となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第8話 噂より近い距離
噂というものは、いつも本人たちより先に歩き出す。
香澄がそれを実感したのは、水野に「今は、答えたくありません」と言った翌日のことだった。
朝、市民課のカウンターに申請書を並べていると、莉子が妙にそわそわしながら近づいてきた。
「藤野さん」
「おはよう。どうしたの?」
「昨日、佐伯さんが来てましたよね」
香澄の手が一瞬だけ止まる。
昨日のこと。
水野が香澄に昔の話を持ち出し、佐伯が横から「藤野さんが答えるまで、待ちます」と言ったこと。
あの場面を思い出すと、胸の奥がまだ少し熱くなる。
「うん。福祉課の資料を持ってきてくれたから」
「それだけですか?」
莉子の目が、きらりと光った。
香澄は嫌な予感がした。
「それだけって?」
「いえ、なんか……佐伯さん、藤野さんにだけ優しくないですか?」
近くで聞いていた斎藤が、コーヒーを片手に笑った。
「ああ、それ俺も思ってた」
「斎藤さんまで」
「だって佐伯だぞ。あの佐伯が、市民課までわざわざ資料持ってきて、藤野さんには付箋つきの根拠資料まで渡してるんだろ?」
「業務上、必要だからです」
香澄はすぐに言った。
自分でも、返事が早すぎると思った。
莉子がにやりとする。
「でも、佐伯さんって他の人にはあんまりそういうことしないですよね」
「そうかな」
「そうですよ。福祉課の子が言ってましたもん。佐伯さん、基本的に必要最低限しか話さないって。でも藤野さんには、ちゃんと見てる感じがするって」
ちゃんと見てる。
その言葉に、香澄の胸が小さく鳴った。
佐伯はたしかに見てくれる。
香澄が大丈夫ではない顔をしているとき。
昼を抜こうとしているとき。
誰かの仕事を抱え込みそうになるとき。
水野の前で言えなくなるとき。
見てくれる。
けれど、それを職場の人たちに面白がられるのは、違う気がした。
「佐伯さんに迷惑がかかるから、そういうふうに言わないで」
思ったより硬い声が出た。
莉子が、はっとした顔をする。
「あ、すみません。からかうつもりじゃなくて」
「ううん。ごめん。私も言い方がきつかった」
香澄は慌てて笑った。
斎藤が空気を変えるように肩をすくめる。
「まあ、佐伯は噂とか気にしなさそうだけどな」
「気にしなさそうだからって、言っていいわけじゃないです」
また、言葉が鋭くなった。
香澄はすぐに唇を結ぶ。
自分でも驚いた。
以前なら、こういう場面では笑って流していた。
「違いますよ」「何もないです」「偶然です」と、相手が気まずくならないように軽く否定して終わらせていた。
けれど今日は、佐伯を勝手に噂の中に置かれることが、思った以上に嫌だった。
佐伯が香澄にしてくれたことは、からかいの材料ではない。
香澄の沈黙を見つけてくれたことも。
隣で待ってくれたことも。
傘の中で少しだけ近づいたことも。
全部、簡単に名前をつけられたくなかった。
「ごめんね、莉子ちゃん」
香澄は声をやわらげた。
「怒ってるわけじゃないの。ただ、仕事のことで佐伯さんに助けてもらっている部分があるから、変な噂になると申し訳なくて」
「はい。私こそすみません」
莉子は素直に頭を下げた。
その後、窓口の業務が始まり、会話は自然に流れていった。
けれど香澄の中には、小さな棘のようなものが残った。
佐伯に迷惑をかけたくない。
その気持ちは本当だった。
でも、本当にそれだけだろうか。
噂になるのが怖いのは、佐伯のためだけなのか。
自分の気持ちに名前をつけられるのが怖いだけではないのか。
午前中、福祉課から佐伯が共有書類を持って市民課へ来た。
いつもなら、香澄は自然に顔を上げる。
けれど今日は、視線をパソコン画面へ落とした。
聞こえないふり。
気づかないふり。
佐伯が係長と短くやり取りをしている声が聞こえる。
その声に反応しそうになる自分を、香澄は押さえた。
見ない。
話さない。
必要以上に近づかない。
そうすれば、噂はすぐに薄れる。
佐伯に迷惑をかけずに済む。
そう自分に言い聞かせた。
昼休みも、香澄は庁舎裏の公園へ行かなかった。
いつもの休憩スペースで、莉子と一緒に弁当を食べた。
午後、共有プリンターで佐伯とすれ違いそうになったときも、少し遠回りして別のプリンターを使った。
あからさまだと自分でも思う。
でも、どうすれば自然に距離を取れるのかわからなかった。
その日の夕方。
閉庁後、香澄が書類を整理していると、机の端に一枚の資料が置かれた。
顔を上げると、佐伯が立っていた。
「窓口改善の追加資料です」
「あ……ありがとうございます」
香澄は資料を受け取った。
視線を合わせないように、紙面に目を落とす。
佐伯はすぐには去らなかった。
「藤野さん」
「はい」
「避けていますか」
まっすぐだった。
香澄は指先に力を入れた。
佐伯はいつも、曖昧な場所を曖昧なままにしてくれない。
「……そんなつもりでは」
言いかけて、止まった。
嘘だ。
避けている。
佐伯がそう見えているなら、たぶん間違いない。
香澄はゆっくり息を吸った。
「避けているように見えたなら、すみません」
「理由を聞いてもいいですか」
責める声ではない。
でも、いつもより少し硬かった。
「佐伯さんに迷惑をかけたくなくて」
香澄は小さく言った。
「職場で、変に言われたら困ると思って」
「私が?」
「はい」
「私は困っていると言いましたか」
香澄は顔を上げた。
佐伯の目が、いつもより少しだけ強い。
「言っていませんけど」
「では、なぜ藤野さんが決めるんですか」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
佐伯の声は低かった。
怒鳴っているわけではない。
でも、確かに感情があった。
「迷惑かどうかは、俺が決めます」
香澄は息を止めた。
俺。
佐伯が職場で自分をそう呼ぶのを、初めて聞いた気がした。
いつもの「私」ではなく。
少しだけ素の声。
それだけで、胸の奥が大きく揺れた。
「でも、私のせいで佐伯さんが何か言われたら」
「言われたとしても、私の問題です」
「そういうわけには」
「そういうわけにしてください」
佐伯が言った。
その言葉は、静かだけれど譲らなかった。
「藤野さんが気にしていることはわかります。ですが、私に迷惑をかけたくないという理由で、勝手に距離を取られるのは困ります」
困ります。
その言葉が、香澄の胸に落ちた。
迷惑ではなく、困る。
佐伯は、香澄が離れることを「困る」と言った。
その意味を考えた瞬間、顔が熱くなりそうで、香澄は資料へ視線を落とした。
「すみません」
謝ると、佐伯は小さく息を吐いた。
「謝ってほしいわけではありません」
「……はい」
「距離を取るなら、藤野さんがそうしたいから取ってください。私に迷惑だから、ではなく」
香澄は何も言えなかった。
そうしたいから。
自分は本当に、佐伯から距離を取りたいのだろうか。
答えは、もう出ている気がした。
取りたくない。
むしろ、近づきたい。
でも、それが怖い。
「少し、考えます」
香澄はやっと言った。
佐伯は頷いた。
「はい」
そして、いつものようにそれ以上踏み込まず、福祉課へ戻っていった。
その夜、香澄が自宅で夕食の片づけをしていると、母から電話があった。
画面に表示された名前を見て、少しだけ迷う。
けれど無視する理由も見つからず、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
その言葉に、香澄は一瞬だけ苦笑しそうになった。
大丈夫。
どこにでも出てくる言葉だ。
「うん。今なら話せるよ」
『この前、叔母さんから聞いたんだけどね』
母の声は、どこか弾んでいた。
『水野さん、本庁に戻ってきたんですって?』
香澄の手が止まった。
「誰から聞いたの?」
『叔母さんの知り合いが市役所にいるでしょう。たまたま聞いたみたい。懐かしいわねえ、水野さん。お元気なの?』
「元気そうだよ」
『そう。よかったじゃない』
「よかった?」
『だって、あの人、いい方だったじゃない。安定したお勤めで、人当たりもよくて。あのときは残念だったけど、またご縁があるなら』
「お母さん」
香澄は少し強く遮った。
母は一瞬黙った。
『何?』
「そういう話じゃないから」
『でも、同じ職場になったんでしょう? 昔のことがあっても、時間が経てば見え方も変わるものよ』
時間が経てば。
香澄は唇を結んだ。
母は悪気がない。
心配しているだけ。
娘の将来を案じているだけ。
安定した相手と結婚して、世間的に安心できる形になってほしいだけ。
それはわかっている。
わかっているから、苦しい。
『お母さんね、別に無理にとは言わないのよ。ただ、香澄ももう三十四でしょう。これから先、ひとりでいるのも大変だし。水野さんならご家族もちゃんとしていたし、仕事も安定しているし』
「そういう問題じゃないの」
『じゃあ、どういう問題なの?』
母の声に、少しだけ苛立ちが混じった。
『あなた、昔から大事なことを話してくれないじゃない。あのときだって、何があったのかちゃんと言わなかったでしょう。お母さんには、何が悪かったのかわからないのよ』
水野と同じだ、と思った。
何を考えているのかわからない。
大事なことを言わない。
香澄の沈黙だけが、いつも問題になる。
言えなくなった理由を、誰も聞かないまま。
「……ごめん」
また、謝っていた。
言いたいことはあった。
水野とは戻る気がないこと。
あの頃、自分は傷ついていたこと。
安定や世間体だけで、過去の相手を勧めないでほしいこと。
でも、言葉が喉の奥で固まった。
『責めてるわけじゃないのよ。ただ、あなたが心配なの』
「うん」
『水野さんと普通に話せるなら、少し考えてみてもいいんじゃない?』
「……考えておく」
言ってしまった。
考えるつもりなんてないのに。
母を安心させるためだけの言葉。
電話を切ったあと、部屋の静けさが重く落ちた。
香澄はシンクの前に立ったまま、蛇口から落ちる水滴を見つめた。
また黙った。
また、違うと言えなかった。
今日、佐伯には「考えます」と言った。
母にも「考えておく」と言った。
考える、という言葉は便利だ。
答えを先延ばしにできる。
でも、先延ばしにした言葉は、いつか自分の中で重くなる。
香澄はスマートフォンを見た。
佐伯からの連絡は、もちろんない。
そもそも、業務以外で連絡を取るような関係ではない。
それなのに、今日の「迷惑かどうかは、俺が決めます」という声が耳から離れない。
翌日、香澄は佐伯といつも通りに接しようとした。
避けない。
不自然に距離を取らない。
そう決めて出勤した。
けれど、決めたからといって簡単にできるわけではない。
共有プリンターで顔を合わせると、胸が落ち着かなくなる。
福祉課から資料を受け取るとき、手元を意識してしまう。
昼休み、公園に行くか迷って、結局行けなかった。
母の電話のこともあり、香澄の中は乱れていた。
夕方、少し残業になった帰り道。
庁舎を出たところで、佐伯と一緒になった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
いつもの挨拶。
でも、昨日の会話のせいで、少しだけ空気が違う。
駅までの道は同じ方向だった。
香澄は迷ったが、今日は逃げずに歩き出した。
佐伯も隣に並ぶ。
夜の道には、湿った風が吹いていた。
会話はなかった。
でも、沈黙が重いわけではない。
香澄はしばらく歩いてから、ぽつりと聞いた。
「佐伯さんは」
「はい」
「どうして、そこまで気づくんですか」
佐伯が少しだけこちらを見る。
香澄は前を向いたまま続けた。
「私が大丈夫じゃないときとか、言えなくなっているときとか。どうしてわかるんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
信号が赤に変わり、二人は横断歩道の手前で立ち止まった。
車のライトが雨上がりの路面に反射している。
佐伯は少し迷うように視線を落とした。
その沈黙が、いつもより長く感じた。
「気づきたいと思って見ているからです」
香澄の胸が、強く鳴った。
信号の音も、車の音も、一瞬遠くなる。
気づきたいと思って。
見ている。
それは、ほとんど告白のように聞こえた。
けれど佐伯の声は静かで、いつものように余計な飾りはなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「それは」
香澄は口を開いたが、続きが出てこない。
佐伯もそれ以上言わなかった。
信号が青に変わる。
二人は歩き出す。
香澄は自分の足元を見つめた。
嬉しい。
そう思った。
見られていることが怖かったはずなのに。
気づかれることが怖かったはずなのに。
佐伯にそう言われて、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。
でも、同時に怖かった。
好かれることより、失うことのほうが怖い。
また、近づいたあとに「何を考えているかわからない」と言われたら。
また、自分の沈黙が誰かを困らせたら。
また、話したいと思った相手を失ったら。
その痛みに耐えられる自信がなかった。
駅前で別れるとき、佐伯はいつものように言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
香澄はそれだけ返した。
本当は、何か言うべきだったのかもしれない。
気づきたいと思って見ているから。
その言葉に対して、何か。
でも、言えなかった。
改札を抜けてからも、胸は落ち着かなかった。
帰宅して、夕食を作る気にもなれず、冷蔵庫の残り物を温める。
味はよくわからなかった。
夜十時過ぎ、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、佐伯からのメッセージだった。
業務用の連絡先は、窓口改善の資料共有のために交換していた。個人的なやり取りはほとんどない。
香澄は心臓が跳ねるのを感じながら、画面を開いた。
『本日の追加資料、明日共有します』
業務連絡だった。
ほっとしたような、少し残念なような気持ちになる。
香澄は返信欄を開いた。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
そう打って、指が止まる。
それだけでいい。
業務連絡なのだから。
でも、今日の帰り道のことが頭から離れない。
気づきたいと思って見ているからです。
香澄は何かを書き足そうとして、消した。
また打って、消した。
結局、返信できないまま画面を閉じた。
怖い。
たった一通の返信が、何かを進めてしまう気がした。
進めたいのに。
進めたら戻れなくなる気がする。
そのまま十分、二十分と時間が過ぎた。
スマートフォンは静かなままだった。
十一時前、もう一度画面が光った。
佐伯からだった。
短いメッセージ。
『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』
香澄は画面を見つめた。
息ができなくなるほど、胸が詰まった。
何を、とは書いていない。
今日の資料のことではないと、すぐにわかった。
帰り道のこと。
佐伯の言葉。
香澄が返せなかったこと。
その全部を、佐伯は急かさない。
でも、なかったことにはしない。
香澄はスマートフォンを両手で持った。
涙は出なかった。
でも、胸の奥が痛いほど揺れていた。
佐伯はいつもそうだ。
香澄が言えるまで待つ。
でも、香澄の沈黙を、なかったことにはしない。
香澄は返信欄を開いた。
何度も迷って、たった一文だけ打った。
『ありがとうございます。少し、時間をください』
送信する。
すぐに既読がついた。
返事は、少ししてから来た。
『はい』
それだけ。
たった二文字。
でも香澄には、その短さが佐伯らしくて、どうしようもなく胸に残った。
急がなくていい。
でも、逃げなくていい。
その両方を渡された気がした。
香澄はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。
噂より近い距離に、もう自分は立っている。
けれど、その近さを認めるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。
香澄がそれを実感したのは、水野に「今は、答えたくありません」と言った翌日のことだった。
朝、市民課のカウンターに申請書を並べていると、莉子が妙にそわそわしながら近づいてきた。
「藤野さん」
「おはよう。どうしたの?」
「昨日、佐伯さんが来てましたよね」
香澄の手が一瞬だけ止まる。
昨日のこと。
水野が香澄に昔の話を持ち出し、佐伯が横から「藤野さんが答えるまで、待ちます」と言ったこと。
あの場面を思い出すと、胸の奥がまだ少し熱くなる。
「うん。福祉課の資料を持ってきてくれたから」
「それだけですか?」
莉子の目が、きらりと光った。
香澄は嫌な予感がした。
「それだけって?」
「いえ、なんか……佐伯さん、藤野さんにだけ優しくないですか?」
近くで聞いていた斎藤が、コーヒーを片手に笑った。
「ああ、それ俺も思ってた」
「斎藤さんまで」
「だって佐伯だぞ。あの佐伯が、市民課までわざわざ資料持ってきて、藤野さんには付箋つきの根拠資料まで渡してるんだろ?」
「業務上、必要だからです」
香澄はすぐに言った。
自分でも、返事が早すぎると思った。
莉子がにやりとする。
「でも、佐伯さんって他の人にはあんまりそういうことしないですよね」
「そうかな」
「そうですよ。福祉課の子が言ってましたもん。佐伯さん、基本的に必要最低限しか話さないって。でも藤野さんには、ちゃんと見てる感じがするって」
ちゃんと見てる。
その言葉に、香澄の胸が小さく鳴った。
佐伯はたしかに見てくれる。
香澄が大丈夫ではない顔をしているとき。
昼を抜こうとしているとき。
誰かの仕事を抱え込みそうになるとき。
水野の前で言えなくなるとき。
見てくれる。
けれど、それを職場の人たちに面白がられるのは、違う気がした。
「佐伯さんに迷惑がかかるから、そういうふうに言わないで」
思ったより硬い声が出た。
莉子が、はっとした顔をする。
「あ、すみません。からかうつもりじゃなくて」
「ううん。ごめん。私も言い方がきつかった」
香澄は慌てて笑った。
斎藤が空気を変えるように肩をすくめる。
「まあ、佐伯は噂とか気にしなさそうだけどな」
「気にしなさそうだからって、言っていいわけじゃないです」
また、言葉が鋭くなった。
香澄はすぐに唇を結ぶ。
自分でも驚いた。
以前なら、こういう場面では笑って流していた。
「違いますよ」「何もないです」「偶然です」と、相手が気まずくならないように軽く否定して終わらせていた。
けれど今日は、佐伯を勝手に噂の中に置かれることが、思った以上に嫌だった。
佐伯が香澄にしてくれたことは、からかいの材料ではない。
香澄の沈黙を見つけてくれたことも。
隣で待ってくれたことも。
傘の中で少しだけ近づいたことも。
全部、簡単に名前をつけられたくなかった。
「ごめんね、莉子ちゃん」
香澄は声をやわらげた。
「怒ってるわけじゃないの。ただ、仕事のことで佐伯さんに助けてもらっている部分があるから、変な噂になると申し訳なくて」
「はい。私こそすみません」
莉子は素直に頭を下げた。
その後、窓口の業務が始まり、会話は自然に流れていった。
けれど香澄の中には、小さな棘のようなものが残った。
佐伯に迷惑をかけたくない。
その気持ちは本当だった。
でも、本当にそれだけだろうか。
噂になるのが怖いのは、佐伯のためだけなのか。
自分の気持ちに名前をつけられるのが怖いだけではないのか。
午前中、福祉課から佐伯が共有書類を持って市民課へ来た。
いつもなら、香澄は自然に顔を上げる。
けれど今日は、視線をパソコン画面へ落とした。
聞こえないふり。
気づかないふり。
佐伯が係長と短くやり取りをしている声が聞こえる。
その声に反応しそうになる自分を、香澄は押さえた。
見ない。
話さない。
必要以上に近づかない。
そうすれば、噂はすぐに薄れる。
佐伯に迷惑をかけずに済む。
そう自分に言い聞かせた。
昼休みも、香澄は庁舎裏の公園へ行かなかった。
いつもの休憩スペースで、莉子と一緒に弁当を食べた。
午後、共有プリンターで佐伯とすれ違いそうになったときも、少し遠回りして別のプリンターを使った。
あからさまだと自分でも思う。
でも、どうすれば自然に距離を取れるのかわからなかった。
その日の夕方。
閉庁後、香澄が書類を整理していると、机の端に一枚の資料が置かれた。
顔を上げると、佐伯が立っていた。
「窓口改善の追加資料です」
「あ……ありがとうございます」
香澄は資料を受け取った。
視線を合わせないように、紙面に目を落とす。
佐伯はすぐには去らなかった。
「藤野さん」
「はい」
「避けていますか」
まっすぐだった。
香澄は指先に力を入れた。
佐伯はいつも、曖昧な場所を曖昧なままにしてくれない。
「……そんなつもりでは」
言いかけて、止まった。
嘘だ。
避けている。
佐伯がそう見えているなら、たぶん間違いない。
香澄はゆっくり息を吸った。
「避けているように見えたなら、すみません」
「理由を聞いてもいいですか」
責める声ではない。
でも、いつもより少し硬かった。
「佐伯さんに迷惑をかけたくなくて」
香澄は小さく言った。
「職場で、変に言われたら困ると思って」
「私が?」
「はい」
「私は困っていると言いましたか」
香澄は顔を上げた。
佐伯の目が、いつもより少しだけ強い。
「言っていませんけど」
「では、なぜ藤野さんが決めるんですか」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
佐伯の声は低かった。
怒鳴っているわけではない。
でも、確かに感情があった。
「迷惑かどうかは、俺が決めます」
香澄は息を止めた。
俺。
佐伯が職場で自分をそう呼ぶのを、初めて聞いた気がした。
いつもの「私」ではなく。
少しだけ素の声。
それだけで、胸の奥が大きく揺れた。
「でも、私のせいで佐伯さんが何か言われたら」
「言われたとしても、私の問題です」
「そういうわけには」
「そういうわけにしてください」
佐伯が言った。
その言葉は、静かだけれど譲らなかった。
「藤野さんが気にしていることはわかります。ですが、私に迷惑をかけたくないという理由で、勝手に距離を取られるのは困ります」
困ります。
その言葉が、香澄の胸に落ちた。
迷惑ではなく、困る。
佐伯は、香澄が離れることを「困る」と言った。
その意味を考えた瞬間、顔が熱くなりそうで、香澄は資料へ視線を落とした。
「すみません」
謝ると、佐伯は小さく息を吐いた。
「謝ってほしいわけではありません」
「……はい」
「距離を取るなら、藤野さんがそうしたいから取ってください。私に迷惑だから、ではなく」
香澄は何も言えなかった。
そうしたいから。
自分は本当に、佐伯から距離を取りたいのだろうか。
答えは、もう出ている気がした。
取りたくない。
むしろ、近づきたい。
でも、それが怖い。
「少し、考えます」
香澄はやっと言った。
佐伯は頷いた。
「はい」
そして、いつものようにそれ以上踏み込まず、福祉課へ戻っていった。
その夜、香澄が自宅で夕食の片づけをしていると、母から電話があった。
画面に表示された名前を見て、少しだけ迷う。
けれど無視する理由も見つからず、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
その言葉に、香澄は一瞬だけ苦笑しそうになった。
大丈夫。
どこにでも出てくる言葉だ。
「うん。今なら話せるよ」
『この前、叔母さんから聞いたんだけどね』
母の声は、どこか弾んでいた。
『水野さん、本庁に戻ってきたんですって?』
香澄の手が止まった。
「誰から聞いたの?」
『叔母さんの知り合いが市役所にいるでしょう。たまたま聞いたみたい。懐かしいわねえ、水野さん。お元気なの?』
「元気そうだよ」
『そう。よかったじゃない』
「よかった?」
『だって、あの人、いい方だったじゃない。安定したお勤めで、人当たりもよくて。あのときは残念だったけど、またご縁があるなら』
「お母さん」
香澄は少し強く遮った。
母は一瞬黙った。
『何?』
「そういう話じゃないから」
『でも、同じ職場になったんでしょう? 昔のことがあっても、時間が経てば見え方も変わるものよ』
時間が経てば。
香澄は唇を結んだ。
母は悪気がない。
心配しているだけ。
娘の将来を案じているだけ。
安定した相手と結婚して、世間的に安心できる形になってほしいだけ。
それはわかっている。
わかっているから、苦しい。
『お母さんね、別に無理にとは言わないのよ。ただ、香澄ももう三十四でしょう。これから先、ひとりでいるのも大変だし。水野さんならご家族もちゃんとしていたし、仕事も安定しているし』
「そういう問題じゃないの」
『じゃあ、どういう問題なの?』
母の声に、少しだけ苛立ちが混じった。
『あなた、昔から大事なことを話してくれないじゃない。あのときだって、何があったのかちゃんと言わなかったでしょう。お母さんには、何が悪かったのかわからないのよ』
水野と同じだ、と思った。
何を考えているのかわからない。
大事なことを言わない。
香澄の沈黙だけが、いつも問題になる。
言えなくなった理由を、誰も聞かないまま。
「……ごめん」
また、謝っていた。
言いたいことはあった。
水野とは戻る気がないこと。
あの頃、自分は傷ついていたこと。
安定や世間体だけで、過去の相手を勧めないでほしいこと。
でも、言葉が喉の奥で固まった。
『責めてるわけじゃないのよ。ただ、あなたが心配なの』
「うん」
『水野さんと普通に話せるなら、少し考えてみてもいいんじゃない?』
「……考えておく」
言ってしまった。
考えるつもりなんてないのに。
母を安心させるためだけの言葉。
電話を切ったあと、部屋の静けさが重く落ちた。
香澄はシンクの前に立ったまま、蛇口から落ちる水滴を見つめた。
また黙った。
また、違うと言えなかった。
今日、佐伯には「考えます」と言った。
母にも「考えておく」と言った。
考える、という言葉は便利だ。
答えを先延ばしにできる。
でも、先延ばしにした言葉は、いつか自分の中で重くなる。
香澄はスマートフォンを見た。
佐伯からの連絡は、もちろんない。
そもそも、業務以外で連絡を取るような関係ではない。
それなのに、今日の「迷惑かどうかは、俺が決めます」という声が耳から離れない。
翌日、香澄は佐伯といつも通りに接しようとした。
避けない。
不自然に距離を取らない。
そう決めて出勤した。
けれど、決めたからといって簡単にできるわけではない。
共有プリンターで顔を合わせると、胸が落ち着かなくなる。
福祉課から資料を受け取るとき、手元を意識してしまう。
昼休み、公園に行くか迷って、結局行けなかった。
母の電話のこともあり、香澄の中は乱れていた。
夕方、少し残業になった帰り道。
庁舎を出たところで、佐伯と一緒になった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
いつもの挨拶。
でも、昨日の会話のせいで、少しだけ空気が違う。
駅までの道は同じ方向だった。
香澄は迷ったが、今日は逃げずに歩き出した。
佐伯も隣に並ぶ。
夜の道には、湿った風が吹いていた。
会話はなかった。
でも、沈黙が重いわけではない。
香澄はしばらく歩いてから、ぽつりと聞いた。
「佐伯さんは」
「はい」
「どうして、そこまで気づくんですか」
佐伯が少しだけこちらを見る。
香澄は前を向いたまま続けた。
「私が大丈夫じゃないときとか、言えなくなっているときとか。どうしてわかるんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
信号が赤に変わり、二人は横断歩道の手前で立ち止まった。
車のライトが雨上がりの路面に反射している。
佐伯は少し迷うように視線を落とした。
その沈黙が、いつもより長く感じた。
「気づきたいと思って見ているからです」
香澄の胸が、強く鳴った。
信号の音も、車の音も、一瞬遠くなる。
気づきたいと思って。
見ている。
それは、ほとんど告白のように聞こえた。
けれど佐伯の声は静かで、いつものように余計な飾りはなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「それは」
香澄は口を開いたが、続きが出てこない。
佐伯もそれ以上言わなかった。
信号が青に変わる。
二人は歩き出す。
香澄は自分の足元を見つめた。
嬉しい。
そう思った。
見られていることが怖かったはずなのに。
気づかれることが怖かったはずなのに。
佐伯にそう言われて、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。
でも、同時に怖かった。
好かれることより、失うことのほうが怖い。
また、近づいたあとに「何を考えているかわからない」と言われたら。
また、自分の沈黙が誰かを困らせたら。
また、話したいと思った相手を失ったら。
その痛みに耐えられる自信がなかった。
駅前で別れるとき、佐伯はいつものように言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
香澄はそれだけ返した。
本当は、何か言うべきだったのかもしれない。
気づきたいと思って見ているから。
その言葉に対して、何か。
でも、言えなかった。
改札を抜けてからも、胸は落ち着かなかった。
帰宅して、夕食を作る気にもなれず、冷蔵庫の残り物を温める。
味はよくわからなかった。
夜十時過ぎ、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、佐伯からのメッセージだった。
業務用の連絡先は、窓口改善の資料共有のために交換していた。個人的なやり取りはほとんどない。
香澄は心臓が跳ねるのを感じながら、画面を開いた。
『本日の追加資料、明日共有します』
業務連絡だった。
ほっとしたような、少し残念なような気持ちになる。
香澄は返信欄を開いた。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
そう打って、指が止まる。
それだけでいい。
業務連絡なのだから。
でも、今日の帰り道のことが頭から離れない。
気づきたいと思って見ているからです。
香澄は何かを書き足そうとして、消した。
また打って、消した。
結局、返信できないまま画面を閉じた。
怖い。
たった一通の返信が、何かを進めてしまう気がした。
進めたいのに。
進めたら戻れなくなる気がする。
そのまま十分、二十分と時間が過ぎた。
スマートフォンは静かなままだった。
十一時前、もう一度画面が光った。
佐伯からだった。
短いメッセージ。
『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』
香澄は画面を見つめた。
息ができなくなるほど、胸が詰まった。
何を、とは書いていない。
今日の資料のことではないと、すぐにわかった。
帰り道のこと。
佐伯の言葉。
香澄が返せなかったこと。
その全部を、佐伯は急かさない。
でも、なかったことにはしない。
香澄はスマートフォンを両手で持った。
涙は出なかった。
でも、胸の奥が痛いほど揺れていた。
佐伯はいつもそうだ。
香澄が言えるまで待つ。
でも、香澄の沈黙を、なかったことにはしない。
香澄は返信欄を開いた。
何度も迷って、たった一文だけ打った。
『ありがとうございます。少し、時間をください』
送信する。
すぐに既読がついた。
返事は、少ししてから来た。
『はい』
それだけ。
たった二文字。
でも香澄には、その短さが佐伯らしくて、どうしようもなく胸に残った。
急がなくていい。
でも、逃げなくていい。
その両方を渡された気がした。
香澄はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。
噂より近い距離に、もう自分は立っている。
けれど、その近さを認めるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。