となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第9話 受理できない気持ち

 佐伯に「少し、時間をください」と送った翌日、香澄はいつもより早く目が覚めた。

 カーテンの隙間から入る朝の光は薄く、部屋の中はまだ少し青い。スマートフォンを手に取ると、佐伯からの新しいメッセージはなかった。

 昨夜の最後のやり取り。

『ありがとうございます。少し、時間をください』

『はい』

 たったそれだけ。

 けれど、その「はい」は、香澄の胸の中にずっと残っていた。

 急かさない。

 責めない。

 でも、なかったことにはしない。

 佐伯はいつも、香澄が逃げ込もうとする沈黙の前で、扉を閉めずに立っている。

 それが嬉しい。

 嬉しいのに、怖い。

 香澄はベッドの上で膝を抱えた。

 気づきたいと思って見ているからです。

 あの言葉の意味を、考えないようにしても考えてしまう。

 佐伯は、香澄をどう思っているのだろう。

 仕事上、放っておけない相手。

 危なっかしい同僚。

 言葉を飲み込む癖のある人。

 それだけなら、あんなふうには言わない気がする。

 でも、期待して違ったら。

 自分だけが特別な意味を持たせていたら。

 そう思うと、胸の奥が冷える。

 香澄は起き上がり、キッチンへ向かった。

 お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。朝食用のトーストを焼く。いつも通りの朝の手順をこなしていると、少しだけ落ち着いた。

 職場へ行けば、仕事がある。

 窓口に座れば、考えすぎずに済む。

 そう思った。

 けれど、庁舎に着くと、現実は香澄の予想よりもずっと近くに待っていた。

 朝の市民課で、係長が困ったように声をかけてきた。

「藤野さん、今日の十時から、総務課と昨日の窓口改善資料の確認があるんだけど、水野さんから直接話したいって言われてる。大丈夫?」

 大丈夫。

 いつもの言葉が喉元まで来て、香澄は飲み込んだ。

「業務の確認なら、対応します」

 係長は頷いた。

「うん。私も途中から入るけど、最初だけ少しお願い」

「わかりました」

 水野と二人になる可能性がある。

 そう考えるだけで、胃のあたりが重くなる。

 香澄は机に座り、パソコンを立ち上げた。

 手元には、佐伯が用意してくれた根拠資料がある。

 必要なら、根拠資料はあります。

 あの言葉を思い出し、少しだけ背筋を伸ばした。

 十時少し前、香澄は会議スペースへ向かった。

 総務課との簡単な打ち合わせに使われる、半透明のパーテーションで仕切られた場所だ。完全な個室ではないが、周囲の声は少し遠くなる。

 水野はすでに座っていた。

 紺色のスーツに、明るいグレーのネクタイ。資料をきれいに並べ、香澄を見るといつものように柔らかく笑った。

「おはよう、藤野」

「おはようございます」

「敬語、まだ固いね」

「職場なので」

「そっか」

 水野は軽く笑った。

 その笑い方に、香澄の胸がまた少しざわつく。

 水野は人当たりがいい。

 誰にでも感じがいい。

 だからこそ、香澄が彼の言葉に傷つく理由は、周りから見えにくい。

「昨日の資料、見たよ。やっぱり藤野の作る資料はわかりやすい」

「ありがとうございます」

「でも、ちょっと情報量が多いかな。もう少し総務側で簡略化してもいいと思う」

「根拠を残したかったので」

「うん、それは藤野らしい」

 まただ。

 藤野らしい。

 その言葉が、香澄の中に薄く積もっていく。

「丁寧なのはいいんだけど、少し抱え込みすぎるところあるよね」

 水野は資料をめくりながら、何気ない調子で言った。

「昔から」

 香澄は膝の上で指を握った。

 業務の話から、昔の話へ。

 水野はそれを自然に滑らせる。

「この前のこと、気にしてる?」

 水野が顔を上げた。

「この前?」

「俺が、今ならうまくやれる気がするって言ったこと」

 香澄は息を詰めた。

 答えたくない。

 この前、そう言ったはずだった。

 でも水野は、まるでその言葉を一時保留のように扱っている。

「今は、業務の話を」

「わかってる。ごめん。でも、ずっと引っかかってて」

 水野は少しだけ声を落とした。

「三年前のこと、俺も悪かったと思ってるんだ」

 その言葉に、香澄は少しだけ顔を上げた。

 水野が「悪かった」と言うのは、初めてかもしれない。

「でもさ」

 続いた言葉で、香澄の中の小さな期待はすぐに沈んだ。

「君がもっと本音を言ってくれたら、違ったと思うんだよ」

 胸の奥が、冷えた。

 水野は真剣な顔をしていた。

 一見、誠実そうに見える表情だった。

「俺、当時は本当にわからなかったんだ。藤野が何を嫌がってるのか、何が不満なのか。式場のことも、親への挨拶のことも、俺が決めていいのかなって思いながら進めてた。でも君は、いつも『大丈夫』って言うだけで」

 香澄は言葉を失った。

 たしかに、そうだった。

 あの頃の自分は、何度も大丈夫と言った。

 本当は嫌だったこともある。

 不安だったこともある。

 水野の母から言われた何気ない一言に傷ついたことも、式場の打ち合わせで自分の希望が後回しにされたことも。

 でも言えなかった。

「君がもっと本音を言ってくれたら、俺もちゃんと向き合えた」

 水野の声は優しかった。

 優しいから、苦しかった。

「だから、あのときはお互い様だったんじゃないかなって、今は思うんだ」

 お互い様。

 その言葉で、三年前の痛みがまた香澄の手の中へ戻される。

 全部ではないにしても、半分は香澄の責任。

 君が言わなかったから。

 君が本音を見せなかったから。

 君が何を考えているかわからなかったから。

 水野の言葉は、もっともらしかった。

 そして、香澄の中にある自責の癖に、簡単に入り込んできた。

 そうなのかもしれない。

 やっぱり私が悪かったのかもしれない。

 もっと言えばよかった。

 もっと泣けばよかった。

 もっと怒ればよかった。

 でも、できなかった。

 できなかった自分が悪かった。

「……そう、かもしれません」

 気づけば、香澄はそう呟いていた。

 水野の表情が少しだけやわらぐ。

「責めたいわけじゃないんだ。ただ、今なら違う形で話せるかなって」

 その瞬間、会議スペースの外を誰かが通った。

 佐伯だった。

 福祉課の資料を手に、廊下を歩いている。会議スペースの中へ視線を向けたわけではない。けれど、香澄はその横顔を見た瞬間、胸が大きく揺れた。

 わからないなら、聞けばよかっただけです。

 佐伯の言葉が蘇る。

 言わない理由があったのでは。

 聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。

 水野の言葉と、佐伯の言葉が、香澄の中でぶつかる。

 どちらが正しいのか。

 いや、正しいかどうかではない。

 自分が何を感じているのか。

 香澄はそれを見つけられない。

 水野は資料を閉じた。

「ごめん、業務の話に戻ろう」

「……はい」

 香澄は頷いた。

 会議が終わるころには、胃のあたりがずっしり重くなっていた。

 昼休み、香澄は公園へ行けなかった。

 休憩スペースの隅で、弁当を開けたものの、箸が進まない。卵焼きを一口食べ、すぐにふたを閉じた。

 スマートフォンを開く。

 佐伯とのメッセージ画面が見える。

 昨夜のやり取りが、そのまま残っていた。

『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』

 香澄はその文字を見つめた。

 なかったことにしない。

 では、三年前のことは?

 水野は、お互い様だったと言った。

 母は、またご縁があるなら考えてみてもいいと言った。

 自分は、何をなかったことにしてきたのだろう。

 佐伯に話したい。

 水野に言われたことを、聞いてほしい。

 でも、また佐伯に頼ってしまう。

 自分では何も決められないまま、佐伯の言葉で安心しようとしてしまう。

 それは、ずるい気がした。

 午後、香澄は福祉課の共有資料を届けるため、佐伯の席へ向かった。

 佐伯は相談記録を確認していたが、香澄に気づくと顔を上げた。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです。こちら、窓口改善の更新資料です」

「確認します」

 佐伯が受け取る。

 そのまま戻ればよかった。

 けれど香澄は立ち止まった。

「佐伯さん」

「はい」

「少しだけ、いいですか」

 佐伯は資料を机に置いた。

「廊下で」

 二人はフロアの端へ移動した。

 香澄は手を前で重ねた。

 何から話せばいいかわからない。

 でも、言わなければ、胸の中が壊れそうだった。

「私、面倒な人間です」

 佐伯は黙って香澄を見た。

 香澄は続けた。

「言いたいのに言えなくて。言えなかったことを、あとからずっと気にして。大丈夫って言っておいて、本当は大丈夫じゃなくて。距離を取りたいわけじゃないのに、勝手に避けたりして」

 言葉が止まらなかった。

 水野の言葉で揺れた心。

 母に言えなかったこと。

 佐伯の言葉を受け止めきれないこと。

 全部が混ざって、自分を責める言葉になって出てくる。

「きっと、付き合う人は疲れます。昔もそうだったんです。もっと本音を言ってくれたら違ったって、言われて」

 佐伯の目が、わずかに動いた。

「水野さんにですか」

 香澄は頷いた。

「今日、言われました。君がもっと本音を言ってくれたら違ったって。たぶん、その通りなんです。私が言わなかったから。言えなかったから。だから、相手を困らせて」

「藤野さん」

 佐伯が静かに遮った。

 香澄は息を止める。

「知っています」

 その一言が、鋭く刺さった。

 知っています。

 私は面倒な人間です。

 知っています。

 そう聞こえた。

 香澄の胸が、すっと冷える。

「あ……そう、ですよね」

 声が震えないようにするだけで精いっぱいだった。

 わかっていた。

 自分でも言ったことだ。

 でも、佐伯に肯定されると、思ったより痛かった。

 やっぱり面倒だと思われていた。

 やっぱり佐伯も、いつか疲れる。

 香澄は視線を落とした。

「すみません。変なことを言って」

「違います」

 佐伯の声が、少し強くなった。

 香澄は顔を上げる。

 佐伯は、いつもよりわずかに眉を寄せていた。

「面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 好き。

 今、佐伯はそう言った。

 好きになった覚えはありません。

 面倒ではない人間を。

 つまり。

 香澄の頭が追いつかない。

 胸だけが先に熱くなり、次の瞬間、怖くなった。

「……そういう言い方は」

 香澄は一歩下がった。

「困ります」

 佐伯の表情が、ほんの少し変わった。

 傷ついたように見えたのは、気のせいだろうか。

「藤野さん」

「すみません」

 また謝ってしまう。

「すみません、今は」

 今は何?

 嬉しい?

 怖い?

 受け止められない?

 何も言葉にできない。

 香澄は逃げるように頭を下げた。

「戻ります」

 佐伯は呼び止めなかった。

 香澄は市民課へ戻り、自分の席に座った。

 パソコン画面の文字がぼやける。

 好き。

 佐伯の声が、何度も頭の中で響く。

 嬉しいはずだった。

 なのに、怖い。

 好きと言われたら、答えなければならない。

 答えたら、関係が変わる。

 変わったら、失う可能性が生まれる。

 また、水野のときのように。

 また、何を考えているかわからないと言われる日が来るかもしれない。

 香澄は唇を噛んだ。

 午後の業務に戻らなければならない。

 こんな状態で窓口に出るべきではない。

 わかっているのに、係長に言えなかった。

 大丈夫ではない。

 でも、大丈夫なふりをするほうが簡単だった。

 その結果、小さなミスが起きた。

 証明書交付の確認処理で、添付書類の確認欄にチェック漏れがあった。

 交付自体に重大な問題はなかった。必要書類はそろっており、本人確認も済んでいる。ただ、窓口改善資料に関連して集計する必要のある確認欄が空白のまま、処理済みに回ってしまった。

 普段の香澄なら、まず見落とさない箇所だった。

 莉子が気づいた。

「あれ、藤野さん、ここチェック入ってないかも」

 その声で、香澄の背中が凍った。

「ごめん。私が確認する」

 すぐに書類を戻そうとした。

 けれど、ちょうど係長と水野が窓口改善の進捗確認で市民課へ来ていた。

 水野がその書類を見た。

「ああ、この確認欄、今回の改善項目に関わるところですね」

 悪意はないような声だった。

 でも、周囲の視線が集まる。

 係長が書類を確認する。

「藤野さん、この件、処理は?」

「交付条件自体は確認済みです。チェック欄の記入漏れです。申し訳ありません、すぐ補記します」

 香澄は頭を下げた。

 これまでなら、それで終わらせた。

 自分が謝って、すぐ修正する。

 自分のミス。

 自分の責任。

 でも今回は、係長が眉を寄せた。

「これ、今後の集計に使う欄だから、個人の補記で済ませるより、流れを確認したほうがいいね」

 水野が頷いた。

「そうですね。藤野は昔から抱え込むから」

 香澄の心臓が止まりそうになった。

 水野は続ける。

「一人で全部見ようとして、こういう細かいところを落とすことがあるんですよ。真面目なんですけどね」

 周囲に向けた、柔らかい説明。

 一見、香澄をかばっているようにも聞こえる。

 真面目なんですけどね。

 でも、その言葉は、香澄を周囲の前で小さくする。

 ミスの原因を、香澄の性格に戻す。

 抱え込むから。

 昔から。

 だからまた。

 香澄は何も言えなかった。

 違う。

 これは私の性格だけの問題ではない。

 確認欄の運用が曖昧だったこと。

 処理フローが変わった直後なのに、担当間で確認方法が統一されていなかったこと。

 それも関係している。

 でも、言えない。

 自分のミスを言い訳しているように聞こえる。

 水野の言葉を否定したら、過去まで持ち出すことになる。

 香澄は頭を下げるしかなかった。

「申し訳ありません」

「いや、責めてるわけじゃないんだ」

 水野が優しく言う。

「藤野が頑張りすぎるのはわかってるから。だから、周りがフォローしないとね」

 フォロー。

 香澄は唇を噛んだ。

 また、自分は困った人として扱われている。

 真面目だけど抱え込む人。

 何を考えているかわからない人。

 周りが助けてあげなければいけない人。

 そのとき、低い声が割って入った。

「彼女の性格の話にすり替えないでください」

 フロアの空気が止まった。

 佐伯が立っていた。

 いつからそこにいたのか、香澄にはわからなかった。

 福祉課側から共有書類を持ってきたところだったのかもしれない。手にはファイルを持っている。

 佐伯の声は荒くなかった。

 むしろ、いつもより静かだった。

 けれど、その静けさの底に、はっきりとした怒りがあった。

「今は業務フローの話です」

 水野が少し驚いた顔をする。

「佐伯さん、別に責めているわけでは」

「責めているかどうかの話ではありません。確認欄の記入漏れが起きた原因を、藤野さんの性格に置き換えると、再発防止になりません」

 佐伯は水野ではなく、係長にも視線を向けた。

「今回の欄は、窓口改善に伴って追加された確認項目です。市民課と総務課、福祉課の間で、どの時点で誰がチェックするか明確に決まっていません。個人の注意で補う運用にしているなら、今後も同じことが起きます」

 係長が表情を引き締める。

「確かに、そこはまだ暫定だったね」

「はい。藤野さんの処理条件確認に不備があったわけではありません。集計用チェック欄の運用が曖昧だったことと、処理担当者に追加業務が集中していたことが問題です」

 水野は笑みを保とうとしていたが、少しだけ固くなっていた。

「いや、俺もそういう意味で言ったんです。藤野が抱え込まないように、周りで」

「その言い方自体が、問題を個人に戻しています」

 佐伯の声は変わらない。

「藤野さんが抱え込むから、ではなく、抱え込まざるを得ない流れになっているなら、流れを変えるべきです」

 香澄は息をするのも忘れていた。

 佐伯が怒っている。

 怒鳴らない。

 声を荒げない。

 でも、怒っている。

 香澄のために、ではないのかもしれない。

 業務フローのため。

 正しい再発防止のため。

 それでも、香澄の尊厳が水野の言葉で小さくされるのを、佐伯は見過ごさなかった。

 係長が頷いた。

「佐伯さんの言う通りだね。藤野さん、これは個人ミスとして処理するより、運用確認にしよう。水野さん、総務課側でチェックタイミングの案を再整理してもらえますか」

 水野は一瞬だけ間を置き、それから笑顔を戻した。

「もちろんです。こちらでも整理します」

「藤野さんは、該当書類の補記だけお願い。あとはフロー確認の議題に回します」

「……はい」

 香澄はようやく返事をした。

 声が小さかった。

 係長たちはそのまま打ち合わせへ移り、周囲の職員も少しずつ仕事に戻った。

 水野は佐伯に「ありがとうございます、助かりました」と言った。

 佐伯は「業務上必要な指摘です」とだけ返した。

 その言葉が、いつもの佐伯で。

 香澄は泣きそうになった。

 でも、泣けなかった。

 嬉しい。

 守られた。

 自分が言えなかったことを、佐伯が言ってくれた。

 その一方で、胸の奥には重いものが沈んでいた。

 また、言えなかった。

 水野に。

 周囲に。

 自分で言うべきことを、佐伯に言わせてしまった。

 佐伯が隣に立ってくれるほど、自分が弱くなっていく気がした。

 違う。

 本当は、佐伯は香澄を弱くする人ではない。

 わかっている。

 それでも、自分が情けなかった。

 閉庁後、香澄は佐伯に声をかけた。

 福祉課のフロアで、佐伯は書類を整理していた。

「佐伯さん」

「はい」

「少し、よろしいですか」

 佐伯は資料を閉じた。

「廊下で」

 二人はいつものように、フロアの端へ移動した。

 夕方の庁舎には、残業する職員の声が少しだけ残っている。外はもう暗くなり始めていた。

 香澄は何度も言葉を探した。

 今日、守ってくれてありがとうございました。

 さっきの言葉、嬉しかったです。

 でも、自分で言えなかったことが悔しいです。

 佐伯さんに頼るほど、私は弱くなる気がします。

 どれも正しい。

 でも、どれもそのまま言えない。

「今日は、ありがとうございました」

 まず、それだけ言った。

 佐伯は頷く。

「業務上必要な指摘です」

「それでも、助かりました」

「はい」

 沈黙が落ちる。

 佐伯は急かさない。

 香澄が言葉を探す時間を、いつものように待ってくれている。

 その優しさが、今は少し苦しかった。

「佐伯さん」

「はい」

「私、嬉しかったんです」

 佐伯が静かに香澄を見る。

「でも、同じくらい、苦しかったです」

 香澄は指先を握った。

「水野さんに言われたとき、本当は自分で言わなきゃいけなかったと思います。性格の話じゃないって。業務の話ですって。でも、言えませんでした」

「藤野さんが言えなかったことを責めている人はいません」

「私が責めています」

 言葉がこぼれた。

 佐伯の表情が少しだけ変わる。

「私が、自分を責めています。佐伯さんが隣に立ってくれるたびに、安心します。でも、そのたびに、自分で立てていない気がして」

「藤野さん」

「このままだと、私は佐伯さんに頼ってしまいます」

 声が震える。

 でも止まらなかった。

「佐伯さんが見てくれるから、大丈夫じゃない顔をしてもいいと思ってしまう。佐伯さんが待ってくれるから、言えなくてもいいと思ってしまう。佐伯さんが言ってくれるから、私が言わなくてもいいって、どこかで思ってしまいそうで」

「私は、藤野さんの代わりに決めたいわけではありません」

「わかっています」

 香澄はすぐに言った。

「わかっているんです。佐伯さんは、私を弱くする人じゃないって。でも、私が弱いんです」

 佐伯は黙った。

 その沈黙が、今は怖かった。

 好きと言われた。

 面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません。

 あの言葉を、香澄はまだ受け止められていない。

 受け止めたら、佐伯に寄りかかってしまいそうだった。

「少し、距離を置かせてください」

 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。

 自分で言った言葉なのに、自分を傷つけた。

 佐伯は何も言わなかった。

 責めなかった。

 なぜですか、と問い詰めなかった。

 ただ、香澄を見ていた。

 香澄は続けた。

「佐伯さんが嫌だからではありません。むしろ、逆です。近くにいると、安心しすぎてしまうから」

 言ってから、顔が熱くなる。

 でも、今さら取り消せなかった。

「自分で言えるようになりたいんです。佐伯さんに言ってもらう前に。自分で」

 佐伯は長い間、黙っていた。

 廊下の向こうで、誰かがコピー機を閉じる音がした。

 やがて、佐伯が静かに言った。

「わかりました」

 香澄の胸が、さらに痛んだ。

 受け入れられた。

 望んだことのはずなのに、寂しい。

「ありがとうございます」

「ただ」

 佐伯の声に、香澄は顔を上げた。

「距離を置くことと、今日のことをなかったことにすることは別です」

 香澄は息を止めた。

「はい」

「私は、藤野さんが弱いから見ているわけではありません」

 佐伯の声は静かだった。

「それだけは、訂正しておきます」

 香澄は何も言えなかった。

 涙が出そうで、でも出ない。

 いつものように。

「……はい」

 やっと頷く。

 佐伯はそれ以上何も言わなかった。

 香澄も、何も言えなかった。

 二人は廊下で向かい合ったまま、少しの間だけ沈黙した。

 それから佐伯が軽く頭を下げた。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 香澄も頭を下げる。

 佐伯は福祉課へ戻っていった。

 その背中を見送りながら、香澄は自分の胸元を押さえた。

 距離を置きたいと言った。

 自分で選んだ。

 なのに、こんなにも苦しい。

 佐伯に頼らないようにするために離れたはずなのに、もう佐伯の声を探している。

 香澄は小さく息を吐いた。

 今日は泣けるかもしれない。

 そう思った。

 けれど、やっぱり涙は出なかった。

 ただ、受理できない気持ちだけが、胸の奥で行き場をなくしていた。
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