となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第4話 大丈夫じゃないカフェラテ

 残業を終えるころには、庁舎の中から昼間のざわめきが消えていた。

 市民課の照明は半分だけ落とされ、窓口カウンターの上には、閉庁後の静けさが薄く積もっている。番号札の機械も、プリンターも、来庁者の足音も、今は黙っていた。

 香澄はパソコンの画面を閉じ、肩を回した。

 時計を見ると、午後八時を少し過ぎていた。

 今日は定時で帰るつもりだった。

 朝はそう思っていたのに、午後になって急ぎの照会が入り、夕方には戸籍関係の確認が重なった。さらに莉子が対応に迷っていた転入届を一緒に見ていたら、気づけば外は暗くなっていた。

 それでも、以前よりはましだと思う。

 全部を自分で抱えたわけではない。

 斎藤にも確認を振った。係長にも相談した。莉子の分も、すべて代わりに処理したのではなく、一緒に確認した。

 少しずつ。

 本当に少しずつだけれど、香澄は変わろうとしていた。

「藤野さん、まだ残ってたんですか」

 斎藤が鞄を肩にかけながら声をかけてきた。

「これで帰ります」

「お疲れ。最近、ちゃんと帰るようになったよね」

「そうですか?」

「うん。前は気づいたら最後まで残ってたから」

 斎藤は軽く笑い、すぐに「あ、悪い意味じゃなくて」と付け足した。

「藤野さんがいないと困るけど、倒れられても困るし」

「倒れませんよ」

 香澄は笑った。

 でも、心の中では少しだけ驚いていた。

 自分が最後まで残るのは当たり前だと思っていた。誰かもそう思っているのだと思っていた。

 けれど、そうではなかったのかもしれない。

 香澄が何も言わないから、周りも気づけなかっただけなのかもしれない。

「じゃ、お先」

「お疲れさまでした」

 斎藤を見送ってから、香澄は机の引き出しを開けた。

 手帳を取り出す。

 中には、二枚の付箋が挟まっている。

『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』

『今のは、あなたが悪い件ではありません』

 佐伯の字は、何度見ても硬い。

 感情の入り込む隙がないような、まっすぐで角ばった字。

 けれどその硬さに、香澄は何度も救われていた。

 慰めではなく、事実。

 同情ではなく、線引き。

 佐伯の言葉はいつも、香澄が曖昧にしてきた境界を、静かに形にする。

 香澄は手帳を閉じ、鞄にしまった。

 庁舎を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。

 昼間の雨は上がっていたが、地面にはまだ湿り気が残っている。街灯の光がアスファルトににじみ、庁舎前の植え込みからは濡れた土の匂いがした。

 駅へ向かう道を歩き出してすぐ、香澄のお腹が小さく鳴った。

 そういえば、夕方から何も食べていない。

 昼も急いでおにぎりを一つ食べただけだった。

 駅前のコンビニに寄ろう。

 そう思ったとき、少しだけ心が軽くなった。

 コンビニの明かりは、夜の中で妙に明るかった。

 自動ドアが開くと、温かい空気と一緒に、揚げ物とコーヒーの匂いが流れてくる。店内には会社帰りの人が数人、学生らしき二人組、それから宅配便を出している男性がいた。

 香澄は迷わずドリンク棚へ向かった。

 甘いカフェラテ。

 疲れた日の帰りに、つい買ってしまうものだった。

 砂糖が多いのはわかっている。夜に飲むには少し重いこともわかっている。

 でも、頭も体も疲れた日には、あの甘さが必要だった。

 今日は大丈夫だった。

 ちゃんと仕事を分けた。

 ちゃんと帰ろうとしている。

 そう思っても、体の奥にはまだ一日の疲れが残っている。

 香澄はカフェラテのボトルを手に取った。

 冷蔵棚の白い光が、指先を青白く照らす。

「いつもそれですね」

 背後から声がして、香澄は肩を揺らした。

 振り返ると、佐伯律が立っていた。

 黒いコートを腕にかけ、片手に無糖のペットボトルのお茶を持っている。仕事帰りらしく、ネクタイを少しだけ緩めていた。

「佐伯さん」

「お疲れさまです」

「あ……お疲れさまです」

 香澄は慌ててカフェラテを胸元に引き寄せた。

 別に隠すようなものではない。

 けれど、見られていたことに妙に動揺した。

「いつもって、そんなに買ってますか」

「少なくとも、残業後に見かけたときはそれです」

「見かけたとき」

 香澄は思わず繰り返した。

 佐伯は表情を変えずに頷く。

「駅前なので」

「あ、そうですよね」

 同じ方向なら、見かけることもある。

 たまたま。

 そう思えばいいはずなのに、胸の奥が少し落ち着かない。

 佐伯が、香澄の買う飲み物を覚えていた。

 その事実が、やけにくすぐったかった。

「甘いもの、好きなんですか」

 佐伯が聞いた。

「好きというか……疲れた日に、つい」

「疲れているんですね」

 あまりにまっすぐ言われて、香澄は返事に困った。

「いえ、大丈夫です」

 反射だった。

 言った瞬間、自分でも「あ」と思った。

 佐伯の視線が、香澄の手元へ落ちる。

 香澄はカフェラテのボトルを握りしめていた。指に力が入って、ラベルが少しへこんでいる。

「大丈夫な人は、そんな顔でカフェラテを握りしめません」

 静かな声だった。

 からかうようでも、責めるようでもなかった。

 ただ、見たままを言った。

 香澄は自分の手元を見た。

 たしかに、強く握りすぎている。

 慌てて力を抜くと、へこんだボトルが小さく音を立てて戻った。

 その音が可笑しくて、香澄は少し笑った。

「そんな顔、してましたか」

「していました」

「どんな顔ですか」

「説明しにくいです」

「佐伯さんでも?」

「はい。言語化に適さない顔です」

 淡々と返され、香澄はまた笑ってしまった。

 笑ったのに、なぜか目の奥が熱くなった。

 困る。

 こういうのは困る。

 大丈夫です、と言った瞬間に、本当は大丈夫ではないと見抜かれる。

 何でもないふりをしたのに、カフェラテを握る指先まで見られている。

 それは少し怖い。

 けれど、怖いだけではなかった。

「……今日は、少し疲れました」

 言ってから、香澄は息を止めた。

 たったそれだけのことを言うのに、胸が緊張する。

 疲れた。

 大丈夫ではなく。

 平気でもなく。

 疲れた。

 佐伯は頷いた。

「そうですか」

 それだけだった。

 大変でしたね、とも、無理しないでください、とも言わない。

 でも、その「そうですか」は、香澄の言葉をそのまま置くための返事だった。

 否定しない。

 軽くしない。

 解決しようともしない。

 ただ、受け取る。

 香澄は、胸の奥が少しゆるむのを感じた。

「佐伯さんは、お茶なんですね」

 香澄は話題を変えるように、佐伯の手元を見た。

「はい」

「甘いものは飲まないんですか」

「飲み物は、あまり」

「飲み物は?」

 その言い方が気になって聞き返すと、佐伯は少しだけ視線を逸らした。

「甘いもの自体は、嫌いではありません」

「そうなんですか」

 意外だった。

 佐伯と甘いものが、すぐには結びつかない。

「ケーキとか?」

「たまに」

「チョコレートとか?」

「職場の引き出しにあります」

 香澄は目を丸くした。

「佐伯さんの引き出しにチョコレート」

「何か問題がありますか」

「いえ、全然。少し意外で」

「糖分は必要です」

「理由が業務寄りですね」

 香澄が笑うと、佐伯はわずかに眉を動かした。

 それが、少しだけ不服そうに見えて、香澄はまた笑いそうになる。

 レジへ向かうと、佐伯も同じ方向へ歩いた。

 香澄はカフェラテと小さなサンドイッチを置く。佐伯はお茶と、なぜかレジ横の小さなチョコレート菓子を一つ置いた。

 香澄は見ないふりをしようとしたが、少しだけ口元が緩んだ。

 佐伯はそれに気づいたのか、低い声で言う。

「糖分です」

「はい」

「業務上、必要です」

「今は業務外です」

 言ってしまってから、香澄は慌てた。

 余計なことを言ったかもしれない。

 しかし佐伯は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

「では、私的に必要です」

 香澄は笑いをこらえきれなかった。

 小さく吹き出すと、レジの店員が一瞬こちらを見た。

「すみません」

 香澄が小声で言うと、佐伯は何も言わず、会計を済ませた。

 コンビニを出ると、夜風がさらに冷たく感じた。

 香澄はカフェラテを鞄に入れようとして、やめた。キャップを開け、ひと口飲む。

 甘い。

 いつもの味なのに、今日は少し違って感じた。

 疲れを押し込める甘さではなく、疲れたと認めたあとの甘さだった。

「駅までですか」

 佐伯が聞いた。

「はい」

「同じ方向です」

 送ります、とは言わなかった。

 一緒に帰りましょう、とも言わなかった。

 ただ、同じ方向です。

 その言い方が、佐伯らしい。

 香澄は少し迷ってから頷いた。

「では、途中まで」

「はい」

 二人は並んで歩き出した。

 駅前へ続く道には、雨上がりの匂いが残っていた。歩道の端には小さな水たまりがあり、街灯の光がそこに揺れている。

 会話は、ほとんどなかった。

 普通なら気まずくなる沈黙だった。

 誰かと一緒に歩いているなら、何か話さなければいけない。仕事の話でも、天気の話でも、当たり障りのない話題を探さなければならない。

 香澄はいつもそうしてきた。

 沈黙が相手を不快にする前に、先回りして埋める。

 けれど佐伯は、何も話さない。

 そして、その沈黙を気にしているようにも見えなかった。

 香澄も、無理に言葉を探さなかった。

 不思議だった。

 話さなくても、置いていかれている感じがしない。

 黙っていても、責められている気がしない。

 ただ、同じ速度で歩いている。

 それだけなのに、香澄は少しだけ安心していた。

「藤野さん」

 しばらく歩いてから、佐伯が口を開いた。

「はい」

「今日は、何時から残っていましたか」

「えっと……閉庁後からなので、五時半くらいです」

「休憩は」

「少し取りました」

 佐伯がこちらを見る。

 香澄は慌てて言い直した。

「本当に、少しです。でも、今日は昼も食べました」

「そうですか」

「昨日よりは、判断は鈍っていないと思います」

 自分で言ってから、香澄は笑った。

 佐伯も、ほんの少しだけ目元を緩めたように見えた。

 気のせいかもしれない。

 でも、香澄はそのわずかな変化を見逃したくなかった。

「佐伯さんは、いつも遅いんですか」

「時期によります」

「福祉課も大変ですよね」

「市民課も大変だと思います」

 短いやり取り。

 でも、投げた言葉がちゃんと返ってくる。

 香澄はカフェラテのボトルを両手で持った。

「佐伯さんは」

 少し迷ってから、聞いてみる。

「疲れたとき、大丈夫ですって言いますか」

 佐伯はしばらく考えた。

「言わないと思います」

「そうなんですか」

「必要があれば、疲れていますと言います」

「強いですね」

「強いというより、疲れていることを隠しても業務量は減りません」

「……たしかに」

 香澄は苦笑した。

 佐伯の言うことは、いつも現実的だ。

 情緒の入り込む余地が少ない。

 でも、その現実的な言葉が、香澄には時々、優しさよりも優しく響く。

「私は、すぐ言ってしまいます」

「大丈夫です、ですか」

「はい」

「知っています」

「ですよね」

 香澄は小さく肩をすくめた。

「言わないと、相手が困る気がして」

「相手が?」

「はい。心配されたら申し訳ないし、迷惑をかけたくないし。大丈夫って言えば、その場が終わるので」

「終わりますか」

 佐伯の問いに、香澄は答えられなかった。

 その場は終わる。

 でも、疲れは終わらない。

 言えなかった言葉も、終わらない。

 むしろ、内側に残る。

「終わったことに、しているだけかもしれません」

 香澄は小さく言った。

 佐伯は頷いた。

「それは、疲れますね」

 あまりにも淡々とした相槌だった。

 でも、その一言で、香澄はまた泣きそうになった。

 疲れますね。

 そうなのだ。

 疲れるのだ。

 大丈夫なふりをするのは、思っていたよりずっと疲れる。

「……はい」

 香澄はカフェラテを見つめた。

「疲れます」

 口にした瞬間、夜風が少しだけやわらいだ気がした。

 駅が近づいてきた。

 改札へ向かう人の流れが増える。スーツ姿の男性、買い物袋を持つ女性、イヤホンをした学生たち。

 いつもの帰り道。

 けれど、今日は少し違う。

 佐伯と並んで歩いた数分間が、胸の中に静かに残っていた。

「私は、こちらなので」

 駅前の分かれ道で佐伯が立ち止まった。

「あ、はい。私は改札のほうです」

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 香澄は軽く頭を下げた。

 佐伯も小さく頷く。

 そのまま別れようとして、香澄はふと呼び止めた。

「佐伯さん」

「はい」

「チョコレート、溶けないうちに食べてくださいね」

 言ってから、少し馴れ馴れしかったかもしれないと思った。

 でも佐伯は、コンビニ袋の中を一度見てから、真面目な顔で答えた。

「善処します」

 香澄はまた笑った。

「そこは、はい、でいいと思います」

「はい」

 短い返事。

 でも、ほんの少しだけ声がやわらかかった。

 佐伯が駅とは反対方向へ歩いていく。

 香澄はその背中を見送った。

 真っ直ぐな背中。

 無愛想な歩き方。

 それなのに、なぜだろう。

 胸の奥が、さっきから落ち着かない。

 好き、というには早すぎる。

 そんな言葉を使うほど、まだ何も知らない。

 ただ、佐伯といる沈黙は苦しくなかった。

 見られていることが怖いのに、見てもらえていることが少し嬉しかった。

 それだけで、十分に戸惑う理由になった。

 翌朝、市民課に着くと、莉子が待ち構えていたように顔を上げた。

「藤野さん」

「おはよう。どうしたの?」

「昨日、佐伯さんと一緒でした?」

 香澄は鞄を机に置きかけた手を止めた。

「え?」

「駅前のコンビニの近くで見かけたって、総務の子が言ってました。二人で歩いてたって」

 莉子の目がきらきらしている。

 斎藤も隣から顔を出した。

「へえ、佐伯と?」

「違います」

 香澄は反射的に言った。

 思ったより強い声だった。

 莉子が瞬きをする。

「あ、違うんですか?」

「偶然コンビニで会っただけ。駅まで同じ方向だったから、少し歩いただけです」

「そうなんですね」

「本当に、それだけです」

 重ねて言った。

 自分でも、否定しすぎだと思った。

 けれど、口が止まらなかった。

 佐伯に迷惑をかけたくない。

 職場で妙な噂になったら困る。

 佐伯はそういう話を嫌がりそうだ。

 自分のせいで、あの人がからかわれたり、仕事がやりづらくなったりしたら嫌だ。

 だから早く否定しなければ。

 そう思った。

「藤野さん、そんなに慌てなくても」

 斎藤が笑う。

「いや、佐伯ってそういう話全然なさそうだから、ちょっと意外だっただけ」

「本当に、何もないです」

 香澄は笑顔を作った。

「偶然です」

 そのとき、フロアの向こうから誰かが歩いてくる気配がした。

 顔を上げる。

 福祉課のほうへ向かう佐伯だった。

 手には資料を持っている。いつものように表情は読めない。

 けれど、その視線が一瞬だけ香澄のほうへ向いた。

 聞こえていた。

 そう直感した。

 香澄の胸が、嫌な音を立てた。

 佐伯は足を止めなかった。

 何も言わず、福祉課の自席へ向かっていく。

 その背中を見た瞬間、香澄は自分の言葉が急に重くなった。

 違います。

 本当に、それだけです。

 何もないです。

 偶然です。

 佐伯に迷惑をかけないための否定だった。

 でも、佐伯にはどう聞こえただろう。

 なかったことにしたい相手。

 見られたくない関係。

 そう聞こえなかっただろうか。

 いや、そもそも関係と呼べるほどのものではない。

 コンビニで偶然会って、駅まで歩いただけ。

 それは事実だ。

 でも。

 昨日の夜、香澄にとってあの時間は、何でもないものではなかった。

 無理に話さなくてよかった沈黙。

 疲れたと言えたこと。

 佐伯がチョコレートを買っていたこと。

 駅前で、ほんの少しだけ笑ったこと。

 それら全部を、今、自分で急いで打ち消してしまった。

「藤野さん?」

 莉子が心配そうに覗き込む。

「あ、ごめん。何でもない」

「怒りました?」

「怒ってないよ」

 香澄は笑った。

 でも、その笑顔は少しだけ硬かった。

 午前中の窓口対応をしながらも、香澄は何度も福祉課のほうを気にしてしまった。

 佐伯はこちらを見ない。

 いつも通り仕事をしている。

 資料を確認し、電話を受け、窓口で相談者に対応している。

 その姿は普段と何も変わらない。

 だからこそ、余計に気になった。

 昼前、香澄は共有プリンターの前で佐伯と鉢合わせた。

 香澄のほうが先に印刷物を取りに来ていて、佐伯が後から来た。

「あ……お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 いつも通りの返事。

 香澄は印刷された書類をそろえながら、迷った。

 謝る?

 何を?

 朝のことを聞いていましたか、と言う?

 それこそ変だ。

 でも、何も言わずに去るのも落ち着かない。

「あの、佐伯さん」

 声をかけると、佐伯がこちらを見る。

「はい」

「今朝のことなんですけど」

「今朝」

「その……莉子ちゃんたちが、昨日のことを少し話していて」

「聞こえました」

 やっぱり。

 香澄は指先に力が入った。

「すみません。変に否定してしまって」

「事実では」

「え?」

「偶然会って、駅まで同じ方向だった。それだけです」

 佐伯の声は淡々としていた。

 間違いではない。

 だから香澄は、余計に苦しくなった。

「そうなんですけど」

「否定したい関係なら、それでいいです」

 佐伯は静かに言った。

 責める口調ではなかった。

 怒っているようにも聞こえない。

 けれど、その言葉は香澄の胸にまっすぐ刺さった。

 否定したい関係。

 違う。

 そう言いたかった。

 でも、何が違うのか、自分でもわからなかった。

 関係というほどのものはない。

 でも、否定したかったわけではない。

 昨日の夜の時間を、恥ずかしいものみたいに扱いたかったわけではない。

 ただ、迷惑をかけたくなかった。

 そう説明すればいい。

 なのに、言葉が出てこない。

「違……」

 そこまで言って、香澄は止まった。

 佐伯は続きを待っていた。

 いつものように、急かさずに。

 でも、香澄は言えなかった。

 自分の気持ちに名前がついていない。

 だから、言葉にできない。

「すみません」

 結局、出てきたのは謝罪だった。

 佐伯はわずかに目を伏せた。

「謝ることではありません」

「でも」

「藤野さんが困るなら、今後は距離を取ります」

 香澄の胸が、きゅっと痛んだ。

 距離を取る。

 その言葉が、思った以上に寂しかった。

「困っているわけでは」

 香澄は言いかけて、また止まる。

 佐伯の視線が静かにこちらを見ている。

 逃げない目だった。

 香澄は、今度こそ「大丈夫です」と言いそうになった。

 でも、昨日の夜の言葉を思い出した。

 大丈夫な人は、そんな顔でカフェラテを握りしめません。

 今の自分は、何を握りしめているのだろう。

 書類。

 言えない気持ち。

 失いたくない、けれど認めるのも怖い何か。

「……困っているのは、噂になることです」

 香澄は小さく言った。

 佐伯は黙って聞いていた。

「佐伯さんに迷惑がかかると思って。だから、否定したんです」

「私に?」

「はい」

「私は、特に困っていません」

「でも、からかわれたり」

「されても、業務に支障はありません」

「佐伯さんらしいですね」

 香澄は思わず言った。

 佐伯は少しだけ眉を動かした。

「褒めていますか」

「たぶん」

「たぶん」

 その返しが少しだけおかしくて、香澄は小さく笑った。

 けれど、胸の痛みはまだ完全には消えない。

「でも、私が勝手に否定したことで、昨日のことまでなかったみたいに聞こえたなら……それは、嫌です」

 言えた。

 言ってから、顔が熱くなる。

 昨日のこと。

 それが何を指すのか、詳しく言ったわけではない。

 でも、香澄には十分だった。

 佐伯はしばらく黙っていた。

 プリンターが別の部署の書類を吐き出す音が、二人の間に小さく響く。

 やがて佐伯が言った。

「では、昨日のことは、なかったことではないんですね」

 香澄は視線を落とした。

「……はい」

「わかりました」

 それだけだった。

 でも、その短い返事で、香澄の胸は少しだけ軽くなった。

 佐伯は印刷物を取り、軽く会釈する。

「午後も、判断が鈍らない程度に食べてください」

 香澄は顔を上げた。

「はい」

 今度は笑って答えた。

「今日は、お弁当をちゃんと食べます」

「それがいいと思います」

 佐伯はそう言って、福祉課へ戻っていった。

 背中は相変わらず真っ直ぐで、無愛想だった。

 でも、もう冷たいとは思わなかった。

 市民課の席に戻ると、莉子がそっと近づいてきた。

「藤野さん、さっき佐伯さんと話してました?」

「うん。印刷物のところで少し」

「やっぱり仲いいんじゃないですか」

 からかうような声。

 香澄は一瞬、また否定しそうになった。

 違うよ。

 何もないよ。

 偶然だよ。

 でも、言わなかった。

 その代わり、少しだけ考えてから答えた。

「仲がいいかは、わからないけど」

「けど?」

「話しやすい人だとは思う」

 莉子が目を丸くする。

「佐伯さんが?」

「うん」

「藤野さん、すごいですね。私、まだ怖いです」

 莉子は本気で言っているようだった。

 香澄は小さく笑った。

「私も、少し怖いよ」

「え、そうなんですか?」

「うん。でも、怖いだけじゃない」

 自分で言いながら、香澄は佐伯の言葉を思い出していた。

 否定したい関係なら、それでいいです。

 その言葉は痛かった。

 でも、その痛みが教えてくれたことがある。

 自分は、佐伯との時間を否定したくなかった。

 コンビニで会ったことも。

 カフェラテを見られたことも。

 疲れたと言えたことも。

 沈黙のまま一緒に歩いたことも。

 全部、なかったことにはしたくなかった。

 昼休み、香澄は弁当をちゃんと食べた。

 卵焼きと、ブロッコリーと、昨日の残りの鶏そぼろ。

 食べながら、鞄の中のカフェラテを思い出す。

 昨日買ったものは、結局、帰宅してから半分だけ飲んだ。

 甘くて、少し冷たくて、疲れた体にしみた。

 けれど香澄はもう、あのカフェラテをただの疲労回復のための飲み物とは思えなくなっていた。

 大丈夫ではない自分を、見つけられた夜。

 その手元にあったもの。

 午後、窓口に座ると、いつものように来庁者がやって来た。

 香澄は申請書を受け取り、説明をし、確認をする。

 けれど、今日は少しだけ違う。

「大丈夫です」と言いそうになるたびに、一度だけ飲み込む。

 本当に大丈夫なのか。

 今、言う必要があるのか。

 別の言葉はないのか。

 すぐに全部は変えられない。

 それでも、少しずつ。

「確認してからお答えします」

「少しお時間をください」

「今日はここまでなら対応できます」

 大丈夫、以外の言葉を選んでみる。

 それだけで、心の中に小さな隙間ができた。

 閉庁後、香澄は福祉課のほうをちらりと見た。

 佐伯は相談記録らしき書類を確認していた。

 声をかける用事はない。

 でも、香澄は少しだけ立ち止まった。

 佐伯が顔を上げる。

 目が合った。

 香澄は慌てて会釈する。

 佐伯も小さく頷いた。

 それだけだった。

 けれど、昨日のように否定しなければならないものではなかった。

 香澄は鞄を持ち、庁舎を出た。

 駅前のコンビニの前を通る。

 今日は寄らなかった。

 でも、ガラス越しに並んだカフェラテのボトルが見えた。

 大丈夫じゃない日には、たぶんまた買う。

 そのとき、もし佐伯に見られたら、今度はもう少し正直に言えるだろうか。

 今日は疲れました。

 でも、少しだけ大丈夫になりました。

 そんなふうに。

 香澄は夜の道を歩きながら、鞄の中の手帳に触れた。

 手帳には、佐伯のメモが挟まっている。

 そして、メモにはない言葉が、今も胸の奥に残っていた。

 否定したい関係なら、それでいいです。

 違う。

 香澄は心の中で、今さら返事をした。

 否定したいわけじゃない。

 まだ名前をつけられないだけ。

 その名前のない気持ちが、甘いカフェラテの後味みたいに、いつまでも胸に残っていた。
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