ぼくの裾が揺れる春
第12話 隠し場所
「……少しだけなら」と言ってからも、足はすぐ動かなかった。
真帆は急かさず、教室の外へ出た。ぼくも半歩遅れてついていく。渡り廊下の手前で真帆が立ち止まった。真正面じゃなく、少し斜めに立つ。
「今日じゃなくてもいいけど」
静かな声だった。
「このまま帰ると、またひとりで考えすぎるでしょ」
「……別に」
真帆は少し待ってから、うなずいた。
「またでいいよ。無理に今じゃなくていいから」
それだけ言って先に階段のほうへ歩いていく。ぼくはその背中を見ながら、助かったのか、先延ばしになっただけなのか、自分でもわからなかった。
その夜も、家ではいつもの顔をした。
夕飯のあいだ、母はきゅうりを切りながら、近所のスーパーの安売りの話をした。父は途中でテレビのニュースに短く相づちを打つ。ぼくも、出された味噌汁を飲んで、ごはんを食べて、ふつうに返事をした。
けれど、ふつうの顔をしているぶんだけ、胸の奥では別のことが止まらなかった。
真帆の「またでいいよ」と、祭りの夜の「危ない。裾、踏まれる」が、変な近さで残っている。そのあいだに、自分の部屋の机の引き出しまで入ってくる。
土曜日の朝、母はカーテンを外しながら言った。
「今日ちょっと風あるから、部屋の掃除しちゃおうか」
ぼくは食卓で牛乳のコップを持ったまま顔を上げた。
「……自分でやる」
「そう? でも机の下とか、けっこう埃たまってるでしょ」
母はもう決めているみたいな手つきで、洗濯かごにカーテンを入れていく。明るい声だった。ふだんの、家のことを片づけるときの声だ。
その明るさのまま二階へ来られたら、困る。
ぼくは朝ごはんをいつもより早く飲みこんで、自分の部屋へ上がった。机の前にしゃがむ。引き出しの奥の水色。靴下。小さな鏡。下には黒い靴の箱。どれも、そこにあるだけで昨日までの秘密のままだったのに、母の「掃除」という言葉が近づいただけで、急にむきだしになる気がする。
とりあえず箱を出そうとして、そこで廊下の床が鳴った。
「湊、窓開けるよー」
声が近い。
あわてて引き出しを押し込み、靴箱のふたを閉める。間に合ったと思ったときには、もうドアが半分開いていた。
母は腕に洗濯かごを抱えたまま、部屋の中を見回す。ベッドの上、机の横、窓ぎわの本の山。そこへ、いつもの家の目が入る。そのことだけで、喉の奥が細くなる。
「ほら、カーテン外すから、そこどいて」
ぼくは机の前から立ち上がる。母は脚立も使わずに背伸びして、器用にフックを外していく。外した布の端が、ぼくの肩にかすった。
「あとで掃除機もかけたいし、机ちょっと動かすね」
その一言で、胸の中がひっくり返った。
「いい」
思ったより強い声が出た。
母の手が止まる。
「……何が?」
「机。いい、自分でやるから」
「自分でやるって、掃除機くらいかけるだけでしょ」
そう言いながら、母は机の横へ回る。ぼくは反射みたいにその前へ一歩出た。
「いいって」
自分でもわかるくらい、言い方が固かった。
母は何も言わず、ぼくの顔を見た。それから視線だけが下へ落ちる。机の下、靴箱の角が少しだけ見えている。ふだんなら気にもとめないようなものなのに、いまはそこだけ明るく浮いて見えた。
「その箱、なに?」
肩のあたりが冷えた。
「……捨てないやつ」
「中、まだ使うもの入ってるの?」
「うん」
母はすぐにはしゃがまなかった。ただ洗濯かごを持ち直して、部屋の真ん中に置く。その手つきの遅さのほうがこわい。
「大事なものなら、勝手に触らないよ」
やわらかい声だった。
「でも、そんなに慌てなくてもいいでしょ」
ぼくは返事ができない。靴箱を見られたくなくて、その前に立ったままになる。
母はもう一度だけぼくを見て、それから椅子の背に掛けてあったシャツを取った。襟の折れを指で直し、しわを払う。いつもと同じ手つきだった。
「最近、部屋のことになると変だよ」
その言い方に、責める棘はなかった。
ないのに、余計に痛い。
「別に」
「別に、で済ませるならいいけど」
母はそれ以上聞かなかった。カーテンを抱え直し、ドアのところで一度だけ立ち止まる。
「掃除機、あとで自分でちゃんとかけてよ。埃、咳出るんだから」
「……うん」
ドアが閉まる。
閉まってからもしばらく、ぼくは机の前から動けなかった。
助かった、と思う前に、自分の声の強さだけが残る。母は勝手に箱を開けなかった。ただ、いつもの明るさを少しだけ引っこめて出ていった。
ああいう言い方を、母にしたかったわけじゃない。
机の下を守れたのに、その代わりに、さっきの自分だけが部屋の中に残っている気がした。
昼すぎ、掃除機をかける音が一階から上がってきた。階段のところで止まり、また遠ざかる。そのたびに、机の下の箱が急に頼りなく見える。
ここはもう駄目だと思った。
引き出しも、机の下も、見つけようと思えばすぐ見つかる。最初に隠したときは、それで足りると思っていたのに、いまは部屋じゅうのどこにもほんとうの奥がない気がした。
夕方まで待って、母が台所にいる音を確かめてから、ぼくは引き出しを開けた。
水色のワンピースを取り出す。白い靴下、小さな鏡、たたんだハンカチ。靴箱から黒い靴も出す。箱のままでは目立ちすぎる気がして、古いタオルで包んだ。布が擦れる音が、いつもより大きい。部屋の中の小さな音ほど、家じゅうに広がる気がする。
押し入れを開ける。
季節外れの毛布、使っていない旅行かばん、前の町から持ってきたままの紙袋。どれも家のものだ。家の中にある以上、どこまで行っても誰かの手が届く。そう思いながら、いちばん奥のスポーツバッグの口を開ける。もう使っていないはずのやつで、ファスナーの端が少し色あせていた。
そこへ水色の布を入れる。
白い靴下。鏡。黒い靴。クリーム色のカーディガンも、少しためらってから畳み直して重ねる。入れ終わってファスナーを閉める。場所を変えただけなのに、前の引き出しへ戻すほうが、もうむずかしい気がした。
夜、布団に入っても寝つけなかった。
母の足音が廊下を行き来する。洗いものの音が止む。テレビが消える。風呂場のドアが閉まる。そういういつもの家の音が、今日はひとつずつ自分の部屋へ近づいてくるみたいだった。
廊下を歩く足音が、部屋の前で一度だけ止まる。
息が浅くなる。
ノックはない。ドアも開かない。ただ、そこに人が立っているとわかるくらいの短さだけあって、それからまた遠ざかっていく。
母はたぶん、まだ何も知らない。知らないまま気にしている。そのことが、見つかるより先に痛かった。
ぼくは布団の中で目を閉じたまま、指先だけを握った。
学校では真帆に見られている気がする。家では母が何かに触れかけている。そのどちらも、まだ決定的ではない。ないのに、秘密だけが前よりずっと狭い場所へ押しこまれている。
服を捨てたいわけじゃない。
でも、こうして隠し場所を変えるたびに、自分まで家の中で見つからないように小さくなっていく気がした。
月曜日の放課後、教室はいつもより早く空いていった。
ぼくはノートをランドセルへしまいながら、できるだけゆっくり手を動かした。急いで見えないようにしたかったのに、逆に筆箱の角が何度も引っかかる。ひよりは友達と先に廊下へ出ていって、蓮はまだ後ろの席で消しゴムを探していた。
顔を上げると、教室の戸のところに真帆がいた。
先に行くでもなく、呼ぶでもなく、ただそこに立っている。こっちが見るのを待っていたみたいに、目だけが動く。
「相沢くん」
声は小さかった。
「今日、少しだけ話せる」
ランドセルのファスナーを閉める音が、自分の手元でひどく大きく鳴った。
真帆は急かさず、教室の外へ出た。ぼくも半歩遅れてついていく。渡り廊下の手前で真帆が立ち止まった。真正面じゃなく、少し斜めに立つ。
「今日じゃなくてもいいけど」
静かな声だった。
「このまま帰ると、またひとりで考えすぎるでしょ」
「……別に」
真帆は少し待ってから、うなずいた。
「またでいいよ。無理に今じゃなくていいから」
それだけ言って先に階段のほうへ歩いていく。ぼくはその背中を見ながら、助かったのか、先延ばしになっただけなのか、自分でもわからなかった。
その夜も、家ではいつもの顔をした。
夕飯のあいだ、母はきゅうりを切りながら、近所のスーパーの安売りの話をした。父は途中でテレビのニュースに短く相づちを打つ。ぼくも、出された味噌汁を飲んで、ごはんを食べて、ふつうに返事をした。
けれど、ふつうの顔をしているぶんだけ、胸の奥では別のことが止まらなかった。
真帆の「またでいいよ」と、祭りの夜の「危ない。裾、踏まれる」が、変な近さで残っている。そのあいだに、自分の部屋の机の引き出しまで入ってくる。
土曜日の朝、母はカーテンを外しながら言った。
「今日ちょっと風あるから、部屋の掃除しちゃおうか」
ぼくは食卓で牛乳のコップを持ったまま顔を上げた。
「……自分でやる」
「そう? でも机の下とか、けっこう埃たまってるでしょ」
母はもう決めているみたいな手つきで、洗濯かごにカーテンを入れていく。明るい声だった。ふだんの、家のことを片づけるときの声だ。
その明るさのまま二階へ来られたら、困る。
ぼくは朝ごはんをいつもより早く飲みこんで、自分の部屋へ上がった。机の前にしゃがむ。引き出しの奥の水色。靴下。小さな鏡。下には黒い靴の箱。どれも、そこにあるだけで昨日までの秘密のままだったのに、母の「掃除」という言葉が近づいただけで、急にむきだしになる気がする。
とりあえず箱を出そうとして、そこで廊下の床が鳴った。
「湊、窓開けるよー」
声が近い。
あわてて引き出しを押し込み、靴箱のふたを閉める。間に合ったと思ったときには、もうドアが半分開いていた。
母は腕に洗濯かごを抱えたまま、部屋の中を見回す。ベッドの上、机の横、窓ぎわの本の山。そこへ、いつもの家の目が入る。そのことだけで、喉の奥が細くなる。
「ほら、カーテン外すから、そこどいて」
ぼくは机の前から立ち上がる。母は脚立も使わずに背伸びして、器用にフックを外していく。外した布の端が、ぼくの肩にかすった。
「あとで掃除機もかけたいし、机ちょっと動かすね」
その一言で、胸の中がひっくり返った。
「いい」
思ったより強い声が出た。
母の手が止まる。
「……何が?」
「机。いい、自分でやるから」
「自分でやるって、掃除機くらいかけるだけでしょ」
そう言いながら、母は机の横へ回る。ぼくは反射みたいにその前へ一歩出た。
「いいって」
自分でもわかるくらい、言い方が固かった。
母は何も言わず、ぼくの顔を見た。それから視線だけが下へ落ちる。机の下、靴箱の角が少しだけ見えている。ふだんなら気にもとめないようなものなのに、いまはそこだけ明るく浮いて見えた。
「その箱、なに?」
肩のあたりが冷えた。
「……捨てないやつ」
「中、まだ使うもの入ってるの?」
「うん」
母はすぐにはしゃがまなかった。ただ洗濯かごを持ち直して、部屋の真ん中に置く。その手つきの遅さのほうがこわい。
「大事なものなら、勝手に触らないよ」
やわらかい声だった。
「でも、そんなに慌てなくてもいいでしょ」
ぼくは返事ができない。靴箱を見られたくなくて、その前に立ったままになる。
母はもう一度だけぼくを見て、それから椅子の背に掛けてあったシャツを取った。襟の折れを指で直し、しわを払う。いつもと同じ手つきだった。
「最近、部屋のことになると変だよ」
その言い方に、責める棘はなかった。
ないのに、余計に痛い。
「別に」
「別に、で済ませるならいいけど」
母はそれ以上聞かなかった。カーテンを抱え直し、ドアのところで一度だけ立ち止まる。
「掃除機、あとで自分でちゃんとかけてよ。埃、咳出るんだから」
「……うん」
ドアが閉まる。
閉まってからもしばらく、ぼくは机の前から動けなかった。
助かった、と思う前に、自分の声の強さだけが残る。母は勝手に箱を開けなかった。ただ、いつもの明るさを少しだけ引っこめて出ていった。
ああいう言い方を、母にしたかったわけじゃない。
机の下を守れたのに、その代わりに、さっきの自分だけが部屋の中に残っている気がした。
昼すぎ、掃除機をかける音が一階から上がってきた。階段のところで止まり、また遠ざかる。そのたびに、机の下の箱が急に頼りなく見える。
ここはもう駄目だと思った。
引き出しも、机の下も、見つけようと思えばすぐ見つかる。最初に隠したときは、それで足りると思っていたのに、いまは部屋じゅうのどこにもほんとうの奥がない気がした。
夕方まで待って、母が台所にいる音を確かめてから、ぼくは引き出しを開けた。
水色のワンピースを取り出す。白い靴下、小さな鏡、たたんだハンカチ。靴箱から黒い靴も出す。箱のままでは目立ちすぎる気がして、古いタオルで包んだ。布が擦れる音が、いつもより大きい。部屋の中の小さな音ほど、家じゅうに広がる気がする。
押し入れを開ける。
季節外れの毛布、使っていない旅行かばん、前の町から持ってきたままの紙袋。どれも家のものだ。家の中にある以上、どこまで行っても誰かの手が届く。そう思いながら、いちばん奥のスポーツバッグの口を開ける。もう使っていないはずのやつで、ファスナーの端が少し色あせていた。
そこへ水色の布を入れる。
白い靴下。鏡。黒い靴。クリーム色のカーディガンも、少しためらってから畳み直して重ねる。入れ終わってファスナーを閉める。場所を変えただけなのに、前の引き出しへ戻すほうが、もうむずかしい気がした。
夜、布団に入っても寝つけなかった。
母の足音が廊下を行き来する。洗いものの音が止む。テレビが消える。風呂場のドアが閉まる。そういういつもの家の音が、今日はひとつずつ自分の部屋へ近づいてくるみたいだった。
廊下を歩く足音が、部屋の前で一度だけ止まる。
息が浅くなる。
ノックはない。ドアも開かない。ただ、そこに人が立っているとわかるくらいの短さだけあって、それからまた遠ざかっていく。
母はたぶん、まだ何も知らない。知らないまま気にしている。そのことが、見つかるより先に痛かった。
ぼくは布団の中で目を閉じたまま、指先だけを握った。
学校では真帆に見られている気がする。家では母が何かに触れかけている。そのどちらも、まだ決定的ではない。ないのに、秘密だけが前よりずっと狭い場所へ押しこまれている。
服を捨てたいわけじゃない。
でも、こうして隠し場所を変えるたびに、自分まで家の中で見つからないように小さくなっていく気がした。
月曜日の放課後、教室はいつもより早く空いていった。
ぼくはノートをランドセルへしまいながら、できるだけゆっくり手を動かした。急いで見えないようにしたかったのに、逆に筆箱の角が何度も引っかかる。ひよりは友達と先に廊下へ出ていって、蓮はまだ後ろの席で消しゴムを探していた。
顔を上げると、教室の戸のところに真帆がいた。
先に行くでもなく、呼ぶでもなく、ただそこに立っている。こっちが見るのを待っていたみたいに、目だけが動く。
「相沢くん」
声は小さかった。
「今日、少しだけ話せる」
ランドセルのファスナーを閉める音が、自分の手元でひどく大きく鳴った。