となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第9話 受理できない気持ち
佐伯に「少し、時間をください」と送った翌日、香澄はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から入る朝の光は薄く、部屋の中はまだ少し青い。スマートフォンを手に取ると、佐伯からの新しいメッセージはなかった。
昨夜の最後のやり取り。
『ありがとうございます。少し、時間をください』
『はい』
たったそれだけ。
けれど、その「はい」は、香澄の胸の中にずっと残っていた。
急かさない。
責めない。
でも、なかったことにはしない。
佐伯はいつも、香澄が逃げ込もうとする沈黙の前で、扉を閉めずに立っている。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
香澄はベッドの上で膝を抱えた。
気づきたいと思って見ているからです。
あの言葉の意味を、考えないようにしても考えてしまう。
佐伯は、香澄をどう思っているのだろう。
仕事上、放っておけない相手。
危なっかしい同僚。
言葉を飲み込む癖のある人。
それだけなら、あんなふうには言わない気がする。
でも、期待して違ったら。
自分だけが特別な意味を持たせていたら。
そう思うと、胸の奥が冷える。
香澄は起き上がり、キッチンへ向かった。
お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。朝食用のトーストを焼く。いつも通りの朝の手順をこなしていると、少しだけ落ち着いた。
職場へ行けば、仕事がある。
窓口に座れば、考えすぎずに済む。
そう思った。
けれど、庁舎に着くと、現実は香澄の予想よりもずっと近くに待っていた。
朝の市民課で、係長が困ったように声をかけてきた。
「藤野さん、今日の十時から、総務課と昨日の窓口改善資料の確認があるんだけど、水野さんから直接話したいって言われてる。大丈夫?」
大丈夫。
いつもの言葉が喉元まで来て、香澄は飲み込んだ。
「業務の確認なら、対応します」
係長は頷いた。
「うん。私も途中から入るけど、最初だけ少しお願い」
「わかりました」
水野と二人になる可能性がある。
そう考えるだけで、胃のあたりが重くなる。
香澄は机に座り、パソコンを立ち上げた。
手元には、佐伯が用意してくれた根拠資料がある。
必要なら、根拠資料はあります。
あの言葉を思い出し、少しだけ背筋を伸ばした。
十時少し前、香澄は会議スペースへ向かった。
総務課との簡単な打ち合わせに使われる、半透明のパーテーションで仕切られた場所だ。完全な個室ではないが、周囲の声は少し遠くなる。
水野はすでに座っていた。
紺色のスーツに、明るいグレーのネクタイ。資料をきれいに並べ、香澄を見るといつものように柔らかく笑った。
「おはよう、藤野」
「おはようございます」
「敬語、まだ固いね」
「職場なので」
「そっか」
水野は軽く笑った。
その笑い方に、香澄の胸がまた少しざわつく。
水野は人当たりがいい。
誰にでも感じがいい。
だからこそ、香澄が彼の言葉に傷つく理由は、周りから見えにくい。
「昨日の資料、見たよ。やっぱり藤野の作る資料はわかりやすい」
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと情報量が多いかな。もう少し総務側で簡略化してもいいと思う」
「根拠を残したかったので」
「うん、それは藤野らしい」
まただ。
藤野らしい。
その言葉が、香澄の中に薄く積もっていく。
「丁寧なのはいいんだけど、少し抱え込みすぎるところあるよね」
水野は資料をめくりながら、何気ない調子で言った。
「昔から」
香澄は膝の上で指を握った。
業務の話から、昔の話へ。
水野はそれを自然に滑らせる。
「この前のこと、気にしてる?」
水野が顔を上げた。
「この前?」
「俺が、今ならうまくやれる気がするって言ったこと」
香澄は息を詰めた。
答えたくない。
この前、そう言ったはずだった。
でも水野は、まるでその言葉を一時保留のように扱っている。
「今は、業務の話を」
「わかってる。ごめん。でも、ずっと引っかかってて」
水野は少しだけ声を落とした。
「三年前のこと、俺も悪かったと思ってるんだ」
その言葉に、香澄は少しだけ顔を上げた。
水野が「悪かった」と言うのは、初めてかもしれない。
「でもさ」
続いた言葉で、香澄の中の小さな期待はすぐに沈んだ。
「君がもっと本音を言ってくれたら、違ったと思うんだよ」
胸の奥が、冷えた。
水野は真剣な顔をしていた。
一見、誠実そうに見える表情だった。
「俺、当時は本当にわからなかったんだ。藤野が何を嫌がってるのか、何が不満なのか。式場のことも、親への挨拶のことも、俺が決めていいのかなって思いながら進めてた。でも君は、いつも『大丈夫』って言うだけで」
香澄は言葉を失った。
たしかに、そうだった。
あの頃の自分は、何度も大丈夫と言った。
本当は嫌だったこともある。
不安だったこともある。
水野の母から言われた何気ない一言に傷ついたことも、式場の打ち合わせで自分の希望が後回しにされたことも。
でも言えなかった。
「君がもっと本音を言ってくれたら、俺もちゃんと向き合えた」
水野の声は優しかった。
優しいから、苦しかった。
「だから、あのときはお互い様だったんじゃないかなって、今は思うんだ」
お互い様。
その言葉で、三年前の痛みがまた香澄の手の中へ戻される。
全部ではないにしても、半分は香澄の責任。
君が言わなかったから。
君が本音を見せなかったから。
君が何を考えているかわからなかったから。
水野の言葉は、もっともらしかった。
そして、香澄の中にある自責の癖に、簡単に入り込んできた。
そうなのかもしれない。
やっぱり私が悪かったのかもしれない。
もっと言えばよかった。
もっと泣けばよかった。
もっと怒ればよかった。
でも、できなかった。
できなかった自分が悪かった。
「……そう、かもしれません」
気づけば、香澄はそう呟いていた。
水野の表情が少しだけやわらぐ。
「責めたいわけじゃないんだ。ただ、今なら違う形で話せるかなって」
その瞬間、会議スペースの外を誰かが通った。
佐伯だった。
福祉課の資料を手に、廊下を歩いている。会議スペースの中へ視線を向けたわけではない。けれど、香澄はその横顔を見た瞬間、胸が大きく揺れた。
わからないなら、聞けばよかっただけです。
佐伯の言葉が蘇る。
言わない理由があったのでは。
聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。
水野の言葉と、佐伯の言葉が、香澄の中でぶつかる。
どちらが正しいのか。
いや、正しいかどうかではない。
自分が何を感じているのか。
香澄はそれを見つけられない。
水野は資料を閉じた。
「ごめん、業務の話に戻ろう」
「……はい」
香澄は頷いた。
会議が終わるころには、胃のあたりがずっしり重くなっていた。
昼休み、香澄は公園へ行けなかった。
休憩スペースの隅で、弁当を開けたものの、箸が進まない。卵焼きを一口食べ、すぐにふたを閉じた。
スマートフォンを開く。
佐伯とのメッセージ画面が見える。
昨夜のやり取りが、そのまま残っていた。
『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』
香澄はその文字を見つめた。
なかったことにしない。
では、三年前のことは?
水野は、お互い様だったと言った。
母は、またご縁があるなら考えてみてもいいと言った。
自分は、何をなかったことにしてきたのだろう。
佐伯に話したい。
水野に言われたことを、聞いてほしい。
でも、また佐伯に頼ってしまう。
自分では何も決められないまま、佐伯の言葉で安心しようとしてしまう。
それは、ずるい気がした。
午後、香澄は福祉課の共有資料を届けるため、佐伯の席へ向かった。
佐伯は相談記録を確認していたが、香澄に気づくと顔を上げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。こちら、窓口改善の更新資料です」
「確認します」
佐伯が受け取る。
そのまま戻ればよかった。
けれど香澄は立ち止まった。
「佐伯さん」
「はい」
「少しだけ、いいですか」
佐伯は資料を机に置いた。
「廊下で」
二人はフロアの端へ移動した。
香澄は手を前で重ねた。
何から話せばいいかわからない。
でも、言わなければ、胸の中が壊れそうだった。
「私、面倒な人間です」
佐伯は黙って香澄を見た。
香澄は続けた。
「言いたいのに言えなくて。言えなかったことを、あとからずっと気にして。大丈夫って言っておいて、本当は大丈夫じゃなくて。距離を取りたいわけじゃないのに、勝手に避けたりして」
言葉が止まらなかった。
水野の言葉で揺れた心。
母に言えなかったこと。
佐伯の言葉を受け止めきれないこと。
全部が混ざって、自分を責める言葉になって出てくる。
「きっと、付き合う人は疲れます。昔もそうだったんです。もっと本音を言ってくれたら違ったって、言われて」
佐伯の目が、わずかに動いた。
「水野さんにですか」
香澄は頷いた。
「今日、言われました。君がもっと本音を言ってくれたら違ったって。たぶん、その通りなんです。私が言わなかったから。言えなかったから。だから、相手を困らせて」
「藤野さん」
佐伯が静かに遮った。
香澄は息を止める。
「知っています」
その一言が、鋭く刺さった。
知っています。
私は面倒な人間です。
知っています。
そう聞こえた。
香澄の胸が、すっと冷える。
「あ……そう、ですよね」
声が震えないようにするだけで精いっぱいだった。
わかっていた。
自分でも言ったことだ。
でも、佐伯に肯定されると、思ったより痛かった。
やっぱり面倒だと思われていた。
やっぱり佐伯も、いつか疲れる。
香澄は視線を落とした。
「すみません。変なことを言って」
「違います」
佐伯の声が、少し強くなった。
香澄は顔を上げる。
佐伯は、いつもよりわずかに眉を寄せていた。
「面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
好き。
今、佐伯はそう言った。
好きになった覚えはありません。
面倒ではない人間を。
つまり。
香澄の頭が追いつかない。
胸だけが先に熱くなり、次の瞬間、怖くなった。
「……そういう言い方は」
香澄は一歩下がった。
「困ります」
佐伯の表情が、ほんの少し変わった。
傷ついたように見えたのは、気のせいだろうか。
「藤野さん」
「すみません」
また謝ってしまう。
「すみません、今は」
今は何?
嬉しい?
怖い?
受け止められない?
何も言葉にできない。
香澄は逃げるように頭を下げた。
「戻ります」
佐伯は呼び止めなかった。
香澄は市民課へ戻り、自分の席に座った。
パソコン画面の文字がぼやける。
好き。
佐伯の声が、何度も頭の中で響く。
嬉しいはずだった。
なのに、怖い。
好きと言われたら、答えなければならない。
答えたら、関係が変わる。
変わったら、失う可能性が生まれる。
また、水野のときのように。
また、何を考えているかわからないと言われる日が来るかもしれない。
香澄は唇を噛んだ。
午後の業務に戻らなければならない。
こんな状態で窓口に出るべきではない。
わかっているのに、係長に言えなかった。
大丈夫ではない。
でも、大丈夫なふりをするほうが簡単だった。
その結果、小さなミスが起きた。
証明書交付の確認処理で、添付書類の確認欄にチェック漏れがあった。
交付自体に重大な問題はなかった。必要書類はそろっており、本人確認も済んでいる。ただ、窓口改善資料に関連して集計する必要のある確認欄が空白のまま、処理済みに回ってしまった。
普段の香澄なら、まず見落とさない箇所だった。
莉子が気づいた。
「あれ、藤野さん、ここチェック入ってないかも」
その声で、香澄の背中が凍った。
「ごめん。私が確認する」
すぐに書類を戻そうとした。
けれど、ちょうど係長と水野が窓口改善の進捗確認で市民課へ来ていた。
水野がその書類を見た。
「ああ、この確認欄、今回の改善項目に関わるところですね」
悪意はないような声だった。
でも、周囲の視線が集まる。
係長が書類を確認する。
「藤野さん、この件、処理は?」
「交付条件自体は確認済みです。チェック欄の記入漏れです。申し訳ありません、すぐ補記します」
香澄は頭を下げた。
これまでなら、それで終わらせた。
自分が謝って、すぐ修正する。
自分のミス。
自分の責任。
でも今回は、係長が眉を寄せた。
「これ、今後の集計に使う欄だから、個人の補記で済ませるより、流れを確認したほうがいいね」
水野が頷いた。
「そうですね。藤野は昔から抱え込むから」
香澄の心臓が止まりそうになった。
水野は続ける。
「一人で全部見ようとして、こういう細かいところを落とすことがあるんですよ。真面目なんですけどね」
周囲に向けた、柔らかい説明。
一見、香澄をかばっているようにも聞こえる。
真面目なんですけどね。
でも、その言葉は、香澄を周囲の前で小さくする。
ミスの原因を、香澄の性格に戻す。
抱え込むから。
昔から。
だからまた。
香澄は何も言えなかった。
違う。
これは私の性格だけの問題ではない。
確認欄の運用が曖昧だったこと。
処理フローが変わった直後なのに、担当間で確認方法が統一されていなかったこと。
それも関係している。
でも、言えない。
自分のミスを言い訳しているように聞こえる。
水野の言葉を否定したら、過去まで持ち出すことになる。
香澄は頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありません」
「いや、責めてるわけじゃないんだ」
水野が優しく言う。
「藤野が頑張りすぎるのはわかってるから。だから、周りがフォローしないとね」
フォロー。
香澄は唇を噛んだ。
また、自分は困った人として扱われている。
真面目だけど抱え込む人。
何を考えているかわからない人。
周りが助けてあげなければいけない人。
そのとき、低い声が割って入った。
「彼女の性格の話にすり替えないでください」
フロアの空気が止まった。
佐伯が立っていた。
いつからそこにいたのか、香澄にはわからなかった。
福祉課側から共有書類を持ってきたところだったのかもしれない。手にはファイルを持っている。
佐伯の声は荒くなかった。
むしろ、いつもより静かだった。
けれど、その静けさの底に、はっきりとした怒りがあった。
「今は業務フローの話です」
水野が少し驚いた顔をする。
「佐伯さん、別に責めているわけでは」
「責めているかどうかの話ではありません。確認欄の記入漏れが起きた原因を、藤野さんの性格に置き換えると、再発防止になりません」
佐伯は水野ではなく、係長にも視線を向けた。
「今回の欄は、窓口改善に伴って追加された確認項目です。市民課と総務課、福祉課の間で、どの時点で誰がチェックするか明確に決まっていません。個人の注意で補う運用にしているなら、今後も同じことが起きます」
係長が表情を引き締める。
「確かに、そこはまだ暫定だったね」
「はい。藤野さんの処理条件確認に不備があったわけではありません。集計用チェック欄の運用が曖昧だったことと、処理担当者に追加業務が集中していたことが問題です」
水野は笑みを保とうとしていたが、少しだけ固くなっていた。
「いや、俺もそういう意味で言ったんです。藤野が抱え込まないように、周りで」
「その言い方自体が、問題を個人に戻しています」
佐伯の声は変わらない。
「藤野さんが抱え込むから、ではなく、抱え込まざるを得ない流れになっているなら、流れを変えるべきです」
香澄は息をするのも忘れていた。
佐伯が怒っている。
怒鳴らない。
声を荒げない。
でも、怒っている。
香澄のために、ではないのかもしれない。
業務フローのため。
正しい再発防止のため。
それでも、香澄の尊厳が水野の言葉で小さくされるのを、佐伯は見過ごさなかった。
係長が頷いた。
「佐伯さんの言う通りだね。藤野さん、これは個人ミスとして処理するより、運用確認にしよう。水野さん、総務課側でチェックタイミングの案を再整理してもらえますか」
水野は一瞬だけ間を置き、それから笑顔を戻した。
「もちろんです。こちらでも整理します」
「藤野さんは、該当書類の補記だけお願い。あとはフロー確認の議題に回します」
「……はい」
香澄はようやく返事をした。
声が小さかった。
係長たちはそのまま打ち合わせへ移り、周囲の職員も少しずつ仕事に戻った。
水野は佐伯に「ありがとうございます、助かりました」と言った。
佐伯は「業務上必要な指摘です」とだけ返した。
その言葉が、いつもの佐伯で。
香澄は泣きそうになった。
でも、泣けなかった。
嬉しい。
守られた。
自分が言えなかったことを、佐伯が言ってくれた。
その一方で、胸の奥には重いものが沈んでいた。
また、言えなかった。
水野に。
周囲に。
自分で言うべきことを、佐伯に言わせてしまった。
佐伯が隣に立ってくれるほど、自分が弱くなっていく気がした。
違う。
本当は、佐伯は香澄を弱くする人ではない。
わかっている。
それでも、自分が情けなかった。
閉庁後、香澄は佐伯に声をかけた。
福祉課のフロアで、佐伯は書類を整理していた。
「佐伯さん」
「はい」
「少し、よろしいですか」
佐伯は資料を閉じた。
「廊下で」
二人はいつものように、フロアの端へ移動した。
夕方の庁舎には、残業する職員の声が少しだけ残っている。外はもう暗くなり始めていた。
香澄は何度も言葉を探した。
今日、守ってくれてありがとうございました。
さっきの言葉、嬉しかったです。
でも、自分で言えなかったことが悔しいです。
佐伯さんに頼るほど、私は弱くなる気がします。
どれも正しい。
でも、どれもそのまま言えない。
「今日は、ありがとうございました」
まず、それだけ言った。
佐伯は頷く。
「業務上必要な指摘です」
「それでも、助かりました」
「はい」
沈黙が落ちる。
佐伯は急かさない。
香澄が言葉を探す時間を、いつものように待ってくれている。
その優しさが、今は少し苦しかった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、嬉しかったんです」
佐伯が静かに香澄を見る。
「でも、同じくらい、苦しかったです」
香澄は指先を握った。
「水野さんに言われたとき、本当は自分で言わなきゃいけなかったと思います。性格の話じゃないって。業務の話ですって。でも、言えませんでした」
「藤野さんが言えなかったことを責めている人はいません」
「私が責めています」
言葉がこぼれた。
佐伯の表情が少しだけ変わる。
「私が、自分を責めています。佐伯さんが隣に立ってくれるたびに、安心します。でも、そのたびに、自分で立てていない気がして」
「藤野さん」
「このままだと、私は佐伯さんに頼ってしまいます」
声が震える。
でも止まらなかった。
「佐伯さんが見てくれるから、大丈夫じゃない顔をしてもいいと思ってしまう。佐伯さんが待ってくれるから、言えなくてもいいと思ってしまう。佐伯さんが言ってくれるから、私が言わなくてもいいって、どこかで思ってしまいそうで」
「私は、藤野さんの代わりに決めたいわけではありません」
「わかっています」
香澄はすぐに言った。
「わかっているんです。佐伯さんは、私を弱くする人じゃないって。でも、私が弱いんです」
佐伯は黙った。
その沈黙が、今は怖かった。
好きと言われた。
面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません。
あの言葉を、香澄はまだ受け止められていない。
受け止めたら、佐伯に寄りかかってしまいそうだった。
「少し、距離を置かせてください」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
自分で言った言葉なのに、自分を傷つけた。
佐伯は何も言わなかった。
責めなかった。
なぜですか、と問い詰めなかった。
ただ、香澄を見ていた。
香澄は続けた。
「佐伯さんが嫌だからではありません。むしろ、逆です。近くにいると、安心しすぎてしまうから」
言ってから、顔が熱くなる。
でも、今さら取り消せなかった。
「自分で言えるようになりたいんです。佐伯さんに言ってもらう前に。自分で」
佐伯は長い間、黙っていた。
廊下の向こうで、誰かがコピー機を閉じる音がした。
やがて、佐伯が静かに言った。
「わかりました」
香澄の胸が、さらに痛んだ。
受け入れられた。
望んだことのはずなのに、寂しい。
「ありがとうございます」
「ただ」
佐伯の声に、香澄は顔を上げた。
「距離を置くことと、今日のことをなかったことにすることは別です」
香澄は息を止めた。
「はい」
「私は、藤野さんが弱いから見ているわけではありません」
佐伯の声は静かだった。
「それだけは、訂正しておきます」
香澄は何も言えなかった。
涙が出そうで、でも出ない。
いつものように。
「……はい」
やっと頷く。
佐伯はそれ以上何も言わなかった。
香澄も、何も言えなかった。
二人は廊下で向かい合ったまま、少しの間だけ沈黙した。
それから佐伯が軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
香澄も頭を下げる。
佐伯は福祉課へ戻っていった。
その背中を見送りながら、香澄は自分の胸元を押さえた。
距離を置きたいと言った。
自分で選んだ。
なのに、こんなにも苦しい。
佐伯に頼らないようにするために離れたはずなのに、もう佐伯の声を探している。
香澄は小さく息を吐いた。
今日は泣けるかもしれない。
そう思った。
けれど、やっぱり涙は出なかった。
ただ、受理できない気持ちだけが、胸の奥で行き場をなくしていた。
カーテンの隙間から入る朝の光は薄く、部屋の中はまだ少し青い。スマートフォンを手に取ると、佐伯からの新しいメッセージはなかった。
昨夜の最後のやり取り。
『ありがとうございます。少し、時間をください』
『はい』
たったそれだけ。
けれど、その「はい」は、香澄の胸の中にずっと残っていた。
急かさない。
責めない。
でも、なかったことにはしない。
佐伯はいつも、香澄が逃げ込もうとする沈黙の前で、扉を閉めずに立っている。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
香澄はベッドの上で膝を抱えた。
気づきたいと思って見ているからです。
あの言葉の意味を、考えないようにしても考えてしまう。
佐伯は、香澄をどう思っているのだろう。
仕事上、放っておけない相手。
危なっかしい同僚。
言葉を飲み込む癖のある人。
それだけなら、あんなふうには言わない気がする。
でも、期待して違ったら。
自分だけが特別な意味を持たせていたら。
そう思うと、胸の奥が冷える。
香澄は起き上がり、キッチンへ向かった。
お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。朝食用のトーストを焼く。いつも通りの朝の手順をこなしていると、少しだけ落ち着いた。
職場へ行けば、仕事がある。
窓口に座れば、考えすぎずに済む。
そう思った。
けれど、庁舎に着くと、現実は香澄の予想よりもずっと近くに待っていた。
朝の市民課で、係長が困ったように声をかけてきた。
「藤野さん、今日の十時から、総務課と昨日の窓口改善資料の確認があるんだけど、水野さんから直接話したいって言われてる。大丈夫?」
大丈夫。
いつもの言葉が喉元まで来て、香澄は飲み込んだ。
「業務の確認なら、対応します」
係長は頷いた。
「うん。私も途中から入るけど、最初だけ少しお願い」
「わかりました」
水野と二人になる可能性がある。
そう考えるだけで、胃のあたりが重くなる。
香澄は机に座り、パソコンを立ち上げた。
手元には、佐伯が用意してくれた根拠資料がある。
必要なら、根拠資料はあります。
あの言葉を思い出し、少しだけ背筋を伸ばした。
十時少し前、香澄は会議スペースへ向かった。
総務課との簡単な打ち合わせに使われる、半透明のパーテーションで仕切られた場所だ。完全な個室ではないが、周囲の声は少し遠くなる。
水野はすでに座っていた。
紺色のスーツに、明るいグレーのネクタイ。資料をきれいに並べ、香澄を見るといつものように柔らかく笑った。
「おはよう、藤野」
「おはようございます」
「敬語、まだ固いね」
「職場なので」
「そっか」
水野は軽く笑った。
その笑い方に、香澄の胸がまた少しざわつく。
水野は人当たりがいい。
誰にでも感じがいい。
だからこそ、香澄が彼の言葉に傷つく理由は、周りから見えにくい。
「昨日の資料、見たよ。やっぱり藤野の作る資料はわかりやすい」
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと情報量が多いかな。もう少し総務側で簡略化してもいいと思う」
「根拠を残したかったので」
「うん、それは藤野らしい」
まただ。
藤野らしい。
その言葉が、香澄の中に薄く積もっていく。
「丁寧なのはいいんだけど、少し抱え込みすぎるところあるよね」
水野は資料をめくりながら、何気ない調子で言った。
「昔から」
香澄は膝の上で指を握った。
業務の話から、昔の話へ。
水野はそれを自然に滑らせる。
「この前のこと、気にしてる?」
水野が顔を上げた。
「この前?」
「俺が、今ならうまくやれる気がするって言ったこと」
香澄は息を詰めた。
答えたくない。
この前、そう言ったはずだった。
でも水野は、まるでその言葉を一時保留のように扱っている。
「今は、業務の話を」
「わかってる。ごめん。でも、ずっと引っかかってて」
水野は少しだけ声を落とした。
「三年前のこと、俺も悪かったと思ってるんだ」
その言葉に、香澄は少しだけ顔を上げた。
水野が「悪かった」と言うのは、初めてかもしれない。
「でもさ」
続いた言葉で、香澄の中の小さな期待はすぐに沈んだ。
「君がもっと本音を言ってくれたら、違ったと思うんだよ」
胸の奥が、冷えた。
水野は真剣な顔をしていた。
一見、誠実そうに見える表情だった。
「俺、当時は本当にわからなかったんだ。藤野が何を嫌がってるのか、何が不満なのか。式場のことも、親への挨拶のことも、俺が決めていいのかなって思いながら進めてた。でも君は、いつも『大丈夫』って言うだけで」
香澄は言葉を失った。
たしかに、そうだった。
あの頃の自分は、何度も大丈夫と言った。
本当は嫌だったこともある。
不安だったこともある。
水野の母から言われた何気ない一言に傷ついたことも、式場の打ち合わせで自分の希望が後回しにされたことも。
でも言えなかった。
「君がもっと本音を言ってくれたら、俺もちゃんと向き合えた」
水野の声は優しかった。
優しいから、苦しかった。
「だから、あのときはお互い様だったんじゃないかなって、今は思うんだ」
お互い様。
その言葉で、三年前の痛みがまた香澄の手の中へ戻される。
全部ではないにしても、半分は香澄の責任。
君が言わなかったから。
君が本音を見せなかったから。
君が何を考えているかわからなかったから。
水野の言葉は、もっともらしかった。
そして、香澄の中にある自責の癖に、簡単に入り込んできた。
そうなのかもしれない。
やっぱり私が悪かったのかもしれない。
もっと言えばよかった。
もっと泣けばよかった。
もっと怒ればよかった。
でも、できなかった。
できなかった自分が悪かった。
「……そう、かもしれません」
気づけば、香澄はそう呟いていた。
水野の表情が少しだけやわらぐ。
「責めたいわけじゃないんだ。ただ、今なら違う形で話せるかなって」
その瞬間、会議スペースの外を誰かが通った。
佐伯だった。
福祉課の資料を手に、廊下を歩いている。会議スペースの中へ視線を向けたわけではない。けれど、香澄はその横顔を見た瞬間、胸が大きく揺れた。
わからないなら、聞けばよかっただけです。
佐伯の言葉が蘇る。
言わない理由があったのでは。
聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。
水野の言葉と、佐伯の言葉が、香澄の中でぶつかる。
どちらが正しいのか。
いや、正しいかどうかではない。
自分が何を感じているのか。
香澄はそれを見つけられない。
水野は資料を閉じた。
「ごめん、業務の話に戻ろう」
「……はい」
香澄は頷いた。
会議が終わるころには、胃のあたりがずっしり重くなっていた。
昼休み、香澄は公園へ行けなかった。
休憩スペースの隅で、弁当を開けたものの、箸が進まない。卵焼きを一口食べ、すぐにふたを閉じた。
スマートフォンを開く。
佐伯とのメッセージ画面が見える。
昨夜のやり取りが、そのまま残っていた。
『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』
香澄はその文字を見つめた。
なかったことにしない。
では、三年前のことは?
水野は、お互い様だったと言った。
母は、またご縁があるなら考えてみてもいいと言った。
自分は、何をなかったことにしてきたのだろう。
佐伯に話したい。
水野に言われたことを、聞いてほしい。
でも、また佐伯に頼ってしまう。
自分では何も決められないまま、佐伯の言葉で安心しようとしてしまう。
それは、ずるい気がした。
午後、香澄は福祉課の共有資料を届けるため、佐伯の席へ向かった。
佐伯は相談記録を確認していたが、香澄に気づくと顔を上げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。こちら、窓口改善の更新資料です」
「確認します」
佐伯が受け取る。
そのまま戻ればよかった。
けれど香澄は立ち止まった。
「佐伯さん」
「はい」
「少しだけ、いいですか」
佐伯は資料を机に置いた。
「廊下で」
二人はフロアの端へ移動した。
香澄は手を前で重ねた。
何から話せばいいかわからない。
でも、言わなければ、胸の中が壊れそうだった。
「私、面倒な人間です」
佐伯は黙って香澄を見た。
香澄は続けた。
「言いたいのに言えなくて。言えなかったことを、あとからずっと気にして。大丈夫って言っておいて、本当は大丈夫じゃなくて。距離を取りたいわけじゃないのに、勝手に避けたりして」
言葉が止まらなかった。
水野の言葉で揺れた心。
母に言えなかったこと。
佐伯の言葉を受け止めきれないこと。
全部が混ざって、自分を責める言葉になって出てくる。
「きっと、付き合う人は疲れます。昔もそうだったんです。もっと本音を言ってくれたら違ったって、言われて」
佐伯の目が、わずかに動いた。
「水野さんにですか」
香澄は頷いた。
「今日、言われました。君がもっと本音を言ってくれたら違ったって。たぶん、その通りなんです。私が言わなかったから。言えなかったから。だから、相手を困らせて」
「藤野さん」
佐伯が静かに遮った。
香澄は息を止める。
「知っています」
その一言が、鋭く刺さった。
知っています。
私は面倒な人間です。
知っています。
そう聞こえた。
香澄の胸が、すっと冷える。
「あ……そう、ですよね」
声が震えないようにするだけで精いっぱいだった。
わかっていた。
自分でも言ったことだ。
でも、佐伯に肯定されると、思ったより痛かった。
やっぱり面倒だと思われていた。
やっぱり佐伯も、いつか疲れる。
香澄は視線を落とした。
「すみません。変なことを言って」
「違います」
佐伯の声が、少し強くなった。
香澄は顔を上げる。
佐伯は、いつもよりわずかに眉を寄せていた。
「面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
好き。
今、佐伯はそう言った。
好きになった覚えはありません。
面倒ではない人間を。
つまり。
香澄の頭が追いつかない。
胸だけが先に熱くなり、次の瞬間、怖くなった。
「……そういう言い方は」
香澄は一歩下がった。
「困ります」
佐伯の表情が、ほんの少し変わった。
傷ついたように見えたのは、気のせいだろうか。
「藤野さん」
「すみません」
また謝ってしまう。
「すみません、今は」
今は何?
嬉しい?
怖い?
受け止められない?
何も言葉にできない。
香澄は逃げるように頭を下げた。
「戻ります」
佐伯は呼び止めなかった。
香澄は市民課へ戻り、自分の席に座った。
パソコン画面の文字がぼやける。
好き。
佐伯の声が、何度も頭の中で響く。
嬉しいはずだった。
なのに、怖い。
好きと言われたら、答えなければならない。
答えたら、関係が変わる。
変わったら、失う可能性が生まれる。
また、水野のときのように。
また、何を考えているかわからないと言われる日が来るかもしれない。
香澄は唇を噛んだ。
午後の業務に戻らなければならない。
こんな状態で窓口に出るべきではない。
わかっているのに、係長に言えなかった。
大丈夫ではない。
でも、大丈夫なふりをするほうが簡単だった。
その結果、小さなミスが起きた。
証明書交付の確認処理で、添付書類の確認欄にチェック漏れがあった。
交付自体に重大な問題はなかった。必要書類はそろっており、本人確認も済んでいる。ただ、窓口改善資料に関連して集計する必要のある確認欄が空白のまま、処理済みに回ってしまった。
普段の香澄なら、まず見落とさない箇所だった。
莉子が気づいた。
「あれ、藤野さん、ここチェック入ってないかも」
その声で、香澄の背中が凍った。
「ごめん。私が確認する」
すぐに書類を戻そうとした。
けれど、ちょうど係長と水野が窓口改善の進捗確認で市民課へ来ていた。
水野がその書類を見た。
「ああ、この確認欄、今回の改善項目に関わるところですね」
悪意はないような声だった。
でも、周囲の視線が集まる。
係長が書類を確認する。
「藤野さん、この件、処理は?」
「交付条件自体は確認済みです。チェック欄の記入漏れです。申し訳ありません、すぐ補記します」
香澄は頭を下げた。
これまでなら、それで終わらせた。
自分が謝って、すぐ修正する。
自分のミス。
自分の責任。
でも今回は、係長が眉を寄せた。
「これ、今後の集計に使う欄だから、個人の補記で済ませるより、流れを確認したほうがいいね」
水野が頷いた。
「そうですね。藤野は昔から抱え込むから」
香澄の心臓が止まりそうになった。
水野は続ける。
「一人で全部見ようとして、こういう細かいところを落とすことがあるんですよ。真面目なんですけどね」
周囲に向けた、柔らかい説明。
一見、香澄をかばっているようにも聞こえる。
真面目なんですけどね。
でも、その言葉は、香澄を周囲の前で小さくする。
ミスの原因を、香澄の性格に戻す。
抱え込むから。
昔から。
だからまた。
香澄は何も言えなかった。
違う。
これは私の性格だけの問題ではない。
確認欄の運用が曖昧だったこと。
処理フローが変わった直後なのに、担当間で確認方法が統一されていなかったこと。
それも関係している。
でも、言えない。
自分のミスを言い訳しているように聞こえる。
水野の言葉を否定したら、過去まで持ち出すことになる。
香澄は頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありません」
「いや、責めてるわけじゃないんだ」
水野が優しく言う。
「藤野が頑張りすぎるのはわかってるから。だから、周りがフォローしないとね」
フォロー。
香澄は唇を噛んだ。
また、自分は困った人として扱われている。
真面目だけど抱え込む人。
何を考えているかわからない人。
周りが助けてあげなければいけない人。
そのとき、低い声が割って入った。
「彼女の性格の話にすり替えないでください」
フロアの空気が止まった。
佐伯が立っていた。
いつからそこにいたのか、香澄にはわからなかった。
福祉課側から共有書類を持ってきたところだったのかもしれない。手にはファイルを持っている。
佐伯の声は荒くなかった。
むしろ、いつもより静かだった。
けれど、その静けさの底に、はっきりとした怒りがあった。
「今は業務フローの話です」
水野が少し驚いた顔をする。
「佐伯さん、別に責めているわけでは」
「責めているかどうかの話ではありません。確認欄の記入漏れが起きた原因を、藤野さんの性格に置き換えると、再発防止になりません」
佐伯は水野ではなく、係長にも視線を向けた。
「今回の欄は、窓口改善に伴って追加された確認項目です。市民課と総務課、福祉課の間で、どの時点で誰がチェックするか明確に決まっていません。個人の注意で補う運用にしているなら、今後も同じことが起きます」
係長が表情を引き締める。
「確かに、そこはまだ暫定だったね」
「はい。藤野さんの処理条件確認に不備があったわけではありません。集計用チェック欄の運用が曖昧だったことと、処理担当者に追加業務が集中していたことが問題です」
水野は笑みを保とうとしていたが、少しだけ固くなっていた。
「いや、俺もそういう意味で言ったんです。藤野が抱え込まないように、周りで」
「その言い方自体が、問題を個人に戻しています」
佐伯の声は変わらない。
「藤野さんが抱え込むから、ではなく、抱え込まざるを得ない流れになっているなら、流れを変えるべきです」
香澄は息をするのも忘れていた。
佐伯が怒っている。
怒鳴らない。
声を荒げない。
でも、怒っている。
香澄のために、ではないのかもしれない。
業務フローのため。
正しい再発防止のため。
それでも、香澄の尊厳が水野の言葉で小さくされるのを、佐伯は見過ごさなかった。
係長が頷いた。
「佐伯さんの言う通りだね。藤野さん、これは個人ミスとして処理するより、運用確認にしよう。水野さん、総務課側でチェックタイミングの案を再整理してもらえますか」
水野は一瞬だけ間を置き、それから笑顔を戻した。
「もちろんです。こちらでも整理します」
「藤野さんは、該当書類の補記だけお願い。あとはフロー確認の議題に回します」
「……はい」
香澄はようやく返事をした。
声が小さかった。
係長たちはそのまま打ち合わせへ移り、周囲の職員も少しずつ仕事に戻った。
水野は佐伯に「ありがとうございます、助かりました」と言った。
佐伯は「業務上必要な指摘です」とだけ返した。
その言葉が、いつもの佐伯で。
香澄は泣きそうになった。
でも、泣けなかった。
嬉しい。
守られた。
自分が言えなかったことを、佐伯が言ってくれた。
その一方で、胸の奥には重いものが沈んでいた。
また、言えなかった。
水野に。
周囲に。
自分で言うべきことを、佐伯に言わせてしまった。
佐伯が隣に立ってくれるほど、自分が弱くなっていく気がした。
違う。
本当は、佐伯は香澄を弱くする人ではない。
わかっている。
それでも、自分が情けなかった。
閉庁後、香澄は佐伯に声をかけた。
福祉課のフロアで、佐伯は書類を整理していた。
「佐伯さん」
「はい」
「少し、よろしいですか」
佐伯は資料を閉じた。
「廊下で」
二人はいつものように、フロアの端へ移動した。
夕方の庁舎には、残業する職員の声が少しだけ残っている。外はもう暗くなり始めていた。
香澄は何度も言葉を探した。
今日、守ってくれてありがとうございました。
さっきの言葉、嬉しかったです。
でも、自分で言えなかったことが悔しいです。
佐伯さんに頼るほど、私は弱くなる気がします。
どれも正しい。
でも、どれもそのまま言えない。
「今日は、ありがとうございました」
まず、それだけ言った。
佐伯は頷く。
「業務上必要な指摘です」
「それでも、助かりました」
「はい」
沈黙が落ちる。
佐伯は急かさない。
香澄が言葉を探す時間を、いつものように待ってくれている。
その優しさが、今は少し苦しかった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、嬉しかったんです」
佐伯が静かに香澄を見る。
「でも、同じくらい、苦しかったです」
香澄は指先を握った。
「水野さんに言われたとき、本当は自分で言わなきゃいけなかったと思います。性格の話じゃないって。業務の話ですって。でも、言えませんでした」
「藤野さんが言えなかったことを責めている人はいません」
「私が責めています」
言葉がこぼれた。
佐伯の表情が少しだけ変わる。
「私が、自分を責めています。佐伯さんが隣に立ってくれるたびに、安心します。でも、そのたびに、自分で立てていない気がして」
「藤野さん」
「このままだと、私は佐伯さんに頼ってしまいます」
声が震える。
でも止まらなかった。
「佐伯さんが見てくれるから、大丈夫じゃない顔をしてもいいと思ってしまう。佐伯さんが待ってくれるから、言えなくてもいいと思ってしまう。佐伯さんが言ってくれるから、私が言わなくてもいいって、どこかで思ってしまいそうで」
「私は、藤野さんの代わりに決めたいわけではありません」
「わかっています」
香澄はすぐに言った。
「わかっているんです。佐伯さんは、私を弱くする人じゃないって。でも、私が弱いんです」
佐伯は黙った。
その沈黙が、今は怖かった。
好きと言われた。
面倒ではない人間を、好きになった覚えはありません。
あの言葉を、香澄はまだ受け止められていない。
受け止めたら、佐伯に寄りかかってしまいそうだった。
「少し、距離を置かせてください」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
自分で言った言葉なのに、自分を傷つけた。
佐伯は何も言わなかった。
責めなかった。
なぜですか、と問い詰めなかった。
ただ、香澄を見ていた。
香澄は続けた。
「佐伯さんが嫌だからではありません。むしろ、逆です。近くにいると、安心しすぎてしまうから」
言ってから、顔が熱くなる。
でも、今さら取り消せなかった。
「自分で言えるようになりたいんです。佐伯さんに言ってもらう前に。自分で」
佐伯は長い間、黙っていた。
廊下の向こうで、誰かがコピー機を閉じる音がした。
やがて、佐伯が静かに言った。
「わかりました」
香澄の胸が、さらに痛んだ。
受け入れられた。
望んだことのはずなのに、寂しい。
「ありがとうございます」
「ただ」
佐伯の声に、香澄は顔を上げた。
「距離を置くことと、今日のことをなかったことにすることは別です」
香澄は息を止めた。
「はい」
「私は、藤野さんが弱いから見ているわけではありません」
佐伯の声は静かだった。
「それだけは、訂正しておきます」
香澄は何も言えなかった。
涙が出そうで、でも出ない。
いつものように。
「……はい」
やっと頷く。
佐伯はそれ以上何も言わなかった。
香澄も、何も言えなかった。
二人は廊下で向かい合ったまま、少しの間だけ沈黙した。
それから佐伯が軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
香澄も頭を下げる。
佐伯は福祉課へ戻っていった。
その背中を見送りながら、香澄は自分の胸元を押さえた。
距離を置きたいと言った。
自分で選んだ。
なのに、こんなにも苦しい。
佐伯に頼らないようにするために離れたはずなのに、もう佐伯の声を探している。
香澄は小さく息を吐いた。
今日は泣けるかもしれない。
そう思った。
けれど、やっぱり涙は出なかった。
ただ、受理できない気持ちだけが、胸の奥で行き場をなくしていた。