となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第5話 残業の灯り
休日の市役所は、平日とは別の建物のようだった。
いつもなら朝から来庁者の足音が響くロビーも、番号札を呼ぶ電子音も、窓口の説明に重なる人の声もない。正面玄関は閉まっていて、職員は裏手の通用口から入る。警備員に名前を告げ、出勤簿に記入してから、香澄は庁舎の中へ入った。
土曜日の午前九時。
空は朝から灰色だった。
雨はまだ降っていないけれど、空気には湿り気があった。午後には崩れるかもしれない、と天気予報が言っていたのを思い出す。
香澄は小さな折りたたみ傘を持ってくるか迷って、結局、玄関に置いてきてしまった。
休日出勤といっても、今日は窓口対応ではない。
翌週から入る庁内システムの更新に合わせて、市民課と福祉課で共有している一部の記録ファイルを確認し、古い紙資料と現行データの照合をすることになっていた。平日は窓口が止められないため、担当者だけが休日に出て作業する。
市民課からは香澄。
福祉課からは佐伯。
その名前を聞いたとき、香澄は平静を装った。
係長に「藤野さん、佐伯さんと資料室で確認作業お願いできる?」と言われたとき、いつものように「はい、大丈夫です」と答えそうになって、途中で飲み込んだ。
代わりに、
「はい。作業範囲を確認しておきます」
と答えた。
それだけのことが、少しだけ進歩のような気がした。
エレベーターは休日モードで、一基だけが動いていた。香澄が三階の資料室へ向かうと、廊下の照明は必要な場所だけ点いていて、ところどころ影が濃い。
平日には気づかなかった空調の音が、やけにはっきり聞こえる。
自分の靴音も、いつもより大きい。
市役所は、人がいないとこんなにも静かなのかと思った。
資料室の前に着くと、すでに扉が少し開いていた。
中から紙をめくる音がする。
「失礼します」
声をかけて入ると、佐伯律が棚の前に立っていた。
休日だからか、いつものスーツではなく、白いシャツに濃いグレーのカーディガンを羽織っている。ネクタイもない。けれど背筋は相変わらずまっすぐで、手には古いファイルを一冊持っていた。
香澄は一瞬、見慣れない姿に言葉を忘れた。
佐伯がこちらを見る。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
慌てて返す。
佐伯はすぐに視線をファイルへ戻した。
「対象資料は、あちらの棚です。市民課分が上段、福祉課分が下段。共有台帳は奥のキャビネットにあります」
「もう確認してくださったんですか」
「場所だけです」
いつもの返事。
そっけない。
でも、今日の香澄はそのそっけなさに少しだけ安心した。
資料室には、古い紙の匂いがこもっていた。壁一面のスチール棚には、年度ごとに分けられたファイルが並び、背表紙には色あせたラベルが貼られている。
蛍光灯の白い光。
窓の外の曇り空。
人のいない庁舎。
その中で、佐伯と二人きり。
そう意識した瞬間、胸の奥がわずかに落ち着かなくなった。
香澄はそれをごまかすように、作業用のチェックリストを広げた。
「今日中に確認するのは、この三年分ですよね」
「はい。更新前にデータと紙の照合が必要なものだけです。全件ではありません」
「全件じゃないんですね。よかったです」
「全件なら、一日では終わりません」
「そうですよね」
会話は淡々としていた。
けれど、平日のフロアで交わす言葉とは少し違う。
周囲に同僚がいないせいか、声がまっすぐ届く気がした。
香澄はファイルを机に運び、佐伯と向かい合う形で座った。
机の上に資料を広げる。
申請番号、対象者名、更新日、確認欄。
事務的な作業。
そう思おうとした。
でも、向かいに佐伯がいるだけで、いつもより紙をめくる手元を意識してしまう。
「藤野さん」
「はい」
「この番号、データ側では廃止扱いですが、紙では継続になっています」
「確認します」
香澄はパソコン画面を覗き込み、該当箇所を探した。
佐伯が椅子ごと少し近づく。
肩が触れるほどではない。
けれど、平日の窓口ではありえない距離だった。
「ここですね。去年の十月に変更されています」
「紙台帳の更新漏れですか」
「たぶん。備考欄に記録があります」
香澄が画面を指すと、佐伯も目線を落とす。
近い。
そう思った瞬間、自分の心臓の音がうるさくなった。
佐伯は何も気にしていないように、淡々と確認を進める。
「では、差し替え対象に入れます」
「はい」
香澄は頷き、チェックリストに印をつけた。
作業は順調に進んだ。
休日の庁舎は静かで、電話も鳴らず、窓口の呼び出しもない。ひたすら資料を確認し、必要な箇所に付箋を貼り、データを照合していく。
平日なら何度も中断される作業が、驚くほど進む。
香澄は少しだけ気が楽になった。
佐伯と二人きりという状況にも、最初ほど緊張しなくなっていた。
沈黙が長くても、困らない。
佐伯は無理に話しかけてこない。
香澄も無理に話題を探さなくていい。
紙をめくる音。
キーボードを打つ音。
佐伯が時折「確認します」「こちらです」と言う声。
それだけで時間が過ぎていく。
昼前になり、香澄は持ってきた水筒に手を伸ばした。
佐伯もペットボトルのお茶を開ける。
「昼は、どうしますか」
佐伯に聞かれ、香澄は少し驚いた。
「え?」
「昼食です」
「あ……今日は、おにぎりを持ってきました」
「そうですか」
「ちゃんと持ってきました」
つい付け足すと、佐伯がこちらを見る。
「判断が鈍らないように?」
思いがけず返され、香澄は笑った。
「はい。学習しました」
「それはよかったです」
佐伯の声は相変わらず静かだった。
でも、ほんの少しだけ目元がやわらいだ気がした。
資料室の机で、それぞれ持参した昼食を取る。
香澄は梅のおにぎりと卵焼き。佐伯はコンビニのおにぎり二つと、なぜか小さなチョコレート菓子を一つ。
香澄はそれを見て、思わず口元を押さえた。
「糖分ですか」
佐伯がチョコレートを手にしたまま止まる。
「……はい」
「業務上?」
「今日は休日なので、私的に必要です」
真面目な顔で言われて、香澄は小さく笑った。
笑ってから、ふと気づく。
佐伯の前で、最近よく笑っている。
愛想笑いではなく。
相手の機嫌を取るためでもなく。
ただ、可笑しいと思ったから笑う。
それが、ひどく久しぶりのことのように思えた。
昼食後、二人は奥のキャビネットにある共有台帳の確認に移った。
資料室の奥は、さらに古いファイルが多い。背表紙の文字は薄れ、紙は少し黄色くなっている。キャビネットの引き出しを開けると、古い書類特有の乾いた匂いが立った。
「これ、かなり古いですね」
香澄が言うと、佐伯は背表紙を確認した。
「五年前です。今回の対象は一部だけですが、関連資料として見る必要があります」
「わかりました」
二人でファイルを机へ運ぶ。
思ったより重く、香澄の手元が少し滑った。
「大丈夫ですか」
佐伯がすぐに手を伸ばした。
「大丈夫です」
言ってから、香澄ははっとする。
佐伯の視線が、ファイルを支える香澄の手元に落ちた。
指先に力が入っている。
たぶん、また見抜かれている。
香澄は小さく息を吐いた。
「……少し重いです」
佐伯が何も言わず、ファイルの反対側を持った。
二人で机に置く。
たったそれだけのことだった。
大丈夫ではなく、重いと言う。
すると、誰かが持ってくれる。
それだけのことが、香澄には少し眩しかった。
「ありがとうございます」
「はい」
佐伯はいつも通り短く返した。
ファイルを開くと、中には古い申請記録や確認票が綴じられていた。個人情報が含まれるため、二人は必要箇所だけを慎重に確認していく。
作業が進むにつれ、外の空が暗くなっていった。
昼過ぎから、窓ガラスに細かい雨粒が当たり始める。
やっぱり降ってきた。
香澄は窓の外を見て、心の中で小さくため息をついた。
傘を持ってこなかった。
まあ、駅までなら走れる。
そう思って、すぐにまた書類へ目を落とす。
午後三時を過ぎたころ、古いファイルの中から、婚姻届や戸籍関連の相談記録が綴じられた参考資料が出てきた。
もちろん、個別の内容を読む必要はない。確認すべきなのは分類番号と保管期限だけだ。
それでも、背表紙に印字された「婚姻」「離婚」「戸籍異動」という文字を見たとき、香澄の胸は小さく揺れた。
結婚。
その言葉は、今も完全には平らに見られない。
佐伯が気づいたのか、気づかなかったのかはわからない。
彼は淡々とファイル番号を読み上げている。
「対象外です。保管期限のみ確認します」
「はい」
香澄は返事をした。
でも、声が少しだけ遅れた。
佐伯が顔を上げる。
「休憩しますか」
「いえ、大丈夫です」
言ってから、香澄は自分で苦笑した。
「……すみません。また言いました」
「言いましたね」
「癖なので」
「はい」
「でも、本当に大丈夫です」
佐伯は少しだけ沈黙した。
「大丈夫なら、休憩しても問題ありません」
「それは……そうですね」
言い返せない。
香澄は少し笑った。
二人は資料室の窓際に移動した。
外は雨で、庁舎前の木々の葉が濡れている。休日の駐車場はほとんど空で、灰色の空の下、白線だけが静かに並んでいた。
香澄は水筒のお茶を飲んだ。
佐伯はペットボトルのお茶を一口飲んで、窓の外を見ている。
沈黙。
でも、苦しくない。
むしろ、その沈黙があるから、香澄はふと口を開いてしまった。
「私、結婚する予定だったことがあるんです」
言ってから、自分で驚いた。
なぜ今、それを言ったのか。
わからなかった。
ただ、古い資料の文字が胸に触れて、佐伯の沈黙が急かさなかったから、言葉がこぼれた。
佐伯は香澄を見た。
驚いた様子はほとんどない。
ただ、聞く姿勢になった。
「三年前です。式場の下見までしていて。でも、結局、なくなりました」
「そうですか」
たったそれだけ。
深く聞かない。
かわいそうに、とも言わない。
それが、香澄にはかえって話しやすかった。
「最後に言われたんです。君って、何を考えているのかわからないって」
佐伯の表情は変わらない。
けれど、視線だけが少しだけ鋭くなった気がした。
「それから、余計に言えなくなりました。もともと、何でも言えるほうではなかったんですけど。自分の気持ちを言って、またそう思われるくらいなら、最初から黙っていたほうがいいのかなって」
香澄は窓の外を見たまま言った。
雨粒がガラスをゆっくり流れていく。
「でも、黙っていると、やっぱり何を考えているかわからないって思われるんですよね。だから、どうしたらいいのかわからなくなって」
声が少しだけ震えた。
泣きたいわけではなかった。
ただ、長い間しまっていたものを外へ出すと、空気に触れた部分が痛む。
「すみません。急にこんな話」
「謝ることではありません」
佐伯は即座に言った。
その返事があまりに迷いなくて、香澄は少しだけ顔を上げた。
佐伯は、窓の外ではなく香澄を見ていた。
まっすぐに。
「わからないなら、聞けばよかっただけです」
静かな声だった。
慰めるための甘い言葉ではなかった。
でも、その一言で、香澄の胸が強く揺れた。
「……聞けば?」
「はい」
「でも、私が言わなかったから」
「言わない理由があったのでは」
香澄は言葉を失った。
言わない理由。
そんなふうに考えたことはなかった。
自分が言えなかった。
自分が足りなかった。
自分が相手を不安にさせた。
ずっと、そう思ってきた。
でも佐伯は、まったく違う場所に線を引いた。
「相手の考えていることがわからないなら、聞けばいい。聞いても答えないなら、なぜ答えられないのか考えればいい。相手にだけ責任を戻す言葉ではないと思います」
香澄は窓の外を見ることができなくなった。
視界が少し滲みそうになる。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、胸の奥で固くなっていたものが、少しずつほどけていくような感覚があった。
「佐伯さんは、簡単に言いますね」
声に、少しだけ笑いが混じった。
前にも同じことを言った気がする。
佐伯は淡々と答える。
「簡単ではないと思います」
「そうなんですか」
「はい。聞くには、相手の答えを受け止める覚悟が必要です」
香澄は佐伯を見た。
佐伯の横顔は、いつも通り静かだった。
でも、言葉の奥に何かがある気がした。
福祉課で働く佐伯は、きっといろいろな人の話を聞いてきたのだろう。
困っている人。
怒っている人。
何も言えない人。
言っても届かなかった人。
その中で、佐伯は「聞く」ことの重さを知っているのかもしれない。
「私は」
香澄は水筒を握った。
「聞いてほしかったんでしょうか」
「それは、私にはわかりません」
「ですよね」
「ただ」
佐伯が続ける。
「聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます」
香澄は息を止めた。
聞いてもらえなかった。
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
そうか。
私は、言えなかっただけじゃない。
聞いてもらえないと思っていたのだ。
言っても、どうせ困らせる。
どうせ伝わらない。
どうせ相手の望む答えではない。
そう決めて、口を閉じていた。
でも本当は、誰かに聞いてほしかった。
何を考えているのかわからないと言われる前に、何を考えているのか聞いてほしかった。
香澄は小さく息を吐いた。
「佐伯さんは、ずるいです」
ぽつりと言う。
佐伯がわずかに眉を動かす。
「ずるい?」
「そういう言い方をされると、私が悪かっただけじゃないのかもしれないって、思ってしまいます」
「そう思ってはいけませんか」
「……いけなくは、ないです」
香澄は少し笑った。
でも、その笑いは震えていた。
「でも、怖いです」
「何がですか」
「話したくなることが」
言ってしまった。
香澄は自分の言葉に、胸が大きく鳴るのを感じた。
佐伯は黙っている。
急かさない。
否定しない。
ただ、そこにいる。
だから香澄は、続けてしまう。
「佐伯さんは、聞いてくれる気がします。私が変なことを言っても、困らずに、ちゃんと聞いてくれる気がするんです」
言葉にするほど、怖くなった。
こんなことを言っていいのだろうか。
重いと思われないだろうか。
面倒な人間だと思われないだろうか。
水野の声が、遠くで蘇る。
君って、何を考えているのかわからないんだよ。
違う。
今は、少しだけわかってほしいと思っている。
でも、わかってほしいと思うこと自体が怖い。
「でも、そう思うと、もっと話したくなります。話したら、また失うかもしれないのに」
香澄の声は小さかった。
雨の音に紛れてしまいそうなほど。
それでも佐伯には届いた。
佐伯はしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
けれど、香澄は不思議と逃げたいとは思わなかった。
やがて佐伯が言った。
「今すぐ全部話す必要はありません」
香澄は顔を上げる。
「話したいと思った分だけでいいと思います」
「……佐伯さんは、それで困りませんか」
「困るかどうかは、聞いてから考えます」
あまりに佐伯らしい答えだった。
香澄は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「そこも事前に考えないんですね」
「想定だけで判断すると、間違えることがあります」
「仕事みたいです」
「仕事でも、そうです」
真面目に返されて、香澄はまた笑った。
泣きそうだったのに、笑っている。
不思議だった。
佐伯の前では、感情が一つだけでいられない。
救われる。
怖くなる。
嬉しい。
逃げたくなる。
もっと近づきたくなる。
全部が同時に胸の中で動く。
それは疲れるはずなのに、不快ではなかった。
むしろ、生きている感覚に近かった。
休憩を終えて、二人は作業に戻った。
資料の確認は夕方近くまで続いた。
古いファイルを整理し、差し替え対象に付箋を貼り、更新漏れの一覧を作る。佐伯は手際がよく、香澄も集中して作業を進めた。
けれど、心のどこかではずっと、さっきの会話が灯りのように残っていた。
わからないなら、聞けばよかっただけです。
言わない理由があったのでは。
聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。
佐伯の言葉は、香澄の過去を無理に慰めなかった。
かわいそうだとも言わなかった。
ただ、香澄が一人で背負ってきた責任を、少しだけ分け直してくれた。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
この人にもっと話したら、どうなるのだろう。
もっと知ってほしいと思ってしまったら。
もっと、隣にいてほしいと思ってしまったら。
香澄はファイルの端をそろえながら、深呼吸した。
今は作業。
そう自分に言い聞かせる。
午後五時を過ぎたころ、ようやく確認作業が終わった。
「これで対象分は終わりですね」
香澄が一覧表を確認すると、佐伯が頷いた。
「はい。月曜に担当者へ共有します」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
資料を棚に戻し、机の上を片づける。
資料室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。
雨は本降りになっている。
ガラスに雨粒が細かく叩きつけられ、庁舎前の街灯がぼんやり滲んでいた。
香澄は窓の外を見て、小さく息を吐いた。
「降ってますね」
「はい」
「傘、持ってくればよかったです」
つい漏らすと、佐伯が香澄を見る。
「持っていないんですか」
「朝、迷ったんですけど。降ってなかったので」
「そうですか」
それだけ言って、佐伯は自分の荷物を持った。
香澄も鞄を肩にかける。
駅までは歩いて十分ほど。
走ればなんとかなるかもしれない。
休日出勤で濡れて帰るのは少しつらいが、仕方ない。
そう思いながら資料室の鍵を閉め、二人で廊下を歩いた。
休日の庁舎は、夕方になるとさらに静かだった。
清掃も終わり、警備員のいる一階以外に人の気配はほとんどない。廊下の照明が床に細長く伸び、窓の外の雨音だけが一定のリズムで響いている。
階段を下りる途中、香澄は少しだけ足を止めた。
この静けさの中で、今日話したことが急に現実味を帯びてくる。
婚約破棄のこと。
本音を言うのが怖くなったこと。
佐伯に話した。
話してしまった。
でも、後悔はしていなかった。
それがまた怖かった。
通用口を出ると、雨の匂いが濃くなった。
庁舎の庇の下で、香澄は鞄を抱え直した。
「駅まで走ります」
そう言いかけたとき、佐伯が黒い傘を開いた。
大きめの傘だった。
雨粒が布に当たる音が、ぽつぽつと近くなる。
「駅までなら、傘は一つで足ります」
佐伯はいつもの調子で言った。
送ります、ではない。
入ってください、でもない。
業務上の合理的判断みたいな言い方。
なのに、香澄の胸はどうしようもなく鳴った。
「……佐伯さんらしいですね」
「何がですか」
「優しいことを、優しい言い方にしないところです」
佐伯は答えなかった。
否定もしなかった。
香澄は少し迷ってから、傘の中へ入った。
近い。
思ったよりも、ずっと近い。
肩が触れそうで触れない距離。
佐伯は香澄が濡れないように、自然に傘を傾けている。そのせいで、佐伯の左肩が庇の外へ少し出ていた。
「佐伯さん、肩が濡れます」
「問題ありません」
「それは大丈夫です、に近い言葉では?」
香澄が言うと、佐伯は少しだけ黙った。
「……少し濡れます」
香澄は笑った。
「正直ですね」
「指摘されたので」
二人は雨の中を歩き出した。
休日の市役所周辺は人通りが少ない。車のタイヤが水を跳ねる音、遠くの信号機の電子音、傘に当たる雨の音。
傘の中の空間は狭く、香澄は鞄を胸の前で持った。
佐伯の腕がすぐ近くにある。
手を伸ばせば触れられる距離。
そのことを意識しないようにしようとすればするほど、意識してしまう。
話さなければ。
そう思った。
でも、言葉が出てこない。
いつものように沈黙を埋める必要はないはずなのに、今日の沈黙は少し違った。
苦しくはない。
けれど、胸が落ち着かない。
「寒くありませんか」
佐伯が聞いた。
「大丈夫です」
反射的に答える。
佐伯がこちらを見る。
香澄はすぐに言い直した。
「……少し、寒いです」
「歩幅を少し上げますか」
「はい」
二人の歩く速度が少しだけ上がる。
香澄は水たまりを避けようとして、足元を見る。
そのとき、佐伯の肩がさらに濡れていることに気づいた。
黒いカーディガンの端に、雨が濃い色を作っている。
自分のために傘を傾けてくれている。
それがわかると、胸がじんわり熱くなった。
佐伯はそれを優しさとして差し出していない。
ただ、当然のようにしている。
だから余計に、苦しくなる。
「佐伯さん」
「はい」
「少しだけ、こっちに寄ってください」
言ってから、香澄は自分の言葉に驚いた。
佐伯も足を止めた。
雨の音だけが、二人の間に落ちる。
誰かに近づいてほしいと、自分から言った。
たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねている。
佐伯は香澄を見た。
責めない。
からかわない。
ただ、その言葉の意味を丁寧に受け取るように、一拍置いた。
「これ以上寄ると、近いと思います」
真面目な声だった。
香澄は顔が熱くなる。
「……近いのは、わかっています」
「そうですか」
「でも、佐伯さんの肩が濡れています」
佐伯は自分の肩を見た。
「少しです」
「少しでも、濡れています」
「藤野さんも濡れます」
「私も、少しなら大丈夫です」
言ってから、香澄は微笑んだ。
「今の大丈夫は、本当です」
佐伯はしばらく香澄を見ていた。
それから、ほんの少しだけ距離を詰めた。
肩が触れたわけではない。
でも、傘の中の空気が変わった。
佐伯の体温が、近くにある。
香澄は息を整えるように、前を向いた。
「これで足りますか」
佐伯が聞く。
「はい」
声が少し小さくなった。
「足ります」
二人はまた歩き出した。
雨の音が、さっきより近く聞こえる。
傘の下で、香澄は自分の胸の中にある名前のない気持ちを、まだ見ないふりをした。
でも、もう完全には隠せなかった。
佐伯の隣は、怖い。
話したくなる。
近づきたくなる。
失うかもしれないと思う。
それでも今、香澄は自分から距離を縮めた。
小さな一歩。
傘の中の、ほんの数センチ。
けれど香澄にとっては、三年前から動かせなかった心が、ようやく少しだけ前へ出たような気がした。
いつもなら朝から来庁者の足音が響くロビーも、番号札を呼ぶ電子音も、窓口の説明に重なる人の声もない。正面玄関は閉まっていて、職員は裏手の通用口から入る。警備員に名前を告げ、出勤簿に記入してから、香澄は庁舎の中へ入った。
土曜日の午前九時。
空は朝から灰色だった。
雨はまだ降っていないけれど、空気には湿り気があった。午後には崩れるかもしれない、と天気予報が言っていたのを思い出す。
香澄は小さな折りたたみ傘を持ってくるか迷って、結局、玄関に置いてきてしまった。
休日出勤といっても、今日は窓口対応ではない。
翌週から入る庁内システムの更新に合わせて、市民課と福祉課で共有している一部の記録ファイルを確認し、古い紙資料と現行データの照合をすることになっていた。平日は窓口が止められないため、担当者だけが休日に出て作業する。
市民課からは香澄。
福祉課からは佐伯。
その名前を聞いたとき、香澄は平静を装った。
係長に「藤野さん、佐伯さんと資料室で確認作業お願いできる?」と言われたとき、いつものように「はい、大丈夫です」と答えそうになって、途中で飲み込んだ。
代わりに、
「はい。作業範囲を確認しておきます」
と答えた。
それだけのことが、少しだけ進歩のような気がした。
エレベーターは休日モードで、一基だけが動いていた。香澄が三階の資料室へ向かうと、廊下の照明は必要な場所だけ点いていて、ところどころ影が濃い。
平日には気づかなかった空調の音が、やけにはっきり聞こえる。
自分の靴音も、いつもより大きい。
市役所は、人がいないとこんなにも静かなのかと思った。
資料室の前に着くと、すでに扉が少し開いていた。
中から紙をめくる音がする。
「失礼します」
声をかけて入ると、佐伯律が棚の前に立っていた。
休日だからか、いつものスーツではなく、白いシャツに濃いグレーのカーディガンを羽織っている。ネクタイもない。けれど背筋は相変わらずまっすぐで、手には古いファイルを一冊持っていた。
香澄は一瞬、見慣れない姿に言葉を忘れた。
佐伯がこちらを見る。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
慌てて返す。
佐伯はすぐに視線をファイルへ戻した。
「対象資料は、あちらの棚です。市民課分が上段、福祉課分が下段。共有台帳は奥のキャビネットにあります」
「もう確認してくださったんですか」
「場所だけです」
いつもの返事。
そっけない。
でも、今日の香澄はそのそっけなさに少しだけ安心した。
資料室には、古い紙の匂いがこもっていた。壁一面のスチール棚には、年度ごとに分けられたファイルが並び、背表紙には色あせたラベルが貼られている。
蛍光灯の白い光。
窓の外の曇り空。
人のいない庁舎。
その中で、佐伯と二人きり。
そう意識した瞬間、胸の奥がわずかに落ち着かなくなった。
香澄はそれをごまかすように、作業用のチェックリストを広げた。
「今日中に確認するのは、この三年分ですよね」
「はい。更新前にデータと紙の照合が必要なものだけです。全件ではありません」
「全件じゃないんですね。よかったです」
「全件なら、一日では終わりません」
「そうですよね」
会話は淡々としていた。
けれど、平日のフロアで交わす言葉とは少し違う。
周囲に同僚がいないせいか、声がまっすぐ届く気がした。
香澄はファイルを机に運び、佐伯と向かい合う形で座った。
机の上に資料を広げる。
申請番号、対象者名、更新日、確認欄。
事務的な作業。
そう思おうとした。
でも、向かいに佐伯がいるだけで、いつもより紙をめくる手元を意識してしまう。
「藤野さん」
「はい」
「この番号、データ側では廃止扱いですが、紙では継続になっています」
「確認します」
香澄はパソコン画面を覗き込み、該当箇所を探した。
佐伯が椅子ごと少し近づく。
肩が触れるほどではない。
けれど、平日の窓口ではありえない距離だった。
「ここですね。去年の十月に変更されています」
「紙台帳の更新漏れですか」
「たぶん。備考欄に記録があります」
香澄が画面を指すと、佐伯も目線を落とす。
近い。
そう思った瞬間、自分の心臓の音がうるさくなった。
佐伯は何も気にしていないように、淡々と確認を進める。
「では、差し替え対象に入れます」
「はい」
香澄は頷き、チェックリストに印をつけた。
作業は順調に進んだ。
休日の庁舎は静かで、電話も鳴らず、窓口の呼び出しもない。ひたすら資料を確認し、必要な箇所に付箋を貼り、データを照合していく。
平日なら何度も中断される作業が、驚くほど進む。
香澄は少しだけ気が楽になった。
佐伯と二人きりという状況にも、最初ほど緊張しなくなっていた。
沈黙が長くても、困らない。
佐伯は無理に話しかけてこない。
香澄も無理に話題を探さなくていい。
紙をめくる音。
キーボードを打つ音。
佐伯が時折「確認します」「こちらです」と言う声。
それだけで時間が過ぎていく。
昼前になり、香澄は持ってきた水筒に手を伸ばした。
佐伯もペットボトルのお茶を開ける。
「昼は、どうしますか」
佐伯に聞かれ、香澄は少し驚いた。
「え?」
「昼食です」
「あ……今日は、おにぎりを持ってきました」
「そうですか」
「ちゃんと持ってきました」
つい付け足すと、佐伯がこちらを見る。
「判断が鈍らないように?」
思いがけず返され、香澄は笑った。
「はい。学習しました」
「それはよかったです」
佐伯の声は相変わらず静かだった。
でも、ほんの少しだけ目元がやわらいだ気がした。
資料室の机で、それぞれ持参した昼食を取る。
香澄は梅のおにぎりと卵焼き。佐伯はコンビニのおにぎり二つと、なぜか小さなチョコレート菓子を一つ。
香澄はそれを見て、思わず口元を押さえた。
「糖分ですか」
佐伯がチョコレートを手にしたまま止まる。
「……はい」
「業務上?」
「今日は休日なので、私的に必要です」
真面目な顔で言われて、香澄は小さく笑った。
笑ってから、ふと気づく。
佐伯の前で、最近よく笑っている。
愛想笑いではなく。
相手の機嫌を取るためでもなく。
ただ、可笑しいと思ったから笑う。
それが、ひどく久しぶりのことのように思えた。
昼食後、二人は奥のキャビネットにある共有台帳の確認に移った。
資料室の奥は、さらに古いファイルが多い。背表紙の文字は薄れ、紙は少し黄色くなっている。キャビネットの引き出しを開けると、古い書類特有の乾いた匂いが立った。
「これ、かなり古いですね」
香澄が言うと、佐伯は背表紙を確認した。
「五年前です。今回の対象は一部だけですが、関連資料として見る必要があります」
「わかりました」
二人でファイルを机へ運ぶ。
思ったより重く、香澄の手元が少し滑った。
「大丈夫ですか」
佐伯がすぐに手を伸ばした。
「大丈夫です」
言ってから、香澄ははっとする。
佐伯の視線が、ファイルを支える香澄の手元に落ちた。
指先に力が入っている。
たぶん、また見抜かれている。
香澄は小さく息を吐いた。
「……少し重いです」
佐伯が何も言わず、ファイルの反対側を持った。
二人で机に置く。
たったそれだけのことだった。
大丈夫ではなく、重いと言う。
すると、誰かが持ってくれる。
それだけのことが、香澄には少し眩しかった。
「ありがとうございます」
「はい」
佐伯はいつも通り短く返した。
ファイルを開くと、中には古い申請記録や確認票が綴じられていた。個人情報が含まれるため、二人は必要箇所だけを慎重に確認していく。
作業が進むにつれ、外の空が暗くなっていった。
昼過ぎから、窓ガラスに細かい雨粒が当たり始める。
やっぱり降ってきた。
香澄は窓の外を見て、心の中で小さくため息をついた。
傘を持ってこなかった。
まあ、駅までなら走れる。
そう思って、すぐにまた書類へ目を落とす。
午後三時を過ぎたころ、古いファイルの中から、婚姻届や戸籍関連の相談記録が綴じられた参考資料が出てきた。
もちろん、個別の内容を読む必要はない。確認すべきなのは分類番号と保管期限だけだ。
それでも、背表紙に印字された「婚姻」「離婚」「戸籍異動」という文字を見たとき、香澄の胸は小さく揺れた。
結婚。
その言葉は、今も完全には平らに見られない。
佐伯が気づいたのか、気づかなかったのかはわからない。
彼は淡々とファイル番号を読み上げている。
「対象外です。保管期限のみ確認します」
「はい」
香澄は返事をした。
でも、声が少しだけ遅れた。
佐伯が顔を上げる。
「休憩しますか」
「いえ、大丈夫です」
言ってから、香澄は自分で苦笑した。
「……すみません。また言いました」
「言いましたね」
「癖なので」
「はい」
「でも、本当に大丈夫です」
佐伯は少しだけ沈黙した。
「大丈夫なら、休憩しても問題ありません」
「それは……そうですね」
言い返せない。
香澄は少し笑った。
二人は資料室の窓際に移動した。
外は雨で、庁舎前の木々の葉が濡れている。休日の駐車場はほとんど空で、灰色の空の下、白線だけが静かに並んでいた。
香澄は水筒のお茶を飲んだ。
佐伯はペットボトルのお茶を一口飲んで、窓の外を見ている。
沈黙。
でも、苦しくない。
むしろ、その沈黙があるから、香澄はふと口を開いてしまった。
「私、結婚する予定だったことがあるんです」
言ってから、自分で驚いた。
なぜ今、それを言ったのか。
わからなかった。
ただ、古い資料の文字が胸に触れて、佐伯の沈黙が急かさなかったから、言葉がこぼれた。
佐伯は香澄を見た。
驚いた様子はほとんどない。
ただ、聞く姿勢になった。
「三年前です。式場の下見までしていて。でも、結局、なくなりました」
「そうですか」
たったそれだけ。
深く聞かない。
かわいそうに、とも言わない。
それが、香澄にはかえって話しやすかった。
「最後に言われたんです。君って、何を考えているのかわからないって」
佐伯の表情は変わらない。
けれど、視線だけが少しだけ鋭くなった気がした。
「それから、余計に言えなくなりました。もともと、何でも言えるほうではなかったんですけど。自分の気持ちを言って、またそう思われるくらいなら、最初から黙っていたほうがいいのかなって」
香澄は窓の外を見たまま言った。
雨粒がガラスをゆっくり流れていく。
「でも、黙っていると、やっぱり何を考えているかわからないって思われるんですよね。だから、どうしたらいいのかわからなくなって」
声が少しだけ震えた。
泣きたいわけではなかった。
ただ、長い間しまっていたものを外へ出すと、空気に触れた部分が痛む。
「すみません。急にこんな話」
「謝ることではありません」
佐伯は即座に言った。
その返事があまりに迷いなくて、香澄は少しだけ顔を上げた。
佐伯は、窓の外ではなく香澄を見ていた。
まっすぐに。
「わからないなら、聞けばよかっただけです」
静かな声だった。
慰めるための甘い言葉ではなかった。
でも、その一言で、香澄の胸が強く揺れた。
「……聞けば?」
「はい」
「でも、私が言わなかったから」
「言わない理由があったのでは」
香澄は言葉を失った。
言わない理由。
そんなふうに考えたことはなかった。
自分が言えなかった。
自分が足りなかった。
自分が相手を不安にさせた。
ずっと、そう思ってきた。
でも佐伯は、まったく違う場所に線を引いた。
「相手の考えていることがわからないなら、聞けばいい。聞いても答えないなら、なぜ答えられないのか考えればいい。相手にだけ責任を戻す言葉ではないと思います」
香澄は窓の外を見ることができなくなった。
視界が少し滲みそうになる。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、胸の奥で固くなっていたものが、少しずつほどけていくような感覚があった。
「佐伯さんは、簡単に言いますね」
声に、少しだけ笑いが混じった。
前にも同じことを言った気がする。
佐伯は淡々と答える。
「簡単ではないと思います」
「そうなんですか」
「はい。聞くには、相手の答えを受け止める覚悟が必要です」
香澄は佐伯を見た。
佐伯の横顔は、いつも通り静かだった。
でも、言葉の奥に何かがある気がした。
福祉課で働く佐伯は、きっといろいろな人の話を聞いてきたのだろう。
困っている人。
怒っている人。
何も言えない人。
言っても届かなかった人。
その中で、佐伯は「聞く」ことの重さを知っているのかもしれない。
「私は」
香澄は水筒を握った。
「聞いてほしかったんでしょうか」
「それは、私にはわかりません」
「ですよね」
「ただ」
佐伯が続ける。
「聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます」
香澄は息を止めた。
聞いてもらえなかった。
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
そうか。
私は、言えなかっただけじゃない。
聞いてもらえないと思っていたのだ。
言っても、どうせ困らせる。
どうせ伝わらない。
どうせ相手の望む答えではない。
そう決めて、口を閉じていた。
でも本当は、誰かに聞いてほしかった。
何を考えているのかわからないと言われる前に、何を考えているのか聞いてほしかった。
香澄は小さく息を吐いた。
「佐伯さんは、ずるいです」
ぽつりと言う。
佐伯がわずかに眉を動かす。
「ずるい?」
「そういう言い方をされると、私が悪かっただけじゃないのかもしれないって、思ってしまいます」
「そう思ってはいけませんか」
「……いけなくは、ないです」
香澄は少し笑った。
でも、その笑いは震えていた。
「でも、怖いです」
「何がですか」
「話したくなることが」
言ってしまった。
香澄は自分の言葉に、胸が大きく鳴るのを感じた。
佐伯は黙っている。
急かさない。
否定しない。
ただ、そこにいる。
だから香澄は、続けてしまう。
「佐伯さんは、聞いてくれる気がします。私が変なことを言っても、困らずに、ちゃんと聞いてくれる気がするんです」
言葉にするほど、怖くなった。
こんなことを言っていいのだろうか。
重いと思われないだろうか。
面倒な人間だと思われないだろうか。
水野の声が、遠くで蘇る。
君って、何を考えているのかわからないんだよ。
違う。
今は、少しだけわかってほしいと思っている。
でも、わかってほしいと思うこと自体が怖い。
「でも、そう思うと、もっと話したくなります。話したら、また失うかもしれないのに」
香澄の声は小さかった。
雨の音に紛れてしまいそうなほど。
それでも佐伯には届いた。
佐伯はしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
けれど、香澄は不思議と逃げたいとは思わなかった。
やがて佐伯が言った。
「今すぐ全部話す必要はありません」
香澄は顔を上げる。
「話したいと思った分だけでいいと思います」
「……佐伯さんは、それで困りませんか」
「困るかどうかは、聞いてから考えます」
あまりに佐伯らしい答えだった。
香澄は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「そこも事前に考えないんですね」
「想定だけで判断すると、間違えることがあります」
「仕事みたいです」
「仕事でも、そうです」
真面目に返されて、香澄はまた笑った。
泣きそうだったのに、笑っている。
不思議だった。
佐伯の前では、感情が一つだけでいられない。
救われる。
怖くなる。
嬉しい。
逃げたくなる。
もっと近づきたくなる。
全部が同時に胸の中で動く。
それは疲れるはずなのに、不快ではなかった。
むしろ、生きている感覚に近かった。
休憩を終えて、二人は作業に戻った。
資料の確認は夕方近くまで続いた。
古いファイルを整理し、差し替え対象に付箋を貼り、更新漏れの一覧を作る。佐伯は手際がよく、香澄も集中して作業を進めた。
けれど、心のどこかではずっと、さっきの会話が灯りのように残っていた。
わからないなら、聞けばよかっただけです。
言わない理由があったのでは。
聞いてもらえなかった、と感じていたようには見えます。
佐伯の言葉は、香澄の過去を無理に慰めなかった。
かわいそうだとも言わなかった。
ただ、香澄が一人で背負ってきた責任を、少しだけ分け直してくれた。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
この人にもっと話したら、どうなるのだろう。
もっと知ってほしいと思ってしまったら。
もっと、隣にいてほしいと思ってしまったら。
香澄はファイルの端をそろえながら、深呼吸した。
今は作業。
そう自分に言い聞かせる。
午後五時を過ぎたころ、ようやく確認作業が終わった。
「これで対象分は終わりですね」
香澄が一覧表を確認すると、佐伯が頷いた。
「はい。月曜に担当者へ共有します」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
資料を棚に戻し、机の上を片づける。
資料室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。
雨は本降りになっている。
ガラスに雨粒が細かく叩きつけられ、庁舎前の街灯がぼんやり滲んでいた。
香澄は窓の外を見て、小さく息を吐いた。
「降ってますね」
「はい」
「傘、持ってくればよかったです」
つい漏らすと、佐伯が香澄を見る。
「持っていないんですか」
「朝、迷ったんですけど。降ってなかったので」
「そうですか」
それだけ言って、佐伯は自分の荷物を持った。
香澄も鞄を肩にかける。
駅までは歩いて十分ほど。
走ればなんとかなるかもしれない。
休日出勤で濡れて帰るのは少しつらいが、仕方ない。
そう思いながら資料室の鍵を閉め、二人で廊下を歩いた。
休日の庁舎は、夕方になるとさらに静かだった。
清掃も終わり、警備員のいる一階以外に人の気配はほとんどない。廊下の照明が床に細長く伸び、窓の外の雨音だけが一定のリズムで響いている。
階段を下りる途中、香澄は少しだけ足を止めた。
この静けさの中で、今日話したことが急に現実味を帯びてくる。
婚約破棄のこと。
本音を言うのが怖くなったこと。
佐伯に話した。
話してしまった。
でも、後悔はしていなかった。
それがまた怖かった。
通用口を出ると、雨の匂いが濃くなった。
庁舎の庇の下で、香澄は鞄を抱え直した。
「駅まで走ります」
そう言いかけたとき、佐伯が黒い傘を開いた。
大きめの傘だった。
雨粒が布に当たる音が、ぽつぽつと近くなる。
「駅までなら、傘は一つで足ります」
佐伯はいつもの調子で言った。
送ります、ではない。
入ってください、でもない。
業務上の合理的判断みたいな言い方。
なのに、香澄の胸はどうしようもなく鳴った。
「……佐伯さんらしいですね」
「何がですか」
「優しいことを、優しい言い方にしないところです」
佐伯は答えなかった。
否定もしなかった。
香澄は少し迷ってから、傘の中へ入った。
近い。
思ったよりも、ずっと近い。
肩が触れそうで触れない距離。
佐伯は香澄が濡れないように、自然に傘を傾けている。そのせいで、佐伯の左肩が庇の外へ少し出ていた。
「佐伯さん、肩が濡れます」
「問題ありません」
「それは大丈夫です、に近い言葉では?」
香澄が言うと、佐伯は少しだけ黙った。
「……少し濡れます」
香澄は笑った。
「正直ですね」
「指摘されたので」
二人は雨の中を歩き出した。
休日の市役所周辺は人通りが少ない。車のタイヤが水を跳ねる音、遠くの信号機の電子音、傘に当たる雨の音。
傘の中の空間は狭く、香澄は鞄を胸の前で持った。
佐伯の腕がすぐ近くにある。
手を伸ばせば触れられる距離。
そのことを意識しないようにしようとすればするほど、意識してしまう。
話さなければ。
そう思った。
でも、言葉が出てこない。
いつものように沈黙を埋める必要はないはずなのに、今日の沈黙は少し違った。
苦しくはない。
けれど、胸が落ち着かない。
「寒くありませんか」
佐伯が聞いた。
「大丈夫です」
反射的に答える。
佐伯がこちらを見る。
香澄はすぐに言い直した。
「……少し、寒いです」
「歩幅を少し上げますか」
「はい」
二人の歩く速度が少しだけ上がる。
香澄は水たまりを避けようとして、足元を見る。
そのとき、佐伯の肩がさらに濡れていることに気づいた。
黒いカーディガンの端に、雨が濃い色を作っている。
自分のために傘を傾けてくれている。
それがわかると、胸がじんわり熱くなった。
佐伯はそれを優しさとして差し出していない。
ただ、当然のようにしている。
だから余計に、苦しくなる。
「佐伯さん」
「はい」
「少しだけ、こっちに寄ってください」
言ってから、香澄は自分の言葉に驚いた。
佐伯も足を止めた。
雨の音だけが、二人の間に落ちる。
誰かに近づいてほしいと、自分から言った。
たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねている。
佐伯は香澄を見た。
責めない。
からかわない。
ただ、その言葉の意味を丁寧に受け取るように、一拍置いた。
「これ以上寄ると、近いと思います」
真面目な声だった。
香澄は顔が熱くなる。
「……近いのは、わかっています」
「そうですか」
「でも、佐伯さんの肩が濡れています」
佐伯は自分の肩を見た。
「少しです」
「少しでも、濡れています」
「藤野さんも濡れます」
「私も、少しなら大丈夫です」
言ってから、香澄は微笑んだ。
「今の大丈夫は、本当です」
佐伯はしばらく香澄を見ていた。
それから、ほんの少しだけ距離を詰めた。
肩が触れたわけではない。
でも、傘の中の空気が変わった。
佐伯の体温が、近くにある。
香澄は息を整えるように、前を向いた。
「これで足りますか」
佐伯が聞く。
「はい」
声が少し小さくなった。
「足ります」
二人はまた歩き出した。
雨の音が、さっきより近く聞こえる。
傘の下で、香澄は自分の胸の中にある名前のない気持ちを、まだ見ないふりをした。
でも、もう完全には隠せなかった。
佐伯の隣は、怖い。
話したくなる。
近づきたくなる。
失うかもしれないと思う。
それでも今、香澄は自分から距離を縮めた。
小さな一歩。
傘の中の、ほんの数センチ。
けれど香澄にとっては、三年前から動かせなかった心が、ようやく少しだけ前へ出たような気がした。