今夜は君の夜屑
「ごめん、急に」
「いいけど…」
会社から、一駅ほど歩いた先の、高架下にある居酒屋で、朝川が言った。
なんてことのない平日だからか空いていて、予約はしてなかったがすぐに入れた。
「…詩乃とお酒、飲むの初めてだね」
「…そう、だね。あの時はまだ成人してなかったし」
あまりこの辺りの店を知らない、という朝川に、この店を提案したのは詩乃だ。
アルコールを入れないと空気に耐えらえないと思ったし、一度来たことがあるこの店の喧騒と電車の音が絶えず響いて、たとえ気まずくなっても無音にはならないと思ったからだ。
「あの時は、カラオケとかよく行ってたよね」
「そうだね、達樹は歌上手かったもんね」
「はは、そんなことないけど。前もそう言ってくれてたよね」
「で、そのあとは定番のファミレス」
「そうそう、詩乃がいつも頼んでたツインハンバーグ、まだメニューにあるんじゃない?」
「ふ、もうそんな食べられないよ」
「意外と大食いだったもんね」
「…達樹もでしょ。あそこのハンバーグが美味しかったのー」
気まずい空気になるかと思ったが、居酒屋の喧騒が場を保ってくれた。
ガヤガヤとサラリーマンが多いので、注文も頻繁に飛び交っていてありがたい。
「今はそんなに食べない?」
「どっちかっていうとお酒を飲む」
「俺もお酒好きだよ、日本酒が好き」
「ええ、すご。私は全然ビールだなぁ」
朝川は目の前のハイボールを飲み干して、手元にあったメニューを見た。
一杯目はとりあえずハイボールなのだろうか。思い出はたくさんあるのにお酒については何も知らないことを今更ながら実感する。
「すみません、この宗高ってやつを」
ちょうど通りかかった店員にメニューを指差しながら朝川は言った。
そうして目の前の鶏皮ポン酢を一つ摘んで、へらりと笑った。
「詩乃は、元気にしてた?」
「うん、元気だったよ。達樹は、いつうちに入ったの?」
「二ヶ月前くらいかな?前の会社がきつくて、胃がやられちゃって、休んでた」
「え、大丈夫なの?」
「うん、波があって一応まだ通院はしなきゃなんだけど」
「そうなの…大丈夫?しっかり休んだ?」
お酒は飲んでも大丈夫なのだろうか。そう思いながら、ちょうど目の前の升に、なみなみと注がれて溢れていく日本酒を見ていた。
朝川は店員にお礼を言い、溢れた小さいグラスに口をつけて、一口だけ飲んだ。
「三ヶ月くらいかな?会社には完治したって言って面接受けたから、内緒ね」
「それはいいけど…飲んでも大丈夫なの?」
「適量ならね。最初はハイボール飲んで、日本酒ちびちび飲むから平気」
「そうなんだ、無理しないでね」
目の前に頼んでいた串盛り合わせが届いて、朝川は笑いながら手を伸ばした。
店の中央では炭火で串や肉が焼かれていて、少しだけ煙がこちらにも漂ってくる。
「優しいね、相変わらず」
「え、そう?」
「なんていうか、詩乃ってずっと優しかったよ」
「…淡白で、何にも執着しなさそうって言われるけど」
ちょうど昼間に真菜と話をした内容を思い出して口にしてみると、朝川は伏目で、何かを思い出すかのように笑った。穏やかに笑うくせに、口は大きい。
笑うと覗く歯並びのいい白い歯が、可愛いと昔は思っていた。
「淡白、そうかもね。確かに。でも詩乃は愛情深いなって俺は思ってたけど」
「…そうなの?」
「あんまり顔には出ないけどね。行動で示してくれるっていうか」
「ものは言いようなのかも」
「あと、時間はかかるけど、待ってたらちゃんと喋ってくれるし。意外と口数多くなるじゃん」
「…よく覚えてるね」
穏やかに笑いながら話す朝川に、詩乃がそう言うと、笑みが一瞬止まった。
奥ではサラリーマンが笑う声が聞こえてくる。
食べ物が焼ける音と、笑い声と、匂いと、煙で満ちている。
「…後悔してるからね」
「……」
「何度も思い出してたのかな」
何を、とは聞かなかった。
詩乃にも心当たりはあるからだ。
大学一年の春、授業のグループワークで仲良くなった。
何か劇的なことが起こったわけでもなく、なんとなくいいなと思っていて、なんとなくデートに誘われて、なんとなくメッセージが増えていって、好きだと告白されて、私もだと付き合った。
よくある、始まり方。
そうして一年ほど付き合ったあと、朝川は浮気をした。
バイト先の年下の女の子に言い寄られて、一夜を共にしたらしい。
朝川を何としてでも手に入れたかったらしいその女の子から、ご丁寧に証拠の写真がSNS伝いに送られてきて、発覚した。
よくある、終わり方だった。
「…もう昔の話なのに」
「……ちゃんと、詩乃に謝ることすらできなかったから」
言い訳は聞きたくないと言ったのは、詩乃の方だった。
友達に泣きついて、その場で促され、ブロックした。
その後も大学で姿を見かけても、徹底的に目を合わせず、友達がそばで守ってくれていた。
「…もういいよ、そんなの」
「それでも、ずっと引っかかってたからさ」
「…うん。もう許してるから、大丈夫」
「ありがとう…」
過去のこととして蓋をしていた。
あまり思い出したくはない記憶ではあったが、今こんなに穏やかな気持ちで振り返られるとは思っていなかった。
朝川の顔に安堵の表情が浮かぶ。
今日はこれを言おうと、ずっと緊張していたのだろうか。
「…あの子とは、あのあと付き合ったの?まだ付き合ってたりするの?」
「えっ、付き合ってないよ、普通にバイトもすぐに辞めたし」
「そうなの?」
「…すごい言い訳だけど、本当にあの頃は若くて流されたっていうか…理性が弱かったっていうか…あの子に気持ちが動いたわけじゃなくて…まぁそれも最低なんだけど…」
「…そうなんだ」
朝川が今でも気まずそうにするのが何だか面白くて、詩乃は笑みをこぼした。目の前の鶏ももの串に手を伸ばして、一口食べた。
じわりとタレの味が口内に広がっていく。
「…だから、会えて嬉しかった。強引に誘っちゃったけど、来てくれてありがとう」
「うん、私も、達樹に会えてよかった」
詩乃は目の前のビールをごくごくと流し込んで、笑った。
飲むねぇ、と驚きながら笑った朝川が、詩乃にメニューを差し出した。
頭上を通り過ぎる電車の轟音が、会話の合間に響いた。
朝川の穏やかな声が、喧騒をすり抜けて耳に届くたび、大学時代に、戻ったみたいな錯覚に陥る。
多分、朝川が、あの時に理性的だったならば、きっともっと、長い時間を過ごしていた。
詩乃はそう思いながら、もう空のビールグラスの、最後の一滴を流し込んだ。
遠くから漂ってきた炭火の煙が目に染みるのは、きっと煙のせいだけじゃない。