となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第3話 今のは、あなたが悪い件ではありません

 その日は、朝から雨が降っていた。

 細かい雨だった。傘を差すほどではないと思って歩き出すと、駅に着くころには肩先がしっとり濡れてしまうような、静かでしつこい雨。

 香澄は庁舎の入口で傘を畳み、軽く水を払った。

 市役所の床は、雨の日になると少しだけ滑りやすくなる。出入口には吸水マットが敷かれ、清掃員が何度もモップをかけている。それでも、来庁者の靴裏についた水が、少しずつフロアへ持ち込まれていく。

 今日は混むかもしれない。

 そう思った。

 雨の日は、窓口に来る人の機嫌がいつもより少しだけ悪い。待たされることにも、書類を書き直すことにも、いつもより敏感になる。

 香澄はロッカーに荷物を入れ、手帳を鞄から取り出した。

 手帳の間には、佐伯のメモが挟まっている。

『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』

 必要であれば共有します。

 たったそれだけの文字を、昨日から何度も思い出していた。

 見られている。

 それは怖いことでもある。

 けれど、自分が抱え込んだものを、なかったことにされない安心もあった。

 香澄は手帳をそっと閉じ、机の引き出しにしまった。

「藤野さん、おはようございます」

 莉子が傘を抱えて入ってくる。髪の先が少し濡れていた。

「おはよう。雨、強くなってきた?」

「駅から歩く間にけっこう濡れました。今日、混みそうですね」

「うん。足元も悪いから、案内気をつけようね」

「はい」

 莉子が頷く。

 香澄はカウンターの上に置かれた老眼鏡を拭き、番号札の機械を確認した。昨日までと同じ朝。けれど、どこか気持ちが落ち着かない。

 昨日、佐伯に言われた言葉が残っていた。

 早いことと、正しいことは違います。

 なら、回らない仕組みのほうが悪いです。

 あのあと、香澄は斎藤に仕事の確認をした。全部を引き受けなくても、世界は壊れなかった。むしろ、斎藤は「ごめん」と言った。

 たったそれだけのことなのに、香澄にとっては大きな一歩だった。

 でも、一歩進んだからといって、急に自分が変われるわけではない。

 窓口に座ると、香澄の体は自然といつもの形に戻る。

 口角を上げる。

 声をやわらかくする。

 相手の表情を読み、怒らせない言葉を選ぶ。

 市民課の藤野香澄。

 いつもの自分が、今日も始まる。

「番号札一番の方、三番窓口へどうぞ」

 午前中は、予想通り混み合った。

 雨のせいか、来庁者の動きはどこか慌ただしかった。濡れた傘を抱えた人、足元を気にする高齢者、子どものレインコートを脱がせながら申請書を書く母親。

 香澄は一件ずつ対応していった。

 転出届の記入漏れを案内し、住民票の交付手続きを進め、印鑑登録の説明をする。マイナンバーカードの暗証番号を忘れたという相談もあった。

 その合間に、斎藤から昨日の資料について「急ぎの分だけで助かった」と言われた。

「昨日はごめんね、藤野さん。俺、全部今日中だと思い込んでた」

「いえ。確認してよかったです」

「うん、ほんと。今度から先に確認する」

 斎藤はそう言って、自分の席に戻っていった。

 確認してよかった。

 その言葉を聞いて、香澄は少しだけ肩の力が抜けた。

 何でも引き受けなくても、責められないこともある。

 そう思えたのは、昨日の佐伯の言葉があったからだ。

 昼前になり、フロアの混雑はさらに増した。

 窓口の椅子はほとんど埋まり、番号札の表示板には待ち人数が増えている。案内係が「順番にお呼びしますのでお待ちください」と繰り返していた。

 香澄は次の番号を呼んだ。

「四十二番の方、三番窓口へどうぞ」

 やって来たのは、五十代くらいの女性だった。

 紺色のレインコートを着て、濡れた傘を乱暴に傘袋へ押し込んでいる。顔には明らかに苛立ちが浮かんでいた。

「お待たせいたしました。本日はどういったご用件でしょうか」

 香澄が立ち上がって一礼すると、女性は濡れたバッグから封筒を取り出し、カウンターに置いた。

「母の住民票を取りたいんです」

「お母さまの住民票ですね。ご本人さまとのご関係と、ご請求の理由を確認させていただきます」

「娘です。母が施設に入るので、手続きに必要なんです」

「かしこまりました。では、こちらの申請書にご記入をお願いいたします。また、お母さまが別世帯の場合は、委任状または請求理由が確認できる資料が必要になる場合がございます」

 香澄が説明すると、女性の眉がぴくりと動いた。

「委任状? そんなの聞いてませんけど」

「ご案内が不足していたようでしたら申し訳ございません。お母さまと同一世帯でない場合、確認が必要になります」

「娘ですよ。親子なのに?」

「はい。親子関係であっても、世帯が別の場合は、請求できる範囲や必要書類を確認させていただいております」

「じゃあ、私は母のために手続きしに来たのに、出せないってこと?」

「現時点でお持ちの書類を確認したうえで、交付可能か判断いたします。まず申請書と本人確認書類を拝見してもよろしいでしょうか」

 香澄はできるだけゆっくり言った。

 相手が怒っているときほど、声を急がない。

 言葉を短くする。

 否定から入らない。

 それは経験で身につけた対応だった。

 しかし、その日はうまくいかなかった。

 女性はバッグから保険証と運転免許証を取り出し、カウンターに置いた。

「だから、こうやって身分証も持ってきてるでしょ」

「ありがとうございます。こちらはご本人さまの確認書類として確認いたします。お母さまとの関係がわかるものはお持ちでしょうか」

「そんなの持ってきてません。何度も言うけど、娘です」

「口頭でお伺いするだけでは確認できない場合がございますので――」

「場合がございますって何? 出せるの? 出せないの?」

 声が大きくなった。

 待合の椅子に座っていた人たちが、こちらを見る。

 香澄は背中に視線を感じながら、申請書を確認した。

 女性の住所と、請求対象である母親の住所は別だった。住民票上の同一世帯ではない。施設入所の手続きという理由はあるが、添付書類はない。

 この場ですぐ交付できるかどうか、慎重に確認が必要だった。

「確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」

「また確認? さっき案内でも待たされて、番号札でも待たされて、今度は確認? こっちは母の施設のことで忙しいんです。あなたたちみたいに座ってるだけじゃないんですよ」

 香澄は息をのんだ。

 座っているだけ。

 その言葉は、よく聞く。

 役所の人間は融通がきかない。

 公務員は楽でいい。

 窓口にいると、そういう言葉は珍しくない。

 慣れているはずだった。

 けれど、慣れることと傷つかないことは違う。

「お時間をいただき、申し訳ございません」

「謝ればいいと思ってるんでしょう」

「いえ、そのようなつもりでは――」

「じゃあ、さっさと出してください」

「必要な確認がございますので」

「だから役所の人間は」

 女性が吐き捨てるように言った。

「困ってる人間の気持ちなんか、全然わからないんですよね。書類、書類、確認、確認って。母がどんな状態かも知らないくせに」

 胸の奥が重くなる。

 女性が困っていることはわかる。

 母親の施設入所の手続きで、疲れているのだろう。不安なのだろう。雨の中、書類を取りに来て、思った通りに進まなくて苛立っているのだろう。

 だからといって、何でも交付できるわけではない。

 でも、それをどう言えば届くのか。

 香澄は言葉を探した。

「お母さまの手続きでお急ぎのところ、お手数をおかけしております。ただ、個人情報に関わる証明書になりますので、確認なしに交付することはできません」

「あなた、ちゃんと話聞いてるの?」

 女性が身を乗り出した。

「私は母のために来てるって言ってるんです。あなた、自分の親が同じ状況でも同じこと言えるの?」

 香澄は言葉に詰まった。

 母。

 昨日の電話の声が、ふと頭をよぎる。

 まだ結婚しないの。

 いい人いないの。

 心配しているのよ。

 香澄はその声を追い払うように、申請書に視線を落とした。

「規定に沿って確認いたします」

「規定、規定って。人間相手の仕事でしょう? あなたみたいな人が窓口にいるから、みんな困るんですよ」

 あなたみたいな人。

 その言葉で、周囲の音が少し遠のいた。

「何を聞いても同じことしか言わない。感情がないんじゃないの? ちゃんと人の話を聞いてます?」

 香澄の指先が冷たくなった。

 ちゃんと聞いている。

 聞いているから、簡単に出せない。

 困っていることも、怒っていることも、わかっている。

 でも、香澄が何を考えているかは、相手には届かない。

 届かないなら、言っても無駄なのだろうか。

 香澄は頭を下げた。

「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

「そういうの、もういいです」

「確認のため、担当に確認してまいります」

「逃げるんですか?」

「逃げるわけではございません」

「じゃあ、ここで答えてくださいよ。出せるんですか、出せないんですか」

 女性の声がさらに大きくなる。

 待合の空気が固くなった。

 莉子が不安そうにこちらを見ている。斎藤も立ち上がりかけたが、電話が鳴って動けなくなった。

 係長は奥で別の来庁者対応をしている。

 香澄は、また自分が頭を下げるしかないと思った。

 ここで自分が耐えれば済む。

 自分が悪くないとしても、謝れば場は収まる。

 収まるなら、それでいい。

「申し訳ございません」

 もう一度、頭を下げた。

 視線を下げた先で、カウンターの水滴が見えた。女性の傘袋から落ちた雨水だった。

 一滴、二滴。

 透明な水が、申請書の端に近づいている。

 拭かなきゃ。

 そんなことを思った。

 自分が今、人格まで否定されているのに、香澄はまず、書類が濡れることを心配していた。

「申し訳ございませんって、何に謝ってるんですか」

 女性の声が震えていた。

 怒りなのか、不安なのか、悲しみなのか、香澄にはわからなかった。

「あなた、自分が何を言ってるかわかってるんですか」

 頭を下げたまま、香澄は口を開こうとした。

 そのとき。

「失礼します」

 低い声がした。

 昨日と同じ声だった。

 香澄は顔を上げるより先に、その声で誰かわかった。

 佐伯律が、カウンターの斜め後ろに立っていた。

 手には書類を持っていない。通りすがりではないと、なぜかわかった。

 佐伯は香澄を見なかった。

 女性のほうへ、まっすぐ視線を向けていた。

「現在の手続きについて、確認させていただきます」

「あなた、誰?」

「福祉課の佐伯です。こちらの窓口と同じフロアで対応しております。お声が大きくなっていましたので、状況確認に来ました」

「関係ないでしょう」

「関係があります。フロア内の安全管理と、窓口対応の継続に関わります」

 佐伯の声は、今日も平坦だった。

 怒っているようには聞こえない。

 でも、引く気もない。

「ご意見は承ります。ただし、職員個人への侮辱は手続きではありません」

 同じ言葉だった。

 昨日も聞いた言葉。

 けれど今日は、その一文が香澄の胸に、昨日より深く届いた。

 女性が佐伯を睨む。

「侮辱って、私は困ってるって言ってるんです」

「お困りの状況については確認します。ただし、担当職員の人格を否定する発言は、証明書交付の可否とは関係ありません」

「あなたたち、そうやってすぐ職員を守るんですね」

「職員を守るためではありません。手続きを進めるためです」

 佐伯は一歩、カウンターに近づいた。

 香澄の前に立つのではない。

 女性との間に割り込むのでもない。

 ただ、香澄の斜め横に立つ。

 逃げ道をふさがず、代わりに全部を背負うのでもない位置。

 その距離感が、佐伯らしいと思った。

「お母さまの住民票の写しを請求されているとのことですね」

「そうです」

「請求者さまとお母さまは別世帯ですか」

「今は別です。母は施設に入る準備をしていて」

「施設入所の手続きに必要ということですね。施設からの案内文書、または提出先がわかる書類はお持ちですか」

 女性はバッグの中を探り、しわの寄った紙を取り出した。

「これならありますけど」

 香澄はその紙に目を向けた。

 施設からの入所手続き案内だった。必要書類の一覧に、住民票の写しと書かれている。

 佐伯はそれを確認し、香澄に視線を移した。

「藤野さん。市民課の判断になりますが、請求理由の確認資料としては使用できる可能性がありますか」

 突然名前を呼ばれ、香澄は背筋を伸ばした。

 佐伯は答えを代わりに言わなかった。

 香澄に確認を戻した。

 それは、香澄を置き去りにしない介入だった。

「はい。確認資料としてお預かりしたうえで、交付可否を係長に確認します」

「では、その流れをご案内ください」

 佐伯が言う。

 命令ではない。

 促す声だった。

 香澄は一度、浅く息を吸った。

 そして女性を見る。

「お待たせして申し訳ございません。こちらの施設からの案内文書を確認資料としてお預かりします。そのうえで、交付可能か係長に確認いたします。確認に少しお時間をいただきますが、よろしいでしょうか」

 女性はまだ不満げだったが、さっきまでの勢いは少し弱まっていた。

「……どのくらいかかるんですか」

「五分から十分ほどいただく可能性がございます」

「急いでるんですけど」

「お急ぎのところ恐れ入ります。確認後、交付可能であればすぐにお呼びいたします」

 女性は唇を結び、無言で椅子のほうへ戻っていった。

 香澄はその背中を見送り、ようやく息を吐いた。

「藤野さん」

 佐伯の声に、香澄は振り返る。

「係長への確認を」

「あ、はい」

「申請書の端が濡れています。写しを取る前に拭いたほうがいいです」

 香澄は思わずカウンターを見る。

 さっき気にしていた雨水が、確かに申請書の端に近づいていた。

「……ありがとうございます」

 佐伯は頷くでもなく、表情を変えるでもなく、

「事実です」

 と言った。

 それだけ言って、佐伯は福祉課のほうへ戻っていった。

 香澄は濡れたカウンターを拭き、申請書を整え、係長のもとへ向かった。

 手続き自体は、最終的に交付可能だった。

 施設からの案内文書で請求理由が確認でき、本人確認も問題なかった。香澄は係長の確認を受けたうえで、女性を再び窓口へ呼んだ。

「お待たせいたしました。確認が取れましたので、交付手続きを進めます」

 女性はばつが悪そうに視線を逸らした。

「最初からそうしてくれればよかったのに」

 その言葉に、香澄は一瞬だけ胸が詰まった。

 最初から。

 香澄は最初から、確認しようとしていた。

 けれど、もうそれを言う気力はなかった。

「お時間をいただき、申し訳ございませんでした」

 頭を下げる。

 女性は住民票を受け取り、何も言わずに去っていった。

 自動ドアの向こうへ出ていく背中が、雨の灰色に溶ける。

 香澄は椅子に座った。

 フロアのざわめきが戻る。

 番号札の音。電話の音。プリンターの音。

 何もなかったかのように、市民課は動き続ける。

 けれど香澄の中では、何かが止まったままだった。

「藤野さん、大丈夫ですか?」

 莉子がそっと声をかけてくる。

 香澄は笑った。

「大丈夫。ありがとう」

 いつもの言葉。

 いつもの笑顔。

 でも、頬の筋肉が少し強張っているのがわかった。

 莉子は心配そうだったが、次の番号が呼ばれ、香澄はまた窓口に向き直った。

 仕事は止まらない。

 感情は、後で処理する。

 そうやって、香澄は今日までやってきた。

 昼休みに入ったとき、香澄はまっすぐトイレへ向かった。

 庁舎の二階、職員用のトイレ。

 個室に入り、鍵をかける。

 狭い空間に、蛍光灯の白い光が落ちていた。

 香澄は便座のふたに腰を下ろした。

 泣くなら、今だと思った。

 誰にも見られない。

 今なら、少しくらい崩れてもいい。

 目を閉じる。

 女性の声が蘇る。

 だから役所の人間は。

 あなた、ちゃんと話聞いてるの?

 感情がないんじゃないの?

 あなたみたいな人が窓口にいるから。

 香澄は唇を噛んだ。

 悲しい。

 悔しい。

 怖かった。

 そう思う。

 でも、涙は出なかった。

 目の奥が熱いのに、涙だけが出てこない。

 まるで、体が泣き方を忘れてしまったみたいだった。

 香澄は膝の上で手を握った。

 悪くなかった。

 私は、悪くなかった。

 そう思いたい。

 でも、どこかで別の声がする。

 もっと早く案内できたのでは。

 もっと違う言い方があったのでは。

 相手は母親のことで困っていたのに、自分は冷たかったのでは。

 だから怒らせたのでは。

 だから、あんなふうに言われたのでは。

 香澄は小さく首を振った。

 泣けない。

 泣けないなら、戻らなければ。

 いつまでも席を外しているわけにはいかない。

 香澄は立ち上がり、個室を出た。

 洗面台の前に立つ。

 鏡に映る自分の顔は、思ったより普通だった。

 少しだけ顔色が悪い。

 目元が疲れている。

 でも、仕事に戻れないほどではない。

 香澄は手を洗い、ハンカチで水気を拭いた。

 それから、いつものように顔を作る。

 口角を上げる。

 目元をやわらかくする。

 大丈夫そうな顔。

 感じのいい職員の顔。

 人に心配をかけない顔。

「大丈夫」

 鏡の中の自分に、小さく言った。

 声に出してみると、ひどく空っぽに聞こえた。

 市民課に戻ると、机の上に黄色い付箋が一枚置かれていた。

 香澄は足を止めた。

 嫌な予感ではなかった。

 むしろ、その色を見た瞬間、胸の奥が静かに揺れた。

 角ばった字。

 短い一文。

『今のは、あなたが悪い件ではありません』

 それだけだった。

 名前もない。

 慰めもない。

 お疲れさまでした、でもない。

 大丈夫ですか、でもない。

 事務的で、淡々としていて、佐伯らしい文字。

 香澄は椅子に座ることも忘れて、その付箋を見つめた。

 今のは、あなたが悪い件ではありません。

 あなたが悪いわけではない。

 たったそれだけのことを、香澄は自分で自分に言ってあげられなかった。

 言ってほしかった。

 誰かに。

 でも、そんなことを望むのは甘えだと思っていた。

 窓口にいるなら、怒られることも仕事のうち。

 理不尽な言葉を受け流すことも、経験のうち。

 自分が我慢すれば、場は収まる。

 そうやって何度も飲み込んできた。

 けれど佐伯の文字は、その飲み込んだものを静かに拾い上げた。

 あなたが悪い件ではない。

 そう線を引いた。

 香澄の喉の奥が、急に熱くなった。

 泣けなかった涙が、今さら出そうになる。

 慌てて瞬きをした。

 ここは職場だ。

 窓口だ。

 泣く場所ではない。

 香澄は付箋をそっと手に取った。

 薄い紙なのに、指先に残る存在感があった。

「藤野さん?」

 莉子が声をかけてくる。

 香澄はすぐに顔を上げた。

「ううん、何でもない」

「お昼、食べられそうですか?」

「うん。少し食べるね」

 香澄は弁当袋を取り出した。

 でも、付箋をどうしても机に置きっぱなしにできなかった。

 手帳を開き、昨日のメモの隣に挟む。

 昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります。

 今のは、あなたが悪い件ではありません。

 二枚の小さな紙が、手帳の中に並んだ。

 それだけで、胸の奥にたまっていた重さが少しだけ形を変えた。

 午後、香澄はいつも通り仕事をした。

 けれど、午前中の出来事は何度も頭をよぎった。

 女性の顔。

 強い声。

 佐伯の横顔。

 今のは、あなたが悪い件ではありません。

 何度も思い出すたびに、泣きそうになり、同時に少しだけ背中が伸びた。

 閉庁後、香澄はいつもより早めに机を片づけた。

 今日は残業しない。

 そう決めた。

 やるべき処理は残っている。けれど、今日中でなくてもいいものもある。昨日、佐伯に言われたように、全部を自分の我慢で隠さなくてもいい。

 斎藤に必要な確認だけ済ませ、莉子には明日の朝一緒に見ると伝えた。

「藤野さん、今日は帰れるんですね」

 莉子が少し嬉しそうに言った。

「うん。今日は帰る」

「よかったです」

 よかった。

 そう言われると、残業しないことを責められていないのだとわかる。

 香澄は小さく笑った。

 鞄を持って席を立つ。

 そのまま帰ろうとして、足が止まった。

 福祉課のほうを見る。

 佐伯は自席でパソコンに向かっていた。隣の職員が何かを聞くと、画面を指しながら短く説明している。

 忙しそうだ。

 でも、今日言わなければ、また言えなくなる気がした。

 香澄は手帳を鞄に入れ直し、福祉課のほうへ歩いた。

「佐伯さん」

 声をかけると、佐伯が顔を上げた。

 眼鏡の奥の視線が、まっすぐ香澄に向く。

「はい」

「あの……少しだけ、よろしいですか」

 佐伯はパソコン画面を閉じるわけではなく、作業中の資料に付箋を貼ってから立ち上がった。

「廊下で」

「はい」

 二人はフロアの端、コピー機のそばまで移動した。

 職員の行き来はあるが、話し声が目立つほどではない。

 香澄は手を前でそろえた。

「今日の窓口の件、ありがとうございました」

 頭を下げる。

 今度は、昨日の朝よりもちゃんと言えた気がした。

 佐伯は少しだけ間を置いた。

「事実を書いただけです」

 予想通りの返事だった。

 香澄は思わず顔を上げる。

「メモのことですか?」

「はい」

「それも、規定通りですか?」

 自分で言ってから、香澄は驚いた。

 少しだけ、意地悪な言い方だったかもしれない。

 でも、佐伯は表情を変えなかった。

「規定ではありません」

「え?」

「業務上、記録は必要です。ただ、付箋は私的な判断です」

 私的な判断。

 その言葉が、妙に佐伯らしくて、香澄は小さく笑ってしまった。

「私的な判断で、あんなに事務的な文章なんですね」

 佐伯がわずかに瞬きをした。

 香澄は慌てて口元を押さえた。

「すみません。失礼でした」

「いえ」

 佐伯は少し視線を逸らした。

「事務的なほうが、受け取りやすいかと思いました」

 香澄の笑いが止まった。

 受け取りやすい。

 その言葉は、静かに胸へ落ちた。

 慰めの言葉だったら、香澄はきっと「大丈夫です」と返していた。

 優しくされたら、困っていた。

 泣きそうになって、余計に笑ってごまかしていたかもしれない。

 でも、佐伯はそれをわかっていたのだろうか。

 だから、あんな形にしたのだろうか。

「……受け取りやすかったです」

 香澄は小さく言った。

「たぶん」

 佐伯が香澄を見る。

 香澄は、少しだけ迷ってから続けた。

「大丈夫ですかって聞かれていたら、大丈夫ですって答えていたと思います」

「そうでしょうね」

「即答ですね」

「藤野さんは、ほぼ反射で言います」

 あまりに淡々と言われて、香澄はまた笑ってしまった。

 今度は、少しだけ本当に笑えた。

「そんなに言っていますか」

「言っています」

「……気をつけます」

「気をつけることではないと思います」

「え?」

「癖は、必要があって身についたものです。すぐには変わりません」

 佐伯の声は静かだった。

 香澄は、その言葉を受け止めるのに少し時間がかかった。

 癖は、必要があって身についたもの。

 我慢すること。

 笑うこと。

 大丈夫と言うこと。

 本音を飲み込むこと。

 それらは、香澄が弱いからではなく、自分を守るために身につけたものだったのだろうか。

 そう考えたら、少しだけ胸がゆるんだ。

「佐伯さんは」

 香澄は言った。

「どうして、そういうことに気づくんですか」

 佐伯はすぐには答えなかった。

 廊下の向こうで、誰かがコピー機の紙詰まりに困っている声が聞こえた。職員が笑いながら手伝っている。

 佐伯はその音を一瞬だけ聞いてから、香澄に視線を戻した。

「仕事柄です」

「福祉課だから、ですか」

「それもあります」

「それ以外も?」

 尋ねてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 けれど佐伯は、不快そうにはしなかった。

「見落とすと、後で大きくなることが多いので」

 短い答えだった。

 仕事の話のようにも聞こえる。

 でも、それだけではない気もした。

 香澄はそれ以上聞かなかった。

 佐伯もそれ以上話さなかった。

 沈黙が落ちる。

 以前なら、この沈黙を埋めようとして、香澄は何かを言っただろう。

 すみません。

 お忙しいところ。

 もう大丈夫です。

 でも今は、不思議と急いで埋めなくてもいい気がした。

「メモ」

 香澄は鞄の中の手帳に軽く触れた。

「ありがとうございました」

「はい」

「……捨てずに、手帳に挟みました」

 言った瞬間、自分でもなぜそんなことを伝えたのかわからなくなった。

 恥ずかしさが遅れてくる。

 佐伯はほんの少しだけ目を見開いた。

 本当に、わずかだった。

 けれど香澄にはわかった。

 佐伯が少し驚いたこと。

 そして、次の瞬間、眼鏡の奥の目元がほんのわずかにやわらいだこと。

「そうですか」

 それだけだった。

 でも、声が少しだけ違った。

 冷たいとは思わなかった。

 無愛想なのは、変わらない。

 言葉も少ない。

 けれど今、確かに佐伯の表情が緩んだ。

 香澄の胸が、思いがけず小さく鳴った。

「では、お疲れさまです」

 佐伯が先に言った。

「あ、はい。お疲れさまです」

 香澄は頭を下げ、市民課のほうへ戻ろうとした。

 数歩歩いてから、ふと振り返る。

 佐伯はもう自席に戻りかけていた。

 背中はまっすぐで、いつも通りだった。

 けれど、さっきのほんのわずかな表情の変化が、香澄の中に残っていた。

 庁舎を出ると、雨はまだ降っていた。

 朝よりも少し弱くなっている。

 香澄は傘を開き、駅へ向かって歩き出した。

 水たまりに街灯が映っている。

 靴の先が少し濡れる。

 いつもなら、今日のような日は一日分の疲れが体に重く残る。理不尽な言葉を何度も思い出し、もっと違う対応ができたのではないかと、自分を責めながら帰る。

 でも今日は違った。

 傷つかなかったわけではない。

 怖くなかったわけでもない。

 それでも、胸の奥に一枚の付箋がある。

 今のは、あなたが悪い件ではありません。

 香澄は信号待ちで立ち止まり、鞄の上から手帳の感触を確かめた。

 私はずっと、誰かに「あなたは悪くない」と言ってほしかったのかもしれない。

 そう認めた瞬間、雨の音が少しだけやわらかく聞こえた。
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