となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第10話 私は、どうしたい?

 佐伯と距離を置くと決めた翌日、職場は驚くほどいつも通りだった。

 市民課の窓口には朝から来庁者が並び、番号札の機械は短い電子音を何度も鳴らしている。プリンターは紙を吐き出し、電話は鳴り、莉子は申請書の確認で香澄を呼び、斎藤は「この件、係長に確認してくる」と席を立った。

 何も変わっていない。

 そう思いたかった。

 けれど、香澄の目は何度も福祉課のほうへ向かいそうになった。

 佐伯はいつもの席にいた。

 いつものように、背筋を伸ばしてパソコンに向かっている。相談者に呼ばれれば立ち上がり、必要な資料を持って窓口へ向かう。誰かに話しかけられれば、短く正確に答える。

 いつも通りだった。

 香澄のほうを見ないこと以外は。

 いや、見ていないわけではないのかもしれない。

 距離を置きたいと言った香澄を、佐伯はちゃんと尊重しているのだ。

 必要な業務連絡は係長を通す。共有資料も、香澄の机ではなく市民課の共有トレーに置く。廊下ですれ違えば、軽く会釈だけをして通り過ぎる。

 それは、香澄が望んだ距離だった。

 なのに、胸が痛かった。

 佐伯が何も言わないことが、逆に胸にくる。

 どうして避けるんですか、と責めてくれたら、まだ言い訳ができた。

 距離なんて置かなくていい、と言ってくれたら、甘えられたかもしれない。

 でも佐伯は、香澄の選択を否定しなかった。

 わかりました。

 そう言って、ちゃんと離れてくれた。

 それが、苦しい。

「藤野さん、三番窓口、次お願いします」

 莉子の声で、香澄は我に返った。

「あ、うん」

 マイクを取る。

「番号札二十六番の方、三番窓口へどうぞ」

 いつもの声。

 いつもの笑顔。

 でも、胸の奥に空白がある。

 佐伯の不在は、こんなに静かに効くのだと思った。

 昼休み、香澄は休憩スペースで弁当を開いた。

 公園には行かなかった。

 行けば、佐伯を探してしまう気がした。

 莉子が隣に座る。

「藤野さん、今日は公園じゃないんですね」

「うん。今日はこっちで」

「佐伯さんも、最近こっち来ないですね」

 心臓が小さく跳ねる。

 香澄は卵焼きを箸でつまみながら、できるだけ普通に答えた。

「そうなんだ」

「はい。前はたまに見かけたのに」

 莉子はおにぎりの包みを開けながら、少しだけ香澄を見る。

「何かありました?」

「何かって?」

「いえ、なんとなく。藤野さん、最近ちょっと静かなので」

 香澄は笑おうとした。

 大丈夫、と言いそうになって、やめる。

「少し、考え事」

「佐伯さんのことですか?」

 直球だった。

 香澄は箸を止める。

 莉子は慌てて手を振った。

「あ、すみません。踏み込みすぎました。でも、からかってるわけじゃないです」

「うん」

「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」

 香澄は顔を上げた。

「変わった?」

「はい。前より、無理してない感じがします」

 その言葉に、香澄は何も返せなかった。

 莉子は続ける。

「前は、何を頼まれても全部『大丈夫です』って受けてたじゃないですか。でも最近は、できないときはできないって言うし、わからないときは確認しますって言うし。窓口で困ったことがあっても、ひとりで抱え込む前に係長に相談するし」

「そうかな」

「そうです。私、助かってます」

「助かってる?」

「はい。藤野さんが全部やってくれると、そのときは楽なんですけど、私、自分で覚えられないので。最近は一緒に確認してくれるから、前より仕事がわかるようになりました」

 香澄は箸を持つ手に少し力を入れた。

 自分が断ること。

 全部を背負わないこと。

 それは、周りに迷惑をかけることだと思っていた。

 でも、莉子は助かっていると言った。

「それに」

 莉子は少し照れたように笑う。

「藤野さんが無理しないでいてくれるほうが、私も無理しなくていいんだって思えます」

 香澄の胸が、じんとした。

 変わっていたのだろうか。

 自分では、まだ何もできていない気がしていた。

 水野に言い返せなかった。

 母にも言えなかった。

 佐伯には距離を置かせてほしいと言ってしまった。

 それでも、少しずつ変わっていた。

 その変化を、佐伯だけではなく、莉子も見てくれていた。

「ありがとう」

 香澄は小さく言った。

「そう言ってもらえると、少し安心する」

「はい。だから、藤野さん」

「うん?」

「佐伯さんのことも、無理しすぎないでください」

 香澄は目を見開いた。

 莉子は慌てて弁当へ視線を落とす。

「何があったかは聞きません。でも、藤野さんが最近変わったの、佐伯さんのおかげもあるのかなって思ったので」

 佐伯のおかげ。

 その言葉を否定できなかった。

 午後、香澄は窓口に座りながら、莉子の言葉を何度も思い出していた。

 前より、無理してない感じがします。

 自分の変化は、自分だけのものではなかった。

 佐伯が気づいてくれた。

 莉子も見てくれていた。

 なら、自分はもう少し、自分の言葉を信じてもいいのではないか。

 その日の夜、母から電話があった。

 スマートフォンの画面を見た瞬間、香澄は胸の奥に緊張が走るのを感じた。

 出ないでおくこともできる。

 でも、逃げたくなかった。

 通話ボタンを押す。

「もしもし」

『香澄? 今、大丈夫?』

 いつもの言葉。

 香澄は一度、深く息を吸った。

「今なら話せるよ」

『そう。よかった。この前の話なんだけどね』

 やはり水野のことだと、すぐにわかった。

『水野さんとは、その後どう? 同じ職場なら、少しは話したんでしょう?』

「話したよ」

『そう。やっぱりご縁なのかもしれないわね。あの人ならお母さんも安心だし、昔のことも時間が経てば――』

「お母さん」

 香澄は遮った。

 母が電話の向こうで黙る。

 心臓が速い。

 でも、今言わなければ、また同じになる。

「水野さんとやり直すつもりはない」

『……どうして、そんなふうに決めつけるの? まだちゃんと話してみたわけじゃないんでしょう?』

「話したよ」

『でも、昔は結婚まで考えた相手じゃない。安定しているし、ご家族もちゃんとしているし。お母さんは、あなたに苦労してほしくないだけなの』

「わかってる」

 香澄は目を閉じた。

「心配してくれているのはわかる。でも、私の幸せを、昔の相手に戻ることで決めないでほしい」

 言えた。

 電話の向こうで、母が息をのむ気配がした。

『そんなつもりじゃ』

「うん。お母さんに悪気がないのはわかってる。でも、私は水野さんと一緒にいた頃、幸せじゃなかった」

 初めて、はっきり言った。

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が震えた。

『香澄……』

「私は、あの人の前で本音が言えなかった。言えない私も悪かったのかもしれない。でも、あの人は私が黙る理由を聞かなかった」

『でも、それは夫婦になれば少しずつ』

「夫婦になれば変わるって、誰が決めるの?」

 声が少し強くなった。

 自分でも驚いた。

「結婚すれば安心とか、安定しているから幸せとか、そういうふうに決めないでほしい。私は、私がちゃんと息をできる相手といたい」

 母はしばらく黙っていた。

 沈黙が怖い。

 けれど、香澄は電話を切らなかった。

『お母さんは、あなたに一人で苦労してほしくなくて』

「うん」

『年齢のことも、心配で』

「うん」

『でも……そうね。香澄がそんなふうに言うの、珍しいわね』

 母の声は、少し戸惑っていた。

 すぐに理解してくれたわけではない。

 納得しているわけでもない。

 それでも、香澄の言葉を聞いてはくれた。

「私も、ちゃんと言えなくてごめん」

『……少し考えさせて』

「うん」

『水野さんのことは、もう言わないようにするわ。すぐには、うまくできないかもしれないけど』

「それでいいよ」

 通話が終わると、香澄はスマートフォンをテーブルに置いた。

 足から力が抜けるように、椅子に座る。

 怖かった。

 でも、言えた。

 母はすぐには理解しなかった。

 それでいい。

 言ったことが、大事だった。

 翌日、香澄は出勤するとすぐに、水野へメッセージを送った。

『昨日の窓口改善の件で、午後少しお時間をいただけますか』

 業務の話をする。

 けれど、それだけでは終わらせない。

 もう、先延ばしにしない。

 午後三時、会議スペースで水野と向き合った。

 透明なパーテーションの向こうには、いつものフロアの音がある。完全な密室ではない。そのことが、少しだけ香澄を落ち着かせた。

 水野は資料を持って現れた。

「昨日の件?」

「はい。確認欄の運用について、係長とも話しました。市民課だけでなく、総務課側の資料にも反映が必要です」

「うん。それはこっちでも整理してる」

 水野はいつものように穏やかだった。

 香澄は資料を広げ、必要な確認を終えた。

 業務の話が終わったところで、水野が軽く息を吐いた。

「藤野、昨日のこと、気にしてる?」

 来た。

 香澄は指先を膝の上で握った。

「水野さん」

「うん」

「三年前のことを、もう一度だけ話させてください」

 水野が少し驚いた顔をした。

「いいけど」

 香澄は、ゆっくり息を吸った。

 逃げない。

 佐伯はいない。

 誰も代わりに言ってくれない。

 でも、今度は自分で言う。

「私は何も考えていなかったんじゃない」

 水野の表情が止まった。

「言っても聞いてもらえないと思って、黙るしかなかった」

 言えた。

 三年前から、ずっと胸の奥に詰まっていた言葉だった。

 水野が何かを言おうとする。

「藤野、俺は別に聞かなかったわけじゃ」

「聞いてくれたことはあったと思います。でも、私が違う意見を言いかけると、水野さんはいつも『それならこうすればいい』ってすぐに答えを出した」

 香澄は続けた。

 声は震えている。

 でも、止まらなかった。

「私は、答えを出してほしかったんじゃない。まず、どうしてそう思うのか聞いてほしかった」

 水野は黙った。

「式場のことも、親への挨拶のことも、水野さんの家の都合を優先するのが当たり前みたいになっていた。私が不安だと言っても、『大丈夫だよ』って言われた。私は、その大丈夫が苦しかった」

 大丈夫。

 自分がずっと使ってきた言葉。

 でも、水野にも言われていたのだと、今になって気づいた。

 不安を消すためではなく、不安を聞かずに済ませるための言葉として。

「君がもっと本音を言ってくれたら違ったって言われて、また私が悪かったのかと思いました。でも、違います」

 香澄は水野を見た。

「私は、言わなかっただけじゃない。言えなくなっていたんです」

 水野の顔から、いつもの爽やかな笑みが消えていた。

「そんなふうに思ってたんだ」

「はい」

「言ってくれればよかったのに」

 その言葉に、胸が少し痛んだ。

 でも、今度は飲み込まなかった。

「それを言われるのが、いちばん苦しかったです」

 水野が黙る。

「言えなかった私にも、向き合うべきところはあります。でも、全部を私の沈黙のせいにしないでください」

 香澄は言い切った。

 会議スペースの外の音が、遠く聞こえた。

 水野は長い間、何も言わなかった。

 やがて、視線を落とした。

「……俺、そんなふうにしてたのか」

「そう感じていました」

「そっか」

 水野は苦笑しようとして、うまくできなかったようだった。

「ごめん。今さらだけど」

 その謝罪が完全な理解から来ているのか、気まずさから来ているのか、香澄にはわからなかった。

 でも、それでよかった。

 香澄は、水野に完全にわかってもらうために話したのではない。

 自分の言葉を、自分のために返すために話したのだ。

「復縁の話も、考えられません」

 香澄ははっきり言った。

「水野さんと戻ることはありません」

 水野は目を伏せたまま頷いた。

「わかった」

 それ以上、何も言わなかった。

 香澄は資料をまとめ、立ち上がった。

「業務の件は、係長にも共有します」

「うん。お願いします」

 会議スペースを出ると、足が少し震えていた。

 でも、不思議と息はできた。

 言えた。

 母に。

 水野に。

 まだ全部ではない。

 でも、自分の言葉で。

 その日の閉庁後、香澄は福祉課へ向かった。

 佐伯はまだ席にいた。

 パソコン画面を見ていたが、香澄に気づくと顔を上げた。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 数日ぶりに、真正面から声をかけた気がした。

「少し、お時間をいただけますか」

 佐伯は一拍置いて頷いた。

「はい」

 二人は廊下の端へ移動した。

 夕方の庁舎は、窓の外に薄い夕焼けを抱えていた。残業する職員の声が遠くに聞こえる。

 香澄は佐伯の前に立った。

 胸は緊張している。

 でも、逃げたいとは思わなかった。

「距離を置きたいと言ったこと、すみませんでした」

 まず頭を下げる。

 佐伯はすぐには何も言わなかった。

 香澄は顔を上げた。

「でも、謝るだけでは終わらせたくありません」

 佐伯の目が、静かに香澄を見ている。

 香澄は続けた。

「距離を置きたいと言ったのは、佐伯さんが怖かったからじゃありません。私が、自分の気持ちを信じるのが怖かったからです」

 言葉が、胸の奥から出ていく。

「佐伯さんに近づきたいと思いました。でも、そう思ったら、また失うのが怖くなりました。好きになった相手に、また何を考えているかわからないと言われたらどうしようって」

 佐伯の表情が、わずかに揺れた。

 香澄は逃げずに見た。

「だから、佐伯さんから離れれば、自分を守れると思ったんです。でも、違いました。離れても苦しかったです」

「藤野さん」

「今日、母に言いました。水野さんと戻るつもりはないって。水野さんにも言いました。私は何も考えていなかったんじゃないって」

 佐伯は黙って聞いていた。

 いつものように、最後まで。

「佐伯さんが言ってくれたこと、ずっと残っていました。わからないなら聞けばよかっただけですって。言えないなら待ちますって。あの言葉があったから、私は、自分の言葉を取り戻したいと思えました」

 声が震える。

 でも、今はその震えも隠さなかった。

「私はまだ、うまく言えません。すぐに黙るし、大丈夫って言いそうになるし、怖くなると逃げます」

「知っています」

 佐伯が静かに言った。

 以前なら、その言葉に傷ついた。

 でも今は違う。

 香澄は小さく笑った。

「はい。佐伯さんは知っていますよね」

「はい」

「それでも、私は」

 香澄は息を吸った。

「佐伯さんに、ちゃんと言いたいです」

 佐伯の視線が、少しだけ強くなる。

「では今は、どうしたいですか」

 佐伯が言った。

 いつもの問いだった。

 答えを押しつけない。

 代わりに決めない。

 香澄の言葉を待つ問い。

 香澄はもう、目を逸らさなかった。

「佐伯さんの隣にいたいです」

 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

「隠れたいんじゃありません。守ってもらうだけでもなくて。私も、自分の足で立てるようになりたい。でも、その隣に、佐伯さんがいてくれたらいいと思っています」

 佐伯は何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は怖くなかった。

 香澄は、初めて自分の言葉が相手に届くのを、逃げずに待つことができた。

 佐伯の目元が、ほんのわずかにやわらいだ。

 それだけで、香澄の胸はいっぱいになった。
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