となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第8話 噂より近い距離

 噂というものは、いつも本人たちより先に歩き出す。

 香澄がそれを実感したのは、水野に「今は、答えたくありません」と言った翌日のことだった。

 朝、市民課のカウンターに申請書を並べていると、莉子が妙にそわそわしながら近づいてきた。

「藤野さん」

「おはよう。どうしたの?」

「昨日、佐伯さんが来てましたよね」

 香澄の手が一瞬だけ止まる。

 昨日のこと。

 水野が香澄に昔の話を持ち出し、佐伯が横から「藤野さんが答えるまで、待ちます」と言ったこと。

 あの場面を思い出すと、胸の奥がまだ少し熱くなる。

「うん。福祉課の資料を持ってきてくれたから」

「それだけですか?」

 莉子の目が、きらりと光った。

 香澄は嫌な予感がした。

「それだけって?」

「いえ、なんか……佐伯さん、藤野さんにだけ優しくないですか?」

 近くで聞いていた斎藤が、コーヒーを片手に笑った。

「ああ、それ俺も思ってた」

「斎藤さんまで」

「だって佐伯だぞ。あの佐伯が、市民課までわざわざ資料持ってきて、藤野さんには付箋つきの根拠資料まで渡してるんだろ?」

「業務上、必要だからです」

 香澄はすぐに言った。

 自分でも、返事が早すぎると思った。

 莉子がにやりとする。

「でも、佐伯さんって他の人にはあんまりそういうことしないですよね」

「そうかな」

「そうですよ。福祉課の子が言ってましたもん。佐伯さん、基本的に必要最低限しか話さないって。でも藤野さんには、ちゃんと見てる感じがするって」

 ちゃんと見てる。

 その言葉に、香澄の胸が小さく鳴った。

 佐伯はたしかに見てくれる。

 香澄が大丈夫ではない顔をしているとき。

 昼を抜こうとしているとき。

 誰かの仕事を抱え込みそうになるとき。

 水野の前で言えなくなるとき。

 見てくれる。

 けれど、それを職場の人たちに面白がられるのは、違う気がした。

「佐伯さんに迷惑がかかるから、そういうふうに言わないで」

 思ったより硬い声が出た。

 莉子が、はっとした顔をする。

「あ、すみません。からかうつもりじゃなくて」

「ううん。ごめん。私も言い方がきつかった」

 香澄は慌てて笑った。

 斎藤が空気を変えるように肩をすくめる。

「まあ、佐伯は噂とか気にしなさそうだけどな」

「気にしなさそうだからって、言っていいわけじゃないです」

 また、言葉が鋭くなった。

 香澄はすぐに唇を結ぶ。

 自分でも驚いた。

 以前なら、こういう場面では笑って流していた。

 「違いますよ」「何もないです」「偶然です」と、相手が気まずくならないように軽く否定して終わらせていた。

 けれど今日は、佐伯を勝手に噂の中に置かれることが、思った以上に嫌だった。

 佐伯が香澄にしてくれたことは、からかいの材料ではない。

 香澄の沈黙を見つけてくれたことも。

 隣で待ってくれたことも。

 傘の中で少しだけ近づいたことも。

 全部、簡単に名前をつけられたくなかった。

「ごめんね、莉子ちゃん」

 香澄は声をやわらげた。

「怒ってるわけじゃないの。ただ、仕事のことで佐伯さんに助けてもらっている部分があるから、変な噂になると申し訳なくて」

「はい。私こそすみません」

 莉子は素直に頭を下げた。

 その後、窓口の業務が始まり、会話は自然に流れていった。

 けれど香澄の中には、小さな棘のようなものが残った。

 佐伯に迷惑をかけたくない。

 その気持ちは本当だった。

 でも、本当にそれだけだろうか。

 噂になるのが怖いのは、佐伯のためだけなのか。

 自分の気持ちに名前をつけられるのが怖いだけではないのか。

 午前中、福祉課から佐伯が共有書類を持って市民課へ来た。

 いつもなら、香澄は自然に顔を上げる。

 けれど今日は、視線をパソコン画面へ落とした。

 聞こえないふり。

 気づかないふり。

 佐伯が係長と短くやり取りをしている声が聞こえる。

 その声に反応しそうになる自分を、香澄は押さえた。

 見ない。

 話さない。

 必要以上に近づかない。

 そうすれば、噂はすぐに薄れる。

 佐伯に迷惑をかけずに済む。

 そう自分に言い聞かせた。

 昼休みも、香澄は庁舎裏の公園へ行かなかった。

 いつもの休憩スペースで、莉子と一緒に弁当を食べた。

 午後、共有プリンターで佐伯とすれ違いそうになったときも、少し遠回りして別のプリンターを使った。

 あからさまだと自分でも思う。

 でも、どうすれば自然に距離を取れるのかわからなかった。

 その日の夕方。

 閉庁後、香澄が書類を整理していると、机の端に一枚の資料が置かれた。

 顔を上げると、佐伯が立っていた。

「窓口改善の追加資料です」

「あ……ありがとうございます」

 香澄は資料を受け取った。

 視線を合わせないように、紙面に目を落とす。

 佐伯はすぐには去らなかった。

「藤野さん」

「はい」

「避けていますか」

 まっすぐだった。

 香澄は指先に力を入れた。

 佐伯はいつも、曖昧な場所を曖昧なままにしてくれない。

「……そんなつもりでは」

 言いかけて、止まった。

 嘘だ。

 避けている。

 佐伯がそう見えているなら、たぶん間違いない。

 香澄はゆっくり息を吸った。

「避けているように見えたなら、すみません」

「理由を聞いてもいいですか」

 責める声ではない。

 でも、いつもより少し硬かった。

「佐伯さんに迷惑をかけたくなくて」

 香澄は小さく言った。

「職場で、変に言われたら困ると思って」

「私が?」

「はい」

「私は困っていると言いましたか」

 香澄は顔を上げた。

 佐伯の目が、いつもより少しだけ強い。

「言っていませんけど」

「では、なぜ藤野さんが決めるんですか」

 胸が、ぎゅっと縮んだ。

 佐伯の声は低かった。

 怒鳴っているわけではない。

 でも、確かに感情があった。

「迷惑かどうかは、俺が決めます」

 香澄は息を止めた。

 俺。

 佐伯が職場で自分をそう呼ぶのを、初めて聞いた気がした。

 いつもの「私」ではなく。

 少しだけ素の声。

 それだけで、胸の奥が大きく揺れた。

「でも、私のせいで佐伯さんが何か言われたら」

「言われたとしても、私の問題です」

「そういうわけには」

「そういうわけにしてください」

 佐伯が言った。

 その言葉は、静かだけれど譲らなかった。

「藤野さんが気にしていることはわかります。ですが、私に迷惑をかけたくないという理由で、勝手に距離を取られるのは困ります」

 困ります。

 その言葉が、香澄の胸に落ちた。

 迷惑ではなく、困る。

 佐伯は、香澄が離れることを「困る」と言った。

 その意味を考えた瞬間、顔が熱くなりそうで、香澄は資料へ視線を落とした。

「すみません」

 謝ると、佐伯は小さく息を吐いた。

「謝ってほしいわけではありません」

「……はい」

「距離を取るなら、藤野さんがそうしたいから取ってください。私に迷惑だから、ではなく」

 香澄は何も言えなかった。

 そうしたいから。

 自分は本当に、佐伯から距離を取りたいのだろうか。

 答えは、もう出ている気がした。

 取りたくない。

 むしろ、近づきたい。

 でも、それが怖い。

「少し、考えます」

 香澄はやっと言った。

 佐伯は頷いた。

「はい」

 そして、いつものようにそれ以上踏み込まず、福祉課へ戻っていった。

 その夜、香澄が自宅で夕食の片づけをしていると、母から電話があった。

 画面に表示された名前を見て、少しだけ迷う。

 けれど無視する理由も見つからず、通話ボタンを押した。

「もしもし」

『香澄? 今、大丈夫?』

 その言葉に、香澄は一瞬だけ苦笑しそうになった。

 大丈夫。

 どこにでも出てくる言葉だ。

「うん。今なら話せるよ」

『この前、叔母さんから聞いたんだけどね』

 母の声は、どこか弾んでいた。

『水野さん、本庁に戻ってきたんですって?』

 香澄の手が止まった。

「誰から聞いたの?」

『叔母さんの知り合いが市役所にいるでしょう。たまたま聞いたみたい。懐かしいわねえ、水野さん。お元気なの?』

「元気そうだよ」

『そう。よかったじゃない』

「よかった?」

『だって、あの人、いい方だったじゃない。安定したお勤めで、人当たりもよくて。あのときは残念だったけど、またご縁があるなら』

「お母さん」

 香澄は少し強く遮った。

 母は一瞬黙った。

『何?』

「そういう話じゃないから」

『でも、同じ職場になったんでしょう? 昔のことがあっても、時間が経てば見え方も変わるものよ』

 時間が経てば。

 香澄は唇を結んだ。

 母は悪気がない。

 心配しているだけ。

 娘の将来を案じているだけ。

 安定した相手と結婚して、世間的に安心できる形になってほしいだけ。

 それはわかっている。

 わかっているから、苦しい。

『お母さんね、別に無理にとは言わないのよ。ただ、香澄ももう三十四でしょう。これから先、ひとりでいるのも大変だし。水野さんならご家族もちゃんとしていたし、仕事も安定しているし』

「そういう問題じゃないの」

『じゃあ、どういう問題なの?』

 母の声に、少しだけ苛立ちが混じった。

『あなた、昔から大事なことを話してくれないじゃない。あのときだって、何があったのかちゃんと言わなかったでしょう。お母さんには、何が悪かったのかわからないのよ』

 水野と同じだ、と思った。

 何を考えているのかわからない。

 大事なことを言わない。

 香澄の沈黙だけが、いつも問題になる。

 言えなくなった理由を、誰も聞かないまま。

「……ごめん」

 また、謝っていた。

 言いたいことはあった。

 水野とは戻る気がないこと。

 あの頃、自分は傷ついていたこと。

 安定や世間体だけで、過去の相手を勧めないでほしいこと。

 でも、言葉が喉の奥で固まった。

『責めてるわけじゃないのよ。ただ、あなたが心配なの』

「うん」

『水野さんと普通に話せるなら、少し考えてみてもいいんじゃない?』

「……考えておく」

 言ってしまった。

 考えるつもりなんてないのに。

 母を安心させるためだけの言葉。

 電話を切ったあと、部屋の静けさが重く落ちた。

 香澄はシンクの前に立ったまま、蛇口から落ちる水滴を見つめた。

 また黙った。

 また、違うと言えなかった。

 今日、佐伯には「考えます」と言った。

 母にも「考えておく」と言った。

 考える、という言葉は便利だ。

 答えを先延ばしにできる。

 でも、先延ばしにした言葉は、いつか自分の中で重くなる。

 香澄はスマートフォンを見た。

 佐伯からの連絡は、もちろんない。

 そもそも、業務以外で連絡を取るような関係ではない。

 それなのに、今日の「迷惑かどうかは、俺が決めます」という声が耳から離れない。

 翌日、香澄は佐伯といつも通りに接しようとした。

 避けない。

 不自然に距離を取らない。

 そう決めて出勤した。

 けれど、決めたからといって簡単にできるわけではない。

 共有プリンターで顔を合わせると、胸が落ち着かなくなる。

 福祉課から資料を受け取るとき、手元を意識してしまう。

 昼休み、公園に行くか迷って、結局行けなかった。

 母の電話のこともあり、香澄の中は乱れていた。

 夕方、少し残業になった帰り道。

 庁舎を出たところで、佐伯と一緒になった。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 いつもの挨拶。

 でも、昨日の会話のせいで、少しだけ空気が違う。

 駅までの道は同じ方向だった。

 香澄は迷ったが、今日は逃げずに歩き出した。

 佐伯も隣に並ぶ。

 夜の道には、湿った風が吹いていた。

 会話はなかった。

 でも、沈黙が重いわけではない。

 香澄はしばらく歩いてから、ぽつりと聞いた。

「佐伯さんは」

「はい」

「どうして、そこまで気づくんですか」

 佐伯が少しだけこちらを見る。

 香澄は前を向いたまま続けた。

「私が大丈夫じゃないときとか、言えなくなっているときとか。どうしてわかるんですか」

 佐伯はすぐには答えなかった。

 信号が赤に変わり、二人は横断歩道の手前で立ち止まった。

 車のライトが雨上がりの路面に反射している。

 佐伯は少し迷うように視線を落とした。

 その沈黙が、いつもより長く感じた。

「気づきたいと思って見ているからです」

 香澄の胸が、強く鳴った。

 信号の音も、車の音も、一瞬遠くなる。

 気づきたいと思って。

 見ている。

 それは、ほとんど告白のように聞こえた。

 けれど佐伯の声は静かで、いつものように余計な飾りはなかった。

 だからこそ、逃げ場がなかった。

「それは」

 香澄は口を開いたが、続きが出てこない。

 佐伯もそれ以上言わなかった。

 信号が青に変わる。

 二人は歩き出す。

 香澄は自分の足元を見つめた。

 嬉しい。

 そう思った。

 見られていることが怖かったはずなのに。

 気づかれることが怖かったはずなのに。

 佐伯にそう言われて、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。

 でも、同時に怖かった。

 好かれることより、失うことのほうが怖い。

 また、近づいたあとに「何を考えているかわからない」と言われたら。

 また、自分の沈黙が誰かを困らせたら。

 また、話したいと思った相手を失ったら。

 その痛みに耐えられる自信がなかった。

 駅前で別れるとき、佐伯はいつものように言った。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 香澄はそれだけ返した。

 本当は、何か言うべきだったのかもしれない。

 気づきたいと思って見ているから。

 その言葉に対して、何か。

 でも、言えなかった。

 改札を抜けてからも、胸は落ち着かなかった。

 帰宅して、夕食を作る気にもなれず、冷蔵庫の残り物を温める。

 味はよくわからなかった。

 夜十時過ぎ、スマートフォンが震えた。

 画面を見ると、佐伯からのメッセージだった。

 業務用の連絡先は、窓口改善の資料共有のために交換していた。個人的なやり取りはほとんどない。

 香澄は心臓が跳ねるのを感じながら、画面を開いた。

『本日の追加資料、明日共有します』

 業務連絡だった。

 ほっとしたような、少し残念なような気持ちになる。

 香澄は返信欄を開いた。

『ありがとうございます。よろしくお願いします』

 そう打って、指が止まる。

 それだけでいい。

 業務連絡なのだから。

 でも、今日の帰り道のことが頭から離れない。

 気づきたいと思って見ているからです。

 香澄は何かを書き足そうとして、消した。

 また打って、消した。

 結局、返信できないまま画面を閉じた。

 怖い。

 たった一通の返信が、何かを進めてしまう気がした。

 進めたいのに。

 進めたら戻れなくなる気がする。

 そのまま十分、二十分と時間が過ぎた。

 スマートフォンは静かなままだった。

 十一時前、もう一度画面が光った。

 佐伯からだった。

 短いメッセージ。

『急ぎません。けれど、なかったことにはしません』

 香澄は画面を見つめた。

 息ができなくなるほど、胸が詰まった。

 何を、とは書いていない。

 今日の資料のことではないと、すぐにわかった。

 帰り道のこと。

 佐伯の言葉。

 香澄が返せなかったこと。

 その全部を、佐伯は急かさない。

 でも、なかったことにはしない。

 香澄はスマートフォンを両手で持った。

 涙は出なかった。

 でも、胸の奥が痛いほど揺れていた。

 佐伯はいつもそうだ。

 香澄が言えるまで待つ。

 でも、香澄の沈黙を、なかったことにはしない。

 香澄は返信欄を開いた。

 何度も迷って、たった一文だけ打った。

『ありがとうございます。少し、時間をください』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

 返事は、少ししてから来た。

『はい』

 それだけ。

 たった二文字。

 でも香澄には、その短さが佐伯らしくて、どうしようもなく胸に残った。

 急がなくていい。

 でも、逃げなくていい。

 その両方を渡された気がした。

 香澄はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。

 噂より近い距離に、もう自分は立っている。

 けれど、その近さを認めるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。
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