ぼくの裾が揺れる春
第13話 ひとり目の共有
月曜日の朝、ぼくは玄関で靴を履きながら、いつもより長くつま先を見ていた。
昨日、押し入れの奥へ移したスポーツバッグの形が、まだ頭のどこかに残っている。水色のワンピースも、白い靴下も、黒い靴も、机の引き出しに入っていたころより見えなくなったはずなのに、そのぶん家じゅうの暗い場所へ広がったみたいだった。
「いってきます」
台所から、母が「はい、気をつけて」と返す。油のはねる音がして、味噌汁の匂いが廊下まで流れてきた。昨日のことは何も言わない。明るい声も、朝の手つきも、いつも通りだ。そのいつも通りの前で、ぼくのほうだけが少しぎこちない。
駅までの道では、ランドセルの肩紐がやけに固く感じた。白い車が角を曲がる。横断歩道の白が朝日に浮く。前を歩く子の靴底が、乾いた音を立てる。そういうものを順番に見ていないと、放課後のことまで先に考えてしまいそうだった。
教室へ入ると、窓が開いていた。九月の風は弱くて、カーテンの端だけが少し動いている。蓮はもう来ていて、後ろの席の子と消しゴムを飛ばし合っていた。ひよりは連絡袋の中身を机に並べて、端をきっちりそろえている。真帆はノートを開いたまま、まだ何も書いていないらしいページを見ていた。
ぼくが席に着いても、真帆はすぐにはこっちを見なかった。
それが助かるような、落ち着かないような気持ちになる。
一時間目の前、先生が提出物を前へ回すように言った。ぼくは自分のプリントを前の席へ渡して、戻ってきた手を机の上に置く。少しだけ冷たい。
「相沢、今日また静かじゃね」
横から蓮の声が落ちてきた。
「いつもでしょ」
「いや、いつもより。朝から顔が宿題やってないやつ」
「やってるけど」
「ほんとかあ」
そう言って笑う。ひよりが向こうから、「人のこと見てないで自分のも出しなよ」と言うと、蓮は「朝から厳しい」と肩をすくめた。みんなの声はいつもと同じ速さで行ったり来たりしている。その中でぼくだけが、ひとつ遅れているみたいだった。
授業中、黒板の字は見えていたのに、頭に入るのは半分くらいだった。先生のチョークが折れる音、後ろの席の子がノートをめくる音、窓の外の運動場で跳ねたボールの音。そういう細かいものばかりが耳に残る。真帆の席を見ないようにしているのに、視界の端には何度も入ってきた。シャーペンのクリップを親指で押す癖。考えるとき、少しだけ手が止まること。前と同じなのに、今日はそれが全部、放課後へつながって見える。
休み時間、消しゴムを落とした。
机の脚の間へ転がって、かがもうとしたときには、真帆が先に拾っていた。
「はい」
「……ありがと」
それだけだった。指先も触れないくらい短い受け渡しなのに、胸の奥が少しうるさくなる。問いつめるみたいな目ではなかった。ただ、前と同じように静かな顔をしている。そのことが、かえって逃げにくい。
二時間目の図工では、色紙で秋の木を作ることになった。茶色と黄色と赤の紙が机に配られる。先生が見本を黒板の横に貼ると、ひよりがすぐに「葉っぱ多すぎない?」と言って近くの子を笑わせた。
「多いほうが秋っぽいんじゃないの」
「でも最初から完成してるとつまんないじゃん」
ひよりはそう言って、赤い色紙を二枚重ねてずらした。そういうところだけ、いつも妙に目に入る。色の置き方とか、端の揃え方とか、言い方の早さとか。ぼくが見ていたのに気づいたのか、ひよりが顔を上げた。
「相沢くん、それ黄色ばっかだと単調になりそう」
「……え」
「少し茶色入れたほうがいいかも」
言いながら、自分の紙片をひとつ摘んで見せる。見たままを言っているだけの声だった。そこへ意味を足さない話し方が、今日は妙にまぶしい。
「……うん」
受け取ったわけでもないのに、ぼくは自分の色紙を並べ直した。真帆は隣の列で、のりのふたを閉める手を止めずにこちらを一度だけ見て、それから何も言わなかった。
給食の時間も、蓮はいつも通りだった。
「相沢、牛乳あけるの遅い」
「そっちが早いだけでしょ」
「じゃあ勝負する?」
「何の」
「牛乳」
向かいでひよりがため息をつく。
「それ勝って何になるの」
「昼休みの名誉」
「いらない」
そんなやりとりが、今日は少しだけ遠く聞こえる。机の上に置いたスプーンの先で、スープの表面が揺れた。ぼくはパンをちぎりながら、放課後のことを考えないようにしていた。考えないようにするほど、その時間だけがはっきりしてくる。
帰りの会が終わるころには、外の光が少しやわらいでいた。机の脚が床を引く音が一斉にして、教室の空気がほどける。ランドセルへ連絡帳を入れる。筆箱を入れる。定規を入れる。順番は合っているのに、手だけが急いでいた。
「相沢くん」
声は、小さかった。
ぼくはすぐに顔を上げられない。
真帆は机の横に立っていた。真正面じゃなく、少し斜めに。いつかと同じ距離だった。
「今日、少し時間ある?」
喉の奥が乾く。
「……少しなら」
言ってから、もう遅いと思った。
真帆はうなずくだけで、先に教室を出た。ぼくも半歩遅れてついていく。廊下にはまだ何人か残っていて、上履きの音や笑い声が混ざっていた。渡り廊下まで来ると、人の気配が少し薄くなる。窓の外には運動場が見えて、鉄棒の影が長くのびていた。金網の向こうの空が、薄い水色から少しずつ白っぽく変わっている。
真帆は窓際で立ち止まった。ガラスの向こうに空が見える場所だった。
「無理なら、やっぱり言わなくていいけど」
最初にそう言う。
それで少し楽になるはずなのに、ぼくは逆に困る。
「この前の続き、っていうか」
真帆は手すりのほうを見たまま言った。
「朝倉さんが祭りの話したとき、相沢くんだけ、止まったから」
ぼくは返事ができない。
「勘違いかもしれないとは思ってる」
少し置いてから、真帆はこっちを見る。
「でも、困ってるなら話してもいい」
風が、ほんの少しだけ入った。シャツの袖が動く。ぼくはその端を指でつまみかけて、やめた。代わりにランドセルの肩紐を握る。そうしないと手の置き場がなかった。
「……変なこと、言うかもしれない」
やっと出た声は、自分で思ったより小さい。
真帆は首を振らない。ただ待っていた。
「ぼく、あの……」
そこで一度、喉が止まる。言葉にしようとすると、急に輪郭がはっきりしすぎてこわい。ずっと自分の部屋の引き出しや押し入れの奥に押し込んでいたものが、口から出た瞬間に、学校の明るさの中へ放り出される気がした。
「女の子の服、好きで」
それだけ言うのに、息が浅くなる。
真帆のまばたきが一度だけ止まった。驚いたのだと思う。でも、それだけだった。眉をひそめるわけでも、すぐ何かを決める顔になるわけでもない。
ぼくはもう一度、乾いた唇を閉じる。
「見るのが、じゃなくて。着るほう」
言い直すと、胸の奥が少し痛い。
「自分で買ってる。少しずつ。お小遣いとか、手伝ったぶんとかで」
真帆は何も挟まない。
「家で、誰もいないときに着てて。たまに、外にも出てる」
最後のところで、肩紐を持つ指に力が入った。
「外って」
真帆の声は静かなままだった。
「遠いところ?」
「……うん。五つ隣とか、もっと先とか」
言いながら、駅のトイレの白い壁や、祭りの提灯の赤が頭の中に戻ってくる。黒い靴のベルトを留める指。裾が膝に当たる感じ。ラムネの瓶の冷たさ。
「祭りの日も、その格好だった」
自分で言ってから、耳の奥まで熱くなった。
「朝倉さんに、見られたかもしれない」
その一言を出したとたん、急に足もとの感覚が遠くなる。渡り廊下の床は灰色で、ところどころ白い傷がついている。その細い線ばかり見てしまう。
真帆は少し長く黙っていた。
責める沈黙じゃなかった。でも、何も軽くしてくれない沈黙だった。
「……そう」
やっと出た声は、むやみにやさしくもしなかった。
「それは、思ってたより大きかった」
ぼくはそれに、少しだけ救われる。最初から全部わかっていたみたいに言われなかったからだ。
真帆は窓の桟に指を置いたまま、続ける。
「聞いていいなら、もう一つだけ」
「……なに」
「それで、あなたはどうしたいの」
すぐには意味が入ってこなかった。
「どう、って」
「やめたいのか。隠したいのか。誰かに知ってほしいのか」
真帆はぼくの顔を見ていた。
「相沢くん、さっきから困ることを言ってる。でも、自分でどうしたいかはまだ言ってない」
胸の奥で、何かが詰まる。
そんなふうに聞かれると思っていなかった。秘密がばれたかもしれない、気持ち悪いと思われるかもしれない、そういうこわさのほうばかり大きくて、その先を言葉にしたことがなかった。
やめたいのか。
それは違う、と思う。文具店の前で逃げたときも、ごみ箱の前で袋を持ったときも、結局捨てられなかった。押し入れの奥へ移してまで残した。
でも、誰かに知ってほしいのかと聞かれると、それもすぐには言えない。
知られたら終わると思っていたからだ。教室の空気も、ひよりの声も、蓮の軽口も、いまのままではなくなる気がして。
「……やめたいわけじゃない」
言ってから、喉が少し震えた。
真帆は黙っている。
「でも、知られたくない。というか」
言い直そうとして、うまくいかない。
「嫌われたく、ない」
そこでやっと、自分でもいちばん重いところに触れた気がした。
「気持ち悪いって思われたくないし。変だって、思われたくない。教室の……今の感じ、なくなるの、やだから」
最後のほうは、ほとんど息みたいな声になった。
風が渡り廊下を抜ける。窓枠が小さく鳴る。運動場の向こうで、誰かがボールを蹴った音がした。
真帆はすぐには返事をしなかった。手すりから指を離して、裾のあたりを一度だけ整える。
その小さな動きのあいだ、ぼくは何も言えないまま立っていた。いつもの放課後の続きみたいな場所なのに、ここだけ別の場所みたいに静かだった。
「びっくりはした」
ぼくは肩を固くする。
「でも」
真帆はそこで顔を上げた。
「私は、変だとは思わない」
その言い方は、きっぱりしていた。励ますために大きくした声じゃない。ただ、そこだけ曖昧にしないみたいな声だった。
ぼくはすぐには返事ができなかった。
わかってるよ、とも、大丈夫だよ、とも違う。かわいそうとも、珍しいとも言わない。ただ、変だとは思わないと言う。その狭さが、逆にほんとうに聞こえた。
「……そっか」
やっと、それだけ言う。
真帆は小さくうなずいた。
「全部どうするかは、すぐ決めなくていいと思う」
それから、少しだけ目線を外して言う。
「でも、ひとりで抱えてるよりは、たぶんまし」
渡り廊下のガラスに、ぼくたちの姿がうっすら映っていた。白いシャツにランドセルを背負ったぼくと、その少し斜め前に立つ真帆。見た目は何も変わっていないのに、そこへさっき言った言葉が重なっている気がした。
「……真帆さんは」
言いかけて、自分で少し驚く。名前を呼ぶつもりはなかった。
真帆も少しだけ目を見開いたが、何も言わずに待った。
「その、気づいてたの」
「全部じゃない」
すぐに返ってくる。
「でも、朝倉さんの話したときの顔と、前からたまに服のほう見てるのと」
そこまで言って、真帆は少しだけ言い直した。
「見てるっていうか、目が止まるから」
ぼくは反射みたいに顔が熱くなる。
「……ごめん」
「別に、責めてない」
真帆は静かなままだった。
「ただ、隠してることがあるのかなとは思ってた」
その言い方に、少しだけ救われる。全部を見抜かれていたわけじゃない。勝手に名前をつけられていたわけでもない。ただ、ずれているところを拾われていた。
「朝倉さんには」
言いかけて、喉がまた細くなる。
「まだ、たぶん確かじゃないと思う」
真帆は窓の外を一度だけ見る。
「でも、気になってるのは本当かも」
ひよりの顔が頭に浮かぶ。祭りの夜に見えた淡い浴衣の袖。教室で色紙を持つ指先。もっと笑えばいいのに、と言ったときの声。
「……こわい」
口に出したとたん、それは思っていたより小さい言葉に聞こえた。
真帆はそれを笑わなかった。
「うん」
うなずくだけで、余計なことは言わない。その短さがありがたかった。
しばらく、二人とも黙った。廊下の向こうで誰かが走って、先生に注意される声がした。運動場からは笛の音が一度だけ届く。学校はいつも通り動いている。その中で、ぼくのほうだけが少し違う場所へ来てしまったみたいだった。
でも、その違う場所に、真帆もちゃんと立っている。
「ありがと」
ようやく言うと、真帆は「うん」とだけ返した。
「帰る?」
「……うん」
渡り廊下を戻る。並ぶほど近くはなくて、離れすぎるほどでもない歩幅だった。教室の前まで来ると、もう中には誰もいなかった。夕方の光が机の上へ斜めに落ちている。ぼくは自分の席へ戻って、椅子を机の中へ入れた。真帆は窓を閉めに行って、金具をひとつずつ留める。そういう普通の動作のあいだに、さっきの会話がそのまま残っているのが不思議だった。
昇降口で靴を履き替えるとき、蓮の笑い声が外から聞こえてきた。ひよりもまだ校門のあたりにいるらしく、少し高い声が混じる。いつもなら、その声のある場所へ行くまでに少し身構えるのに、今日は違った。身構えはまだある。でも、全部を一人分の体で抱えて歩く感じが、ほんの少しだけ薄い。
外へ出ると、風が朝よりやわらかかった。校門の金属が夕日を返している。白い横断歩道の手前で立ち止まり、ぼくはガラスに映った自分の顔をちらりと見た。
笑っているわけではない。ただ、前より少しだけ、固くない。
押し入れの奥のスポーツバッグは、今日も家にある。
水色のワンピースも、白い靴下も、黒い靴も、何もなくなっていない。
でも、それを知っているのが、ぼくだけじゃなくなった。
そのことを、帰り道のあいだ何度も確かめていた。
昨日、押し入れの奥へ移したスポーツバッグの形が、まだ頭のどこかに残っている。水色のワンピースも、白い靴下も、黒い靴も、机の引き出しに入っていたころより見えなくなったはずなのに、そのぶん家じゅうの暗い場所へ広がったみたいだった。
「いってきます」
台所から、母が「はい、気をつけて」と返す。油のはねる音がして、味噌汁の匂いが廊下まで流れてきた。昨日のことは何も言わない。明るい声も、朝の手つきも、いつも通りだ。そのいつも通りの前で、ぼくのほうだけが少しぎこちない。
駅までの道では、ランドセルの肩紐がやけに固く感じた。白い車が角を曲がる。横断歩道の白が朝日に浮く。前を歩く子の靴底が、乾いた音を立てる。そういうものを順番に見ていないと、放課後のことまで先に考えてしまいそうだった。
教室へ入ると、窓が開いていた。九月の風は弱くて、カーテンの端だけが少し動いている。蓮はもう来ていて、後ろの席の子と消しゴムを飛ばし合っていた。ひよりは連絡袋の中身を机に並べて、端をきっちりそろえている。真帆はノートを開いたまま、まだ何も書いていないらしいページを見ていた。
ぼくが席に着いても、真帆はすぐにはこっちを見なかった。
それが助かるような、落ち着かないような気持ちになる。
一時間目の前、先生が提出物を前へ回すように言った。ぼくは自分のプリントを前の席へ渡して、戻ってきた手を机の上に置く。少しだけ冷たい。
「相沢、今日また静かじゃね」
横から蓮の声が落ちてきた。
「いつもでしょ」
「いや、いつもより。朝から顔が宿題やってないやつ」
「やってるけど」
「ほんとかあ」
そう言って笑う。ひよりが向こうから、「人のこと見てないで自分のも出しなよ」と言うと、蓮は「朝から厳しい」と肩をすくめた。みんなの声はいつもと同じ速さで行ったり来たりしている。その中でぼくだけが、ひとつ遅れているみたいだった。
授業中、黒板の字は見えていたのに、頭に入るのは半分くらいだった。先生のチョークが折れる音、後ろの席の子がノートをめくる音、窓の外の運動場で跳ねたボールの音。そういう細かいものばかりが耳に残る。真帆の席を見ないようにしているのに、視界の端には何度も入ってきた。シャーペンのクリップを親指で押す癖。考えるとき、少しだけ手が止まること。前と同じなのに、今日はそれが全部、放課後へつながって見える。
休み時間、消しゴムを落とした。
机の脚の間へ転がって、かがもうとしたときには、真帆が先に拾っていた。
「はい」
「……ありがと」
それだけだった。指先も触れないくらい短い受け渡しなのに、胸の奥が少しうるさくなる。問いつめるみたいな目ではなかった。ただ、前と同じように静かな顔をしている。そのことが、かえって逃げにくい。
二時間目の図工では、色紙で秋の木を作ることになった。茶色と黄色と赤の紙が机に配られる。先生が見本を黒板の横に貼ると、ひよりがすぐに「葉っぱ多すぎない?」と言って近くの子を笑わせた。
「多いほうが秋っぽいんじゃないの」
「でも最初から完成してるとつまんないじゃん」
ひよりはそう言って、赤い色紙を二枚重ねてずらした。そういうところだけ、いつも妙に目に入る。色の置き方とか、端の揃え方とか、言い方の早さとか。ぼくが見ていたのに気づいたのか、ひよりが顔を上げた。
「相沢くん、それ黄色ばっかだと単調になりそう」
「……え」
「少し茶色入れたほうがいいかも」
言いながら、自分の紙片をひとつ摘んで見せる。見たままを言っているだけの声だった。そこへ意味を足さない話し方が、今日は妙にまぶしい。
「……うん」
受け取ったわけでもないのに、ぼくは自分の色紙を並べ直した。真帆は隣の列で、のりのふたを閉める手を止めずにこちらを一度だけ見て、それから何も言わなかった。
給食の時間も、蓮はいつも通りだった。
「相沢、牛乳あけるの遅い」
「そっちが早いだけでしょ」
「じゃあ勝負する?」
「何の」
「牛乳」
向かいでひよりがため息をつく。
「それ勝って何になるの」
「昼休みの名誉」
「いらない」
そんなやりとりが、今日は少しだけ遠く聞こえる。机の上に置いたスプーンの先で、スープの表面が揺れた。ぼくはパンをちぎりながら、放課後のことを考えないようにしていた。考えないようにするほど、その時間だけがはっきりしてくる。
帰りの会が終わるころには、外の光が少しやわらいでいた。机の脚が床を引く音が一斉にして、教室の空気がほどける。ランドセルへ連絡帳を入れる。筆箱を入れる。定規を入れる。順番は合っているのに、手だけが急いでいた。
「相沢くん」
声は、小さかった。
ぼくはすぐに顔を上げられない。
真帆は机の横に立っていた。真正面じゃなく、少し斜めに。いつかと同じ距離だった。
「今日、少し時間ある?」
喉の奥が乾く。
「……少しなら」
言ってから、もう遅いと思った。
真帆はうなずくだけで、先に教室を出た。ぼくも半歩遅れてついていく。廊下にはまだ何人か残っていて、上履きの音や笑い声が混ざっていた。渡り廊下まで来ると、人の気配が少し薄くなる。窓の外には運動場が見えて、鉄棒の影が長くのびていた。金網の向こうの空が、薄い水色から少しずつ白っぽく変わっている。
真帆は窓際で立ち止まった。ガラスの向こうに空が見える場所だった。
「無理なら、やっぱり言わなくていいけど」
最初にそう言う。
それで少し楽になるはずなのに、ぼくは逆に困る。
「この前の続き、っていうか」
真帆は手すりのほうを見たまま言った。
「朝倉さんが祭りの話したとき、相沢くんだけ、止まったから」
ぼくは返事ができない。
「勘違いかもしれないとは思ってる」
少し置いてから、真帆はこっちを見る。
「でも、困ってるなら話してもいい」
風が、ほんの少しだけ入った。シャツの袖が動く。ぼくはその端を指でつまみかけて、やめた。代わりにランドセルの肩紐を握る。そうしないと手の置き場がなかった。
「……変なこと、言うかもしれない」
やっと出た声は、自分で思ったより小さい。
真帆は首を振らない。ただ待っていた。
「ぼく、あの……」
そこで一度、喉が止まる。言葉にしようとすると、急に輪郭がはっきりしすぎてこわい。ずっと自分の部屋の引き出しや押し入れの奥に押し込んでいたものが、口から出た瞬間に、学校の明るさの中へ放り出される気がした。
「女の子の服、好きで」
それだけ言うのに、息が浅くなる。
真帆のまばたきが一度だけ止まった。驚いたのだと思う。でも、それだけだった。眉をひそめるわけでも、すぐ何かを決める顔になるわけでもない。
ぼくはもう一度、乾いた唇を閉じる。
「見るのが、じゃなくて。着るほう」
言い直すと、胸の奥が少し痛い。
「自分で買ってる。少しずつ。お小遣いとか、手伝ったぶんとかで」
真帆は何も挟まない。
「家で、誰もいないときに着てて。たまに、外にも出てる」
最後のところで、肩紐を持つ指に力が入った。
「外って」
真帆の声は静かなままだった。
「遠いところ?」
「……うん。五つ隣とか、もっと先とか」
言いながら、駅のトイレの白い壁や、祭りの提灯の赤が頭の中に戻ってくる。黒い靴のベルトを留める指。裾が膝に当たる感じ。ラムネの瓶の冷たさ。
「祭りの日も、その格好だった」
自分で言ってから、耳の奥まで熱くなった。
「朝倉さんに、見られたかもしれない」
その一言を出したとたん、急に足もとの感覚が遠くなる。渡り廊下の床は灰色で、ところどころ白い傷がついている。その細い線ばかり見てしまう。
真帆は少し長く黙っていた。
責める沈黙じゃなかった。でも、何も軽くしてくれない沈黙だった。
「……そう」
やっと出た声は、むやみにやさしくもしなかった。
「それは、思ってたより大きかった」
ぼくはそれに、少しだけ救われる。最初から全部わかっていたみたいに言われなかったからだ。
真帆は窓の桟に指を置いたまま、続ける。
「聞いていいなら、もう一つだけ」
「……なに」
「それで、あなたはどうしたいの」
すぐには意味が入ってこなかった。
「どう、って」
「やめたいのか。隠したいのか。誰かに知ってほしいのか」
真帆はぼくの顔を見ていた。
「相沢くん、さっきから困ることを言ってる。でも、自分でどうしたいかはまだ言ってない」
胸の奥で、何かが詰まる。
そんなふうに聞かれると思っていなかった。秘密がばれたかもしれない、気持ち悪いと思われるかもしれない、そういうこわさのほうばかり大きくて、その先を言葉にしたことがなかった。
やめたいのか。
それは違う、と思う。文具店の前で逃げたときも、ごみ箱の前で袋を持ったときも、結局捨てられなかった。押し入れの奥へ移してまで残した。
でも、誰かに知ってほしいのかと聞かれると、それもすぐには言えない。
知られたら終わると思っていたからだ。教室の空気も、ひよりの声も、蓮の軽口も、いまのままではなくなる気がして。
「……やめたいわけじゃない」
言ってから、喉が少し震えた。
真帆は黙っている。
「でも、知られたくない。というか」
言い直そうとして、うまくいかない。
「嫌われたく、ない」
そこでやっと、自分でもいちばん重いところに触れた気がした。
「気持ち悪いって思われたくないし。変だって、思われたくない。教室の……今の感じ、なくなるの、やだから」
最後のほうは、ほとんど息みたいな声になった。
風が渡り廊下を抜ける。窓枠が小さく鳴る。運動場の向こうで、誰かがボールを蹴った音がした。
真帆はすぐには返事をしなかった。手すりから指を離して、裾のあたりを一度だけ整える。
その小さな動きのあいだ、ぼくは何も言えないまま立っていた。いつもの放課後の続きみたいな場所なのに、ここだけ別の場所みたいに静かだった。
「びっくりはした」
ぼくは肩を固くする。
「でも」
真帆はそこで顔を上げた。
「私は、変だとは思わない」
その言い方は、きっぱりしていた。励ますために大きくした声じゃない。ただ、そこだけ曖昧にしないみたいな声だった。
ぼくはすぐには返事ができなかった。
わかってるよ、とも、大丈夫だよ、とも違う。かわいそうとも、珍しいとも言わない。ただ、変だとは思わないと言う。その狭さが、逆にほんとうに聞こえた。
「……そっか」
やっと、それだけ言う。
真帆は小さくうなずいた。
「全部どうするかは、すぐ決めなくていいと思う」
それから、少しだけ目線を外して言う。
「でも、ひとりで抱えてるよりは、たぶんまし」
渡り廊下のガラスに、ぼくたちの姿がうっすら映っていた。白いシャツにランドセルを背負ったぼくと、その少し斜め前に立つ真帆。見た目は何も変わっていないのに、そこへさっき言った言葉が重なっている気がした。
「……真帆さんは」
言いかけて、自分で少し驚く。名前を呼ぶつもりはなかった。
真帆も少しだけ目を見開いたが、何も言わずに待った。
「その、気づいてたの」
「全部じゃない」
すぐに返ってくる。
「でも、朝倉さんの話したときの顔と、前からたまに服のほう見てるのと」
そこまで言って、真帆は少しだけ言い直した。
「見てるっていうか、目が止まるから」
ぼくは反射みたいに顔が熱くなる。
「……ごめん」
「別に、責めてない」
真帆は静かなままだった。
「ただ、隠してることがあるのかなとは思ってた」
その言い方に、少しだけ救われる。全部を見抜かれていたわけじゃない。勝手に名前をつけられていたわけでもない。ただ、ずれているところを拾われていた。
「朝倉さんには」
言いかけて、喉がまた細くなる。
「まだ、たぶん確かじゃないと思う」
真帆は窓の外を一度だけ見る。
「でも、気になってるのは本当かも」
ひよりの顔が頭に浮かぶ。祭りの夜に見えた淡い浴衣の袖。教室で色紙を持つ指先。もっと笑えばいいのに、と言ったときの声。
「……こわい」
口に出したとたん、それは思っていたより小さい言葉に聞こえた。
真帆はそれを笑わなかった。
「うん」
うなずくだけで、余計なことは言わない。その短さがありがたかった。
しばらく、二人とも黙った。廊下の向こうで誰かが走って、先生に注意される声がした。運動場からは笛の音が一度だけ届く。学校はいつも通り動いている。その中で、ぼくのほうだけが少し違う場所へ来てしまったみたいだった。
でも、その違う場所に、真帆もちゃんと立っている。
「ありがと」
ようやく言うと、真帆は「うん」とだけ返した。
「帰る?」
「……うん」
渡り廊下を戻る。並ぶほど近くはなくて、離れすぎるほどでもない歩幅だった。教室の前まで来ると、もう中には誰もいなかった。夕方の光が机の上へ斜めに落ちている。ぼくは自分の席へ戻って、椅子を机の中へ入れた。真帆は窓を閉めに行って、金具をひとつずつ留める。そういう普通の動作のあいだに、さっきの会話がそのまま残っているのが不思議だった。
昇降口で靴を履き替えるとき、蓮の笑い声が外から聞こえてきた。ひよりもまだ校門のあたりにいるらしく、少し高い声が混じる。いつもなら、その声のある場所へ行くまでに少し身構えるのに、今日は違った。身構えはまだある。でも、全部を一人分の体で抱えて歩く感じが、ほんの少しだけ薄い。
外へ出ると、風が朝よりやわらかかった。校門の金属が夕日を返している。白い横断歩道の手前で立ち止まり、ぼくはガラスに映った自分の顔をちらりと見た。
笑っているわけではない。ただ、前より少しだけ、固くない。
押し入れの奥のスポーツバッグは、今日も家にある。
水色のワンピースも、白い靴下も、黒い靴も、何もなくなっていない。
でも、それを知っているのが、ぼくだけじゃなくなった。
そのことを、帰り道のあいだ何度も確かめていた。