ぼくの裾が揺れる春

第16話 母は知っている

 真帆の家で鏡の前に立った日のあとも、四人でいる時間は途切れなかった。

 毎週集まるわけじゃない。何もしないで帰る日も、宿題だけして別れる日もあった。それでも、ひよりは会うたびに襟や裾を見て、蓮は相変わらず余計なことを言い、真帆は必要なところだけ短く直した。教室の席が何度か変わって、名札の学年の数字も上がって、窓の外の木の色だけが何度も入れ替わる。そのあいだに、四人でいることのほうは、前よりずっと当たり前になった。

 二月の終わり、ランドセルの中で厚い封筒の角がずっと背中に当たっていた。

 学校で渡された中学の説明会の資料だ。帰りの会のあと、前の席から回ってきたときも、受け取る手が少し遅れた。白い封筒の表に、黒い字で学校名が並んでいる。その下に、小さく「入学準備資料」とあった。

「もうそんな時期なんだ」

 ひよりが自分の封筒を机の上で軽く叩きながら言った。

「早くない?」

 蓮がすぐ横からのぞきこんでくる。

「おまえ毎年言ってる気がする、それ」

「毎年中学準備してるわけないでしょ」

「気分の話」

 いつものやりとりだった。真帆は封筒の端を指でそろえてから、鞄へ入れる。その動きまで前と変わらない。ぼくは自分の分だけ、すぐにはしまえなかった。紙の中にもう選ばなきゃいけないものが入っている気がして、封筒の厚みだけがやけにはっきりしていた。

 家へ帰ると、母は夕飯の支度をする前に、その封筒を食卓の上へ出した。

「これ、今日もらってきたんでしょ。説明会、来月の頭だって」

 封を切って中身を広げる。学校案内。指定品の一覧。体育着のサイズ表。上履きの注文票。紙が何枚も重なって、テーブルの木目を半分隠した。

 ぼくは手を洗ってから椅子へ座ったふりをして、いちばん上の紙だけを見た。印刷したてのインクの匂いが少しする。母は日付のところを指で押さえて、「ここ、忘れないでよ」と言う。そういう話し方はいつも通りだった。

 でも、二枚目をめくったとき、指先が止まる。

 制服の申込書だった。

 上着、シャツ、セーター。その下に、下衣の欄がある。スラックス。スカート。四角い記入欄が並んでいて、そこだけ妙に白かった。

「今の学校って、こういうの選べるのね」

 母が紙を少し引き寄せながら言う。

「お母さんのときは、もっと決まってた気がする」

 ぼくは返事をしなかった。

 スラックスとスカート。その二つの字を見ているだけで、喉の奥が少し乾く。選べる、という文字は、やさしいみたいで困る。最初から駄目だと言われたほうが、黙っていられる気もした。

「サイズ合わせの日、たぶんお父さん難しいだろうから、私が行くかな」

 母はそう言って紙を重ね直す。角をきっちり合わせる手つきまでいつもと同じだ。ぼくはうなずくこともできず、テーブルの端を指でなぞった。

 夕飯のあいだ、父はまだ帰っていなかった。

 味噌汁の湯気が上がる。焼いた鮭の皮が皿の上で少し反る。母は説明会の持ち物の話をして、それから近所のスーパーで牛乳が安かった話をした。ぼくはごはんを口へ運びながら、さっき見た二つの字ばかり思い出していた。スラックス。スカート。白い欄に並んでいた、あの短い文字。

 食べ終わって皿を流しへ持っていく。

 母は「置いといていいよ」と言ったけれど、ぼくはそのまま残った。最近は前より手伝うことが増えたから、変ではないはずだった。母が洗う。ぼくが拭く。水道の音が、台所の狭いところでずっと続いている。

 皿を一枚拭いて、重ねる。茶碗を拭いて、重ねる。

 そのあいだに何度か言おうとした。

「あのさ」

 一度目は、それだけで止まった。

「なに?」

 母は流しのほうを向いたまま聞き返す。

「……なんでもない」

 自分でもすぐわかるくらい、変だった。母はそれ以上何も言わず、コップをすすいだ。透明な縁に水が走って、蛍光灯の色がゆがむ。

 二度目は、鍋のふたを拭きながらだった。

「あの」

「ん?」

「……説明会のこと」

「うん」

 そこまで来て、また喉が細くなる。

 母はふたを受け取って、少しだけ首をかしげた。でも急かしはしない。台ふきんを絞る音だけがして、ぼくはその音に負けた。

 最後の皿を拭き終わるころには、もう言わないまま終わる気がしていた。

 このままにしておけば、今日も何も壊れない。申込書はそのうち母が出して、たぶん当然みたいにスラックスのほうへ丸をつける。ぼくは横でうなずく。申込書の白い欄だけが、食卓の上でやけに明るく見えた。

 でも、それを考えたとき、胸の奥で引っかかるものがあった。

 机のいちばん上の引き出しに入れた、あの小さなヘアピンを思い出す。黒くて細くて、指先にのるだけの軽さのやつだ。スポーツバッグの奥じゃなくて、手を伸ばせばすぐ届く場所へ入れた。あれを入れたとき、ぼくはちゃんとまた使うつもりでいた。

 言わないまま決まるのは、あれと違う。

 ぼくはふきんを握ったまま、流しの端を見た。水はまだ出ている。母は茶碗の内側を親指でこするみたいに洗っていた。

「ぼく」

 自分の声で、母の手が少しだけ止まる。

「……スカート、はきたい」

 言ってしまうと、それは思っていたより小さい音だった。

 水道の音だけがしばらく続いた。

 母は蛇口を閉めない。閉めないまま、洗いかけの茶碗を持っている。横顔は見えるのに、目まではわからない。その短い沈黙のあいだに、ぼくはふきんの端を何度も折っていた。

 やがて母が、ようやく蛇口を閉めた。

 台所が急に静かになる。

「……制服の話?」

「うん」

「中学で?」

「うん」

 聞き返されるたびに、喉の奥がまた詰まりそうになる。それでも、さっきよりは少しだけましだった。もう口に出したあとだからだと思う。

 母は茶碗を流しに戻して、手についた水を切った。すぐにこっちを向かない。いつもみたいに、食器かごの位置を少し直して、台の上の水滴をふきんで拭いて、それからようやく小さく息を吐く。

「驚いた」

 声は高くなっていなかった。怒っているときの平たさとも少し違う。ただ、いつもの夕飯のあとの声ではなかった。

「でも」

 そこまで言って、母はふきんを半分に折る。折り目をそろえてから、少しだけ目を伏せた。

「前から、少しは気づいてた」

 ぼくは顔を上げる。

 知られていた、と思うより先に、耳の奥が熱くなった。

「ぜんぶじゃないよ」

 母はすぐにつけ足した。

「何をどこまで持ってるとか、そういうのは知らない。でも、昔から、服売り場でかわいいものの前だけ目が止まってたし、小さいころも一回そういうこと言ったでしょ。最近は部屋のことになると変に慌てたり、掃除を自分でやるって急に言ったりしてたから、たぶん服のことなんだろうなとは思ってた」

 ぼくは何も言えなかった。

 掃除機をかけるって言われた土曜日の朝のことが、急に戻ってくる。机の前へ回りこんで「いい」と強く言った声。押し入れの前で止まった足。靴箱の角ばかり見ていた目。ああいうのを、母は見ていたんだと思う。

 知られていたことが恥ずかしいのか、見つけられなかったことが少しだけ救いなのか、自分でもわからない。胸の中が忙しいまま、ぼくはふきんの角を親指で押した。

「見ないふりしてたの」

 母が言う。

「どう言えばいいか、わからなかったから」

 その言い方は、言い訳に近いのに、どこか弱かった。

 母は食器棚のほうを見たまま続ける。

「小さいころ、あなたが一回、そういうこと言ったことあったでしょ」

 心臓がひとつ強く鳴る。

 幼稚園のころの、あの短い場面だ。玄関だったか、買いものの帰りだったか、そこまではもうはっきりしない。ただ、母が少し笑って、「男の子が女の子の服を着るのはおかしい事よ」と言った声だけが残っている。

 母は今もこっちをまっすぐ見ない。

「あのとき、私、変な言い方したなって」

 ふきんをたたむ手が、そこで一度止まる。

「ずっと、少し思ってた」

 それが謝る言葉なのかどうか、すぐには決められなかった。ごめん、と言ったわけじゃない。ただ、母があのときのことを覚えていたのだと知ると、胸の奥の古い場所が少しだけずれる。

「……ぼく、ずっと」

 そこまで言って、声が細くなる。

「スカート、好きで」

 好き、という言葉だけが、台所では妙に頼りなく聞こえた。好きで、では何も足りない気もする。けれど、ほかの言い方はもっと違った。

「制服で、って思うのも、前から」

 母は静かに聞いていた。口を挟まない。その代わり、眉のあいだに少しだけしわが寄る。叱る顔ではない。考えて、困っている顔だった。

「……だめ?」

 聞いてから、遅いと思った。

 そんなふうに丸ごと預けるために言ったんじゃないはずなのに、結局いちばん小さい聞き方になる。

 母はすぐには答えなかった。

 食器棚の扉を閉めて、ようやくこっちを見る。まっすぐ、でも長くは見ない。その目は、服のしわやハンカチの入れ忘れを見るときとは違っていた。

「だめって、簡単に言いたくはない」

 そこで一度、言葉を選ぶみたいに間が空く。

「でも、簡単にいいよとも言えない」

 その声の平たさに、かえって本気があった。

「制服って、毎日着るものでしょ。家の中だけじゃないし、一日だけでもない。見た人がみんな何も言わないなんて、たぶんない」

 母は手元のふきんをもう一度折り直した。きれいにそろっていたはずの端を、また揃える。

「笑う人もいるかもしれない。変なこと言う人もいる。先生だって、どういう顔するかわからない」

 ひとつひとつの言葉は強くないのに、台所の静けさの中だと重さがあった。

「お母さんが嫌だから、っていうのとは違うの」

 そこで初めて、母の目が少し揺れた。

「あなたが傷つくのが、こわい」

 その言い方は、やさしいというより切実だった。

 ぼくはふきんを置いて、空いた手を握る。爪が指の内側に少し当たる。母が言っていることは、たぶんずっと前から想像していたことだった。なのに、本人の口から聞くと、想像より生活の音がした。危ない、とか、笑われる、とか、傷つく、とか。母はいつもそういう言葉で守ろうとする。

「……うん」

 それしか言えない。

 でも、そのまま終わらせたくもなかった。

「でも、言わないままスラックスにするのは、もっと違う」

 声は小さいままだった。でも、さっきより少しだけ切れずに出た。

 母は何も言わない。

「こわいのは、あるけど」

 そこから先の言葉を探す。胸の奥で見つかった順番のまま、ゆっくり出す。

「選べるのに、自分で何も言わないで決まるの、やだ」

 母の手が、ふきんの上で止まった。

 流しの上の蛍光灯が白い。鍋のふたにその光がにぶく映っている。窓の外はもう暗くて、ガラスに台所の中だけが返っていた。

 母はしばらく黙っていた。

 それから、食卓の上に置きっぱなしだった資料の束を取りに行く。いちばん上の申込書を抜いて、テーブルへ戻ってきた。スラックスとスカートの欄が、さっきと同じように並んでいる。

「……ほんとに、前からなのね」

 確認するみたいな声だった。

 ぼくはうなずく。

「そういう気分とか、急にとかじゃなくて」

「うん」

 母は紙の上の文字を見たまま、小さく息を吐いた。

「わかった、とはまだ言えない」

 それは正直で、少し痛かった。でも、逃げるための言い方ではなかった。

「でも、言ってくれてよかった」

 母の指が、申込書の端をそろえる。少しだけずれた角を、きっちり合わせる。

「隠したままにしてたら、たぶんもっと変になってた」

 ぼくはその紙を見た。スカート。スラックス。白い欄が、さっきより少しだけ遠くない。

「お父さんにも、話そう」

 その一言で、また喉の奥が細くなる。

 母はそれに気づいたみたいに、少しだけ声をゆるめた。

「今日じゃなくていい。お父さん帰ってないし」

 申込書を重ね直しながら言う。

「でも、これは私だけで決める話じゃないし、湊もたぶん、そのほうがいい」

 ぼくはすぐには答えられなかった。

 台所の端には、洗い終わった皿が伏せてある。水気はもうほとんど切れていて、白い縁だけが光っていた。さっきまでのいつもの台所と、今の台所は、見た目は何も変わらない。でも、同じ場所のまま少しだけ違うところへ来てしまった気がする。

「……うん」

 やっと言うと、母はそれ以上何も足さなかった。

 ただ、申込書を封筒へ戻す前に、しわになった端を指で一度だけ伸ばした。いつもの癖みたいなその手つきが、今日は少しだけ遅かった。
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