今夜は君の夜屑
橘とはそのまま土日を一緒に過ごした。
詩乃が一冊だけ持っていた料理本から橘が選んだのは麻婆豆腐で、詩乃が本を見ながら作る姿を、橘は嬉しそうに見つめていた。
そして月曜、ベッドの隅に置かれた橘の部屋着を畳み直して、詩乃は出勤した。
「あ、ちょっとネクタイ曲がってるかも」
会議室の一角には、簡易的な撮影セットが組まれていた。
白い壁を背景に、レフ板と三脚、それから貸し出し用のジャケットがハンガーにかけられている。
今日は新入社員向けの採用パンフ用に、若手社員のインタビューと撮影を詩乃が一人で任されていた。
「え、ほんとですか」
「ちょっといい?」
カメラのモニターを確認していた詩乃は、ふと気づいて声をかけた。
スタジオ代わりに使っている会議室は、ブラインド越しの太陽光が柔らかく差し込んでいて、白い壁に反射して全体が明るく見えた。
簡易的に設置したレフ板が、その光をさらに均一にしていた。
以前、橘のインタビューで使ったような、一番小さい会議室。
目の前に立っているのは、今年入社したばかりの新卒の男性社員だ。まだスーツの着こなしもどこかぎこちなく、ネクタイの結び目も少しだけ歪んでいる。
相手が頷くのを待つまでもなく、詩乃は一歩前に出て、指先で結び目に触れた。
さらりとした生地の感触と、体温がほんのりと伝わってくる距離。
「こう、もう少しだけ上に上げて」
「す、すみません」
薄いドットのような模様が入っている紺色のネクタイを軽く引き上げると、喉元が整って、全体の印象が締まった。
「ううん、写真だと目立つからね…あ、ちょっとごめん、髪の毛も触るね」
「あっ、はいっ」
ワックスをつけているであろう、束感のある毛先の方向を調整してやり、顔を上げた。
思ったよりも近い位置に相手の視線があって、ほんの一瞬だけ目が合った。
相手は少しだけ照れたように視線を逸らすが、詩乃は特に気にすることなく、一歩引いた。
「じゃあ、もう一回撮るね。少しだけ肩の力抜いて」
カメラを構え直しながら、詩乃は言う。
「そんなに緊張しなくていいよ、普通に立ってる感じで大丈夫」
「はい…」
言われた通りに力を抜こうとしているのか、ぎこちない笑みが少しずつ和らいでいき、詩乃はそのタイミングでシャッターを切った。
カシャ、という軽い音が、静かな会議室に響いて、詩乃がモニターを確認すると問題なく映っていた。画面を目の前の男子社員に見せると、少し安心したような笑みがこぼれた。
「いい感じ」
「ほんとだ…僕、さっき固かったですよね」
「緊張するよね、こっちもいい感じだけど」
ボタンを操作して、いくつか撮った画像を確認していると、彼がそのまま肩越しに画面を覗き込んできたので、距離がまた少しだけ近くなる。
腕が軽く触れるが、詩乃はそのまま画面を操作した。
「最後にもう一枚だけ撮っていい?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ少しだけ、体こっち向けて」
立ち位置を調整するために、肩に軽く手を添え、向きを変えた。
これはセクハラになるだろうか?いや、業務の一環だから問題ないだろう、などと心の中に浮かんだ自問自答をかき消しながら、詩乃は再び下がってシャッターを切った。
確認すると、さっきよりも柔らかい表情で写っており、詩乃は小さく頷きながら彼に伝えた。
「これでいけそう。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「私はちょっとデータ整理して、会議室を片付けていくので、業務に戻ってもらって大丈夫。ありがとう」
緊張がほぐれたように、お礼を言う彼を見て、詩乃は軽く笑った。
彼が会議室を出て行った後、詩乃は隣に置いてあった椅子に腰を下ろした。
時計を見ると、会議室の予約終了時刻までまだ十五分程度残っており、持ってきていたパソコンを広げて、データを取り込む。
フォルダを操作していると、コンコンと入り口からノックの音が聞こえて、視線を上げた。
「あれ、どうしたの」
「…お疲れ」
先ほどの彼が忘れ物でもしたのかなと思っていると、そこには橘が立っていた。
紺色のスーツをジャケットまでしっかりと羽織っていた橘に、詩乃は声をかけた。
「戻ってきたばっかり?」
「そう…さっきの、うちの新人でしょ」
「うん、営業部の子。可愛い顔してたから、新入社員用のパンフに使わせてもらおうと思って」
「ふうん」
パソコンの画面を操作しながら話していた詩乃だが、橘の返事に違和感を感じて視線を上げた。橘の背後にはガラス張りの廊下があり、前回のようにブラインドを完全に締め切ってない状態だったため、廊下を行き来する社員が見えた。
「どうしたの?」
「近かったなーって、新人と」
「…近かったっけ?」
どうやら少しだけ様子を見られていたらしい。終わったのを見計らって室内に入ってきたのか。詩乃は記憶を手繰るも、あまり覚えがなく首を傾げる。
「無意識にやってんの…?うちの新人が気に入っちゃったらどうすんの」
「大した話はしてないよ?」
「もー、またぴったりした服着てるし」
「だって今日は飲み会じゃないもん」
詩乃は自分の服を見下ろしながら言った。
今日は黒い半袖のサマーニットに、ベージュのテーパードパンツ。スリットが入ったデザインが気に入っていて、よく着用している。足元はくすんだブルーのパンプスだ。
「…今日、詩乃んち行っていい?」
「いいよ、余裕あったらご飯作ってあげる」
「絶対早く帰る」
橘がなんと言おうと、ノースリーブでもないし、スカートでもないし、今日は飲み会の日でもない。橘の言葉は忠実に守っているつもりだ。
そんなことを言い始めたら、仕事に着ていく服がなくなるので、ここは引き下がる気はなかったが、この様子だと諦めたようだ。
「じゃ、また夜に」
ブラインドが半分開いている会議室で、長々と話し込んでいたら良くないと、流石に橘も思ったのか、少しネクタイを緩めながらドアへと向かった。
「…真尋」
橘の手がドアに触れる前に、詩乃は少し考えてから名前を呼んだ。
少し驚いた顔をしてこちらを振り返った橘に、詩乃は無意識に口角を上げた。
そして黒いサマーニットのタイトな生地に指をかけ、ゆっくりと引き下げる。
わずかに露出した白い肌に浮かぶのは、三日前に橘につけられた、鮮やかな紫色の痕。
「ちょっ、」
橘の視線がそこに吸い寄せられ、息を詰めたような声が、静かな会議室に小さく響いた。
「誰のせいでこれ着てると思ってんの」
ふんわりとしたブラウスは首元が空いているものが多く、この跡が消えるまでは着れないな、と今朝クローゼットで巡らせた思考を、橘に知らしめなければいけない。
詩乃はすぐに指先を生地から離し、橘に向かって舌をぺろりと出した。
「…あー、ほんとに…今日絶っ対、定時で仕事終わらせるから、詩乃も終わらせてね」
これに懲りたら、見えるところにキスマークをつける気はなくなるだろう。
橘は後頭部の髪の毛をぐりぐりとかくようにして、眉を顰めながらそう言った。
「はーい」
「返事が軽すぎてムカつくんだけど」
橘は眉を顰めたまま、少し笑いながらそう言って、今度こそ会議室を出て行った。
一人残った詩乃が時計を確認すると、いつの間にかあと五分で出なければいけなく、詩乃はメモリーカードを抜いてパソコンを閉じた。
またシーツを洗う羽目にならないように、エアコンだけはしっかり稼働させようと心に誓って、高揚した気分を感じながら、会議室を後にした。