となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第6話 言えなかった三年前
月曜日の朝、庁舎の空気はいつもより少し浮き立っていた。
週明けだからではない。
人事異動の内示から一週間が過ぎ、今日から新しく本庁に配属される職員が何人かいた。市民課にも直接の異動者はいなかったが、同じフロアの総務課と福祉課には数名が加わるらしい。
香澄はカウンターの上に申請書を補充しながら、フロアの奥のざわめきを聞いていた。
「今日から来る総務課の人、けっこう仕事できる人らしいですよ」
莉子が少し楽しそうに言った。
「支所から戻ってくる人だっけ?」
「はい。前に企画のほうにもいたとか。爽やかで感じいいって、総務の子が言ってました」
斎藤が横から口を挟む。
「そういう前評判、高いと大変だよな。本人が」
「でも、感じいい人なら助かりますよ。福祉課も総務課も、たまに相談しに行くと緊張するので」
莉子がちらりと福祉課のほうを見る。
その視線の先には、いつものように佐伯律がいた。
朝から書類を確認している。休日出勤のときのカーディガン姿ではなく、今日はいつものスーツだった。黒縁の眼鏡。きちんと締めたネクタイ。背筋の伸びた姿勢。
香澄は、先週末の雨の中のことを思い出しそうになって、慌てて視線を手元へ戻した。
傘の中の距離。
濡れた佐伯の肩。
『佐伯さん、少しだけ、こっちに寄ってください』
自分から言った言葉。
思い出すだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
あのあと、駅までの道を二人で歩いた。
会話は少なかった。
でも、沈黙が妙に近かった。
駅に着き、佐伯が「お疲れさまでした」と言って別れたとき、香澄は雨の音まで覚えていた。
あれから二日。
休日を挟んだだけなのに、佐伯と顔を合わせるのが少し気恥ずかしい。
何かが変わったわけではない。
告白されたわけでも、したわけでもない。
ただ、傘の中で数センチ近づいただけだ。
それなのに、香澄の中では、その数センチが思った以上に大きかった。
「藤野さん、顔赤くないですか?」
莉子に言われ、香澄は驚いて顔を上げた。
「え?」
「暑いですか?」
「ううん、大丈夫」
言ってから、香澄はすぐに言い直した。
「……じゃなくて、少し考え事してただけ」
莉子が目を丸くする。
「あ、今、大丈夫ですって言わなかったですね」
「言いかけたけどね」
香澄が苦笑すると、莉子は嬉しそうに笑った。
「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」
「そう?」
「はい。前より、全部背負わない感じがします」
香澄は手元の申請書に視線を落とした。
全部背負わない。
そうなれているなら、少しはいい。
そう思ったとき、フロアの奥から拍手が聞こえた。
総務課の朝礼だろう。
係長が市民課の席へ戻ってきて言った。
「藤野さん、今日から総務課に異動してきた職員、あとでフロアに挨拶に来るそうだから」
「はい」
「市民課とも窓口改善の関係でやり取りが増えるかもしれない。よろしくね」
「わかりました」
いつも通り頷いた。
その数分後、総務課の職員数名がフロアを回ってきた。
新しく来た職員の紹介らしい。
最初に見えたのは、総務課長の柔らかい笑顔だった。
「市民課のみなさん、朝のお忙しいところすみません。今日から総務課行政改革担当に異動してきた職員を紹介します」
香澄は立ち上がった。
市民課の職員たちもそれぞれ手を止める。
総務課長の隣に立った男性を見た瞬間、香澄の中から音が消えた。
水野拓也。
三年前、結婚するはずだった人。
昔とほとんど変わっていなかった。
明るい色のスーツがよく似合い、清潔感のある短い髪、誰にでも好かれそうな穏やかな笑顔。以前より少し大人びた気はするが、柔らかい雰囲気はそのままだった。
水野は市民課の職員たちへ向かって、自然な笑顔で頭を下げた。
「本日付で総務課に配属になりました、水野拓也です。以前は南支所と企画課におりました。窓口改善や庁内調整で、こちらの市民課のみなさんにもお世話になると思います。よろしくお願いします」
声も、変わっていなかった。
人当たりのいい、よく通る声。
斎藤が「よろしくお願いします」と返す。
莉子も「よろしくお願いします」と頭を下げる。
香澄は、声が出なかった。
目を逸らしたいのに逸らせない。
水野の視線が、市民課の職員たちを順に見て、香澄のところで止まった。
一瞬、驚きが浮かぶ。
すぐに、それは懐かしさを含んだ笑みに変わった。
「……藤野?」
名前を呼ばれた。
職場では、旧姓のままの香澄。
けれど水野に呼ばれると、三年前に引き戻される。
式場のパンフレット。
母からの電話。
水野の部屋の白いテーブル。
そして、最後の言葉。
『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』
香澄は、ようやく唇を動かした。
「お久しぶりです」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
水野は笑った。
「まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。よろしく」
「……よろしくお願いします」
頭を下げる。
周囲の空気が少しだけ変わったのがわかった。
知り合い?
そんな視線が、香澄と水野の間を行き来する。
水野はそれを自然に受け流すように笑った。
「藤野さんとは、以前からの知り合いで」
以前からの知り合い。
その言葉で片づけられる関係だった。
間違いではない。
でも、正しくもない。
香澄は笑顔を作ろうとした。
頬がうまく動かない。
そのとき、フロアの向こうから視線を感じた。
福祉課の席。
佐伯がこちらを見ていた。
表情は変わらない。
けれど、香澄が固まっていることには、たぶん気づいている。
香澄は慌てて視線を下げた。
見られたくなかった。
水野に動揺している自分を。
佐伯に。
総務課の挨拶が終わると、水野たちは奥へ戻っていった。
市民課の空気が、ようやく日常に戻る。
莉子が小声で聞いてきた。
「藤野さん、水野さんとお知り合いなんですか?」
「うん。少し」
「感じいい人ですね。爽やか」
「……そうだね」
香澄はそれ以上言えなかった。
斎藤も気軽に言う。
「前からの知り合いなら、仕事しやすいんじゃない?」
「そうですね」
香澄は笑った。
いつもの笑顔。
でも、手元の申請書の端が少し曲がっていた。
午前中の窓口対応は、いつも通りに進んだ。
けれど、香澄の中だけがいつも通りではなかった。
水野が同じ庁舎にいる。
同じフロアの奥にいる。
たったそれだけで、背中が落ち着かない。
番号札を呼び、申請書を受け取り、本人確認をする。
いつもの手順を体が覚えていてくれてよかった。
考えなくても、仕事は進む。
けれど、ふとした瞬間に水野の声が蘇る。
藤野。
まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。
以前からの知り合いで。
三年前、あれだけ自分の中を削った人が、こんなに普通に笑って戻ってくる。
香澄だけが、あの日に取り残されているようだった。
昼休み前、庁内チャットに総務課から通知が入った。
窓口改善ヒアリングの日程調整。
担当者名に、水野拓也とあった。
香澄は画面を見つめた。
その文字列だけで、胃の奥が少し冷える。
「藤野さん」
莉子の声で我に返った。
「この申請書、確認お願いしてもいいですか?」
「うん」
香澄は画面を閉じ、莉子の書類を受け取った。
大丈夫。
仕事だ。
個人的なことは関係ない。
そう言い聞かせる。
午後二時過ぎ、水野が市民課のカウンター内へやって来た。
手にはタブレットと薄いファイルを持っている。
「市民課のみなさん、少しだけ失礼します」
水野は爽やかに言った。
係長が応じる。
「窓口改善の件?」
「はい。現場の動線確認だけ先にさせていただきたくて。お忙しいところすみません」
「藤野さん、今少し大丈夫?」
係長に呼ばれ、香澄は立ち上がった。
「はい」
逃げられない。
仕事だから。
水野は香澄に向き直る。
「藤野、少し案内お願いしてもいい?」
昔と同じ呼び方だった。
周囲がいるからか、名字だけ。
けれど、その自然さが胸に刺さる。
「はい」
香澄は窓口の動線を説明した。
番号札の発行機、申請書記入台、高齢者向けの椅子、受付カウンター、証明書交付の流れ。
水野は頷きながら、タブレットにメモを取っていく。
「相変わらず、説明わかりやすいね」
「ありがとうございます」
「変わらないね、藤野は」
その言葉に、香澄の指先が固まった。
変わらない。
それは、普通なら懐かしさを含んだ言葉なのだろう。
けれど香澄には、少しも嬉しくなかった。
変われていない。
あの日から、何も進んでいない。
そう言われたように聞こえた。
「そうでしょうか」
「うん。落ち着いてて、何でもそつなくやる感じ」
水野は悪気なく笑う。
「昔からそうだったよね。感情をあまり出さないっていうか」
香澄は息を止めた。
水野はタブレットに目を落としたまま続ける。
「相変わらず、何考えてるかわからない感じ」
声は軽かった。
冗談のようだった。
久しぶりに会った知人に、昔の印象を懐かしむような口調。
けれど、その一文は、香澄の胸の奥を正確に削った。
何考えてるかわからない。
三年前と同じ言葉。
香澄は、手元のファイルを握りしめた。
何か言わなければ。
今は職場だ。
笑って流せばいい。
水野も悪気があって言ったわけではない。
だから、ここで反応したら、香澄のほうが大げさになる。
「……よく言われます」
香澄は笑った。
自分でも驚くほど、うまく笑えてしまった。
水野も笑う。
「だよね。でも、藤野らしいよ」
藤野らしい。
それも、昔よく言われた。
我慢していることも、黙っていることも、何でも笑って受け流すことも。
全部、藤野らしい。
そう言われるたび、香澄は自分の苦しさを説明する場所を失っていった。
「こちらが交付までの流れです」
香澄は、話題を業務へ戻した。
声は震えなかった。
震えなかったことが、少しだけ悲しかった。
説明が終わると、水野は満足そうに頷いた。
「助かった。やっぱり藤野に聞くのが一番早いな」
「お役に立てたならよかったです」
「また聞くと思う。よろしく」
「はい」
水野が総務課へ戻っていく。
香澄はその背中を見送りながら、自分の立っている床が少し遠くなったような感覚に襲われた。
呼吸が浅い。
でも、仕事に戻らなければ。
窓口では、次の番号札が点滅している。
香澄は席に戻った。
莉子が「大丈夫ですか?」と聞きかけたが、香澄は先に笑った。
「大丈夫。次、呼ぶね」
言ってしまった。
そして、言ってしまったことに気づく余裕もなかった。
午後の窓口が一段落したころ、福祉課から佐伯が共有ファイルを持って市民課へ来た。
いつものように、必要な書類を係長へ渡すだけ。
香澄は気づかないふりをした。
けれど、佐伯の視線が一瞬こちらに止まったのがわかった。
見られている。
水野と話したあと、自分の顔がどう見えているのか、わからない。
香澄はパソコン画面に視線を固定した。
「藤野さん」
低い声が近くで聞こえた。
顔を上げると、佐伯がカウンターの内側、少し離れた位置に立っていた。
「はい」
「体調が悪いなら、午後のフロア案内を代わります」
「え?」
「福祉課側の窓口は今、少し余裕があります。市民課の初期案内なら一部対応できます」
香澄はすぐに首を振った。
「いえ、大丈夫です」
言ってから、佐伯の表情を見た。
佐伯の目が、いつもより少しだけ低い温度を帯びた気がした。
「それは、答えになっていません」
静かな声だった。
けれど、確かにいつもより低かった。
香澄は何も言えなくなる。
体調が悪いかと聞かれて、大丈夫ですと答える。
いつもの癖。
でも佐伯には、もう通用しない。
「……体調は、悪くありません」
香澄は言い直した。
「では、何が悪いんですか」
問いはまっすぐだった。
香澄は視線を落とす。
何が悪いのか。
体調ではない。
でも、胸の奥がざわついている。
水野の声がまだ残っている。
何考えてるかわからない感じ。
藤野らしいよ。
香澄は唇を開いたが、言葉にならなかった。
佐伯はそれ以上、問い詰めなかった。
「言いたくなければ、言わなくてかまいません」
香澄は小さく頷いた。
「ただ、窓口に出るのが難しいなら、係長に伝えたほうがいいです」
「……はい」
「無理に出て、判断が鈍るほうが危険です」
少し前なら、香澄はその言い方を冷たいと思ったかもしれない。
でも今は、違うとわかる。
佐伯は香澄を甘やかしているのではない。
仕事の中に、香澄自身の安全も含めようとしている。
「ありがとうございます」
香澄が言うと、佐伯は一度だけ頷いた。
そして、福祉課へ戻っていった。
背中を見送りながら、香澄は胸の奥がまた揺れるのを感じた。
言いたい。
言えない。
水野のことを、佐伯に話したい。
でも、話してしまったら、今よりもっと佐伯に頼ってしまう気がする。
頼ったら、失うときにもっと痛くなる。
それが怖かった。
夕方、窓口改善の簡単な打ち合わせが会議スペースで行われた。
市民課からは係長と香澄、総務課からは水野と総務課長、福祉課からは佐伯が参加した。
偶然ではない。
同じフロアの動線に関わるから、佐伯がいても不自然ではない。
けれど、香澄にとっては逃げ場のない配置だった。
水野は会議でも感じがよかった。
係長の意見に丁寧に頷き、莉子のような若手にもわかりやすい資料を作っている。総務課長も「水野くんは現場経験もあるから」と期待を込めて紹介した。
佐伯はほとんど発言しなかった。
必要な箇所だけ、短く指摘する。
「フロア案内を増やすなら、相談内容の切り分け基準が必要です」
「高齢者対応の椅子を移動する場合、福祉課窓口との動線が重なります」
いつもの佐伯だった。
水野はそのたびに爽やかに応じた。
「なるほど、佐伯さんの視点は助かります」
誰とでもうまく話す。
そういうところも、昔と変わらない。
会議が終わると、総務課長と係長は別件で先に出た。
佐伯も資料をまとめていたが、電話が鳴り、少し離れた場所で応答した。
会議スペースには、香澄と水野だけが残った。
「藤野」
水野が声をかける。
「少しいい?」
香澄は資料を鞄にしまいながら、頷いた。
「はい」
「敬語じゃなくていいよ。昔から知ってるんだし」
「職場なので」
自分でも思ったより硬い声だった。
水野は少し笑った。
「そういうところも変わらないね」
香澄は答えなかった。
水野は会議スペースの椅子に軽く腰をかけ、懐かしそうに香澄を見る。
「本当に久しぶりだな。元気だった?」
「はい」
「そっか。よかった」
その言い方が、やけに自然で苦しい。
まるで三年前に何もなかったようだった。
少し距離のある昔の知り合いに、穏やかに近況を聞いているだけ。
でも香澄の中では、あの日の会話がまだ終わっていない。
「まさか同じ庁舎になるとはね」
「そうですね」
「気まずい?」
水野が少し困ったように笑った。
香澄は答えに詰まった。
気まずい。
それは確かにそうだ。
けれど、そんな軽い言葉では足りない。
「いえ」
香澄は結局、そう言った。
「仕事ですから」
「藤野らしいな」
また。
その言葉。
香澄は手元の資料を握った。
水野は気づかない。
あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。
「三年前のことさ」
水野が言った。
香澄の呼吸が止まる。
「あの頃は、お互い若かったよね」
水野は苦笑した。
「俺も余裕なかったし、藤野も何も言わなかったし。今なら、もう少しうまく話せたのかなって思うよ」
お互い若かった。
その一言で、片づけられた。
香澄の中では、三年間ずっと痛み続けていたものが。
水野にとっては、若かった二人のすれ違い。
思い出して少し苦笑できる過去。
香澄は、喉の奥が固くなるのを感じた。
「そうですね」
言ってしまった。
本当は違うと言いたかった。
若かったからではない。
私が何も言わなかったからだけでもない。
あなたが、聞かなかったから。
そう言いたかった。
けれど、言えない。
水野は安心したように笑った。
「よかった。藤野がまだ怒ってたらどうしようかと思った」
怒っていたら。
香澄は胸の奥で、何かが沈むのを感じた。
怒ることすら、自分には許されていなかったのかもしれない。
あのときも、今も。
「怒っていません」
香澄は言った。
水野は「だよね」と笑う。
「藤野はそういうタイプじゃないもんな」
違う。
私は、怒らないタイプなんじゃない。
怒る言葉を持てなかっただけ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
会議スペースの外で、佐伯が電話を終える声がした。
香澄はそちらを見そうになって、こらえた。
見てはいけない気がした。
今、佐伯を見たら、助けを求めてしまいそうだった。
水野は立ち上がった。
「これから一緒に仕事することも増えると思うし、普通にやろう。昔のこと、変に引きずるのもおかしいし」
「……はい」
「じゃ、また」
水野は軽く手を上げ、総務課のほうへ戻っていった。
香澄はその場にしばらく立ち尽くした。
普通にやろう。
昔のこと、変に引きずるのもおかしい。
香澄だけが、また「おかしい」側に置かれた気がした。
怒らないタイプ。
何を考えているかわからない。
変わらない。
藤野らしい。
その全部が、薄い紙のように何枚も重なって、香澄の呼吸をふさいでいく。
会議スペースを出て、香澄はまっすぐ市民課へ戻れなかった。
廊下を曲がり、階段の踊り場へ向かう。
庁舎の中央階段は、夕方になると人通りが少ない。窓の外には、灰色の空が広がっている。雨はまだ細く降っていた。
香澄は手すりに手を置き、深く息を吸った。
胸が苦しい。
けれど、泣けない。
まただ。
泣きたいのに、涙が出ない。
香澄は目を閉じた。
私は怒っていない?
本当に?
違う。
たぶん、怒っている。
悲しい。
悔しい。
三年前も、今日も、ちゃんと傷ついた。
でも、それを水野の前では言えなかった。
また言えなかった。
香澄は自分の手を見た。
指先が少し震えている。
そのとき、階段の下から足音がした。
規則正しく、静かな足音。
顔を上げると、佐伯が踊り場に上がってきた。
香澄は咄嗟に顔を整えようとした。
口角を上げる。
大丈夫な顔を作る。
でも、佐伯はその顔を見る前に言った。
「今の相手ですか。三年前の」
香澄の息が止まった。
何も答えられなかった。
佐伯は階段を上がりきったところで立ち止まった。
距離を詰めすぎない位置。
逃げ場を残す距離。
いつもの佐伯の立ち方だった。
「会議スペースでの会話が、一部聞こえました」
香澄は手すりを握った。
聞かれていた。
恥ずかしい。
情けない。
また何も言えなかった自分を、佐伯に見られた。
「すみません」
反射的に謝る。
佐伯の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「なぜ謝るんですか」
「……わかりません」
本当に、わからなかった。
でも、謝るしかなかった。
自分の過去を持ち込んだこと。
仕事中に動揺したこと。
佐伯に心配をかけたこと。
何も言い返せなかったこと。
全部に対して、謝りたかった。
佐伯は黙っていた。
その沈黙は、香澄を急かさなかった。
でも、逃がしもしなかった。
「言いたくないなら聞きません」
静かな声が、階段の踊り場に落ちた。
香澄は顔を上げる。
佐伯はまっすぐこちらを見ていた。
「でも、言えないなら待ちます」
その一言で、香澄の喉の奥が熱くなった。
言いたくない。
言えない。
その違いを、佐伯は見分けようとしてくれる。
香澄自身でさえ、ずっと一緒にしていたのに。
言いたくないから黙っているのだと思っていた。
でも、本当は言えなかった。
聞いてもらえないと思って。
言ったら困らせると思って。
言葉にした瞬間、自分のほうが悪いと決まってしまいそうで。
香澄は唇を震わせた。
でも、言葉はまだ出てこなかった。
佐伯は待っていた。
水野のように「何を考えているかわからない」とは言わず。
母のように「心配しているのよ」と先回りせず。
同僚のように「大丈夫?」と聞いて、すぐ日常へ戻ろうともせず。
ただ、待っていた。
香澄は手すりから手を離し、胸の前で指を重ねた。
「……まだ」
ようやく出た声は、かすれていた。
「まだ、言えません」
佐伯は頷いた。
「はい」
「でも」
香澄は息を吸った。
「言いたくないわけじゃ、ないです」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
佐伯は何も言わず、もう一度だけ頷いた。
香澄は、その頷きを見て、崩れそうになった。
否定されなかった。
急かされなかった。
待つと言われた。
それだけで、胸の奥にしまい込んでいた三年前の痛みが、ほんの少しだけ空気に触れた気がした。
外では雨が降り続いている。
踊り場の窓に、小さな雨粒がいくつも流れていた。
香澄はそれを見ながら、まだ言えない言葉を抱えたまま、佐伯の隣にある沈黙の中で、初めて少しだけ息ができた。
週明けだからではない。
人事異動の内示から一週間が過ぎ、今日から新しく本庁に配属される職員が何人かいた。市民課にも直接の異動者はいなかったが、同じフロアの総務課と福祉課には数名が加わるらしい。
香澄はカウンターの上に申請書を補充しながら、フロアの奥のざわめきを聞いていた。
「今日から来る総務課の人、けっこう仕事できる人らしいですよ」
莉子が少し楽しそうに言った。
「支所から戻ってくる人だっけ?」
「はい。前に企画のほうにもいたとか。爽やかで感じいいって、総務の子が言ってました」
斎藤が横から口を挟む。
「そういう前評判、高いと大変だよな。本人が」
「でも、感じいい人なら助かりますよ。福祉課も総務課も、たまに相談しに行くと緊張するので」
莉子がちらりと福祉課のほうを見る。
その視線の先には、いつものように佐伯律がいた。
朝から書類を確認している。休日出勤のときのカーディガン姿ではなく、今日はいつものスーツだった。黒縁の眼鏡。きちんと締めたネクタイ。背筋の伸びた姿勢。
香澄は、先週末の雨の中のことを思い出しそうになって、慌てて視線を手元へ戻した。
傘の中の距離。
濡れた佐伯の肩。
『佐伯さん、少しだけ、こっちに寄ってください』
自分から言った言葉。
思い出すだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
あのあと、駅までの道を二人で歩いた。
会話は少なかった。
でも、沈黙が妙に近かった。
駅に着き、佐伯が「お疲れさまでした」と言って別れたとき、香澄は雨の音まで覚えていた。
あれから二日。
休日を挟んだだけなのに、佐伯と顔を合わせるのが少し気恥ずかしい。
何かが変わったわけではない。
告白されたわけでも、したわけでもない。
ただ、傘の中で数センチ近づいただけだ。
それなのに、香澄の中では、その数センチが思った以上に大きかった。
「藤野さん、顔赤くないですか?」
莉子に言われ、香澄は驚いて顔を上げた。
「え?」
「暑いですか?」
「ううん、大丈夫」
言ってから、香澄はすぐに言い直した。
「……じゃなくて、少し考え事してただけ」
莉子が目を丸くする。
「あ、今、大丈夫ですって言わなかったですね」
「言いかけたけどね」
香澄が苦笑すると、莉子は嬉しそうに笑った。
「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」
「そう?」
「はい。前より、全部背負わない感じがします」
香澄は手元の申請書に視線を落とした。
全部背負わない。
そうなれているなら、少しはいい。
そう思ったとき、フロアの奥から拍手が聞こえた。
総務課の朝礼だろう。
係長が市民課の席へ戻ってきて言った。
「藤野さん、今日から総務課に異動してきた職員、あとでフロアに挨拶に来るそうだから」
「はい」
「市民課とも窓口改善の関係でやり取りが増えるかもしれない。よろしくね」
「わかりました」
いつも通り頷いた。
その数分後、総務課の職員数名がフロアを回ってきた。
新しく来た職員の紹介らしい。
最初に見えたのは、総務課長の柔らかい笑顔だった。
「市民課のみなさん、朝のお忙しいところすみません。今日から総務課行政改革担当に異動してきた職員を紹介します」
香澄は立ち上がった。
市民課の職員たちもそれぞれ手を止める。
総務課長の隣に立った男性を見た瞬間、香澄の中から音が消えた。
水野拓也。
三年前、結婚するはずだった人。
昔とほとんど変わっていなかった。
明るい色のスーツがよく似合い、清潔感のある短い髪、誰にでも好かれそうな穏やかな笑顔。以前より少し大人びた気はするが、柔らかい雰囲気はそのままだった。
水野は市民課の職員たちへ向かって、自然な笑顔で頭を下げた。
「本日付で総務課に配属になりました、水野拓也です。以前は南支所と企画課におりました。窓口改善や庁内調整で、こちらの市民課のみなさんにもお世話になると思います。よろしくお願いします」
声も、変わっていなかった。
人当たりのいい、よく通る声。
斎藤が「よろしくお願いします」と返す。
莉子も「よろしくお願いします」と頭を下げる。
香澄は、声が出なかった。
目を逸らしたいのに逸らせない。
水野の視線が、市民課の職員たちを順に見て、香澄のところで止まった。
一瞬、驚きが浮かぶ。
すぐに、それは懐かしさを含んだ笑みに変わった。
「……藤野?」
名前を呼ばれた。
職場では、旧姓のままの香澄。
けれど水野に呼ばれると、三年前に引き戻される。
式場のパンフレット。
母からの電話。
水野の部屋の白いテーブル。
そして、最後の言葉。
『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』
香澄は、ようやく唇を動かした。
「お久しぶりです」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
水野は笑った。
「まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。よろしく」
「……よろしくお願いします」
頭を下げる。
周囲の空気が少しだけ変わったのがわかった。
知り合い?
そんな視線が、香澄と水野の間を行き来する。
水野はそれを自然に受け流すように笑った。
「藤野さんとは、以前からの知り合いで」
以前からの知り合い。
その言葉で片づけられる関係だった。
間違いではない。
でも、正しくもない。
香澄は笑顔を作ろうとした。
頬がうまく動かない。
そのとき、フロアの向こうから視線を感じた。
福祉課の席。
佐伯がこちらを見ていた。
表情は変わらない。
けれど、香澄が固まっていることには、たぶん気づいている。
香澄は慌てて視線を下げた。
見られたくなかった。
水野に動揺している自分を。
佐伯に。
総務課の挨拶が終わると、水野たちは奥へ戻っていった。
市民課の空気が、ようやく日常に戻る。
莉子が小声で聞いてきた。
「藤野さん、水野さんとお知り合いなんですか?」
「うん。少し」
「感じいい人ですね。爽やか」
「……そうだね」
香澄はそれ以上言えなかった。
斎藤も気軽に言う。
「前からの知り合いなら、仕事しやすいんじゃない?」
「そうですね」
香澄は笑った。
いつもの笑顔。
でも、手元の申請書の端が少し曲がっていた。
午前中の窓口対応は、いつも通りに進んだ。
けれど、香澄の中だけがいつも通りではなかった。
水野が同じ庁舎にいる。
同じフロアの奥にいる。
たったそれだけで、背中が落ち着かない。
番号札を呼び、申請書を受け取り、本人確認をする。
いつもの手順を体が覚えていてくれてよかった。
考えなくても、仕事は進む。
けれど、ふとした瞬間に水野の声が蘇る。
藤野。
まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。
以前からの知り合いで。
三年前、あれだけ自分の中を削った人が、こんなに普通に笑って戻ってくる。
香澄だけが、あの日に取り残されているようだった。
昼休み前、庁内チャットに総務課から通知が入った。
窓口改善ヒアリングの日程調整。
担当者名に、水野拓也とあった。
香澄は画面を見つめた。
その文字列だけで、胃の奥が少し冷える。
「藤野さん」
莉子の声で我に返った。
「この申請書、確認お願いしてもいいですか?」
「うん」
香澄は画面を閉じ、莉子の書類を受け取った。
大丈夫。
仕事だ。
個人的なことは関係ない。
そう言い聞かせる。
午後二時過ぎ、水野が市民課のカウンター内へやって来た。
手にはタブレットと薄いファイルを持っている。
「市民課のみなさん、少しだけ失礼します」
水野は爽やかに言った。
係長が応じる。
「窓口改善の件?」
「はい。現場の動線確認だけ先にさせていただきたくて。お忙しいところすみません」
「藤野さん、今少し大丈夫?」
係長に呼ばれ、香澄は立ち上がった。
「はい」
逃げられない。
仕事だから。
水野は香澄に向き直る。
「藤野、少し案内お願いしてもいい?」
昔と同じ呼び方だった。
周囲がいるからか、名字だけ。
けれど、その自然さが胸に刺さる。
「はい」
香澄は窓口の動線を説明した。
番号札の発行機、申請書記入台、高齢者向けの椅子、受付カウンター、証明書交付の流れ。
水野は頷きながら、タブレットにメモを取っていく。
「相変わらず、説明わかりやすいね」
「ありがとうございます」
「変わらないね、藤野は」
その言葉に、香澄の指先が固まった。
変わらない。
それは、普通なら懐かしさを含んだ言葉なのだろう。
けれど香澄には、少しも嬉しくなかった。
変われていない。
あの日から、何も進んでいない。
そう言われたように聞こえた。
「そうでしょうか」
「うん。落ち着いてて、何でもそつなくやる感じ」
水野は悪気なく笑う。
「昔からそうだったよね。感情をあまり出さないっていうか」
香澄は息を止めた。
水野はタブレットに目を落としたまま続ける。
「相変わらず、何考えてるかわからない感じ」
声は軽かった。
冗談のようだった。
久しぶりに会った知人に、昔の印象を懐かしむような口調。
けれど、その一文は、香澄の胸の奥を正確に削った。
何考えてるかわからない。
三年前と同じ言葉。
香澄は、手元のファイルを握りしめた。
何か言わなければ。
今は職場だ。
笑って流せばいい。
水野も悪気があって言ったわけではない。
だから、ここで反応したら、香澄のほうが大げさになる。
「……よく言われます」
香澄は笑った。
自分でも驚くほど、うまく笑えてしまった。
水野も笑う。
「だよね。でも、藤野らしいよ」
藤野らしい。
それも、昔よく言われた。
我慢していることも、黙っていることも、何でも笑って受け流すことも。
全部、藤野らしい。
そう言われるたび、香澄は自分の苦しさを説明する場所を失っていった。
「こちらが交付までの流れです」
香澄は、話題を業務へ戻した。
声は震えなかった。
震えなかったことが、少しだけ悲しかった。
説明が終わると、水野は満足そうに頷いた。
「助かった。やっぱり藤野に聞くのが一番早いな」
「お役に立てたならよかったです」
「また聞くと思う。よろしく」
「はい」
水野が総務課へ戻っていく。
香澄はその背中を見送りながら、自分の立っている床が少し遠くなったような感覚に襲われた。
呼吸が浅い。
でも、仕事に戻らなければ。
窓口では、次の番号札が点滅している。
香澄は席に戻った。
莉子が「大丈夫ですか?」と聞きかけたが、香澄は先に笑った。
「大丈夫。次、呼ぶね」
言ってしまった。
そして、言ってしまったことに気づく余裕もなかった。
午後の窓口が一段落したころ、福祉課から佐伯が共有ファイルを持って市民課へ来た。
いつものように、必要な書類を係長へ渡すだけ。
香澄は気づかないふりをした。
けれど、佐伯の視線が一瞬こちらに止まったのがわかった。
見られている。
水野と話したあと、自分の顔がどう見えているのか、わからない。
香澄はパソコン画面に視線を固定した。
「藤野さん」
低い声が近くで聞こえた。
顔を上げると、佐伯がカウンターの内側、少し離れた位置に立っていた。
「はい」
「体調が悪いなら、午後のフロア案内を代わります」
「え?」
「福祉課側の窓口は今、少し余裕があります。市民課の初期案内なら一部対応できます」
香澄はすぐに首を振った。
「いえ、大丈夫です」
言ってから、佐伯の表情を見た。
佐伯の目が、いつもより少しだけ低い温度を帯びた気がした。
「それは、答えになっていません」
静かな声だった。
けれど、確かにいつもより低かった。
香澄は何も言えなくなる。
体調が悪いかと聞かれて、大丈夫ですと答える。
いつもの癖。
でも佐伯には、もう通用しない。
「……体調は、悪くありません」
香澄は言い直した。
「では、何が悪いんですか」
問いはまっすぐだった。
香澄は視線を落とす。
何が悪いのか。
体調ではない。
でも、胸の奥がざわついている。
水野の声がまだ残っている。
何考えてるかわからない感じ。
藤野らしいよ。
香澄は唇を開いたが、言葉にならなかった。
佐伯はそれ以上、問い詰めなかった。
「言いたくなければ、言わなくてかまいません」
香澄は小さく頷いた。
「ただ、窓口に出るのが難しいなら、係長に伝えたほうがいいです」
「……はい」
「無理に出て、判断が鈍るほうが危険です」
少し前なら、香澄はその言い方を冷たいと思ったかもしれない。
でも今は、違うとわかる。
佐伯は香澄を甘やかしているのではない。
仕事の中に、香澄自身の安全も含めようとしている。
「ありがとうございます」
香澄が言うと、佐伯は一度だけ頷いた。
そして、福祉課へ戻っていった。
背中を見送りながら、香澄は胸の奥がまた揺れるのを感じた。
言いたい。
言えない。
水野のことを、佐伯に話したい。
でも、話してしまったら、今よりもっと佐伯に頼ってしまう気がする。
頼ったら、失うときにもっと痛くなる。
それが怖かった。
夕方、窓口改善の簡単な打ち合わせが会議スペースで行われた。
市民課からは係長と香澄、総務課からは水野と総務課長、福祉課からは佐伯が参加した。
偶然ではない。
同じフロアの動線に関わるから、佐伯がいても不自然ではない。
けれど、香澄にとっては逃げ場のない配置だった。
水野は会議でも感じがよかった。
係長の意見に丁寧に頷き、莉子のような若手にもわかりやすい資料を作っている。総務課長も「水野くんは現場経験もあるから」と期待を込めて紹介した。
佐伯はほとんど発言しなかった。
必要な箇所だけ、短く指摘する。
「フロア案内を増やすなら、相談内容の切り分け基準が必要です」
「高齢者対応の椅子を移動する場合、福祉課窓口との動線が重なります」
いつもの佐伯だった。
水野はそのたびに爽やかに応じた。
「なるほど、佐伯さんの視点は助かります」
誰とでもうまく話す。
そういうところも、昔と変わらない。
会議が終わると、総務課長と係長は別件で先に出た。
佐伯も資料をまとめていたが、電話が鳴り、少し離れた場所で応答した。
会議スペースには、香澄と水野だけが残った。
「藤野」
水野が声をかける。
「少しいい?」
香澄は資料を鞄にしまいながら、頷いた。
「はい」
「敬語じゃなくていいよ。昔から知ってるんだし」
「職場なので」
自分でも思ったより硬い声だった。
水野は少し笑った。
「そういうところも変わらないね」
香澄は答えなかった。
水野は会議スペースの椅子に軽く腰をかけ、懐かしそうに香澄を見る。
「本当に久しぶりだな。元気だった?」
「はい」
「そっか。よかった」
その言い方が、やけに自然で苦しい。
まるで三年前に何もなかったようだった。
少し距離のある昔の知り合いに、穏やかに近況を聞いているだけ。
でも香澄の中では、あの日の会話がまだ終わっていない。
「まさか同じ庁舎になるとはね」
「そうですね」
「気まずい?」
水野が少し困ったように笑った。
香澄は答えに詰まった。
気まずい。
それは確かにそうだ。
けれど、そんな軽い言葉では足りない。
「いえ」
香澄は結局、そう言った。
「仕事ですから」
「藤野らしいな」
また。
その言葉。
香澄は手元の資料を握った。
水野は気づかない。
あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。
「三年前のことさ」
水野が言った。
香澄の呼吸が止まる。
「あの頃は、お互い若かったよね」
水野は苦笑した。
「俺も余裕なかったし、藤野も何も言わなかったし。今なら、もう少しうまく話せたのかなって思うよ」
お互い若かった。
その一言で、片づけられた。
香澄の中では、三年間ずっと痛み続けていたものが。
水野にとっては、若かった二人のすれ違い。
思い出して少し苦笑できる過去。
香澄は、喉の奥が固くなるのを感じた。
「そうですね」
言ってしまった。
本当は違うと言いたかった。
若かったからではない。
私が何も言わなかったからだけでもない。
あなたが、聞かなかったから。
そう言いたかった。
けれど、言えない。
水野は安心したように笑った。
「よかった。藤野がまだ怒ってたらどうしようかと思った」
怒っていたら。
香澄は胸の奥で、何かが沈むのを感じた。
怒ることすら、自分には許されていなかったのかもしれない。
あのときも、今も。
「怒っていません」
香澄は言った。
水野は「だよね」と笑う。
「藤野はそういうタイプじゃないもんな」
違う。
私は、怒らないタイプなんじゃない。
怒る言葉を持てなかっただけ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
会議スペースの外で、佐伯が電話を終える声がした。
香澄はそちらを見そうになって、こらえた。
見てはいけない気がした。
今、佐伯を見たら、助けを求めてしまいそうだった。
水野は立ち上がった。
「これから一緒に仕事することも増えると思うし、普通にやろう。昔のこと、変に引きずるのもおかしいし」
「……はい」
「じゃ、また」
水野は軽く手を上げ、総務課のほうへ戻っていった。
香澄はその場にしばらく立ち尽くした。
普通にやろう。
昔のこと、変に引きずるのもおかしい。
香澄だけが、また「おかしい」側に置かれた気がした。
怒らないタイプ。
何を考えているかわからない。
変わらない。
藤野らしい。
その全部が、薄い紙のように何枚も重なって、香澄の呼吸をふさいでいく。
会議スペースを出て、香澄はまっすぐ市民課へ戻れなかった。
廊下を曲がり、階段の踊り場へ向かう。
庁舎の中央階段は、夕方になると人通りが少ない。窓の外には、灰色の空が広がっている。雨はまだ細く降っていた。
香澄は手すりに手を置き、深く息を吸った。
胸が苦しい。
けれど、泣けない。
まただ。
泣きたいのに、涙が出ない。
香澄は目を閉じた。
私は怒っていない?
本当に?
違う。
たぶん、怒っている。
悲しい。
悔しい。
三年前も、今日も、ちゃんと傷ついた。
でも、それを水野の前では言えなかった。
また言えなかった。
香澄は自分の手を見た。
指先が少し震えている。
そのとき、階段の下から足音がした。
規則正しく、静かな足音。
顔を上げると、佐伯が踊り場に上がってきた。
香澄は咄嗟に顔を整えようとした。
口角を上げる。
大丈夫な顔を作る。
でも、佐伯はその顔を見る前に言った。
「今の相手ですか。三年前の」
香澄の息が止まった。
何も答えられなかった。
佐伯は階段を上がりきったところで立ち止まった。
距離を詰めすぎない位置。
逃げ場を残す距離。
いつもの佐伯の立ち方だった。
「会議スペースでの会話が、一部聞こえました」
香澄は手すりを握った。
聞かれていた。
恥ずかしい。
情けない。
また何も言えなかった自分を、佐伯に見られた。
「すみません」
反射的に謝る。
佐伯の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「なぜ謝るんですか」
「……わかりません」
本当に、わからなかった。
でも、謝るしかなかった。
自分の過去を持ち込んだこと。
仕事中に動揺したこと。
佐伯に心配をかけたこと。
何も言い返せなかったこと。
全部に対して、謝りたかった。
佐伯は黙っていた。
その沈黙は、香澄を急かさなかった。
でも、逃がしもしなかった。
「言いたくないなら聞きません」
静かな声が、階段の踊り場に落ちた。
香澄は顔を上げる。
佐伯はまっすぐこちらを見ていた。
「でも、言えないなら待ちます」
その一言で、香澄の喉の奥が熱くなった。
言いたくない。
言えない。
その違いを、佐伯は見分けようとしてくれる。
香澄自身でさえ、ずっと一緒にしていたのに。
言いたくないから黙っているのだと思っていた。
でも、本当は言えなかった。
聞いてもらえないと思って。
言ったら困らせると思って。
言葉にした瞬間、自分のほうが悪いと決まってしまいそうで。
香澄は唇を震わせた。
でも、言葉はまだ出てこなかった。
佐伯は待っていた。
水野のように「何を考えているかわからない」とは言わず。
母のように「心配しているのよ」と先回りせず。
同僚のように「大丈夫?」と聞いて、すぐ日常へ戻ろうともせず。
ただ、待っていた。
香澄は手すりから手を離し、胸の前で指を重ねた。
「……まだ」
ようやく出た声は、かすれていた。
「まだ、言えません」
佐伯は頷いた。
「はい」
「でも」
香澄は息を吸った。
「言いたくないわけじゃ、ないです」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
佐伯は何も言わず、もう一度だけ頷いた。
香澄は、その頷きを見て、崩れそうになった。
否定されなかった。
急かされなかった。
待つと言われた。
それだけで、胸の奥にしまい込んでいた三年前の痛みが、ほんの少しだけ空気に触れた気がした。
外では雨が降り続いている。
踊り場の窓に、小さな雨粒がいくつも流れていた。
香澄はそれを見ながら、まだ言えない言葉を抱えたまま、佐伯の隣にある沈黙の中で、初めて少しだけ息ができた。