ぼくの裾が揺れる春

第14話 ふたり目、さんにん目

 火曜日の朝、ぼくは教室の戸を開ける前に、右の袖口を一度だけ引いた。

 昨日の放課後、渡り廊下で言ったことが、まだ喉の奥に薄く残っている。教室の中からは、いつもの笑い声と椅子を引く音が聞こえる。その中へ入れば、昨日までと同じ顔をしていられるのか、少しだけわからなかった。

 でも、戸を開けても何も変わっていなかった。

 蓮は後ろの席の子とじゃんけんしていて、負けたらしく「絶対いま後出しだった」と騒いでいる。ひよりは連絡帳を出しながら、机の上のプリントの角をぴたりとそろえていた。真帆は窓ぎわで、まだ何も書いていないノートの端に手を置いている。

 ぼくが席に着くと、真帆が一度だけこっちを見た。

 それだけだった。

 それだけなのに、昨日のつづきがまだ切れていないとわかる。

 一時間目の前、先生が黒板に日付を書いているあいだ、ぼくは筆箱の角を指で押していた。消しゴムを出して、戻して、また出す。必要もないのにそうしてしまう。

「相沢くん」

 小さい声が斜め前から来た。

 真帆は前を向いたまま、ノートの上に視線を落としている。

「今日の放課後、少しだけ」

 それだけ言って、もう何も足さなかった。

 ぼくは返事をしないまま、黒板へ目を戻す。心臓だけが、そこだけ聞いていたみたいに少し速い。

 授業のあいだも、真帆は昨日のことを思い出させるような顔をしなかった。蓮はいつも通り手を挙げる前から答えを言いかけて先生に止められたし、ひよりは図工の見本を見て「その色だと秋っていうよりお菓子っぽい」と言って近くの子を笑わせた。

 いつもの教室だった。

 そのいつもの中に、ぼくだけが昨日を持ち込んでいる。そう思っていたのに、昼休みになって窓際で牛乳を飲んでいると、真帆が隣まで来た。

 真正面じゃなく、半歩ずれた位置だった。

「無理ならやめるけど」

 先にそう言う。

「朝倉さんと宮下くんにも、話したほうがいいかもしれない」

 喉の奥がひゅっと細くなる。

「……なんで」

「朝倉さんは、たぶんまだ気になってる。宮下くんは、空気が変わると先にそこを見るから」

 真帆は窓の外を見たまま言った。

「誰かにばれるのが怖いなら、自分で選んで知らせるほうが、あとでましなこともある」

 ぼくはすぐには返せなかった。

 ひよりの顔が浮かぶ。祭りの夜の浴衣の袖。教室で色紙を持つ指。蓮の、悪気のない大きめの声。どっちも、いまのままの形で覚えていたかった。

「……いやだ」

 やっと出た声は、自分で思っていたより小さかった。

 真帆はすぐには何も言わない。

「そうだと思った」

 それから、少しだけ間を置いて続ける。

「でも、相沢くんがずっと朝倉さんの反応に怯えてるのも、宮下くんに変に勘づかれるのも、たぶん同じくらいしんどい」

 そこだけ、やわらかくなかった。

 責めているわけじゃない。ただ、逃がしっぱなしにしない言い方だった。

 ぼくは紙パックの角を指でつぶす。牛乳の冷たさより、そこへ残ったへこみのほうがはっきりしていた。

「今日じゃなくてもいい」

 真帆が言う。

「でも、話すなら私もいる」

 その一言で、少しだけ息が入った。

 放課後まで、ぼくはずっとそのことを考えていた。考えないようにすると、かえってそこへ戻る。ひよりがプリントを配る。蓮が定規を落とす。先生がチョークを折る。そういう細かいことのあいだに、放課後だけが残る。

 帰りの会が終わって、教室の空気がほどけるころには、もう逃げるのも面倒なくらい疲れていた。

 真帆は席を立つ前に、ぼくのほうを見た。

 急かす顔じゃなかった。うなずくかどうかを、ただ待っていた。

 ぼくは小さくうなずいた。

 真帆はそれを見て、ひよりの席のほうへ行く。何か短く話すと、ひよりが少しだけ目を見開いた。そのあと、こっちを見た。すぐ逸らさなかった。蓮には、真帆が「ちょっと残って」とだけ言ったらしい。蓮は「え、なんで俺も」と口では言いながら、鞄を背負い直してまた下ろした。

 教室に残ったのは四人だけだった。

 窓の外の光が、机の上で少しずつ薄くなる。誰もすぐには喋らない。その沈黙をいちばん先に破ったのは、蓮だった。

「……なんか、ごめん。俺、こういうの先に謝っといたほうがいい気がする」

 何に対してかは、自分でも決まっていないみたいな言い方だった。

 ひよりが「まだ何も聞いてないのに?」と小さく言う。

「だって空気がさ」

 蓮はそう言って頭をかいた。その軽さが、少しだけ助かった。

 ぼくは椅子の背にかけたままのランドセルを見た。肩紐の折れ目。机の脚の白い傷。そこを見てからでないと、口が動かなかった。

「……この前、祭りで」

 声が最初からかすれていた。

 ひよりの肩が、わずかに動く。

「朝倉さんが見たかもしれないの、たぶん、ぼくで」

 言った瞬間、耳の奥が熱くなる。

 蓮は「え」と小さく言ったきり黙った。ひよりはすぐには何も返さない。真帆だけが、少し斜めの位置で立ったまま待っていた。

「女の子の服、好きで」

 そこで一度、息を飲む。

 昨日より短く言えたわけじゃない。ただ、二度目だから、どこで息が詰まるかを少しだけ知っていた。

「見るのが、じゃなくて。着るほう。家で着てて、たまに外にも出てる」

 蓮の目が一度だけ大きくなる。ひよりはそのまま聞いている。顔つきは変わったのに、そこに嫌そうなものはまだなかった。

「祭りの日も、その格好で……それで、もしかしたら見られたかもしれないって」

 言い終わるころには、足もとの感覚が少し遠かった。

 教室の外を誰かが走っていく。笑い声が一度だけ近くなって、すぐ遠ざかる。ここだけ薄い膜の中みたいに静かだった。

 最初に口を開いたのは、ひよりだった。

「……そっか」

 思っていたよりずっと小さい声だった。

 それから、前髪を耳にかける。考えるときの癖だ、とぼくは前から知っている。

「びっくりはした」

 そこまで言って、ひよりは少しだけ目線を下げた。

「でも、なんか、変に納得もした」

 ぼくは顔を上げる。

「納得っていうの、感じ悪かったらごめん。でも、祭りのとき見た子、ちゃんと服が好きな感じしたから」

 その言い方に、胸の奥が小さく動く。

 変じゃない、と言われるのとも違う。かわいそうとも、珍しいとも違う。服が好きな感じ。その見え方で拾われることが、ぼくには思っていたよりまっすぐ入ってきた。

 蓮はまだ少し黙っていた。机の端を指で二回叩いて、それから言う。

「……あー。びっくりはした」

 ひよりとほとんど同じ出だしなのに、声の置き方が全然違う。

「したけど」

 そこで一回、視線が横へずれた。たぶん、自分の最初の反応まで見られたくないんだと思う。

「別にいいじゃん」

 言ったあと、自分でも少し照れたみたいに鼻をこする。

「その、なんていうか。相沢が相沢なのは変わんないし」

 変に聞こえるかなと思ったのか、蓮はすぐに言い直した。

「いや、雑だった。ごめん。そうじゃなくて。着たいなら着ればいいじゃんってこと」

 最後のほうは、いつもより少しだけ小さかった。

 その不器用さが、かえってほんとうに見えた。

 真帆はそこでようやく口を開いた。

「だから、先に話したほうがいいと思った」

 短く、それだけだった。

 ひよりがこっちを見る。祭りの話をしたときの、半拍置く目じゃない。もっと近くで、服そのものを見るときの目だった。

「いま、どんなの持ってるの」

 心臓がまた跳ねる。

「え」

「無理ならいい。でも、祭りのとき水色っぽかった。あれ、夏用の薄いやつでしょ」

 図星で、ぼくは返事が遅れる。

 ひよりは少しだけ口元をやわらげた。

「私、服の話として聞きたい」

 その言い方が、ずるいと思う。

 優しいからじゃない。逃げ道があるのに、そっちへ行きたくなくなる言い方だからだ。

「……水色のワンピース。白い靴下と、黒い靴」

「黒い靴」

 ひよりの声が少しだけ上がる。

「ベルトのあるやつ?」

「……うん」

「それなら、たぶん合ってる」

 ひよりはもう考え始めていた。色とか丈とか、見ていないものまで頭の中で並べている顔だった。

「似合う服、一緒に考えたい」

 その一言は、思っていたよりまっすぐだった。

 ぼくはうまく返事ができない。

 蓮が横から「うわ、もう始まった」と言う。いつもの軽口に近いのに、さっきまでの妙な固さは少し薄れている。

「でも、見るだけ見ないとわかんなくない?」

 そう言ったのは蓮だった。

 自分で言ってから、少しだけしまったという顔になる。

 真帆がそちらを見る。

「相沢くんが嫌なら、見ない」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 蓮はあわてて手を振った。

「無理やりじゃなくてさ。俺は服わかんないし、朝倉がたぶん黙んないし」

「黙るけど」

「黙ってないじゃん、いま」

 そのやりとりに、ひよりが初めて少し笑った。

「……見せるかどうかは、相沢くんが決めて」

 真帆が言う。

「でも、場所は学校じゃないほうがいいと思う」

 その週の金曜日、ぼくはスポーツバッグの中から水色のワンピースを取り出していた。

 押し入れの奥の暗さの中にしまっていたはずのものを、また外へ出す。白い靴下。黒い靴。クリーム色のカーディガンは迷って、結局置いていくことにした。ひよりが「まずは見たままのほうがいい」と言ったからだ。

 真帆の家には、宿題をやると言って集まることになっていた。そういう集まりなら、親に聞かれても不自然じゃない。そこまで段取りをつけたのも、だいたい真帆だった。

 ぼくは服をたたみ直して、いつもの勉強道具の下へ入れた。

 家を出る前、押し入れの前で少しだけ止まる。スポーツバッグの口は半分開いたままで、中の暗さが見えていた。そこへまた戻すつもりなのに、今日は取り出す手のほうが強い。

 真帆の家の部屋は、思っていたよりふつうだった。

 本棚。机。ベッド。窓際のカーテン。角をそろえて積まれたノート。そこへ蓮が入った途端、「なんか模範解答みたいな部屋」と言って真帆に「うるさい」と返される。ひよりは机の上の布製のペン立てを見て、「この色好き」と先にそっちを言った。

 そのやりとりのあいだも、ぼくの鞄だけがやけに重い。

 真帆がカーテンのある窓際を見て、「そこで着替えれば」と言った。開けたままの物言いなのに、押しつける感じがない。

「嫌ならやめていい」

 それも、ちゃんとついてくる。

 ぼくはうなずいて、鞄を持ったままカーテンの向こうへ入った。

 布一枚の向こうに、三人の気配がある。

 それだけで、駅のトイレとも家の鏡の前とも違う緊張があった。ワンピースを持つ手が少し汗ばんでいる。Tシャツを脱ぐ。靴下を履き替える。黒い靴のベルトを留める指が、いつもより遅い。

「相沢くん」

 カーテンの向こうから、ひよりの声がした。

「無理だったら、ほんとに出なくていいから」

 それを言われると、引っ込むほうが難しかった。

 ぼくは裾を一度だけならして、カーテンを少し開けた。

 三人の視線が一度に来る。

 その最初の一秒が、ものすごく長かった。

「……どう」

 声がひどく小さくなる。

 ひよりがいちばん先に近づきかけて、途中で止まった。真正面まで来ない。その止まり方で、見ようとしているのがぼくじゃなくて服だとわかる。

「水色、思ってたよりちゃんと合ってる」

 最初に出たのは、それだった。

「靴も黒で正解。白すぎるのより、こっちのほうが締まる」

 次の言葉もすぐ来る。その速さに、ぼくは少しだけ息を忘れる。

 真帆は少し離れたところから見ていた。

「裾、もう少しだけ落ち着いて持ったほうがいいかも」

 そう言って、ぼくが無意識につまんでいた端を指す。

 ぼくはあわてて手を離した。離すと、裾がすとんと落ちる。

 蓮は一度だけ目をそらして、それからもう一回ちゃんと見る。

「……いいじゃん」

 それは教室で聞いたのと同じ言葉なのに、今度は少し違って聞こえた。

「なんか、思ってたよりずっと、ちゃんとしてる」

 言ってから、蓮は自分の言い方が変だったと思ったのか、頭をかく。

「いや、ちゃんとしてるってなんだよって感じだけど。変とかじゃなくて」

「わかる」

 ひよりが短く言う。

「わかるけど、それ説明しだすと変になるやつ」

 その一言で、部屋の空気が少しだけほどけた。

 ぼくはまだ立ったままだった。立ったままなのに、さっきより床が遠くない。誰かに見られているのに、逃げなくていい。

 ひよりが目線を少し下げる。

「今度、靴下もう少し長いのでも見てみたい」

 真帆は「それは次」と言った。

 蓮が「次あるんだ」と笑う。

 その笑いに、引いた感じはなかった。

 カーテンの向こうへ戻って着替え直すあいだ、手の震えはもうさっきほどじゃなかった。Tシャツの袖を通す。いつもの服の形へ戻る。戻るのに、何かをしまい直した感じが前より薄い。

 帰り道、鞄の中にはまた水色の布と黒い靴が入っていた。

 中身は同じだ。

 でも、歩くたびに聞こえるのは、もうビニールの擦れる音だけじゃなかった。ひよりの、色を見て言う声。真帆の、短く直す声。蓮の、少し不器用な「いいじゃん」。

 押し入れの奥へ戻すとき、ぼくは前みたいに急いでファスナーを閉めなかった。
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