ぼくの裾が揺れる春

第15話 鏡の前の四人

 水曜日の放課後、ぼくは帰りの会が終わる前から、机の横の鞄を一度だけ足で寄せた。

 昨日、真帆の家で服を見せてから、教室の中にある三人の顔が少しだけ違って見える。違って見えるのに、向こうはそれを大げさにしない。ひよりはいつも通り先生の話を半分くらい先回りして聞いているし、蓮は筆箱を落として自分で拾わず、前の席の子に「取って」と言って怒られていた。真帆はノートの端をそろえながら、必要なときだけこっちを見る。

 その普通さが、昨日より少しだけありがたかった。

「今日、来る?」

 帰りの会が終わってすぐ、ひよりが机の横まで来て言った。

 声は低い。周りに聞かせる気のない声だった。

「……行く」

 答えると、ひよりは「じゃあ先に靴履き替えとく」とだけ言って離れた。そこへ蓮が割りこんでくる。

「え、今日も行くの。俺も?」

「来ないの?」

 ひよりが振り向きもしないで言う。

「いや、行くけど」

「じゃあ文句言わない」

「文句は言うだろ普通」

 そのやりとりに、真帆が「歩きながらにして」と短く足す。三人とも、昨日より少しだけ慣れている。そのことに、ぼくのほうが追いついていない。

 真帆の家へ向かう道は、前より短く感じた。

 同じ通学路の続きみたいな町なのに、そこへ四人で歩いているだけで、少し違う場所みたいに見える。蓮は途中の自販機の前で「のどかわいた」と立ち止まって、ひよりに「さっきまで牛乳飲んでたでしょ」と言われていた。真帆はそのあいだに玄関の鍵を出して、ぼくたちを先に中へ入れる。

 部屋に入ると、机の上に小さなものがいくつか並んでいた。

 白い靴下。細いヘアピンが二本。丸い鏡。薄い色のハンカチ。それと、見覚えのない小さなシュシュみたいな輪っか。

 ぼくが見ていると、ひよりがすぐ気づいた。

「それ、私が持ってきた」

「……こんなに」

「こんなにってほどでもないよ。いきなり派手なのは違うし、できそうなとこから見たいだけ」

 言いながら、ひよりは白い靴下を持ち上げる。昨日のより少しだけ長い。ひざ下まではいかないけれど、ふくらはぎの途中くらいまでありそうだった。

「昨日のでも悪くなかったけど、長さが少し変わると見え方が違うかも」

 真帆が横から言う。

「あと、立ってるときに裾をつまむ癖、あれ先にどうにかしたい」

「そこ真帆は絶対見るよね」

「見るでしょ」

 ひよりが笑う。蓮は机の端に腰をひっかけて、その並んだものをのぞきこんだ。

「俺、ほんとにここいて役に立つ?」

「いると普通になる」

 真帆が即答する。

「どういう意味?」

「そのままの意味」

 蓮が「ひど」と言いながらも、そのまま座り直す。ぼくはそれを見て、少しだけ肩の力が抜けた。

 今日は窓ぎわのカーテンじゃなくて、真帆が姿見を壁際へ動かしていた。細長い鏡で、床から胸のあたりまでがちゃんと映る。部屋の明かりが少し斜めに入って、鏡の中の白がやわらかく見えた。

「着替えるなら、今日もあっちで」

 真帆がベッドの横を指す。昨日と同じく、カーテンの影になるところだった。

 ぼくは鞄を持って、その向こうへ入る。布のこすれる音だけで、向こうに三人いるのがわかる。Tシャツを脱ぐ。昨日ひよりが持ってきた白い靴下に履き替える。水色のワンピースを頭からかぶる。黒い靴のベルトを留める。

 昨日とほとんど同じなのに、今日は別の緊張があった。

 見せること自体じゃない。見せたあと、何かを言われる時間がちゃんと待っている。そのことのほうが、少しだけこわい。

「相沢くん」

 カーテンの向こうから、真帆の声が来た。

「靴、左右あってる?」

「……え」

 一瞬、心臓が跳ねた。あわてて足もとを見る。ちゃんと合っている。

「合ってる」

「ならよかった」

 たぶん、わざとだった。

 ぼくはカーテンの向こうで小さく息を吐いて、それから裾をならした。

 出ていくと、ひよりがすぐ立ち上がる。

 昨日みたいに一歩で近づいてきて、でも触る前に止まった。その距離で、まず全体を見る。肩、胸元、裾、靴下、靴。目線の動きがはっきりしているのに、じろじろ見られている感じとは少し違う。

「うん」

 最初に言ったのは、それだった。

「靴下、こっちの長さのほうが好き」

「そう?」

「うん。裾とのあいだが昨日より自然」

 ひよりはしゃがんで、ぼくの足もとに目線を合わせた。白い靴下の口を少しだけつまんで、左右の高さを見比べる。

「右、ちょっとだけ下がってる」

 その言い方があまりに普通で、ぼくは言われるまま片足を少し上げた。ひよりの指先が靴下の端をほんの少し引き上げる。肌に直接触れたわけじゃないのに、そこだけ急に意識が集まる。

「これでいい」

 立ち上がったひよりが、今度は真帆を見る。

「どう?」

「昨日より落ち着いて見える」

 真帆は腕を組まずに、鏡越しにぼくを見ていた。

「でも立ち方がまだ固い。肩に力入ってる」

 言われて、自分で少し下げてみる。下げたつもりでも、鏡の中ではあまり変わらない。

「わかんない」

 正直に言うと、蓮が横から口を挟んだ。

「じゃあ一回いつもの感じで立ってみて」

「いつもの感じって」

「そのまま」

 言われた通りに立つ。蓮はそれを見て、少し首をかしげた。

「なんか、学校で立ってるときより肘が近い」

「近いほうがいいの?」

「いや、わかんないけど。なんか緊張してる人の腕って感じ」

 それを聞いて、ひよりが「たしかに」とすぐ言う。

「いま、手をどうしていいかわかんなくて止まってる感じ」

 真帆が続ける。

「裾を持たないなら、片方だけ軽く鞄持つみたいにしてもいいかも」

 ぼくは言われた通り、片手を下ろして、もう片方を少し曲げてみる。鏡の中の自分が、さっきより少しだけ途中で止まっていないように見えた。

「そっちのほうがいい」

 ひよりが言う。

「あと、歩いてみて」

「ここで?」

「ここで」

 蓮が「ランウェイじゃん」と笑う。ひよりが「うるさい」と返す。ぼくは姿見の前から窓際まで、部屋の端をゆっくり歩いてみた。

 黒い靴が床を軽く鳴らす。裾がひざの上で少し遅れて動く。二歩目で、また手が裾へ行きかけた。

「そこ」

 真帆がすぐ言う。

「また持つ」

「……無意識」

「知ってる」

 ひよりはそれを聞いて笑いをこらえるみたいな顔をした。

「でも、わかる。気になるよね」

 からかうんじゃなく、ほんとうにわかるみたいに言う。その言い方で、ぼくのほうも少しだけ笑ってしまう。

「いま笑ったほうが、全然いい」

 ひよりが言った。

「え」

「歩いてるとき。固い顔より、そっちのほうが似合う」

 言われて、急に顔が熱くなる。笑うつもりで笑ったわけじゃなかったからだ。

 蓮が「朝倉、いまの言い方だとモデル指導みたい」と言う。

「なにそれ」

「もっと顎引いて、とか言いそう」

「言わないけど」

 真帆が小さく息をつく。

「でも顎は少し引いたほうがいいかも」

「言ってるじゃん」

 そのやりとりで、部屋の空気がまた軽くなる。

 ひよりは机の上のヘアピンを一本取った。

「髪は、いまの長さだと大きく変えるのは無理。でも前だけ少し分けると違うかもしれない」

「そんなに変わる?」

「変わる。たぶん」

 近づいたひよりが、ぼくの前髪を指先で少し持ち上げる。右から見て、左から見る。眉の上で少しだけ束を分けて、それからピンを当ててみる。

 指が額の近くへ来るたび、呼吸が変になる。

 ひよりはそんなこと気にしていない顔で、ほんとうに前髪だけを見ていた。息のかかる距離まで近いのに、視線はぼくじゃなくて髪にある。そのことが、余計に落ち着かない。

「こっちかな」

 小さくつぶやいて、ひよりはピンを留める。留めてから一歩引いて、鏡の中を確かめた。

「どう?」

 ぼくも鏡を見る。

 大きくは変わっていない。ただ、いつもより顔の片側が少しだけ出ている。それだけなのに、水色の布の上にある顔が、さっきより少しだけ整理されて見えた。

「……変じゃない」

 そう言うと、ひよりが首を振る。

「変じゃない、じゃなくて」

 少しだけ言い直す間があった。

 それから、鏡の中のぼくを見たまま、ひよりが言う。

「かわいいね」

 部屋が、一瞬だけ静かになった気がした。

 その言葉は、思っていたよりずっと軽くて、思っていたよりずっと深く入ってきた。大げさに褒める声じゃない。気をつかう声でもない。見たままを置くみたいな声だった。

 かわいい。

 その一語だけが、喉の奥より先に胸へ落ちる。

 ぼくはすぐには何も言えなかった。鏡の中の自分の顔が、急に知らないものみたいに見える。水色のワンピース。白い靴下。黒い靴。前髪に小さなピン。そこへ、いま言われた言葉だけが重なる。

 目の奥が少し熱くなる。

 泣くほどのことじゃない、と思う。思うのに、そこでうまく切れなかった。

「……相沢?」

 蓮の声が、さっきまでより少しだけ低かった。

 ぼくはあわてて目を伏せる。床の木目が少し揺れて見える。そんなはずないのに、黒い靴の先だけがやけにはっきりしていた。

「ごめん」

 何に対してかもわからないまま言うと、真帆がすぐに返した。

「謝らなくていい」

 短くて、まっすぐだった。

 ひよりは少しだけ困ったみたいに息を止めて、それからいつもの調子より静かに言う。

「嫌だった?」

 ぼくは首を振った。

 違う。嫌だったんじゃない。ただ、そう言われたことがなかった。服そのものじゃなくて、着ている自分ごと、その言葉の中へ入ったのが初めてだった。

「……うれしかった」

 声にすると、ますます目の奥が熱くなりそうで、最後のほうは小さくなる。

 ひよりはそこでやっと少し笑った。強くない、やわらかい笑い方だった。

「ならよかった」

 蓮が机の端から立ち上がる。

「俺、なんか今ちょっと邪魔な位置にいる気がする」

「いまさら?」

 ひよりが言う。

「いや、そうじゃなくて」

 蓮は頭をかきながら、ぼくの横まで来た。

「その、あれだ。朝倉の言うこと、たぶん合ってる」

 言いづらそうにしながら、それでもちゃんと言う。

「昨日も思ったけど、今日のほうがもっと、ちゃんと似合ってる」

 それが蓮なりの、いちばん丁寧な言い方なんだとわかる。

 真帆は少しだけ鏡の角度を動かした。

「いまの感じ、覚えたほうがいいかも」

 鏡の中で、ぼくはまだ少し赤い顔をしている。前髪のピンは小さくて、知らなければ気づかないくらいだ。けれど、そこから下へ落ちる水色の形は、少し前の自分よりちゃんと落ち着いて見えた。

「座ってみる?」

 真帆が言う。

「裾の扱い、立つより座るときのほうが難しいから」

 そこから先は、また少しずつ笑いの多い時間になった。

 椅子へ座るときに、ひよりが「先に裾の後ろ」と言う。ぼくが手順を間違えると、蓮が「今の完全に引っかかるやつ」と笑う。真帆は「笑うだけじゃなくて直して」と返す。立つ。座る。歩く。鏡の前で手の位置を変える。ひよりが「そのハンカチ持つの、似合う」と言い、真帆が「でも握りすぎ」と直す。

 その繰り返しが、途中からただ楽しかった。

 上手にできるからじゃない。三人が、できていないところを見ているのに、そこへ恥ずかしさだけが残らないからだ。直されて、笑われて、またやってみる。その時間の中に、いままで一人でしかできなかったことが混ざっている。

 帰るころには、外はもう薄暗くなっていた。

 着替え直して、いつものTシャツに戻る。ピンを外すと、前髪が元の位置へ落ちる。それだけのことなのに、さっきまで鏡の前にいた自分がほんとうにいたのか、少し不思議だった。

 ひよりは帰り際、机の上のヘアピンを一本だけぼくに差し出した。

「貸す」

「え」

「次も使うなら、そのほうが早いから」

 真帆が「返してもらう前提なんだ」と言う。ひよりは「もちろん」と返す。蓮は靴を履きながら「また来るの確定してんじゃん」と笑っていた。

 ぼくはその小さいピンを受け取って、手のひらの上で一度だけ見た。黒くて細くて、指先にのるだけの軽さなのに、妙に大事なものみたいだった。

 家へ帰って、押し入れの奥へワンピースと靴を戻す。

 最後に、ヘアピンだけを鞄の底から出した。スポーツバッグの中へ一緒にしまおうとして、少し迷う。迷ってから、机のいちばん上の引き出しに入れた。

 また使うから、と思った。

 引き出しを閉めたあとも、指先にまだその軽さが残っていた。
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