となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第5話 残業の灯り

 休日の市役所は、平日とは別の建物のようだった。

 いつもなら朝から来庁者の足音が響くロビーも、番号札を呼ぶ電子音も、窓口の説明に重なる人の声もない。正面玄関は閉まっていて、職員は裏手の通用口から入る。警備員に名前を告げ、出勤簿に記入してから、香澄は庁舎の中へ入った。

 土曜日の午前九時。

 空は朝から灰色だった。

 雨はまだ降っていないけれど、空気には湿り気があった。午後には崩れるかもしれない、と天気予報が言っていたのを思い出す。

 香澄は小さな折りたたみ傘を持ってくるか迷って、結局、玄関に置いてきてしまった。

 休日出勤といっても、今日は窓口対応ではない。

 翌週から入る庁内システムの更新に合わせて、市民課と福祉課で共有している一部の記録ファイルを確認し、古い紙資料と現行データの照合をすることになっていた。平日は窓口が止められないため、担当者だけが休日に出て作業する。

 市民課からは香澄。

 福祉課からは佐伯。

 その名前を聞いたとき、香澄は平静を装った。

 係長に「藤野さん、佐伯さんと資料室で確認作業お願いできる?」と言われたとき、いつものように「はい、大丈夫です」と答えそうになって、途中で飲み込んだ。

 代わりに、

「はい。作業範囲を確認しておきます」

 と答えた。

 それだけのことが、少しだけ進歩のような気がした。

 エレベーターは休日モードで、一基だけが動いていた。香澄が三階の資料室へ向かうと、廊下の照明は必要な場所だけ点いていて、ところどころ影が濃い。

 平日には気づかなかった空調の音が、やけにはっきり聞こえる。

 自分の靴音も、いつもより大きい。

 市役所は、人がいないとこんなにも静かなのかと思った。

 資料室の前に着くと、すでに扉が少し開いていた。

 中から紙をめくる音がする。

「失礼します」

 声をかけて入ると、佐伯律が棚の前に立っていた。

 休日だからか、いつものスーツではなく、白いシャツに濃いグレーのカーディガンを羽織っている。ネクタイもない。けれど背筋は相変わらずまっすぐで、手には古いファイルを一冊持っていた。

 香澄は一瞬、見慣れない姿に言葉を忘れた。

 佐伯がこちらを見る。

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

 慌てて返す。

 佐伯はすぐに視線をファイルへ戻した。

「対象資料は、あちらの棚です。市民課分が上段、福祉課分が下段。共有台帳は奥のキャビネットにあります」

「もう確認してくださったんですか」

「場所だけです」

 いつもの返事。

 そっけない。

 でも、今日の香澄はそのそっけなさに少しだけ安心した。

 資料室には、古い紙の匂いがこもっていた。壁一面のスチール棚には、年度ごとに分けられたファイルが並び、背表紙には色あせたラベルが貼られている。

 蛍光灯の白い光。

 窓の外の曇り空。

 人のいない庁舎。

 その中で、佐伯と二人きり。

 そう意識した瞬間、胸の奥がわずかに落ち着かなくなった。

 香澄はそれをごまかすように、作業用のチェックリストを広げた。

「今日中に確認するのは、この三年分ですよね」

「はい。更新前にデータと紙の照合が必要なものだけです。全件ではありません」

「全件じゃないんですね。よかったです」

「全件なら、一日では終わりません」

「そうですよね」

 会話は淡々としていた。

 けれど、平日のフロアで交わす言葉とは少し違う。

 周囲に同僚がいないせいか、声がまっすぐ届く気がした。

 香澄はファイルを机に運び、佐伯と向かい合う形で座った。

 机の上に資料を広げる。

 申請番号、対象者名、更新日、確認欄。

 事務的な作業。

 そう思おうとした。

 でも、向かいに佐伯がいるだけで、いつもより紙をめくる手元を意識してしまう。

「藤野さん」

「はい」

「この番号、データ側では廃止扱いですが、紙では継続になっています」

「確認します」

 香澄はパソコン画面を覗き込み、該当箇所を探した。

 佐伯が椅子ごと少し近づく。

 肩が触れるほどではない。

 けれど、平日の窓口ではありえない距離だった。

「ここですね。去年の十月に変更されています」

「紙台帳の更新漏れですか」

「たぶん。備考欄に記録があります」

 香澄が画面を指すと、佐伯も目線を落とす。

 近い。

 そう思った瞬間、自分の心臓の音がうるさくなった。

 佐伯は何も気にしていないように、淡々と確認を進める。

「では、差し替え対象に入れます」

「はい」

 香澄は頷き、チェックリストに印をつけた。

 作業は順調に進んだ。

 休日の庁舎は静かで、電話も鳴らず、窓口の呼び出しもない。ひたすら資料を確認し、必要な箇所に付箋を貼り、データを照合していく。

 平日なら何度も中断される作業が、驚くほど進む。

 香澄は少しだけ気が楽になった。

 佐伯と二人きりという状況にも、最初ほど緊張しなくなっていた。

 沈黙が長くても、困らない。

 佐伯は無理に話しかけてこない。

 香澄も無理に話題を探さなくていい。

 紙をめくる音。

 キーボードを打つ音。

 佐伯が時折「確認します」「こちらです」と言う声。

 それだけで時間が過ぎていく。

 昼前になり、香澄は持ってきた水筒に手を伸ばした。

 佐伯もペットボトルのお茶を開ける。

「昼は、どうしますか」

 佐伯に聞かれ、香澄は少し驚いた。

「え?」

「昼食です」

「あ……今日は、おにぎりを持ってきました」

「そうですか」

「ちゃんと持ってきました」

 つい付け足すと、佐伯がこちらを見る。

「判断が鈍らないように?」

 思いがけず返され、香澄は笑った。

「はい。学習しました」

「それはよかったです」

 佐伯の声は相変わらず静かだった。

 でも、ほんの少しだけ目元がやわらいだ気がした。

 資料室の机で、それぞれ持参した昼食を取る。

 香澄は梅のおにぎりと卵焼き。佐伯はコンビニのおにぎり二つと、なぜか小さなチョコレート菓子を一つ。

 香澄はそれを見て、思わず口元を押さえた。

「糖分ですか」

 佐伯がチョコレートを手にしたまま止まる。

「……はい」

「業務上?」

「今日は休日なので、私的に必要です」

 真面目な顔で言われて、香澄は小さく笑った。

 笑ってから、ふと気づく。

 佐伯の前で、最近よく笑っている。

 愛想笑いではなく。

 相手の機嫌を取るためでもなく。

 ただ、可笑しいと思ったから笑う。

 それが、ひどく久しぶりのことのように思えた。

 昼食後、二人は奥のキャビネットにある共有台帳の確認に移った。

 資料室の奥は、さらに古いファイルが多い。背表紙の文字は薄れ、紙は少し黄色くなっている。キャビネットの引き出しを開けると、古い書類特有の乾いた匂いが立った。

「これ、かなり古いですね」

 香澄が言うと、佐伯は背表紙を確認した。

「五年前です。今回の対象は一部だけですが、関連資料として見る必要があります」

「わかりました」

 二人でファイルを机へ運ぶ。

 思ったより重く、香澄の手元が少し滑った。

「大丈夫ですか」

 佐伯がすぐに手を伸ばした。

「大丈夫です」

 言ってから、香澄ははっとする。

 佐伯の視線が、ファイルを支える香澄の手元に落ちた。

 指先に力が入っている。

 たぶん、また見抜かれている。

 香澄は小さく息を吐いた。

「……少し重いです」

 佐伯が何も言わず、ファイルの反対側を持った。

 二人で机に置く。

 たったそれだけのことだった。

 大丈夫ではなく、重いと言う。

 すると、誰かが持ってくれる。

 それだけのことが、香澄には少し眩しかった。

「ありがとうございます」

「はい」

 佐伯はいつも通り短く返した。

 ファイルを開くと、中には古い申請記録や確認票が綴じられていた。個人情報が含まれるため、二人は必要箇所だけを慎重に確認していく。

 作業が進むにつれ、外の空が暗くなっていった。

 昼過ぎから、窓ガラスに細かい雨粒が当たり始める。

 やっぱり降ってきた。

 香澄は窓の外を見て、心の中で小さくため息をついた。

 傘を持ってこなかった。

 まあ、駅までなら走れる。

 そう思って、すぐにまた書類へ目を落とす。

 午後三時を過ぎたころ、古いファイルの中から、婚姻届や戸籍関連の相談記録が綴じられた参考資料が出てきた。

 もちろん、個別の内容を読む必要はない。確認すべきなのは分類番号と保管期限だけだ。

 それでも、背表紙に印字された「婚姻」「離婚」「戸籍異動」という文字を見たとき、香澄の胸は小さく揺れた。

 結婚。

 その言葉は、今も完全には平らに見られない。

 佐伯が気づいたのか、気づかなかったのかはわからない。

 彼は淡々とファイル番号を読み上げている。

「対象外です。保管期限のみ確認します」

「はい」

 香澄は返事をした。

 でも、声が少しだけ遅れた。

 佐伯が顔を上げる。

「休憩しますか」

「いえ、大丈夫です」

 言ってから、香澄は自分で苦笑した。

「……すみません。また言いました」

「言いましたね」

「癖なので」

「はい」

「でも、本当に大丈夫です」

 佐伯は少しだけ沈黙した。

「大丈夫なら、休憩しても問題ありません」

「それは……そうですね」

 言い返せない。

 香澄は少し笑った。

 二人は資料室の窓際に移動した。

 外は雨で、庁舎前の木々の葉が濡れている。休日の駐車場はほとんど空で、灰色の空の下、白線だけが静かに並んでいた。

 香澄は水筒のお茶を飲んだ。

 佐伯はペットボトルのお茶を一口飲んで、窓の外を見ている。

 沈黙。

 でも、苦しくない。

 むしろ、その沈黙があるから、香澄はふと口を開いてしまった。

「私、結婚する予定だったことがあるんです」

 言ってから、自分で驚いた。

 なぜ今、それを言ったのか。

 わからなかった。

 ただ、古い資料の文字が胸に触れて、佐伯の沈黙が急かさなかったから、言葉がこぼれた。

 佐伯は香澄を見た。

 驚いた様子はほとんどない。

 ただ、聞く姿勢になった。

「三年前です。式場の下見までしていて。でも、結局、なくなりました」

「そうですか」

 たったそれだけ。

 深く聞かない。

 かわいそうに、とも言わない。

 それが、香澄にはかえって話しやすかった。

「最後に言われたんです。君って、何を考えているのかわからないって」

 佐伯の表情は変わらない。

 けれど、視線だけが少しだけ鋭くなった気がした。

「それから、余計に言えなくなりました。もともと、何でも言えるほうではなかったんですけど。自分の気持ちを言って、またそう思われるくらいなら、最初から黙っていたほうがいいのかなって」

 香澄は窓の外を見たまま言った。

 雨粒がガラスをゆっくり流れていく。

「でも、黙っていると、やっぱり何を考えているかわからないって思われるんですよね。だから、どうしたらいいのかわからなくなって」

 声が少しだけ震えた。

 泣きたいわけではなかった。

 ただ、長い間しまっていたものを外へ出すと、空気に触れた部分が痛む。

「すみません。急にこんな話」

「謝ることではありません」

 佐伯は即座に言った。

 その返事があまりに迷いなくて、香澄は少しだけ顔を上げた。

 佐伯は、窓の外ではなく香澄を見ていた。

 まっすぐに。

「わからないなら、聞けばよかっただけです」

 静かな声だった。

 慰めるための甘い言葉ではなかった。

 でも、その一言で、香澄の胸が強く揺れた。

「……聞けば?」

「はい」

「でも、私が言わなかったから」

「言わない理由があったのでは」

 香澄は言葉を失った。

 言わない理由。

 そんなふうに考えたことはなかった。

 自分が言えなかった。

 自分が足りなかった。

 自分が相手を不安にさせた。

 ずっと、そう思ってきた。

 でも佐伯は、まったく違う場所に線を引いた。

「相手の考えていることがわからないなら、聞けばいい。聞いても答えないなら、なぜ答えられないのか考えればいい。相手にだけ責任を戻す言葉ではないと思います」

 香澄は窓の外を見ることができなくなった。

 視界が少し滲みそうになる。

 けれど涙は落ちなかった。

 代わりに、胸の奥で固くなっていたものが、少しずつほどけていくような感覚があった。

「佐伯さんは、簡単に言いますね」

 声に、少しだけ笑いが混じった。

 前にも同じことを言った気がする。

 佐伯は淡々と答える。

「簡単ではないと思います」

「そうなんですか」

「はい。聞くには、相手の答えを受け止める覚悟が必要です」

 香澄は佐伯を見た。

 佐伯の横顔は、いつも通り静かだった。

 でも、言葉の奥に何かがある気がした。

 福祉課で働く佐伯は、きっといろいろな人の話を聞いてきたのだろう。

 困っている人。

 怒っている人。

 何も言えない人。

 言っても届かなかった人。

 その中で、佐伯は「聞く」ことの重さを知っているのかもしれない。

「私は」

 香澄は水筒を握った。

「聞いてほしかったんでしょうか」

「それは、私にはわかりません」

「ですよね」

「ただ」

 佐伯が続ける。

「聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます」

 香澄は息を止めた。

 聞いてもらえなかった。

 その言葉は、静かに胸へ落ちた。

 そうか。

 私は、言えなかっただけじゃない。

 聞いてもらえないと思っていたのだ。

 言っても、どうせ困らせる。

 どうせ伝わらない。

 どうせ相手の望む答えではない。

 そう決めて、口を閉じていた。

 でも本当は、誰かに聞いてほしかった。

 何を考えているのかわからないと言われる前に、何を考えているのか聞いてほしかった。

 香澄は小さく息を吐いた。

「佐伯さんは、ずるいです」

 ぽつりと言う。

 佐伯がわずかに眉を動かす。

「ずるい?」

「そういう言い方をされると、私が悪かっただけじゃないのかもしれないって、思ってしまいます」

「そう思ってはいけませんか」

「……いけなくは、ないです」

 香澄は少し笑った。

 でも、その笑いは震えていた。

「でも、怖いです」

「何がですか」

「話したくなることが」

 言ってしまった。

 香澄は自分の言葉に、胸が大きく鳴るのを感じた。

 佐伯は黙っている。

 急かさない。

 否定しない。

 ただ、そこにいる。

 だから香澄は、続けてしまう。

「佐伯さんは、聞いてくれる気がします。私が変なことを言っても、困らずに、ちゃんと聞いてくれる気がするんです」

 言葉にするほど、怖くなった。

 こんなことを言っていいのだろうか。

 重いと思われないだろうか。

 面倒な人間だと思われないだろうか。

 水野の声が、遠くで蘇る。

 君って、何を考えているのかわからないんだよ。

 違う。

 今は、少しだけわかってほしいと思っている。

 でも、わかってほしいと思うこと自体が怖い。

「でも、そう思うと、もっと話したくなります。話したら、また失うかもしれないのに」

 香澄の声は小さかった。

 雨の音に紛れてしまいそうなほど。

 それでも佐伯には届いた。

 佐伯はしばらく黙っていた。

 長い沈黙だった。

 けれど、香澄は不思議と逃げたいとは思わなかった。

 やがて佐伯が言った。

「今すぐ全部話す必要はありません」

 香澄は顔を上げる。

「話したいと思った分だけでいいと思います」

「……佐伯さんは、それで困りませんか」

「困るかどうかは、聞いてから考えます」

 あまりに佐伯らしい答えだった。

 香澄は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。

「そこも事前に考えないんですね」

「想定だけで判断すると、間違えることがあります」

「仕事みたいです」

「仕事でも、そうです」

 真面目に返されて、香澄はまた笑った。

 泣きそうだったのに、笑っている。

 不思議だった。

 佐伯の前では、感情が一つだけでいられない。

 救われる。

 怖くなる。

 嬉しい。

 逃げたくなる。

 もっと近づきたくなる。

 全部が同時に胸の中で動く。

 それは疲れるはずなのに、不快ではなかった。

 むしろ、生きている感覚に近かった。

 休憩を終えて、二人は作業に戻った。

 資料の確認は夕方近くまで続いた。

 古いファイルを整理し、差し替え対象に付箋を貼り、更新漏れの一覧を作る。佐伯は手際がよく、香澄も集中して作業を進めた。

 けれど、心のどこかではずっと、さっきの会話が灯りのように残っていた。

 わからないなら、聞けばよかっただけです。

 言わない理由があったのでは。

 聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。

 佐伯の言葉は、香澄の過去を無理に慰めなかった。

 かわいそうだとも言わなかった。

 ただ、香澄が一人で背負ってきた責任を、少しだけ分け直してくれた。

 それが嬉しい。

 嬉しいのに、怖い。

 この人にもっと話したら、どうなるのだろう。

 もっと知ってほしいと思ってしまったら。

 もっと、隣にいてほしいと思ってしまったら。

 香澄はファイルの端をそろえながら、深呼吸した。

 今は作業。

 そう自分に言い聞かせる。

 午後五時を過ぎたころ、ようやく確認作業が終わった。

「これで対象分は終わりですね」

 香澄が一覧表を確認すると、佐伯が頷いた。

「はい。月曜に担当者へ共有します」

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 資料を棚に戻し、机の上を片づける。

 資料室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。

 雨は本降りになっている。

 ガラスに雨粒が細かく叩きつけられ、庁舎前の街灯がぼんやり滲んでいた。

 香澄は窓の外を見て、小さく息を吐いた。

「降ってますね」

「はい」

「傘、持ってくればよかったです」

 つい漏らすと、佐伯が香澄を見る。

「持っていないんですか」

「朝、迷ったんですけど。降ってなかったので」

「そうですか」

 それだけ言って、佐伯は自分の荷物を持った。

 香澄も鞄を肩にかける。

 駅までは歩いて十分ほど。

 走ればなんとかなるかもしれない。

 休日出勤で濡れて帰るのは少しつらいが、仕方ない。

 そう思いながら資料室の鍵を閉め、二人で廊下を歩いた。

 休日の庁舎は、夕方になるとさらに静かだった。

 清掃も終わり、警備員のいる一階以外に人の気配はほとんどない。廊下の照明が床に細長く伸び、窓の外の雨音だけが一定のリズムで響いている。

 階段を下りる途中、香澄は少しだけ足を止めた。

 この静けさの中で、今日話したことが急に現実味を帯びてくる。

 婚約破棄のこと。

 本音を言うのが怖くなったこと。

 佐伯に話した。

 話してしまった。

 でも、後悔はしていなかった。

 それがまた怖かった。

 通用口を出ると、雨の匂いが濃くなった。

 庁舎の庇の下で、香澄は鞄を抱え直した。

「駅まで走ります」

 そう言いかけたとき、佐伯が黒い傘を開いた。

 大きめの傘だった。

 雨粒が布に当たる音が、ぽつぽつと近くなる。

「駅までなら、傘は一つで足ります」

 佐伯はいつもの調子で言った。

 送ります、ではない。

 入ってください、でもない。

 業務上の合理的判断みたいな言い方。

 なのに、香澄の胸はどうしようもなく鳴った。

「……佐伯さんらしいですね」

「何がですか」

「優しいことを、優しい言い方にしないところです」

 佐伯は答えなかった。

 否定もしなかった。

 香澄は少し迷ってから、傘の中へ入った。

 近い。

 思ったよりも、ずっと近い。

 肩が触れそうで触れない距離。

 佐伯は香澄が濡れないように、自然に傘を傾けている。そのせいで、佐伯の左肩が庇の外へ少し出ていた。

「佐伯さん、肩が濡れます」

「問題ありません」

「それは大丈夫です、に近い言葉では?」

 香澄が言うと、佐伯は少しだけ黙った。

「……少し濡れます」

 香澄は笑った。

「正直ですね」

「指摘されたので」

 二人は雨の中を歩き出した。

 休日の市役所周辺は人通りが少ない。車のタイヤが水を跳ねる音、遠くの信号機の電子音、傘に当たる雨の音。

 傘の中の空間は狭く、香澄は鞄を胸の前で持った。

 佐伯の腕がすぐ近くにある。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 そのことを意識しないようにしようとすればするほど、意識してしまう。

 話さなければ。

 そう思った。

 でも、言葉が出てこない。

 いつものように沈黙を埋める必要はないはずなのに、今日の沈黙は少し違った。

 苦しくはない。

 けれど、胸が落ち着かない。

「寒くありませんか」

 佐伯が聞いた。

「大丈夫です」

 反射的に答える。

 佐伯がこちらを見る。

 香澄はすぐに言い直した。

「……少し、寒いです」

「歩幅を少し上げますか」

「はい」

 二人の歩く速度が少しだけ上がる。

 香澄は水たまりを避けようとして、足元を見る。

 そのとき、佐伯の肩がさらに濡れていることに気づいた。

 黒いカーディガンの端に、雨が濃い色を作っている。

 自分のために傘を傾けてくれている。

 それがわかると、胸がじんわり熱くなった。

 佐伯はそれを優しさとして差し出していない。

 ただ、当然のようにしている。

 だから余計に、苦しくなる。

「佐伯さん」

「はい」

「少しだけ、こっちに寄ってください」

 言ってから、香澄は自分の言葉に驚いた。

 佐伯も足を止めた。

 雨の音だけが、二人の間に落ちる。

 誰かに近づいてほしいと、自分から言った。

 たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねている。

 佐伯は香澄を見た。

 責めない。

 からかわない。

 ただ、その言葉の意味を丁寧に受け取るように、一拍置いた。

「これ以上寄ると、近いと思います」

 真面目な声だった。

 香澄は顔が熱くなる。

「……近いのは、わかっています」

「そうですか」

「でも、佐伯さんの肩が濡れています」

 佐伯は自分の肩を見た。

「少しです」

「少しでも、濡れています」

「藤野さんも濡れます」

「私も、少しなら大丈夫です」

 言ってから、香澄は微笑んだ。

「今の大丈夫は、本当です」

 佐伯はしばらく香澄を見ていた。

 それから、ほんの少しだけ距離を詰めた。

 肩が触れたわけではない。

 でも、傘の中の空気が変わった。

 佐伯の体温が、近くにある。

 香澄は息を整えるように、前を向いた。

「これで足りますか」

 佐伯が聞く。

「はい」

 声が少し小さくなった。

「足ります」

 二人はまた歩き出した。

 雨の音が、さっきより近く聞こえる。

 傘の下で、香澄は自分の胸の中にある名前のない気持ちを、まだ見ないふりをした。

 でも、もう完全には隠せなかった。

 佐伯の隣は、怖い。

 話したくなる。

 近づきたくなる。

 失うかもしれないと思う。

 それでも今、香澄は自分から距離を縮めた。

 小さな一歩。

 傘の中の、ほんの数センチ。

 けれど香澄にとっては、三年前から動かせなかった心が、ようやく少しだけ前へ出たような気がした。
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