となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第7話 隣に立つ人

 佐伯律は、助けることが苦手だった。

 福祉課にいると、人の困りごとの近くに立つことが多い。

 生活のこと。家族のこと。介護のこと。病気のこと。お金のこと。ひとりで抱えるには重すぎるものを、窓口の向こう側に座る人たちは、言葉にしたり、言葉にできなかったりしながら差し出してくる。

 佐伯はそれを、できるだけ正確に受け取るようにしていた。

 何に困っているのか。

 どの制度が使えるのか。

 今すぐ必要なのは申請なのか、相談なのか、別の機関への連絡なのか。

 感情に引きずられすぎてもいけない。

 かといって、感情を無視してもいけない。

 福祉課に来る人の多くは、最初から整理された言葉を持っているわけではなかった。怒っている人もいる。泣く人もいる。何も言わず、書類だけを差し出す人もいる。

 その沈黙の奥にあるものを、佐伯は見落とさないようにしてきた。

 けれど、昔は今ほど慎重ではなかった。

 まだ福祉課に異動して二年目だったころ、佐伯は一人の高齢女性の相談を担当したことがある。

 夫を亡くし、息子夫婦とは疎遠で、生活に不安を抱えていた女性だった。最初は「手続きがわからない」とだけ言っていた。けれど話を聞いていくうちに、本当は今の家にひとりで暮らし続けることが限界に近いとわかった。

 佐伯は、必要な制度を調べ、支援先へ連絡し、使える選択肢を整理した。

 そして、最善だと思う道筋を提示した。

 女性は「佐伯さんがそう言うなら」と言った。

 佐伯はそのとき、役に立てたと思った。

 困っている人に、正しい道を示せたと思った。

 けれど数か月後、その女性が手続きの途中で不安定になった。支援先から連絡が入り、佐伯も再度話を聞いた。

 女性は小さな声で言った。

「本当は、もう少しだけ家にいたかったんです」

 その言葉を聞いたとき、佐伯は自分の失敗を知った。

 選択肢を示したつもりだった。

 けれど、実際には、自分が正しいと思う答えへ相手を導いていた。

 女性は佐伯を信頼したから従ったのではない。

 自分で決める力が残っていないほど疲れていたから、佐伯の言葉に寄りかかっただけだった。

 助けることと、代わりに決めることは違う。

 その境目を、佐伯は忘れたことがない。

 それ以来、彼は言葉を選ぶようになった。

 急かさない。

 決めつけない。

 代弁しすぎない。

 相手が自分の言葉を出せるなら、待つ。

 出せないなら、出せるところまで一緒に整理する。

 言いたくないなら、聞かない。

 言えないなら、待つ。

 階段の踊り場で藤野香澄にそう言ったとき、佐伯は昔の自分を少し思い出していた。

 藤野香澄は、何も言わない人ではない。

 言えなくなる人だ。

 それを見間違えてはいけないと思った。

 翌朝、佐伯が福祉課の席で相談記録を確認していると、市民課のほうから斎藤の声が聞こえた。

「藤野さん、悪いんだけどさ」

 佐伯は画面から目を上げなかった。

 ただ、耳だけがそちらへ向いた。

「昨日の窓口改善の資料、総務に出す前に体裁だけ整えてもらえない? 俺、午前中ちょっと外部との電話が詰まってて」

 藤野の席は、福祉課から斜めに見える位置にある。

 佐伯は顔を上げないまま、キーボードを打つ手を一度止めた。

 藤野は、すぐには答えなかった。

 数秒。

 その沈黙に、佐伯は気づいた。

 以前なら、即座に「大丈夫です」と言っていただろう。

 けれど今日は違った。

 藤野は机の上の書類を見た。自分の予定表を確認し、斎藤の持ってきた資料へ視線を戻す。

 そして、少しだけぎこちない声で言った。

「すみません。今日はできません」

 市民課の空気が、一瞬だけ止まった。

 斎藤も驚いたように瞬きをする。

「え、あ、そっか。忙しい?」

「はい。午前中に証明書関係の確認が三件あって、午後は係長とヒアリングの準備があります。今日中に全部を見るのは難しいです」

 声は硬い。

 けれど、逃げていない。

 佐伯は画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

「そうか、ごめん。じゃあ俺のほうでやるわ」

 斎藤は思ったよりあっさり引いた。

 藤野の肩が、ほんの少しだけ下がったのが見えた。

 安心したのだろう。

 けれど、その顔にはまだ緊張が残っていた。

「必要なら、フォーマットだけ昨日のものを共有します」

「あ、それ助かる」

「あとで送ります」

「ありがとう」

 会話はそれで終わった。

 誰も怒らなかった。

 誰も責めなかった。

 市民課はまた通常の空気に戻っていく。

 佐伯はパソコン画面へ視線を戻した。

 助けに行く必要はなかった。

 彼女は今、自分で言った。

 それを横から褒めることも、今はしないほうがいい。

 褒められるために断ったのではない。

 自分の業務量を見て、必要な線を引いただけだ。

 その線を、特別なものにしすぎないほうがいい。

 午前中、佐伯は福祉課の相談対応を終えたあと、共有資料を確認した。

 昨日の窓口改善に関する根拠資料だった。市民課と福祉課の動線、相談内容の分類、過去三か月の窓口混雑時間帯。

 藤野が午後のヒアリング準備で使うはずの資料だ。

 佐伯は必要な部分に付箋を貼り、コピーを取った。

 昼前、市民課の藤野の机へ向かう。

 藤野は来庁者対応を終えたばかりで、椅子に戻るところだった。

「藤野さん」

「はい」

 少し驚いた顔で見上げる。

 佐伯は資料を机の端に置いた。

「窓口改善の件です。必要なら、根拠資料はあります」

 藤野は資料を見た。

 過去の混雑記録、動線図、福祉課側の相談振り分け基準。

 それが何のために置かれたのか、藤野はすぐに理解したようだった。

「ありがとうございます」

「はい」

 佐伯はそれ以上言わなかった。

 よく言えましたね、とも、断れてよかったですね、とも言わない。

 藤野の目が少しだけ揺れる。

 そのあと、口元が小さく緩んだ。

「資料、使わせていただきます」

「必要な箇所だけで」

「はい」

 それだけの会話だった。

 佐伯が福祉課へ戻ろうとしたとき、藤野が少しだけ声を足した。

「佐伯さん」

「はい」

「さっきの、聞こえていましたか」

 斎藤への返答のことだとわかった。

 佐伯は一拍置いた。

「聞こえました」

「……変でしたか」

「いいえ」

「ちょっと、声が硬かった気がします」

「初回なら、十分だと思います」

 藤野が瞬きをした。

 佐伯は余計なことを言ったかもしれないと思った。

 けれど藤野は、困ったように、少しだけ笑った。

「初回」

「はい」

「次がある前提なんですね」

「必要なら」

 藤野は今度こそ、少し笑った。

「わかりました」

 その笑顔を見て、佐伯は胸の奥がわずかに緩むのを感じた。

 けれどそれを顔に出すことはできず、いつものように軽く頷いて席へ戻った。

 昼休み、香澄は庁舎裏の小さな公園へ向かった。

 市役所の裏手には、古いベンチが三つ並んだ小さな公園がある。桜の季節は職員や近隣の人で少し賑わうが、今は葉桜の時期で、人はまばらだった。

 朝、弁当を持ってきていた。

 最近はなるべく昼を抜かないようにしている。佐伯に言われた「午後、判断が鈍ります」が、妙に頭から離れないせいでもあった。

 公園のベンチに座り、膝の上に弁当を広げる。

 今日はおにぎりと、卵焼きと、冷凍のほうれん草。少しだけ彩りが足りない。

 それでも、自分のために用意した昼食だった。

 弁当のふたを開けたとき、背後から低い声がした。

「ここ、空いていますか」

 振り返ると、佐伯が立っていた。

 手にはコンビニの袋。

 香澄は心臓が跳ねるのを感じた。

「佐伯さん」

「ほかが埋まっているので」

 公園を見る。

 たしかに、別のベンチには近所の高齢者が座っていて、もう一つには昼寝をしているらしい作業服の男性がいる。

 でも、佐伯が本当に「ほかが埋まっているから」ここに来たのかはわからない。

 香澄は少し横へずれた。

「どうぞ」

「失礼します」

 佐伯はベンチの端に座った。

 近すぎず、遠すぎない距離。

 休日出勤の傘の中を思い出して、香澄は慌てておにぎりを手に取った。

「佐伯さんも、外で食べるんですね」

「今日は庁舎内の休憩スペースが混んでいました」

「そうなんですね」

 会話はそこで途切れた。

 でも、気まずくはなかった。

 佐伯はコンビニ袋からおにぎりとお茶を取り出す。それから、当然のように小さなチョコレート菓子を出した。

 香澄は見てしまった。

 佐伯も気づいた。

「糖分です」

「まだ何も言ってません」

「言いそうだったので」

 香澄は笑った。

「今日は業務上ですか、私的ですか」

「昼休みなので、私的です」

「分類がしっかりしていますね」

「必要です」

「チョコレートの分類に?」

「はい」

 真面目な顔で答えるので、香澄はまた笑った。

 こういう人だったのか、と改めて思う。

 無愛想で、冷静で、余計なことを言わない。

 けれど、甘いものをきちんと持っていて、それを指摘されると少しだけ真面目に言い訳する。

 その小さなずれが、香澄には可愛く見えた。

 可愛い。

 そう思った瞬間、香澄はおにぎりを持つ手を止めた。

 佐伯律を可愛いと思った。

 その事実に、自分で動揺した。

「どうかしましたか」

「いえ、何でも」

 大丈夫です、と言いそうになってやめる。

 佐伯が少しだけこちらを見る。

 香澄はおにぎりを口に運んだ。

 そのとき、公園の植え込みの向こうから、一匹の猫が現れた。

 白と茶色のぶち猫だった。雨上がりの土の上を慎重に歩き、ベンチの近くまで来ると、ぴたりと足を止めた。

 佐伯が猫を見る。

 猫も佐伯を見る。

 数秒、無言の対峙が続いた。

 香澄はその様子を見て、笑いそうになる。

 佐伯は、おにぎりを置き、静かに言った。

「それは食べられません」

 香澄は目を丸くした。

「佐伯さん、猫に話しかけるんですか」

 佐伯はこちらを見ずに答える。

「見ていたので」

「見ていたら話しかけるんですか」

「誤解を防ぐためです」

「猫に?」

「はい」

 猫は佐伯の説明など聞いていないように、尻尾をゆっくり揺らした。

 佐伯はコンビニ袋を少し遠ざける。

「これは人間用です」

 香澄はとうとう笑ってしまった。

 佐伯がこちらを見る。

「何か」

「いえ。佐伯さん、猫にも説明が丁寧なんだなと思って」

「雑に説明しても伝わらないので」

「丁寧に説明しても、たぶん伝わっていません」

 佐伯は猫を見た。

 猫は興味を失ったのか、植え込みのほうへ歩いていく。

 佐伯は小さく言った。

「理解したようです」

「たぶん違います」

 香澄は笑いながら言った。

 こんなふうに笑うのは久しぶりだった。

 庁舎の中でも、コンビニでも、雨の中でも、佐伯の前では時々、思いがけず笑ってしまう。

 取り繕うための笑顔ではない。

 声を出して笑うほどではなくても、胸の奥から自然に浮かぶ笑い。

 佐伯はそれを特別なことのようには扱わない。

 ただ、少しだけ目元を緩める。

 そのわずかな変化を見るたび、香澄の心は小さく揺れた。

「藤野さん」

「はい」

「午前中の件」

 佐伯が唐突に言った。

 香澄は少し身構える。

「斎藤さんへの返答ですか」

「はい」

「やっぱり、聞こえてましたよね」

「聞こえました」

「……変じゃなかったですか」

「変ではありません」

 佐伯はお茶を置いた。

「ただ、次は理由を全部説明しなくてもいいと思います」

「え」

「今日はできません、だけでも成立します」

 香澄は少し困って笑った。

「それは難しいです」

「でしょうね」

「即答ですね」

「はい」

「でも、理由を言わないと、感じが悪い気がして」

「理由を言うこと自体は悪くありません。ただ、納得してもらうために必要以上に自分を削る必要はないと思います」

 香澄は手元の弁当を見る。

 必要以上に自分を削る。

 佐伯の言葉は、いつも少し硬い。

 でも、硬いからこそ、香澄が曖昧にしてきたものに形を与える。

「少しずつ、ですね」

 香澄が言うと、佐伯は頷いた。

「はい」

「佐伯さんは、待つのが上手ですね」

 言ってから、香澄は自分の言葉に少し驚いた。

 佐伯も一瞬、黙った。

「そうでもありません」

「そうですか?」

「待つしかできないことが多いだけです」

 その声には、ほんの少しだけ影があった。

 香澄は聞き返そうとして、やめた。

 佐伯が自分から話すなら聞く。

 話さないなら、無理に聞かない。

 自分がそうしてもらっているように。

 昼休みが終わるころ、佐伯はチョコレートを一つ、香澄のほうへ差し出した。

「糖分です」

「私にも?」

「午後、判断が鈍ると困るので」

 香澄は笑って受け取った。

「ありがとうございます」

「はい」

 小さなチョコレートを手のひらに乗せる。

 それだけで、午後が少しだけ怖くなくなる気がした。

 午後三時を過ぎたころ、水野が市民課へ来た。

 窓口改善の件で、係長に確認する用件があったらしい。けれど係長は別の会議中で不在だった。

「藤野、少しだけいい?」

 水野は香澄の机の横に立った。

 香澄はパソコン画面から顔を上げる。

「係長は会議中です」

「うん、それは聞いた。藤野に確認したいことがあって」

「業務の件ですか」

「そう。半分は」

 半分。

 その言い方に、香澄の胸がざわついた。

 水野は相変わらず人当たりのいい笑みを浮かべている。周囲から見れば、昔からの知り合いに気軽に話しかけているだけに見えるだろう。

「この前の動線資料、藤野が作ったんだよね。見やすかった」

「ありがとうございます」

「やっぱり、藤野は丁寧だよな。昔からそういうところ、安心できた」

 安心。

 その言葉が、重たく聞こえた。

 水野は資料を机に置きながら、声を少し落とした。

「この前は、急に昔の話して悪かった」

 香澄は手元を見る。

「いえ」

「懐かしくなってさ。あの頃、いろいろあったなって」

 いろいろ。

 香澄にとっては、そんな曖昧な言葉でくくれるものではなかった。

 でも、言葉は出てこない。

「今なら、うまくやれる気がするんだよね」

 水野が言った。

 香澄は顔を上げた。

「え?」

「いや、仕事のこともそうだけど」

 水野は少し笑った。

「昔のことも含めて。あの頃は俺も余裕なかったし、藤野も何考えてるかわからなかったけど。今なら、お互い大人になったしさ」

 胃の奥が、冷たくなる。

 揺れる、という感覚ではなかった。

 懐かしさでも、未練でもない。

 ただ、気持ちが悪かった。

 水野の言葉は柔らかい。

 責めているようには聞こえない。

 でも、その柔らかさの中で、香澄はまた同じ場所へ戻されている。

 君は何を考えているかわからなかった。

 でも今なら、俺はうまくやれる。

 まるで、香澄が変われば、過去は修復できると言われているようだった。

「水野さん」

 名前を呼んだ。

 けれど、その先が続かなかった。

 やめてください。

 そう言えばいい。

 昔のことをそんなふうに言わないでください。

 私には、戻る気はありません。

 言えばいい。

 けれど、水野の顔を見ると、喉が固まる。

 水野は悪気があるようには見えない。

 だからこそ、自分だけが過剰に反応している気がしてしまう。

「藤野?」

 水野が少し首を傾げる。

「どうした?」

 その声が優しいのも、嫌だった。

 香澄は手元の資料を握った。

 そのとき、低い声が横から入った。

「失礼します」

 佐伯だった。

 福祉課から市民課へ向かって歩いてきたらしい。手には茶封筒を持っている。

 水野が笑顔を向ける。

「ああ、佐伯さん。どうしました?」

「市民課へ共有する資料を持ってきました」

「そうですか。今、藤野さんと少し話していて」

 水野の声は自然だった。

 香澄は、佐伯が何か言ってくれると思った。

 水野の言葉を止めてくれるのではないか。

 今は業務中です、と淡々と線を引いてくれるのではないか。

 けれど佐伯は、水野ではなく香澄を見た。

「藤野さん」

 香澄の心臓が跳ねる。

「藤野さんが答えるまで、待ちます」

 水野が少し眉を上げた。

「答える?」

 佐伯は水野に視線を移した。

「今、藤野さんに何か確認されていたようでしたので」

「いや、そんな大げさなことじゃ」

「大げさかどうかは、藤野さんが決めることです」

 声は静かだった。

 でも、線ははっきり引かれていた。

 佐伯は代わりに答えない。

 水野を責めない。

 香澄を隠さない。

 ただ、香澄が言う場所を作る。

 藤野さんが答えるまで、待ちます。

 その言葉に、香澄は手の震えを感じた。

 怖い。

 でも、今ここで黙ったら、また同じになる。

 水野の言葉がそのまま残る。

 香澄はゆっくり息を吸った。

 水野を見る。

 爽やかな顔。

 悪気のなさそうな目。

 三年前と同じように、香澄の沈黙を自分の都合のいい形に受け取ろうとしている人。

「……今は」

 声がかすれた。

 水野が香澄を見る。

 佐伯も黙って待っている。

 香澄はもう一度息を吸った。

「今は、答えたくありません」

 言えた。

 たったそれだけの一文。

 でも、香澄の中では、何かが大きく動いた。

 水野は少し驚いた顔をした。

「藤野?」

「業務の件でしたら、係長が戻ってからお願いします」

 声はまだ震えていた。

 けれど、途切れなかった。

「昔の話は、今は答えたくありません」

 水野はしばらく黙っていた。

 それから、少し困ったように笑った。

「ああ……そっか。ごめん。急に変なこと言ったな」

 香澄は何も返さなかった。

 謝られたから許さなければならないわけではない。

 そう思えた。

 水野は資料を手に取り、軽く頷いた。

「じゃあ、係長が戻ったらまた来るよ」

 そう言って、市民課を離れていく。

 水野の背中が遠ざかるまで、香澄は息を止めていた。

 完全に見えなくなってから、ようやく肩の力が抜ける。

 足元が少しふらつきそうになった。

「藤野さん」

 佐伯の声がした。

 香澄は佐伯を見る。

 佐伯は、やはり褒めなかった。

 よく言えましたとも、大丈夫ですかとも言わない。

 ただ、持っていた茶封筒を机に置いた。

「資料です」

 香澄はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。

 こんなときまで、佐伯は佐伯だ。

「ありがとうございます」

「はい」

 佐伯は一度だけ頷き、福祉課へ戻ろうとした。

 けれど、香澄は思わず呼び止めた。

「佐伯さん」

「はい」

「待っていてくれて、ありがとうございました」

 佐伯は振り返った。

 ほんの少しだけ、目元がやわらいだ気がした。

「藤野さんが答えました」

「はい」

「それで十分です」

 そう言って、佐伯は今度こそ歩き出した。

 香澄は机に置かれた封筒に手を置いた。

 まだ指先は震えている。

 でも、胸の奥には、これまでとは違う熱があった。

 今は、答えたくありません。

 小さな言葉。

 けれど香澄にとっては、三年前から閉じ込めていた自分を、少しだけ外へ出す言葉だった。

 佐伯は、隣に立ってくれた。

 前に出るのでもなく、代わりに言うのでもなく。

 香澄が自分の言葉を出すまで、ただ隣で待ってくれた。

 それが、こんなにも心強いことを、香澄は初めて知った。
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