となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第6話 言えなかった三年前

 月曜日の朝、庁舎の空気はいつもより少し浮き立っていた。

 週明けだからではない。

 人事異動の内示から一週間が過ぎ、今日から新しく本庁に配属される職員が何人かいた。市民課にも直接の異動者はいなかったが、同じフロアの総務課と福祉課には数名が加わるらしい。

 香澄はカウンターの上に申請書を補充しながら、フロアの奥のざわめきを聞いていた。

「今日から来る総務課の人、けっこう仕事できる人らしいですよ」

 莉子が少し楽しそうに言った。

「支所から戻ってくる人だっけ?」

「はい。前に企画のほうにもいたとか。爽やかで感じいいって、総務の子が言ってました」

 斎藤が横から口を挟む。

「そういう前評判、高いと大変だよな。本人が」

「でも、感じいい人なら助かりますよ。福祉課も総務課も、たまに相談しに行くと緊張するので」

 莉子がちらりと福祉課のほうを見る。

 その視線の先には、いつものように佐伯律がいた。

 朝から書類を確認している。休日出勤のときのカーディガン姿ではなく、今日はいつものスーツだった。黒縁の眼鏡。きちんと締めたネクタイ。背筋の伸びた姿勢。

 香澄は、先週末の雨の中のことを思い出しそうになって、慌てて視線を手元へ戻した。

 傘の中の距離。

 濡れた佐伯の肩。

『佐伯さん、少しだけ、こっちに寄ってください』

 自分から言った言葉。

 思い出すだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。

 あのあと、駅までの道を二人で歩いた。

 会話は少なかった。

 でも、沈黙が妙に近かった。

 駅に着き、佐伯が「お疲れさまでした」と言って別れたとき、香澄は雨の音まで覚えていた。

 あれから二日。

 休日を挟んだだけなのに、佐伯と顔を合わせるのが少し気恥ずかしい。

 何かが変わったわけではない。

 告白されたわけでも、したわけでもない。

 ただ、傘の中で数センチ近づいただけだ。

 それなのに、香澄の中では、その数センチが思った以上に大きかった。

「藤野さん、顔赤くないですか?」

 莉子に言われ、香澄は驚いて顔を上げた。

「え?」

「暑いですか?」

「ううん、大丈夫」

 言ってから、香澄はすぐに言い直した。

「……じゃなくて、少し考え事してただけ」

 莉子が目を丸くする。

「あ、今、大丈夫ですって言わなかったですね」

「言いかけたけどね」

 香澄が苦笑すると、莉子は嬉しそうに笑った。

「藤野さん、最近ちょっと変わりましたよね」

「そう?」

「はい。前より、全部背負わない感じがします」

 香澄は手元の申請書に視線を落とした。

 全部背負わない。

 そうなれているなら、少しはいい。

 そう思ったとき、フロアの奥から拍手が聞こえた。

 総務課の朝礼だろう。

 係長が市民課の席へ戻ってきて言った。

「藤野さん、今日から総務課に異動してきた職員、あとでフロアに挨拶に来るそうだから」

「はい」

「市民課とも窓口改善の関係でやり取りが増えるかもしれない。よろしくね」

「わかりました」

 いつも通り頷いた。

 その数分後、総務課の職員数名がフロアを回ってきた。

 新しく来た職員の紹介らしい。

 最初に見えたのは、総務課長の柔らかい笑顔だった。

「市民課のみなさん、朝のお忙しいところすみません。今日から総務課行政改革担当に異動してきた職員を紹介します」

 香澄は立ち上がった。

 市民課の職員たちもそれぞれ手を止める。

 総務課長の隣に立った男性を見た瞬間、香澄の中から音が消えた。

 水野拓也。

 三年前、結婚するはずだった人。

 昔とほとんど変わっていなかった。

 明るい色のスーツがよく似合い、清潔感のある短い髪、誰にでも好かれそうな穏やかな笑顔。以前より少し大人びた気はするが、柔らかい雰囲気はそのままだった。

 水野は市民課の職員たちへ向かって、自然な笑顔で頭を下げた。

「本日付で総務課に配属になりました、水野拓也です。以前は南支所と企画課におりました。窓口改善や庁内調整で、こちらの市民課のみなさんにもお世話になると思います。よろしくお願いします」

 声も、変わっていなかった。

 人当たりのいい、よく通る声。

 斎藤が「よろしくお願いします」と返す。

 莉子も「よろしくお願いします」と頭を下げる。

 香澄は、声が出なかった。

 目を逸らしたいのに逸らせない。

 水野の視線が、市民課の職員たちを順に見て、香澄のところで止まった。

 一瞬、驚きが浮かぶ。

 すぐに、それは懐かしさを含んだ笑みに変わった。

「……藤野?」

 名前を呼ばれた。

 職場では、旧姓のままの香澄。

 けれど水野に呼ばれると、三年前に引き戻される。

 式場のパンフレット。

 母からの電話。

 水野の部屋の白いテーブル。

 そして、最後の言葉。

『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』

 香澄は、ようやく唇を動かした。

「お久しぶりです」

 声は、自分でも驚くほど小さかった。

 水野は笑った。

「まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。よろしく」

「……よろしくお願いします」

 頭を下げる。

 周囲の空気が少しだけ変わったのがわかった。

 知り合い?

 そんな視線が、香澄と水野の間を行き来する。

 水野はそれを自然に受け流すように笑った。

「藤野さんとは、以前からの知り合いで」

 以前からの知り合い。

 その言葉で片づけられる関係だった。

 間違いではない。

 でも、正しくもない。

 香澄は笑顔を作ろうとした。

 頬がうまく動かない。

 そのとき、フロアの向こうから視線を感じた。

 福祉課の席。

 佐伯がこちらを見ていた。

 表情は変わらない。

 けれど、香澄が固まっていることには、たぶん気づいている。

 香澄は慌てて視線を下げた。

 見られたくなかった。

 水野に動揺している自分を。

 佐伯に。

 総務課の挨拶が終わると、水野たちは奥へ戻っていった。

 市民課の空気が、ようやく日常に戻る。

 莉子が小声で聞いてきた。

「藤野さん、水野さんとお知り合いなんですか?」

「うん。少し」

「感じいい人ですね。爽やか」

「……そうだね」

 香澄はそれ以上言えなかった。

 斎藤も気軽に言う。

「前からの知り合いなら、仕事しやすいんじゃない?」

「そうですね」

 香澄は笑った。

 いつもの笑顔。

 でも、手元の申請書の端が少し曲がっていた。

 午前中の窓口対応は、いつも通りに進んだ。

 けれど、香澄の中だけがいつも通りではなかった。

 水野が同じ庁舎にいる。

 同じフロアの奥にいる。

 たったそれだけで、背中が落ち着かない。

 番号札を呼び、申請書を受け取り、本人確認をする。

 いつもの手順を体が覚えていてくれてよかった。

 考えなくても、仕事は進む。

 けれど、ふとした瞬間に水野の声が蘇る。

 藤野。

 まさか本庁で一緒になるとは思わなかった。

 以前からの知り合いで。

 三年前、あれだけ自分の中を削った人が、こんなに普通に笑って戻ってくる。

 香澄だけが、あの日に取り残されているようだった。

 昼休み前、庁内チャットに総務課から通知が入った。

 窓口改善ヒアリングの日程調整。

 担当者名に、水野拓也とあった。

 香澄は画面を見つめた。

 その文字列だけで、胃の奥が少し冷える。

「藤野さん」

 莉子の声で我に返った。

「この申請書、確認お願いしてもいいですか?」

「うん」

 香澄は画面を閉じ、莉子の書類を受け取った。

 大丈夫。

 仕事だ。

 個人的なことは関係ない。

 そう言い聞かせる。

 午後二時過ぎ、水野が市民課のカウンター内へやって来た。

 手にはタブレットと薄いファイルを持っている。

「市民課のみなさん、少しだけ失礼します」

 水野は爽やかに言った。

 係長が応じる。

「窓口改善の件?」

「はい。現場の動線確認だけ先にさせていただきたくて。お忙しいところすみません」

「藤野さん、今少し大丈夫?」

 係長に呼ばれ、香澄は立ち上がった。

「はい」

 逃げられない。

 仕事だから。

 水野は香澄に向き直る。

「藤野、少し案内お願いしてもいい?」

 昔と同じ呼び方だった。

 周囲がいるからか、名字だけ。

 けれど、その自然さが胸に刺さる。

「はい」

 香澄は窓口の動線を説明した。

 番号札の発行機、申請書記入台、高齢者向けの椅子、受付カウンター、証明書交付の流れ。

 水野は頷きながら、タブレットにメモを取っていく。

「相変わらず、説明わかりやすいね」

「ありがとうございます」

「変わらないね、藤野は」

 その言葉に、香澄の指先が固まった。

 変わらない。

 それは、普通なら懐かしさを含んだ言葉なのだろう。

 けれど香澄には、少しも嬉しくなかった。

 変われていない。

 あの日から、何も進んでいない。

 そう言われたように聞こえた。

「そうでしょうか」

「うん。落ち着いてて、何でもそつなくやる感じ」

 水野は悪気なく笑う。

「昔からそうだったよね。感情をあまり出さないっていうか」

 香澄は息を止めた。

 水野はタブレットに目を落としたまま続ける。

「相変わらず、何考えてるかわからない感じ」

 声は軽かった。

 冗談のようだった。

 久しぶりに会った知人に、昔の印象を懐かしむような口調。

 けれど、その一文は、香澄の胸の奥を正確に削った。

 何考えてるかわからない。

 三年前と同じ言葉。

 香澄は、手元のファイルを握りしめた。

 何か言わなければ。

 今は職場だ。

 笑って流せばいい。

 水野も悪気があって言ったわけではない。

 だから、ここで反応したら、香澄のほうが大げさになる。

「……よく言われます」

 香澄は笑った。

 自分でも驚くほど、うまく笑えてしまった。

 水野も笑う。

「だよね。でも、藤野らしいよ」

 藤野らしい。

 それも、昔よく言われた。

 我慢していることも、黙っていることも、何でも笑って受け流すことも。

 全部、藤野らしい。

 そう言われるたび、香澄は自分の苦しさを説明する場所を失っていった。

「こちらが交付までの流れです」

 香澄は、話題を業務へ戻した。

 声は震えなかった。

 震えなかったことが、少しだけ悲しかった。

 説明が終わると、水野は満足そうに頷いた。

「助かった。やっぱり藤野に聞くのが一番早いな」

「お役に立てたならよかったです」

「また聞くと思う。よろしく」

「はい」

 水野が総務課へ戻っていく。

 香澄はその背中を見送りながら、自分の立っている床が少し遠くなったような感覚に襲われた。

 呼吸が浅い。

 でも、仕事に戻らなければ。

 窓口では、次の番号札が点滅している。

 香澄は席に戻った。

 莉子が「大丈夫ですか?」と聞きかけたが、香澄は先に笑った。

「大丈夫。次、呼ぶね」

 言ってしまった。

 そして、言ってしまったことに気づく余裕もなかった。

 午後の窓口が一段落したころ、福祉課から佐伯が共有ファイルを持って市民課へ来た。

 いつものように、必要な書類を係長へ渡すだけ。

 香澄は気づかないふりをした。

 けれど、佐伯の視線が一瞬こちらに止まったのがわかった。

 見られている。

 水野と話したあと、自分の顔がどう見えているのか、わからない。

 香澄はパソコン画面に視線を固定した。

「藤野さん」

 低い声が近くで聞こえた。

 顔を上げると、佐伯がカウンターの内側、少し離れた位置に立っていた。

「はい」

「体調が悪いなら、午後のフロア案内を代わります」

「え?」

「福祉課側の窓口は今、少し余裕があります。市民課の初期案内なら一部対応できます」

 香澄はすぐに首を振った。

「いえ、大丈夫です」

 言ってから、佐伯の表情を見た。

 佐伯の目が、いつもより少しだけ低い温度を帯びた気がした。

「それは、答えになっていません」

 静かな声だった。

 けれど、確かにいつもより低かった。

 香澄は何も言えなくなる。

 体調が悪いかと聞かれて、大丈夫ですと答える。

 いつもの癖。

 でも佐伯には、もう通用しない。

「……体調は、悪くありません」

 香澄は言い直した。

「では、何が悪いんですか」

 問いはまっすぐだった。

 香澄は視線を落とす。

 何が悪いのか。

 体調ではない。

 でも、胸の奥がざわついている。

 水野の声がまだ残っている。

 何考えてるかわからない感じ。

 藤野らしいよ。

 香澄は唇を開いたが、言葉にならなかった。

 佐伯はそれ以上、問い詰めなかった。

「言いたくなければ、言わなくてかまいません」

 香澄は小さく頷いた。

「ただ、窓口に出るのが難しいなら、係長に伝えたほうがいいです」

「……はい」

「無理に出て、判断が鈍るほうが危険です」

 少し前なら、香澄はその言い方を冷たいと思ったかもしれない。

 でも今は、違うとわかる。

 佐伯は香澄を甘やかしているのではない。

 仕事の中に、香澄自身の安全も含めようとしている。

「ありがとうございます」

 香澄が言うと、佐伯は一度だけ頷いた。

 そして、福祉課へ戻っていった。

 背中を見送りながら、香澄は胸の奥がまた揺れるのを感じた。

 言いたい。

 言えない。

 水野のことを、佐伯に話したい。

 でも、話してしまったら、今よりもっと佐伯に頼ってしまう気がする。

 頼ったら、失うときにもっと痛くなる。

 それが怖かった。

 夕方、窓口改善の簡単な打ち合わせが会議スペースで行われた。

 市民課からは係長と香澄、総務課からは水野と総務課長、福祉課からは佐伯が参加した。

 偶然ではない。

 同じフロアの動線に関わるから、佐伯がいても不自然ではない。

 けれど、香澄にとっては逃げ場のない配置だった。

 水野は会議でも感じがよかった。

 係長の意見に丁寧に頷き、莉子のような若手にもわかりやすい資料を作っている。総務課長も「水野くんは現場経験もあるから」と期待を込めて紹介した。

 佐伯はほとんど発言しなかった。

 必要な箇所だけ、短く指摘する。

「フロア案内を増やすなら、相談内容の切り分け基準が必要です」

「高齢者対応の椅子を移動する場合、福祉課窓口との動線が重なります」

 いつもの佐伯だった。

 水野はそのたびに爽やかに応じた。

「なるほど、佐伯さんの視点は助かります」

 誰とでもうまく話す。

 そういうところも、昔と変わらない。

 会議が終わると、総務課長と係長は別件で先に出た。

 佐伯も資料をまとめていたが、電話が鳴り、少し離れた場所で応答した。

 会議スペースには、香澄と水野だけが残った。

「藤野」

 水野が声をかける。

「少しいい?」

 香澄は資料を鞄にしまいながら、頷いた。

「はい」

「敬語じゃなくていいよ。昔から知ってるんだし」

「職場なので」

 自分でも思ったより硬い声だった。

 水野は少し笑った。

「そういうところも変わらないね」

 香澄は答えなかった。

 水野は会議スペースの椅子に軽く腰をかけ、懐かしそうに香澄を見る。

「本当に久しぶりだな。元気だった?」

「はい」

「そっか。よかった」

 その言い方が、やけに自然で苦しい。

 まるで三年前に何もなかったようだった。

 少し距離のある昔の知り合いに、穏やかに近況を聞いているだけ。

 でも香澄の中では、あの日の会話がまだ終わっていない。

「まさか同じ庁舎になるとはね」

「そうですね」

「気まずい?」

 水野が少し困ったように笑った。

 香澄は答えに詰まった。

 気まずい。

 それは確かにそうだ。

 けれど、そんな軽い言葉では足りない。

「いえ」

 香澄は結局、そう言った。

「仕事ですから」

「藤野らしいな」

 また。

 その言葉。

 香澄は手元の資料を握った。

 水野は気づかない。

 あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。

「三年前のことさ」

 水野が言った。

 香澄の呼吸が止まる。

「あの頃は、お互い若かったよね」

 水野は苦笑した。

「俺も余裕なかったし、藤野も何も言わなかったし。今なら、もう少しうまく話せたのかなって思うよ」

 お互い若かった。

 その一言で、片づけられた。

 香澄の中では、三年間ずっと痛み続けていたものが。

 水野にとっては、若かった二人のすれ違い。

 思い出して少し苦笑できる過去。

 香澄は、喉の奥が固くなるのを感じた。

「そうですね」

 言ってしまった。

 本当は違うと言いたかった。

 若かったからではない。

 私が何も言わなかったからだけでもない。

 あなたが、聞かなかったから。

 そう言いたかった。

 けれど、言えない。

 水野は安心したように笑った。

「よかった。藤野がまだ怒ってたらどうしようかと思った」

 怒っていたら。

 香澄は胸の奥で、何かが沈むのを感じた。

 怒ることすら、自分には許されていなかったのかもしれない。

 あのときも、今も。

「怒っていません」

 香澄は言った。

 水野は「だよね」と笑う。

「藤野はそういうタイプじゃないもんな」

 違う。

 私は、怒らないタイプなんじゃない。

 怒る言葉を持てなかっただけ。

 そう言いたかった。

 でも、言えなかった。

 会議スペースの外で、佐伯が電話を終える声がした。

 香澄はそちらを見そうになって、こらえた。

 見てはいけない気がした。

 今、佐伯を見たら、助けを求めてしまいそうだった。

 水野は立ち上がった。

「これから一緒に仕事することも増えると思うし、普通にやろう。昔のこと、変に引きずるのもおかしいし」

「……はい」

「じゃ、また」

 水野は軽く手を上げ、総務課のほうへ戻っていった。

 香澄はその場にしばらく立ち尽くした。

 普通にやろう。

 昔のこと、変に引きずるのもおかしい。

 香澄だけが、また「おかしい」側に置かれた気がした。

 怒らないタイプ。

 何を考えているかわからない。

 変わらない。

 藤野らしい。

 その全部が、薄い紙のように何枚も重なって、香澄の呼吸をふさいでいく。

 会議スペースを出て、香澄はまっすぐ市民課へ戻れなかった。

 廊下を曲がり、階段の踊り場へ向かう。

 庁舎の中央階段は、夕方になると人通りが少ない。窓の外には、灰色の空が広がっている。雨はまだ細く降っていた。

 香澄は手すりに手を置き、深く息を吸った。

 胸が苦しい。

 けれど、泣けない。

 まただ。

 泣きたいのに、涙が出ない。

 香澄は目を閉じた。

 私は怒っていない?

 本当に?

 違う。

 たぶん、怒っている。

 悲しい。

 悔しい。

 三年前も、今日も、ちゃんと傷ついた。

 でも、それを水野の前では言えなかった。

 また言えなかった。

 香澄は自分の手を見た。

 指先が少し震えている。

 そのとき、階段の下から足音がした。

 規則正しく、静かな足音。

 顔を上げると、佐伯が踊り場に上がってきた。

 香澄は咄嗟に顔を整えようとした。

 口角を上げる。

 大丈夫な顔を作る。

 でも、佐伯はその顔を見る前に言った。

「今の相手ですか。三年前の」

 香澄の息が止まった。

 何も答えられなかった。

 佐伯は階段を上がりきったところで立ち止まった。

 距離を詰めすぎない位置。

 逃げ場を残す距離。

 いつもの佐伯の立ち方だった。

「会議スペースでの会話が、一部聞こえました」

 香澄は手すりを握った。

 聞かれていた。

 恥ずかしい。

 情けない。

 また何も言えなかった自分を、佐伯に見られた。

「すみません」

 反射的に謝る。

 佐伯の眉が、ほんの少しだけ動いた。

「なぜ謝るんですか」

「……わかりません」

 本当に、わからなかった。

 でも、謝るしかなかった。

 自分の過去を持ち込んだこと。

 仕事中に動揺したこと。

 佐伯に心配をかけたこと。

 何も言い返せなかったこと。

 全部に対して、謝りたかった。

 佐伯は黙っていた。

 その沈黙は、香澄を急かさなかった。

 でも、逃がしもしなかった。

「言いたくないなら聞きません」

 静かな声が、階段の踊り場に落ちた。

 香澄は顔を上げる。

 佐伯はまっすぐこちらを見ていた。

「でも、言えないなら待ちます」

 その一言で、香澄の喉の奥が熱くなった。

 言いたくない。

 言えない。

 その違いを、佐伯は見分けようとしてくれる。

 香澄自身でさえ、ずっと一緒にしていたのに。

 言いたくないから黙っているのだと思っていた。

 でも、本当は言えなかった。

 聞いてもらえないと思って。

 言ったら困らせると思って。

 言葉にした瞬間、自分のほうが悪いと決まってしまいそうで。

 香澄は唇を震わせた。

 でも、言葉はまだ出てこなかった。

 佐伯は待っていた。

 水野のように「何を考えているかわからない」とは言わず。

 母のように「心配しているのよ」と先回りせず。

 同僚のように「大丈夫?」と聞いて、すぐ日常へ戻ろうともせず。

 ただ、待っていた。

 香澄は手すりから手を離し、胸の前で指を重ねた。

「……まだ」

 ようやく出た声は、かすれていた。

「まだ、言えません」

 佐伯は頷いた。

「はい」

「でも」

 香澄は息を吸った。

「言いたくないわけじゃ、ないです」

 それだけ言うのが、精いっぱいだった。

 佐伯は何も言わず、もう一度だけ頷いた。

 香澄は、その頷きを見て、崩れそうになった。

 否定されなかった。

 急かされなかった。

 待つと言われた。

 それだけで、胸の奥にしまい込んでいた三年前の痛みが、ほんの少しだけ空気に触れた気がした。

 外では雨が降り続いている。

 踊り場の窓に、小さな雨粒がいくつも流れていた。

 香澄はそれを見ながら、まだ言えない言葉を抱えたまま、佐伯の隣にある沈黙の中で、初めて少しだけ息ができた。
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