

「……うん」

「はや」

「宮下くんが遅いだけ」

 ひよりがそう言って笑った。笑い方はいつもと同じなのに、ぼくは顔を上げられない。ランドセルの金具を閉める音だけがやけに大きかった。

 教室の戸に手をかけたとき、後ろからまた声がした。

「相沢くん」

 今度は、真帆だった。

 廊下へ半歩出たところで止まる。振り向くと、真帆は教室の中にはいないで、いつのまにか戸の近くまで来ていた。真正面じゃなく、少しだけ斜めの位置に立っている。

「このあと、少し時間ある?」

 責める声じゃなかった。

 だから、余計に逃げにくかった。

 廊下の向こうでは、ほかのクラスの子たちが笑いながら階段を下りていく。窓の外の光はまだ白い。教室の中では、蓮が何か言って、ひよりが短く笑った。そのいつもの音の前で、ぼくはランドセルの肩紐を握ったまま、すぐに返事ができなかった。

「……なんで」

 やっと出た声は、自分で思ったより小さかった。

 真帆は少しだけ目を伏せて、それからこっちを見る。

「無理に言わなくていいけど」

 そこで一度、言葉が切れた。

 その短い間のほうが、続きよりこわい。

「今日、朝倉さんが祭りの話をしたとき、相沢くんだけ、止まったから」

 廊下の空気が急に薄くなった気がした。

 ぼくは何も言えない。否定しようとしたのに、喉の奥で声が引っかかる。ランドセルの端を持つ指に、少しずつ力が入る。

 真帆はそれを見ていた。

 見ているのに、追いつめるみたいには近づいてこない。

「たぶん、私の勘違いかもしれない」

 静かな声だった。

「でも、なにか隠してるなら、ひとりで困ってるのかなと思った」

 ひとりで、という言葉だけが先に残る。

 教室の中から、椅子を引く音がした。蓮の笑い声も、ひよりの声も、もうさっきまでと同じ近さでは聞こえなかった。

 ぼくは返事の代わりに、肩紐を握り直した。

 逃げたいのか、止まりたいのか、自分でもまだわからない。そのわからなさごと見られている気がして、顔を上げるのがむずかしい。

 真帆は待っていた。

 急かさないまま、ただそこにいた。

 ぼくはようやく、乾いた喉の奥から声を押し出す。

「……少しだけなら」

 言った瞬間、もう戻れない気がした。
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