今夜は君の夜屑
「ねー橘」
「ん?」
全てが終わった時には、もう二十三時になっていた。
途中から流石に暑さに耐えられなくてクーラーをつけたが、それまではそんな余裕すら与えられなかった。ベッドに横たわる自分の身体にはぺたりと汗をかいていた。
「ノースリーブとかニットとか、着ない方がいいの?」
「いや…うーん、着ていいよ」
「さっき嫌だって言ってなかった?」
「…ちょっと、さっきは理性を失っていたというか、なんというか」
「ふ、何それ」
隣に寝転ぶ橘が、額の汗を拭いながらぼそりと言った。
明日は天気も良さそうだし、シーツでも洗濯しよう。そう思いながら詩乃は笑う。
「他の男に見られるのは嫌だけど、なんていうか束縛したくないというか…」
「それって束縛なの?服装くらい別にいいのに」
「…じゃあ飲み会では着ないで、ニットとか」
「はーい」
ニット生地だと身体のラインが分かるからということだろうか。
そこまでぴったりしたものを着用しているわけではないが、橘の中では明確に嫌だという気持ちがあるようだし、別に一生着るなと言われているわけではないので、橘の気持ちを尊重してあげることにする。
「…それより、名前で呼んで欲しいんだけど」
「あ、そうだった。…真尋?」
「…うん」
そう呼ぶのは、付き合う前に一度、会社の食堂で呼んだきり。あの時は挑発だったが、今は少し恥ずかしい。
電気がついていない部屋だが、角部屋の詩乃の寝室には窓がついていて、そこから月明かりが漏れていた。
隣の建物は背が低いので、部屋に自然光が入ってくるところが、詩乃は気に入っていた。
「…今日は、嫉妬したの?」
「……河瀬の声が大きいんだよ…」
「ふふ。全部、過去の話だよ」
「分かってるよ…」
橘は枕に顔をつけて、くしゃりと前髪を握るようにして顔を覆った。
動揺すると前髪をそう触るということに、最近になって分かるようになった。
「…真尋が嫉妬するとか、イメージなかったな」
「……俺も、全然したことない…」
「そうなの?」
「…どっちかというと、されてきた方だった」
「…マウント?」
「違うよっ」
橘の腕に頭を乗せたまま、眉間に皺を寄せた、橘の顔を見上げた。
カーテンの隙間から差し込む青白い月光が、橘の整った輪郭をなぞっている。光を反射する鎖骨の窪みと、その下に落ちる深い影と、綺麗な顎のラインを見つめ、詩乃はくすりと笑った。
確かに、橘と付き合った女子は不安になりそうだ。
きっと付き合っていることを公にしたって、橘への好意を持つ女性は、それなりに現れるだろう。
「…明日、何する?」
「さっき、行きたいなーって思った店が空いてるか見てたんだけどさ」
「うん。ランチ?夜?」
「ランチ。詩乃が興味あるか聞こうと思ってたんだよね」
行きのエレベーターの中で見ていたのは、その情報だったらしい。
玄関に入っていきなり豹変するくらいの気持ちを秘めていたのに、明日のことも並行して考えるあたりは仕事ができる橘らしい。
「見たい。スマホ、あっち?」
「んー、まだだめ」
玄関に置きっぱなしになっているであろうバッグを取ってこようと身体を起こすと、橘の片手で呆気なく元の位置に戻される。
先ほどまで背中をつけていた布団に、鈍い音がして再び身体が沈んだ。
「…まだだめなの?」
「うん、もうちょっとこうしてる」
そう言って橘の腕が、詩乃の身体に回った。
薄手の布団越しに、太い腕の力と圧を感じる。
1LDKの詩乃の部屋は、寝室にはクーラーがなく、開戸でつながっているリビングから直接エアコンの風を送り込んでいた。奥から流れ込んでくる冷えた空気が、火照った肌を優しく撫でていく。
「日曜も、一緒に過ごす?」
「…うん。詩乃の家、また泊まっていい?」
「いいよ。荷物持ってこなきゃね」
「…服とか、置いておいていい?」
「どうぞ」
身体の熱が引いて、ぺたりとしていた身体もようやく落ち着いた。
急に室内との温度差が気になって、詩乃は布団を肩までたくし上げた。
「ね、夜ご飯、詩乃の手料理食べたい」
「えー、いいけど、大したもの作れないよ」
「たまに弁当作ってるじゃん、いいなって思ってた」
そういえば手作り弁当を作ってよと、以前食堂で言われたことを思い出す。あの時は意地を張っていたが、食べたいと言われるのは悪い気分じゃない。
「じゃあ、スーパー行かなきゃ」
「ありがと、楽しみ」
橘が詩乃を抱きしめる腕に、力を込めた。
少しだけ冷えていた身体が、橘の身体の熱と布団で、再び適温に戻っていく。
「…俺、重いの、いやじゃないの」
「ふ、気にしてたの?」
橘の、少し硬い指先が、さらりと詩乃の頬を撫でた。
先ほどまであんなに強引に、人の話も聞かないで、玄関で詩乃の肌を滑らせていた指が、慈しむかのような手つきで頬から髪の毛へと移っていった。
「…ちょっとあの時は理性が…」
「別に、いやとか思わないよ」
同じセリフを繰り返す橘は、気まずいと思っているらしい。目を細めて何かに耐えるような顔をしている。
詩乃は身体を橘の方へと移動させた。シーツが擦れる微かな音が耳に残った。
「…良かった」
今まで女性に困ったことがないであろう橘が、自分の気持ちをコントロールできない顔をして、嫉妬をして、自分が重いかと詩乃にそろりと伺う。なんとなくそれは悪い気持ちはしない。
「真尋も、女の子に好かれないようにしてね」
「…それは俺のセリフだよ…」
女子のやっかみを引き受けたり、好奇の視線に晒されたくはないが、橘がフリーだと思われているのはいい気持ちはしない。
思ったより、橘のことが好きみたい。
頭の中に浮かんだ言葉は、なんとなく口にしなかった。
その代わり、橘の鎖骨あたりに唇を寄せて、じゅくりと吸い上げた。
「え」
そういえば、自分も橘にキスマークをつけられているんだった。
それでも、きっと今自分がつけた位置の方がマシだろう。
暗闇の中では、色も印も見えなかった。
それでも、橘が驚いている顔は認識できた。
「おかえし」
この綺麗な男に印をつけられるのは自分だけだと思うと、それはそれで悪くない。
戸惑う橘をよそに、詩乃は跡をつけたであろう場所を指でなぞった。
少しだけ湿ったそこが、月曜日も赤くありますように。