今夜は君の夜屑

第五章


 
 
 
「えっ、あの橘くんと?」
「…そう」

真菜に誘われたランチで、今日は定食屋に入っていた。
会社から歩いてすぐのビルの、地下の飲食店街。平日ランチは千円で小鉢のついた定食が食べられるとあって、会社員で店内は埋まっていた。

「いつの間に?なんでそんなことになった?」
「いや、なんか…気づいたら」
「どういうこと?気づいたらあの顔整いと付き合えるってどういう世界線?」
「…だよね」
「知ってる?営業部の新人、橘くんにすっごいアタックしてるみたいよ」
「…知らない」

目の前に運ばれてきたホッケ定食の写真を撮りながら、真菜が言った。

「知らないの?可愛いって四月に広報でも話題になってた子だよ。佐藤さんがリクルート素材に使え!って騒いでた」
「あー…はいはい」
「橘くんって、同じ会社では彼女作らない主義なんですー、とか言ってなかった?詩乃もそうじゃなかった?」
「そのつもりだった」
「ますますなんで?」
「いやー…」

ワンナイトからズルズル、なんて昼間から話していいのだろうか。
幸い混雑した店内では、誰もが食事に夢中だった。
詩乃がざっくりとした今までの経緯を話すと、真菜は途中から箸を止めて聞き入っていた。

「何それ、それであの橘くんから追われて?それでまた重いの?どんなギャップ!」
「重いっていうか…重いのかな?」
「重くない?ショーパンとノースリーブくらいでネチネチ言ってくる男」
「言い方」
「男のために着てるわけじゃないしって感じじゃん。で、詩乃はそれを受け入れたの?」
「うんまぁ、別に服くらいなんでもいいし」
「意外!なんで?そんなタイプだった?」

話しながらも真菜は器用にホッケの干物の骨を外していく。

「えー…私ってどんなタイプだった?」
「私は私の着たい服を着る、みたいな」
「あー…ねぇ、私って淡白かな?何にも執着しないみたいって、橘に言われたんだよね」
「めっちゃ分かる。橘くんの言いたいこと」
「えー?」

ひじきの五目煮をつつきながら、詩乃は真菜に視線を送った。
橘にそう言われた時は、その反応の面白さと可愛さに意識がいってしまっていたが、改めて言われたことを思い出すと、何か改善しておいた方がいいのかな、と思っていた。

「なんていうか、強い思考がないっていうか、全部なんでも良さそう」
「そんなことはないんだけど」
「詩乃って気持ちが昂っても顔に出ないからね。今までの橘くんに寄ってきたタイプと違うんじゃない?」
「寄ってきたって、虫みたいに」

真菜は姿勢良く白米を口に運びながら言った。
こんなふうに何事もばっさり俯瞰的な目線を持っているくせに、ゆるふわ女子のような見た目をしているところも詩乃は好きだった。

「なるほどねー、ちなみにハシケンは知ってる?」
「…一回相談したけど、付き合ったことは言ってない。なんで?」

橋立の名前が出てきて、詩乃は思わず身構える。

「ハシケンとはこういう話、意見が合うから、詩乃と橘くんの話を肴に飲みたい」
「やめて」
「ハシケンになんで言ってないの?詩乃、仲良かったでしょ」
「別に、機会がないだけだよ」
「ふーん、かわいそ」

真菜がそう言って、ホッケをがぶりと口に入れた。
確かに、この二人が揃った飲み会にはあまり出席したくないな、と思いながら、詩乃も味噌汁を飲み干した。入った時よりも混雑してきた店内で、橋立に伝えなければいけないという任務のような気持ちがぐるぐると渦巻いていた。















会議室のブラインドは半分だけ下ろされていて、昼過ぎの光が白い壁にやわらかく反射していた。
空調の風が一定のリズムで流れていて、どこか眠気を誘うような、静かな午後。

「あれ、詩乃ちゃん早いね」
「うん、キリ良かったし前の人いなかったから早めに来た」

小規模の会議室で、橋立が入室して詩乃の前に座った。
片手にはパソコンを持っており、いつもの柔らかな雰囲気を携えていた。

「一緒に仕事するなんてね」
「ねー、俺からしたら念願だけど。中途採用のコンテンツね」
「そう、えーっとなんだっけ、応募は来るけどミスマッチ多い、早期離職が課題だっけ?」
「うん、あ、ちょっと待って」

対面に座る橋立が、ラフにジャケットを椅子の背に掛けて、シャツの袖を肘まで捲りながら言った。
予定の開始時刻よりまだ早いが、揃ったなら話を始めようと思っていたが、橋立に遮られて詩乃は橋立を見た。

「直前で悪いんだけど、うちの上から経営企画も入れろって言われて」
「うん」
「どの人材が成果出してるか、の分析もやってる人の意見もいるだろって」
「なるほど」
「で、スケジュールに名前入れてないんだけど、一人呼んだの。ちょっと待ってて」
「うん、わかった」

橋立はパソコンを開きながら、詩乃をちらりと見上げた。
会議が始まる前の、穏やかな同期の時間。

「そういえば、橘と付き合った?」
「あー、うん」
「飲み会の時の橘見て、そうかなーって思った」
「ねえあれ、やっぱわざとでしょ」
「だって二人とも教えてくれないし、発破かけたらどっちにしろ何か分かるかなーって」
「聞かれたらちゃんと言うのに!」
「まぁまぁ、橘って恋愛に割と淡白だし、聞かれても別に怒られたりしなかったでしょ?」

全然、そんなことない。
橋立にそう言おうと詩乃が口を開いた時、コンコンと会議室のドアがノックされて、男が入ってきた。

橋立が言っていた、経営企画のメンバーだろう。そう思って詩乃が顔を見上げると、開いた扉の向こうに立っていた人物を見て、思考が一瞬止まった。

「よろしくお願いしま、す…」

聞き覚えがあって、やわらかくて、どこか落ち着いたトーン。
目の上まである黒い前髪が、幼く見せているのは、昔からだ。


「…え?達樹?」
「詩乃…」

視線が合って、ほんの一瞬、時間が遅くなったような感覚。
大学時代とほとんど変わらない空気のまま、少しだけ大人になった男が、詩乃を見たまま呆然と立っていた。

「え?知り合い?」

橋立が二人の顔を交互に見比べながら言った。
詩乃の指先が、キーボードの上でカチリと爪を鳴らした。

「…元カレ……」
「わお」

朝川《あさかわ》 達樹《たつき》。
呆然としている朝川の奥で、開きっぱなしのドアの奥からは、社内のざわめきが漏れている。橋立の軽い口調が、その空間でやけに浮いていた。

大学一年生の頃、同じ学部で、一年だけ付き合った。
同期には、きっといなかった。いたら見逃しているはずはない。
網膜に焼き付いている、昔と変わらない前髪が、詩乃の胸の奥でちりりと燻る。

心臓が速くなるわけでもなく、息が詰まるでもなく、ただ、認識が追いつかない。
さっきまで、醤油と焼き魚の香りと、その喧騒の中にいたはずなのに。

「……なんで」

小さく漏れた声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 
 
 
 
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