今夜は君の夜屑
「詩乃、何線?今はどこに住んでるの?」
「半蔵門線かな。住吉だよ」
「え、ほんと?」
あの時のお詫びにはとてもならないけれど、と朝川は居酒屋の代金を払ってくれた。
もう気にしてはいなかったが、気持ちが済むなら甘えておこうと詩乃は素直にお礼を言った。
店を出て、高架沿いに歩きながら詩乃が言うと、朝川は驚いた顔をして一瞬だけ足を止めた。
「うん、なんで?」
「俺、菊川。住吉まで行って、乗り換えて一駅」
「え?」
思わぬ情報に驚きつつも、そうなんだと呟いた声は、隣を走る電車にかき消されていった。となればそのまま向かう改札も同じで、必然的に最寄り駅まで朝川と帰ることになる。
「一駅乗り換えるの、面倒じゃないの?」
「そうだけど、前の会社は新宿だったから一本だったんだよ。わざわざ引っ越すほどでもないし、休んでた身だしね」
「そっか。身体、今は大丈夫?」
地下に降りるエレベーターは誰も乗っていなかった。
狭くて大人が四人ほどでいっぱいになりそうな、薄暗い箱。
「はは、優しいね、大丈夫だよ。薬も飲んでるし」
「そう、良かった」
「でもほんと、会社の人には内緒にしてね。まだ試用期間だから」
「うん分かってるよ、言わない」
先ほど居酒屋で聞いた、朝川の前の会社もそれなりの広告代理店で、きっと実力もある。だから今回のミーティングにも声がかかったのだろう。
改札に足を進め、何となくいつも乗る場所は避けて、ホームで足を止めた。
「詩乃は…、」
「ん?」
「…彼氏いるの?今」
一瞬、どう答えようか迷っている間に、電車が入ってきた。
地下鉄を進んできた大きなライトが目の前のホームを明るく照らした。
橘のことを言っていいものか。同じ会社だということだけ避けて言えば、問題ないか?この間、同期にはいないと言ってしまった手前、正解がわからない。
達樹だったら変な噂を流したりもしないだろうし、信用できる気がする。
「…いる」
「…そっか」
いいなぁ、と朝川が言った。
それ以上は深く聞かなかった。
電車に乗り込んで、角の席に座った詩乃の隣に、朝川も座った。
すぐにドアが閉まり、身体が進行方向と逆側に流れていき、朝川の肩に触れた。
「じゃあ、家まで送らない方がいいね」
朝川がぽつりと言った。
退勤ラッシュの時間はとうに過ぎていて、電車は空いていた。
目の前の誰も座っていない座席を見つめながら、返事をする。
「ふ、いいよ気遣わなくて」
「平日なのに遅くなっちゃったからさ」
「たまにはそういうのもいいでしょ」
「はは、そうだね」
そんなに笑う場面でもないはずなのに、朝川が吹き出したように笑った。
その大きな口で笑う顔が、何となく見たくて、詩乃は視線を移す。
「なんでそんなに笑ってるの」
「んー、詩乃とこんなふうに喋れるようになるなんて思ってなくて」
「そんなに後悔してたの?」
「してたよ。だってあの時は詩乃の友達が一切近寄らせてくれなくてさ、ブロックされて、何もちゃんとできなかったから」
まぁ俺が悪いから当然なんだけどさ、と朝川は慌てて付け足すように言った。
いつまでも気を遣う朝川に、何となく新鮮な気持ちになるのは、自分もあの頃より歳をとったからだろうか。
「もういいよ、気にしなくて」
「…うん、ありがとう」
その会話を最後に、お互い何も話さなかった。
触れた肩はとっくに離れていた。上部に設置されている電光掲示板のくだらないコマーシャルを、いつまでも目で追っていた。
「…じゃあ、俺こっちで乗り換えだから」
「うん、またね。ごちそうさま」
詩乃がいつも使う出口と朝川の乗り換えの改札の方向まで、一緒に歩いて、改札の前で立ち止まった。
「会社では、普通にするから安心してね。今日は思わず動揺しちゃったけど」
「うん。ハシケンに突っ込まれても適当に誤魔化しておいて、あの人面倒だから」
「はは、わかった。じゃあね」
朝川は微かに笑うと、詩乃に手を振った。
その何気ない様子に、すごく既視感を覚えて、少しだけ感傷的な気持ちになる。
「うん、またね」
また明日、と言わないのが、昔とは違うところだろうか。
「…詩乃、」
「ん?」
視線を逸らして歩き出そうとしたところで、朝川の声が後ろから聞こえて振り返る。
「…友達として、また誘っていい?」
改札からは、無機質なチャイムが鳴り響いている。
足元の点字ブロックが、ヒールの底をぐらつかせている。
「…だめ」
縋るような瞳の朝川がなんだか幼く見えて、昔を思い出して、笑みがこぼれた。
今日のことは、話したほうが誠実なのだろうか。
知らなくてもいいことも、橘は知りたいのだろうか。
「…じゃあ、ハシケンくんも一緒に」
「ハシケン?いやだよあの人と達樹とは!」
「なんでそんなに嫌ってんの?」
「嫌いじゃなくて、面倒なの。すごいんだから、ハシケンの観察力」
「ははっ、わかった」
詩乃は手を振って、朝川が振り返したのを確認してから歩き出した。
いつもの出口が近づくたび、駅の音がコンクリートに吸い込まれていくようで、ヒールの音だけが耳に残る。
バッグからスマホを取り出して、少し迷った後、橘に電話をかけた。