今夜は君の夜屑
 
 
 
 
 
「今日は玄関でしないで」
「分かったよ」
「スーパー寄って帰る」
「今日は何作ってくれるの?」
「平日だしなぁ、牛丼とかでどう?」
「え、好き」

橘の言葉通り、定時で終わらせて、駅のホームにて待ち合わせた。
ほとんど駅直結の会社なだけに、駅で待ち合わせるのはリスクだが、沿線のホームならばだいぶ確率は下がる。

黒のニットトップスが、駅のむわりとした生ぬるい空気の中では暑い。
今日は気温が高いから、風通しの良いブラウスが良かったのに、今日この服を選ばざるを得なかったのは全て橘のせいだ。

「じゃあそれにしよーっと」
「嬉しい」

昨日の夜まで会っていたのに、会社でも会って、会社終わりにも会っているだなんて、日常に橘がいることが当たり前のように感じてしまう。社内恋愛は興味なかったが、なるほどこういうのはメリットかもしれないな、などと感じながら混んでいる電車に揺られた。










先日の玄関での出来事が嘘だったかのように、橘は自宅に着いても、ご飯を食べ終わっても、何もしてこなかった。
会議室での言葉から考えると、少しだけ拍子抜けだった。

「うちでお風呂まで入って行ったら?」
「あー…そうしようかな」

こういう日々が続くなら、スーツやパンツも置いておいたら楽なのではないか、とまで思考は進むが、まだ付き合って一ヶ月も経っていない。いきなりそこまで話さなくてもいいか、と詩乃は洗面所にて、バスタオルを出しながら思った。

「…その跡って、どれくらいで消えるの」
「ん?」

ラフなTシャツとショートパンツに着替えていた詩乃の後ろに、いつの間にか立っていたらしい橘の声が小さく聞こえた。
振り返ると、自宅から持ってきた部屋着のポケットに手を入れた橘が、気まずそうに壁に寄りかかりながら詩乃を見ていた。

「…不便?」
「別に?服で隠せばいいし、一週間くらいじゃない?」
「そっか」

背後からふわりと腕が回り、橘が詩乃を抱きしめた。
その温かい体温といい香りを感じて、昨日ぶりのその熱になんとなく顔が緩んだ。

「どうしたの?」
「…嫌だったかなって」
「…今更すぎない?」

分かってるよ、と橘は気まずそうに言った。
そしてしばらく黙ったあと、ぽたぽたと、言葉を落とすようにして静かに口を開いた。

「本当は、がっつきたくないし、会ったら抱きしめたくなるし、抱きしめたら、キスしたくなるし、際限なくて困る」
「…ふうん?」
「そんで、最後は詩乃を抱きたくなる。なんか理性が吹っ飛ぶ。だから、後から、大丈夫だったかなって、ちょっと後悔する」
「ふふ、そうなんだ」

橘は抱きしめていた腕の力を強めた。
詩乃の肩に顔を埋めるようにして密着し、頬を詩乃のそれに擦り付けた。
ざり、と耳元で髪の毛が擦れる音がして、橘の吐息が耳に微かにかかる。

「…笑わないでほしいんだけど…詩乃に、嫌われたくない」
「……真尋って…そんなんだったっけ?」

ぽつりと、ゆっくり落とされた言葉が、洗面所の狭い空間に、ひどく場違いなほど純粋に響いた。


同期として出会ってから、橘の彼女の話を聞いたこともあるし、なんとなくの恋愛観も知っているつもりだった。詩乃の中にあるその恋愛のイメージと合致せず、手に持っていたタオルを洗濯機の上に置いて、橘の腕の中で振り返った。

「俺も知らないよ…初めてだし」
「え?そうなの?」

橘の顔を見上げると、詩乃から視線をそらして前髪をくしゃりとかきあげていた。
恥ずかしくて、一生言いたくなかった、みたいな顔。

「…詩乃って、何考えてるか分かんない」
「そう?」
「付き合う前も、俺のこと好きだとは思わなかったし、連絡も淡白だし、休みの日に会いたいって言わないし、女の子と話してても何も言ってこないし」
「うーん…そう?」
「そうだよ、何にも執着してないみたいで、…そのうち、ふらっと離れていきそうで、怖い」

橘はそこまで言い切って、詩乃の肩に顔を埋めた。
見られたくないらしい。髪の毛の隙間から見える耳は心なしか少し赤くて、すらりとした男が自分に甘えているような照れているような様子が、可愛らしくて少しだけ面白い。

「ふ、」
「…笑わないでって、言ったじゃん…」
「ごめんごめん」

普段、何事もさらりとかわして営業部で大きな案件を取ってくる橘が、こんなふうに耳を赤くして、気持ちをぽつぽつと吐き出している。それがたまらなくて、誤解を解きたくて、詩乃は橘の首に手を回した。

「…ダサい?」
「ううん、真尋、好きだよ」
「…は、全然普段言わないくせに、今それ言うの……」

橘の手が腰に回って、そのまま体重をずるりとかけられる。
身体が反りかえって、橘の身体の中にすっぽり包まれる。

「可愛いねー、真尋」
「…からかってない?」
「からかってないよ」

腰と首の姿勢がつらくなってきて、詩乃はするりと橘の腕から抜け出した。

お風呂のスイッチは先ほど入れたばかりなので、あと十分ほどはかかるだろう。
それまでリビングで、テレビでも観ていよう。

「詩乃」

そう思っていると手を引かれ、ベッドに放り投げるように押された。
リビングからはテレビの音とライトが流れ込んでいる。

「え」
「あんまり気にしてないなら、遠慮しなくていい?」
「えっと」

橘の目線が、やけに冷たく甘かった。
低く、耳朶を震わせる声がシーツに吸い込まれていった。
さっきまでの殊勝な態度は、一体どこへ行ったのか。


「俺、すっごい気にしてたんだよね。だからこないだから結構考えてさ、明日も仕事だし、今日はしないで帰ったほうがいいかなとか思って」
「え、うん、明日は仕事だよね、平日だしね」


橘は詩乃の上にぎしりと乗り、その体重が腰にかけられて起き上がることなど許されないような状況だった。寝室の窓から差し込む月明かりが、薄暗い寝室で、橘の顔を照らしていた。

「会社でキスマ、見せてきて?不便かけたのかなってちょっと反省したら笑うし?」
「いや、それは、」
「俺だけ本音言って、詩乃は余裕そうって、ずるいよね」
「え…?それは私が悪い…?」

橘が、詩乃の顔の横に手を置いた。
見下ろされる視線は、熱を含んでいる。
日中はまとめていた髪の毛が、枕に押しつぶされてくしゃりとシーツを鳴らした。


「悪い。平等にしないとね」


橘の声が、先ほどよりもワントーン低くなって、詩乃の耳元に吸い込まれていく。
この男、自分の声の持つ魅力にとうに気づいて、利用している。


「…っ」
「こんなに詩乃が可愛いって知ってたら、初めて会った時に口説けば良かったな」
「ちょ、」
「可愛いなって思ってたけどね、最初から」
「っ」
「だから、河瀬が後から可愛いとか言ってるのも、本当はムカつくんだよね」


喉の奥を、ひゅるりと空気が抜けていった。


「俺、明日の朝に、帰ろうかな」

ああ、やばい、と思った時にはもう遅い。
気づいたときには、すっぽりと穴の中に落とされている。
抗うことを忘れた身体が、ゆっくりとシーツの海に沈み込んでいく。

この男が掘った穴に、諸手を挙げて迎え入れられ、あたりを見回した時には既に、ずぶずぶと、ゆっくりと沈んでいくのだ。
 
 
 
 
 
 
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