今夜は君の夜屑
コンコン、という音が響いて詩乃は姿勢を正した。
パソコンで開いていたタブを切り替えて、どうぞ、と言うと、橘が入ってきた。
いくつかある会議室の、一番小さいものを事前に押さえており、室内は時計と会議机、椅子が四脚だけの部屋だった。
「お時間いただきありがとうございます」
「え、固くない?」
「仕事だから」
「前回だってそんな敬語じゃなかったでしょ」
橘はへらりと笑って、詩乃の前の席に着いた。
前回は友達という調子で砕けて話していたが、付き合った今、社内で必要以上に接触したくはない。
今回の件も付き合う前に割り振られていた仕事だが、詩乃は内心嫌だと思っていたくらいだ。
「早速いい?」
「いいよ、俺今日はずっと社内だから、伸びてもいいし」
「ちゃんと一時間で終わらせるから大丈夫」
「えー」
橘も持ってきたノートパソコンを開いた。資料と照らし合わせて答えてくれるのだろう。
「聞き漏れがあるといけないから、録音するね」
「うん」
「じゃ、始めます」
「はい」
詩乃も事前に用意しておいた質問シートのテンプレートを開き、録音ボタンをタップした。
「今回の案件、アパレル企業ですね」
「うん、店舗数は三百くらいで、最初の相談としては店舗ごとの在庫処理について」
「それで?」
「発注が店長に任せられていたところが大きくて、データ分析をして売れ筋と店舗ごとの傾向を出す予定だった」
「最終的にはシステム入れたと聞いていますが」
「そう、分析したら発注の仕組み自体を変えないとってなって、運用の見直しとして、本部一括発注と、AI予測も入れることになった」
橘の言葉を聞きながら、詩乃はキーボードを打ち込んでいく。
橘は思い出すかのように、テーブルに肘をつきながら斜め上に視線を送っている。
「売り上げ改善は?」
「9.7パーセント。在庫ロス削減は、二十パーセントくらい」
「くらいじゃなくて正確な数字を」
「んー…とね、19.8です」
「はい」
詩乃がキーボードを叩く姿を、橘は少しだけ口角を上げて見つめている。
視線を感じて詩乃が目線を上げると、頬杖をついた橘が、詩乃をまっすぐ見つめていた。雑誌の表紙かと思うような絵面の良さに、詩乃は少しだけ眉を顰める。
「なに?」
「ん?仕事してる詩乃、可愛いなーって」
「やめて」
「一緒に仕事することなんか、なかなかないし」
「そうだけど」
「俺は嬉しいけど、詩乃は?」
橘の言葉に、詩乃はボイスメモの一時停止ボタンを押した。
あとで聞き返すときに、この甘いやりとりが耳に飛び込んでくるのは勘弁だ。
「…店長たちの反応とか、定性的なメリットは?」
「ねぇ、嬉しい?」
「…橘」
「会議室って、カメラついてないの知ってる?」
橘がそう言って、デスクの下で詩乃のパンプスにコツンと自分の革靴を当てた。
公私混同したくないから、彼女は同じテリトリーの中では作らない。そう宣言して、女の子からの誘いを軽くかわしていた男は、一体どこに行ったのか。
「っちょっと」
「なに?」
「やめてって言ったじゃん」
「まだ何もしてないけど」
橘がただ揶揄っていただけなら、もう少し強めに言っていたかもしれない。
ただ口調も、視線も、雰囲気も、何もかもが付き合った日のように甘ったるくて仕方がない。
好きだという感情を、こんなにも全身で伝えられては、自分の口元も態度も緩んでしまうことが分かっているから、絆されないようにしているのに。
「…一旦、インタビューだけ終わらせたい」
「どうぞ?」
「……それで、店長たちの反応、定性的なメリットは?」
詩乃は再度、録音ボタンを押した。
橘はにこりと詩乃を見ながら、すらすらと理由を述べた。
頭の回転も早くて口も上手い、人当たりも良くて顔もいい。営業に向いているからこそ、これだけの案件を取ってくるのだろう。
「現場の心理負担の軽減、顧客への時間創出、ブランドイメージの維持かな?」
「なるほど、現場のエンゲージメント向上と、顧客体験の最適化ね…」
詩乃が叩く、キーボードの音と時計の秒針だけが、この小さな会議室に響いていた。
ブラインドが下ろされているガラス張りの会議室からは、廊下を忙しなく行き交う人の足音も混ざっていた。
「…いい事例になりそ?」
「うん、他のアパレルクライアントにも横展開できそうだし、採用広報でも使えそう。若手代表とかあるかもよ」
「俺が?」
「可能性ある、学生向け採用セミナーとか」
「俺で役に立てるならいつでも」
広報という立場からしても、橘が登壇するなら見栄えがすると誰もが思うだろう。
実際にそうなったら、担当するのは詩乃になりそうだなと思うと、それはそれで不安要素が増えるが、橘が活躍するのは同期としても彼女としても純粋に嬉しい。
その後も詩乃が質問を重ねるたび、橘はゆっくりと答えた。
そうして用意しておいた質問の回答が終わると、橘はパソコンをゆっくりと閉じて、詩乃を見つめた。会議室の時間は、あと十分ほど残っていた。
「ありがとう、また記事できたら確認してもらうね」
「うん、ねぇ土日会える?」
「え、うん、空いてるよ」
「俺も予定ないからさ、デートしよ」
「…うん」
じゃあまた連絡するね、と言って橘はパソコンを持って立ち上がり、椅子をデスクに押し込んだ。
詩乃もそれに頷き、少しだけ内容をまとめてからデスクに戻ろう、とパソコンの画面に向き合ったその瞬間、奥からデスクを回って歩いてきた橘が、詩乃の腕をとった。
「え」
「早く明日にならないかな」
そう言って、詩乃に触れるだけのキスを落とした。
そうだった、そういえば今日は金曜日。またしても、金曜日。
橘と付き合った日から、一週間が経っていたのか。
「っちょ、次の人来たらどうするの」
「大丈夫、次はここ空きだった」
「…抜かりない」
「できる営業なもので」
会議室の予約状況まで事前にチェックしていたらしい橘が、再び詩乃に口付けた。
ぬるりとした感触で、啄むように数回詩乃の唇を撫でていった。
啄むような軽い接触が、いつの間にか深く、呼吸を共有するような密着に変わっていく。
狭い会議室に、服が擦れる音と互いの吐息だけが、やけに鮮明に響いた。
少しの水音と、空気を吐き出す空調の音、会議室の外でカーペットを歩く誰かの革靴の音が、早くやめた方がいいと言っているのに、脳が溶けていくようだ。
「っん」
「あー、止まんなくなりそうだから一旦やめよ」
そう言って橘は詩乃から離れて、ぺろりと唇を舐めた。
それに少しだけ残念な気持ちを感じてしまう私は、もう、この男に取り込まれている。
橘はノートパソコンを片手に、詩乃に笑いかけた。
詩乃は唇を少し噛んで、橘に視線を送る。流されてしまったことへの罪悪感と、自分の倫理観が橘の見送りを邪魔をする。
「好きだよ」
軽い口調で愛の言葉を投げかけて、橘はドアを開けて去っていった。
残された詩乃が頭を切り替えようとパソコンに向かうも、ボイスレコーダーが起動したままになっていることに気づく。
この甘い空間を再生したくないような、また味わいたいような気持ちになって、ため息をつきながらパソコンを閉じた。
早く、この甘い余韻の残る部屋から脱出しなければ、今日は一日仕事にならなさそうだ。