となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第10話 私は、どうしたい?
佐伯と距離を置くと決めた翌日、職場は驚くほどいつも通りだった。
市民課の窓口には朝から来庁者が並び、番号札の機械は短い電子音を何度も鳴らしている。プリンターは紙を吐き出し、電話は鳴り、莉子は申請書の確認で香澄を呼び、斎藤は「この件、係長に確認してくる」と席を立った。
何も変わっていない。
そう思いたかった。
けれど、香澄の目は何度も福祉課のほうへ向かいそうになった。
佐伯はいつもの席にいた。
いつものように、背筋を伸ばしてパソコンに向かっている。相談者に呼ばれれば立ち上がり、必要な資料を持って窓口へ向かう。誰かに話しかけられれば、短く正確に答える。
いつも通りだった。
香澄のほうを見ないこと以外は。
いや、見ていないわけではないのかもしれない。
距離を置きたいと言った香澄を、佐伯はちゃんと尊重しているのだ。
必要な業務連絡は係長を通す。共有資料も、香澄の机ではなく市民課の共有トレーに置く。廊下ですれ違えば、軽く会釈だけをして通り過ぎる。
それは、香澄が望んだ距離だった。
なのに、胸が痛かった。
佐伯が何も言わないことが、逆に胸にくる。
どうして避けるんですか、と責めてくれたら、まだ言い訳ができた。
距離なんて置かなくていい、と言ってくれたら、甘えられたかもしれない。
でも佐伯は、香澄の選択を否定しなかった。
わかりました。
そう言って、ちゃんと離れてくれた。
それが、苦しい。
「藤野さん、三番窓口、次お願いします」
莉子の声で、香澄は我に返った。
「あ、うん」
マイクを取る。
「番号札二十六番の方、三番窓口へどうぞ」
いつもの声。
いつもの笑顔。
でも、胸の奥に空白がある。
佐伯の不在は、こんなに静かに効くのだと思った。
昼休み、香澄は休憩スペースで弁当を開いた。
公園には行かなかった。
行けば、佐伯を探してしまう気がした。
莉子が隣に座る。
「藤野さん、今日は公園じゃないんですね」
「うん。今日はこっちで」
「佐伯さんも、最近こっち来ないですね」
心臓が小さく跳ねる。
香澄は卵焼きを箸でつまみながら、できるだけ普通に答えた。
「そうなんだ」
「はい。前はたまに見かけたのに」
莉子はおにぎりの包みを開けながら、少しだけ香澄を見る。
「何かありました?」
「何かって?」
「いえ、なんとなく。藤野さん、最近ちょっと静かなので」
香澄は笑おうとした。
大丈夫、と言いそうになって、やめる。
「少し、考え事」
「佐伯さんのことですか?」
直球だった。
香澄は箸を止める。
莉子は慌てて手を振った。
「あ、すみません。踏み込みすぎました。でも、からかってるわけじゃないです」
「うん」
「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」
香澄は顔を上げた。
「変わった?」
「はい。前より、無理してない感じがします」
その言葉に、香澄は何も返せなかった。
莉子は続ける。
「前は、何を頼まれても全部『大丈夫です』って受けてたじゃないですか。でも最近は、できないときはできないって言うし、わからないときは確認しますって言うし。窓口で困ったことがあっても、ひとりで抱え込む前に係長に相談するし」
「そうかな」
「そうです。私、助かってます」
「助かってる?」
「はい。藤野さんが全部やってくれると、そのときは楽なんですけど、私、自分で覚えられないので。最近は一緒に確認してくれるから、前より仕事がわかるようになりました」
香澄は箸を持つ手に少し力を入れた。
自分が断ること。
全部を背負わないこと。
それは、周りに迷惑をかけることだと思っていた。
でも、莉子は助かっていると言った。
「それに」
莉子は少し照れたように笑う。
「藤野さんが無理しないでいてくれるほうが、私も無理しなくていいんだって思えます」
香澄の胸が、じんとした。
変わっていたのだろうか。
自分では、まだ何もできていない気がしていた。
水野に言い返せなかった。
母にも言えなかった。
佐伯には距離を置かせてほしいと言ってしまった。
それでも、少しずつ変わっていた。
その変化を、佐伯だけではなく、莉子も見てくれていた。
「ありがとう」
香澄は小さく言った。
「そう言ってもらえると、少し安心する」
「はい。だから、藤野さん」
「うん?」
「佐伯さんのことも、無理しすぎないでください」
香澄は目を見開いた。
莉子は慌てて弁当へ視線を落とす。
「何があったかは聞きません。でも、藤野さんが最近変わったの、佐伯さんのおかげもあるのかなって思ったので」
佐伯のおかげ。
その言葉を否定できなかった。
午後、香澄は窓口に座りながら、莉子の言葉を何度も思い出していた。
前より、無理してない感じがします。
自分の変化は、自分だけのものではなかった。
佐伯が気づいてくれた。
莉子も見てくれていた。
なら、自分はもう少し、自分の言葉を信じてもいいのではないか。
その日の夜、母から電話があった。
スマートフォンの画面を見た瞬間、香澄は胸の奥に緊張が走るのを感じた。
出ないでおくこともできる。
でも、逃げたくなかった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
いつもの言葉。
香澄は一度、深く息を吸った。
「今なら話せるよ」
『そう。よかった。この前の話なんだけどね』
やはり水野のことだと、すぐにわかった。
『水野さんとは、その後どう? 同じ職場なら、少しは話したんでしょう?』
「話したよ」
『そう。やっぱりご縁なのかもしれないわね。あの人ならお母さんも安心だし、昔のことも時間が経てば――』
「お母さん」
香澄は遮った。
母が電話の向こうで黙る。
心臓が速い。
でも、今言わなければ、また同じになる。
「水野さんとやり直すつもりはない」
『……どうして、そんなふうに決めつけるの? まだちゃんと話してみたわけじゃないんでしょう?』
「話したよ」
『でも、昔は結婚まで考えた相手じゃない。安定しているし、ご家族もちゃんとしているし。お母さんは、あなたに苦労してほしくないだけなの』
「わかってる」
香澄は目を閉じた。
「心配してくれているのはわかる。でも、私の幸せを、昔の相手に戻ることで決めないでほしい」
言えた。
電話の向こうで、母が息をのむ気配がした。
『そんなつもりじゃ』
「うん。お母さんに悪気がないのはわかってる。でも、私は水野さんと一緒にいた頃、幸せじゃなかった」
初めて、はっきり言った。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が震えた。
『香澄……』
「私は、あの人の前で本音が言えなかった。言えない私も悪かったのかもしれない。でも、あの人は私が黙る理由を聞かなかった」
『でも、それは夫婦になれば少しずつ』
「夫婦になれば変わるって、誰が決めるの?」
声が少し強くなった。
自分でも驚いた。
「結婚すれば安心とか、安定しているから幸せとか、そういうふうに決めないでほしい。私は、私がちゃんと息をできる相手といたい」
母はしばらく黙っていた。
沈黙が怖い。
けれど、香澄は電話を切らなかった。
『お母さんは、あなたに一人で苦労してほしくなくて』
「うん」
『年齢のことも、心配で』
「うん」
『でも……そうね。香澄がそんなふうに言うの、珍しいわね』
母の声は、少し戸惑っていた。
すぐに理解してくれたわけではない。
納得しているわけでもない。
それでも、香澄の言葉を聞いてはくれた。
「私も、ちゃんと言えなくてごめん」
『……少し考えさせて』
「うん」
『水野さんのことは、もう言わないようにするわ。すぐには、うまくできないかもしれないけど』
「それでいいよ」
通話が終わると、香澄はスマートフォンをテーブルに置いた。
足から力が抜けるように、椅子に座る。
怖かった。
でも、言えた。
母はすぐには理解しなかった。
それでいい。
言ったことが、大事だった。
翌日、香澄は出勤するとすぐに、水野へメッセージを送った。
『昨日の窓口改善の件で、午後少しお時間をいただけますか』
業務の話をする。
けれど、それだけでは終わらせない。
もう、先延ばしにしない。
午後三時、会議スペースで水野と向き合った。
透明なパーテーションの向こうには、いつものフロアの音がある。完全な密室ではない。そのことが、少しだけ香澄を落ち着かせた。
水野は資料を持って現れた。
「昨日の件?」
「はい。確認欄の運用について、係長とも話しました。市民課だけでなく、総務課側の資料にも反映が必要です」
「うん。それはこっちでも整理してる」
水野はいつものように穏やかだった。
香澄は資料を広げ、必要な確認を終えた。
業務の話が終わったところで、水野が軽く息を吐いた。
「藤野、昨日のこと、気にしてる?」
来た。
香澄は指先を膝の上で握った。
「水野さん」
「うん」
「三年前のことを、もう一度だけ話させてください」
水野が少し驚いた顔をした。
「いいけど」
香澄は、ゆっくり息を吸った。
逃げない。
佐伯はいない。
誰も代わりに言ってくれない。
でも、今度は自分で言う。
「私は何も考えていなかったんじゃない」
水野の表情が止まった。
「言っても聞いてもらえないと思って、黙るしかなかった」
言えた。
三年前から、ずっと胸の奥に詰まっていた言葉だった。
水野が何かを言おうとする。
「藤野、俺は別に聞かなかったわけじゃ」
「聞いてくれたことはあったと思います。でも、私が違う意見を言いかけると、水野さんはいつも『それならこうすればいい』ってすぐに答えを出した」
香澄は続けた。
声は震えている。
でも、止まらなかった。
「私は、答えを出してほしかったんじゃない。まず、どうしてそう思うのか聞いてほしかった」
水野は黙った。
「式場のことも、親への挨拶のことも、水野さんの家の都合を優先するのが当たり前みたいになっていた。私が不安だと言っても、『大丈夫だよ』って言われた。私は、その大丈夫が苦しかった」
大丈夫。
自分がずっと使ってきた言葉。
でも、水野にも言われていたのだと、今になって気づいた。
不安を消すためではなく、不安を聞かずに済ませるための言葉として。
「君がもっと本音を言ってくれたら違ったって言われて、また私が悪かったのかと思いました。でも、違います」
香澄は水野を見た。
「私は、言わなかっただけじゃない。言えなくなっていたんです」
水野の顔から、いつもの爽やかな笑みが消えていた。
「そんなふうに思ってたんだ」
「はい」
「言ってくれればよかったのに」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
でも、今度は飲み込まなかった。
「それを言われるのが、いちばん苦しかったです」
水野が黙る。
「言えなかった私にも、向き合うべきところはあります。でも、全部を私の沈黙のせいにしないでください」
香澄は言い切った。
会議スペースの外の音が、遠く聞こえた。
水野は長い間、何も言わなかった。
やがて、視線を落とした。
「……俺、そんなふうにしてたのか」
「そう感じていました」
「そっか」
水野は苦笑しようとして、うまくできなかったようだった。
「ごめん。今さらだけど」
その謝罪が完全な理解から来ているのか、気まずさから来ているのか、香澄にはわからなかった。
でも、それでよかった。
香澄は、水野に完全にわかってもらうために話したのではない。
自分の言葉を、自分のために返すために話したのだ。
「復縁の話も、考えられません」
香澄ははっきり言った。
「水野さんと戻ることはありません」
水野は目を伏せたまま頷いた。
「わかった」
それ以上、何も言わなかった。
香澄は資料をまとめ、立ち上がった。
「業務の件は、係長にも共有します」
「うん。お願いします」
会議スペースを出ると、足が少し震えていた。
でも、不思議と息はできた。
言えた。
母に。
水野に。
まだ全部ではない。
でも、自分の言葉で。
その日の閉庁後、香澄は福祉課へ向かった。
佐伯はまだ席にいた。
パソコン画面を見ていたが、香澄に気づくと顔を上げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
数日ぶりに、真正面から声をかけた気がした。
「少し、お時間をいただけますか」
佐伯は一拍置いて頷いた。
「はい」
二人は廊下の端へ移動した。
夕方の庁舎は、窓の外に薄い夕焼けを抱えていた。残業する職員の声が遠くに聞こえる。
香澄は佐伯の前に立った。
胸は緊張している。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「距離を置きたいと言ったこと、すみませんでした」
まず頭を下げる。
佐伯はすぐには何も言わなかった。
香澄は顔を上げた。
「でも、謝るだけでは終わらせたくありません」
佐伯の目が、静かに香澄を見ている。
香澄は続けた。
「距離を置きたいと言ったのは、佐伯さんが怖かったからじゃありません。私が、自分の気持ちを信じるのが怖かったからです」
言葉が、胸の奥から出ていく。
「佐伯さんに近づきたいと思いました。でも、そう思ったら、また失うのが怖くなりました。好きになった相手に、また何を考えているかわからないと言われたらどうしようって」
佐伯の表情が、わずかに揺れた。
香澄は逃げずに見た。
「だから、佐伯さんから離れれば、自分を守れると思ったんです。でも、違いました。離れても苦しかったです」
「藤野さん」
「今日、母に言いました。水野さんと戻るつもりはないって。水野さんにも言いました。私は何も考えていなかったんじゃないって」
佐伯は黙って聞いていた。
いつものように、最後まで。
「佐伯さんが言ってくれたこと、ずっと残っていました。わからないなら聞けばよかっただけですって。言えないなら待ちますって。あの言葉があったから、私は、自分の言葉を取り戻したいと思えました」
声が震える。
でも、今はその震えも隠さなかった。
「私はまだ、うまく言えません。すぐに黙るし、大丈夫って言いそうになるし、怖くなると逃げます」
「知っています」
佐伯が静かに言った。
以前なら、その言葉に傷ついた。
でも今は違う。
香澄は小さく笑った。
「はい。佐伯さんは知っていますよね」
「はい」
「それでも、私は」
香澄は息を吸った。
「佐伯さんに、ちゃんと言いたいです」
佐伯の視線が、少しだけ強くなる。
「では今は、どうしたいですか」
佐伯が言った。
いつもの問いだった。
答えを押しつけない。
代わりに決めない。
香澄の言葉を待つ問い。
香澄はもう、目を逸らさなかった。
「佐伯さんの隣にいたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「隠れたいんじゃありません。守ってもらうだけでもなくて。私も、自分の足で立てるようになりたい。でも、その隣に、佐伯さんがいてくれたらいいと思っています」
佐伯は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は怖くなかった。
香澄は、初めて自分の言葉が相手に届くのを、逃げずに待つことができた。
佐伯の目元が、ほんのわずかにやわらいだ。
それだけで、香澄の胸はいっぱいになった。
市民課の窓口には朝から来庁者が並び、番号札の機械は短い電子音を何度も鳴らしている。プリンターは紙を吐き出し、電話は鳴り、莉子は申請書の確認で香澄を呼び、斎藤は「この件、係長に確認してくる」と席を立った。
何も変わっていない。
そう思いたかった。
けれど、香澄の目は何度も福祉課のほうへ向かいそうになった。
佐伯はいつもの席にいた。
いつものように、背筋を伸ばしてパソコンに向かっている。相談者に呼ばれれば立ち上がり、必要な資料を持って窓口へ向かう。誰かに話しかけられれば、短く正確に答える。
いつも通りだった。
香澄のほうを見ないこと以外は。
いや、見ていないわけではないのかもしれない。
距離を置きたいと言った香澄を、佐伯はちゃんと尊重しているのだ。
必要な業務連絡は係長を通す。共有資料も、香澄の机ではなく市民課の共有トレーに置く。廊下ですれ違えば、軽く会釈だけをして通り過ぎる。
それは、香澄が望んだ距離だった。
なのに、胸が痛かった。
佐伯が何も言わないことが、逆に胸にくる。
どうして避けるんですか、と責めてくれたら、まだ言い訳ができた。
距離なんて置かなくていい、と言ってくれたら、甘えられたかもしれない。
でも佐伯は、香澄の選択を否定しなかった。
わかりました。
そう言って、ちゃんと離れてくれた。
それが、苦しい。
「藤野さん、三番窓口、次お願いします」
莉子の声で、香澄は我に返った。
「あ、うん」
マイクを取る。
「番号札二十六番の方、三番窓口へどうぞ」
いつもの声。
いつもの笑顔。
でも、胸の奥に空白がある。
佐伯の不在は、こんなに静かに効くのだと思った。
昼休み、香澄は休憩スペースで弁当を開いた。
公園には行かなかった。
行けば、佐伯を探してしまう気がした。
莉子が隣に座る。
「藤野さん、今日は公園じゃないんですね」
「うん。今日はこっちで」
「佐伯さんも、最近こっち来ないですね」
心臓が小さく跳ねる。
香澄は卵焼きを箸でつまみながら、できるだけ普通に答えた。
「そうなんだ」
「はい。前はたまに見かけたのに」
莉子はおにぎりの包みを開けながら、少しだけ香澄を見る。
「何かありました?」
「何かって?」
「いえ、なんとなく。藤野さん、最近ちょっと静かなので」
香澄は笑おうとした。
大丈夫、と言いそうになって、やめる。
「少し、考え事」
「佐伯さんのことですか?」
直球だった。
香澄は箸を止める。
莉子は慌てて手を振った。
「あ、すみません。踏み込みすぎました。でも、からかってるわけじゃないです」
「うん」
「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」
香澄は顔を上げた。
「変わった?」
「はい。前より、無理してない感じがします」
その言葉に、香澄は何も返せなかった。
莉子は続ける。
「前は、何を頼まれても全部『大丈夫です』って受けてたじゃないですか。でも最近は、できないときはできないって言うし、わからないときは確認しますって言うし。窓口で困ったことがあっても、ひとりで抱え込む前に係長に相談するし」
「そうかな」
「そうです。私、助かってます」
「助かってる?」
「はい。藤野さんが全部やってくれると、そのときは楽なんですけど、私、自分で覚えられないので。最近は一緒に確認してくれるから、前より仕事がわかるようになりました」
香澄は箸を持つ手に少し力を入れた。
自分が断ること。
全部を背負わないこと。
それは、周りに迷惑をかけることだと思っていた。
でも、莉子は助かっていると言った。
「それに」
莉子は少し照れたように笑う。
「藤野さんが無理しないでいてくれるほうが、私も無理しなくていいんだって思えます」
香澄の胸が、じんとした。
変わっていたのだろうか。
自分では、まだ何もできていない気がしていた。
水野に言い返せなかった。
母にも言えなかった。
佐伯には距離を置かせてほしいと言ってしまった。
それでも、少しずつ変わっていた。
その変化を、佐伯だけではなく、莉子も見てくれていた。
「ありがとう」
香澄は小さく言った。
「そう言ってもらえると、少し安心する」
「はい。だから、藤野さん」
「うん?」
「佐伯さんのことも、無理しすぎないでください」
香澄は目を見開いた。
莉子は慌てて弁当へ視線を落とす。
「何があったかは聞きません。でも、藤野さんが最近変わったの、佐伯さんのおかげもあるのかなって思ったので」
佐伯のおかげ。
その言葉を否定できなかった。
午後、香澄は窓口に座りながら、莉子の言葉を何度も思い出していた。
前より、無理してない感じがします。
自分の変化は、自分だけのものではなかった。
佐伯が気づいてくれた。
莉子も見てくれていた。
なら、自分はもう少し、自分の言葉を信じてもいいのではないか。
その日の夜、母から電話があった。
スマートフォンの画面を見た瞬間、香澄は胸の奥に緊張が走るのを感じた。
出ないでおくこともできる。
でも、逃げたくなかった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
いつもの言葉。
香澄は一度、深く息を吸った。
「今なら話せるよ」
『そう。よかった。この前の話なんだけどね』
やはり水野のことだと、すぐにわかった。
『水野さんとは、その後どう? 同じ職場なら、少しは話したんでしょう?』
「話したよ」
『そう。やっぱりご縁なのかもしれないわね。あの人ならお母さんも安心だし、昔のことも時間が経てば――』
「お母さん」
香澄は遮った。
母が電話の向こうで黙る。
心臓が速い。
でも、今言わなければ、また同じになる。
「水野さんとやり直すつもりはない」
『……どうして、そんなふうに決めつけるの? まだちゃんと話してみたわけじゃないんでしょう?』
「話したよ」
『でも、昔は結婚まで考えた相手じゃない。安定しているし、ご家族もちゃんとしているし。お母さんは、あなたに苦労してほしくないだけなの』
「わかってる」
香澄は目を閉じた。
「心配してくれているのはわかる。でも、私の幸せを、昔の相手に戻ることで決めないでほしい」
言えた。
電話の向こうで、母が息をのむ気配がした。
『そんなつもりじゃ』
「うん。お母さんに悪気がないのはわかってる。でも、私は水野さんと一緒にいた頃、幸せじゃなかった」
初めて、はっきり言った。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が震えた。
『香澄……』
「私は、あの人の前で本音が言えなかった。言えない私も悪かったのかもしれない。でも、あの人は私が黙る理由を聞かなかった」
『でも、それは夫婦になれば少しずつ』
「夫婦になれば変わるって、誰が決めるの?」
声が少し強くなった。
自分でも驚いた。
「結婚すれば安心とか、安定しているから幸せとか、そういうふうに決めないでほしい。私は、私がちゃんと息をできる相手といたい」
母はしばらく黙っていた。
沈黙が怖い。
けれど、香澄は電話を切らなかった。
『お母さんは、あなたに一人で苦労してほしくなくて』
「うん」
『年齢のことも、心配で』
「うん」
『でも……そうね。香澄がそんなふうに言うの、珍しいわね』
母の声は、少し戸惑っていた。
すぐに理解してくれたわけではない。
納得しているわけでもない。
それでも、香澄の言葉を聞いてはくれた。
「私も、ちゃんと言えなくてごめん」
『……少し考えさせて』
「うん」
『水野さんのことは、もう言わないようにするわ。すぐには、うまくできないかもしれないけど』
「それでいいよ」
通話が終わると、香澄はスマートフォンをテーブルに置いた。
足から力が抜けるように、椅子に座る。
怖かった。
でも、言えた。
母はすぐには理解しなかった。
それでいい。
言ったことが、大事だった。
翌日、香澄は出勤するとすぐに、水野へメッセージを送った。
『昨日の窓口改善の件で、午後少しお時間をいただけますか』
業務の話をする。
けれど、それだけでは終わらせない。
もう、先延ばしにしない。
午後三時、会議スペースで水野と向き合った。
透明なパーテーションの向こうには、いつものフロアの音がある。完全な密室ではない。そのことが、少しだけ香澄を落ち着かせた。
水野は資料を持って現れた。
「昨日の件?」
「はい。確認欄の運用について、係長とも話しました。市民課だけでなく、総務課側の資料にも反映が必要です」
「うん。それはこっちでも整理してる」
水野はいつものように穏やかだった。
香澄は資料を広げ、必要な確認を終えた。
業務の話が終わったところで、水野が軽く息を吐いた。
「藤野、昨日のこと、気にしてる?」
来た。
香澄は指先を膝の上で握った。
「水野さん」
「うん」
「三年前のことを、もう一度だけ話させてください」
水野が少し驚いた顔をした。
「いいけど」
香澄は、ゆっくり息を吸った。
逃げない。
佐伯はいない。
誰も代わりに言ってくれない。
でも、今度は自分で言う。
「私は何も考えていなかったんじゃない」
水野の表情が止まった。
「言っても聞いてもらえないと思って、黙るしかなかった」
言えた。
三年前から、ずっと胸の奥に詰まっていた言葉だった。
水野が何かを言おうとする。
「藤野、俺は別に聞かなかったわけじゃ」
「聞いてくれたことはあったと思います。でも、私が違う意見を言いかけると、水野さんはいつも『それならこうすればいい』ってすぐに答えを出した」
香澄は続けた。
声は震えている。
でも、止まらなかった。
「私は、答えを出してほしかったんじゃない。まず、どうしてそう思うのか聞いてほしかった」
水野は黙った。
「式場のことも、親への挨拶のことも、水野さんの家の都合を優先するのが当たり前みたいになっていた。私が不安だと言っても、『大丈夫だよ』って言われた。私は、その大丈夫が苦しかった」
大丈夫。
自分がずっと使ってきた言葉。
でも、水野にも言われていたのだと、今になって気づいた。
不安を消すためではなく、不安を聞かずに済ませるための言葉として。
「君がもっと本音を言ってくれたら違ったって言われて、また私が悪かったのかと思いました。でも、違います」
香澄は水野を見た。
「私は、言わなかっただけじゃない。言えなくなっていたんです」
水野の顔から、いつもの爽やかな笑みが消えていた。
「そんなふうに思ってたんだ」
「はい」
「言ってくれればよかったのに」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
でも、今度は飲み込まなかった。
「それを言われるのが、いちばん苦しかったです」
水野が黙る。
「言えなかった私にも、向き合うべきところはあります。でも、全部を私の沈黙のせいにしないでください」
香澄は言い切った。
会議スペースの外の音が、遠く聞こえた。
水野は長い間、何も言わなかった。
やがて、視線を落とした。
「……俺、そんなふうにしてたのか」
「そう感じていました」
「そっか」
水野は苦笑しようとして、うまくできなかったようだった。
「ごめん。今さらだけど」
その謝罪が完全な理解から来ているのか、気まずさから来ているのか、香澄にはわからなかった。
でも、それでよかった。
香澄は、水野に完全にわかってもらうために話したのではない。
自分の言葉を、自分のために返すために話したのだ。
「復縁の話も、考えられません」
香澄ははっきり言った。
「水野さんと戻ることはありません」
水野は目を伏せたまま頷いた。
「わかった」
それ以上、何も言わなかった。
香澄は資料をまとめ、立ち上がった。
「業務の件は、係長にも共有します」
「うん。お願いします」
会議スペースを出ると、足が少し震えていた。
でも、不思議と息はできた。
言えた。
母に。
水野に。
まだ全部ではない。
でも、自分の言葉で。
その日の閉庁後、香澄は福祉課へ向かった。
佐伯はまだ席にいた。
パソコン画面を見ていたが、香澄に気づくと顔を上げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
数日ぶりに、真正面から声をかけた気がした。
「少し、お時間をいただけますか」
佐伯は一拍置いて頷いた。
「はい」
二人は廊下の端へ移動した。
夕方の庁舎は、窓の外に薄い夕焼けを抱えていた。残業する職員の声が遠くに聞こえる。
香澄は佐伯の前に立った。
胸は緊張している。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「距離を置きたいと言ったこと、すみませんでした」
まず頭を下げる。
佐伯はすぐには何も言わなかった。
香澄は顔を上げた。
「でも、謝るだけでは終わらせたくありません」
佐伯の目が、静かに香澄を見ている。
香澄は続けた。
「距離を置きたいと言ったのは、佐伯さんが怖かったからじゃありません。私が、自分の気持ちを信じるのが怖かったからです」
言葉が、胸の奥から出ていく。
「佐伯さんに近づきたいと思いました。でも、そう思ったら、また失うのが怖くなりました。好きになった相手に、また何を考えているかわからないと言われたらどうしようって」
佐伯の表情が、わずかに揺れた。
香澄は逃げずに見た。
「だから、佐伯さんから離れれば、自分を守れると思ったんです。でも、違いました。離れても苦しかったです」
「藤野さん」
「今日、母に言いました。水野さんと戻るつもりはないって。水野さんにも言いました。私は何も考えていなかったんじゃないって」
佐伯は黙って聞いていた。
いつものように、最後まで。
「佐伯さんが言ってくれたこと、ずっと残っていました。わからないなら聞けばよかっただけですって。言えないなら待ちますって。あの言葉があったから、私は、自分の言葉を取り戻したいと思えました」
声が震える。
でも、今はその震えも隠さなかった。
「私はまだ、うまく言えません。すぐに黙るし、大丈夫って言いそうになるし、怖くなると逃げます」
「知っています」
佐伯が静かに言った。
以前なら、その言葉に傷ついた。
でも今は違う。
香澄は小さく笑った。
「はい。佐伯さんは知っていますよね」
「はい」
「それでも、私は」
香澄は息を吸った。
「佐伯さんに、ちゃんと言いたいです」
佐伯の視線が、少しだけ強くなる。
「では今は、どうしたいですか」
佐伯が言った。
いつもの問いだった。
答えを押しつけない。
代わりに決めない。
香澄の言葉を待つ問い。
香澄はもう、目を逸らさなかった。
「佐伯さんの隣にいたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「隠れたいんじゃありません。守ってもらうだけでもなくて。私も、自分の足で立てるようになりたい。でも、その隣に、佐伯さんがいてくれたらいいと思っています」
佐伯は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は怖くなかった。
香澄は、初めて自分の言葉が相手に届くのを、逃げずに待つことができた。
佐伯の目元が、ほんのわずかにやわらいだ。
それだけで、香澄の胸はいっぱいになった。