今夜は君の夜屑
「もしもし?」
『どうしたの、珍しいね』
数回コール音が鳴って、すぐに橘は電話に出た。
電話口の橘の声は少しだけ硬かった。
「一応、報告しておいた方がいいかなって思って」
『なに?てか、今外なの?遅くない?』
「うん、ちょっと飲んでて」
『水曜から?誰と?』
階段を登るハイヒールの音か、それとも耳元を抜けていく空気の音か。
一瞬でそれを察知するのはさすが橘だな、と思いながら、詩乃は言葉を選んで話す。
「んーとね、今日会社で、大学の時の知り合いと偶然再会して」
『え?』
「えーっと、それが、あの、元彼ではあるんだけど」
『は?』
「お互い未練もないんだけど、うーん、なんていうか、いい別れ方しなかったから、それの話をしたいって言われて…ちゃんと清算しようみたいな?」
『へえ?』
橘の声がだんだん強張り、トーンが低くなっていくのが電話越しに伝わり、スマホを握り締める力が無意識に強くなる。
階段を抜けると、むわりとした空気が身体を包んで、足早に家に向かう。
「あのー…その、再会した時、ハシケンもその場にいたから、…変な感じで伝わる前に、真尋には自分で言っておこうと思って」
『それで?』
「それでってなに?」
『なんの話をして、なんて言って、なんて言われたの?てか、今どこ』
「え?だからあの時はごめんねーみたいな…いいよーって。もうすぐ家だよ」
『もっと詳しく』
もっと詳しく、と言われてもそれ以上でもそれ以下でもないんだけどな。
浮気されたことまで話さなくても良くない?昔の話だし。そう思いながら言葉を探していると、うーん、えーっと、という音だけが口から漏れていく。
『はぁ、どこで飲んでたの?』
「え、会社の近くだよ」
『俺とは二駅先まで移動するくせに?』
「それはたまたま買い物したかったし、真尋とは付き合ってるけど、た…元彼はただの同僚なんだから違うでしょ?」
『…もう解散したの?』
「うん、さっき」
『さっきって何?駅まで一緒にいたの?』
思っている三倍の質問と、飛んでくる速度が早くて、思わず返答が遅くなる。
そのままを伝えればいいか、と軽く考えていたが、電話で話すことではなかったかもしれないと今更ながら後悔する。
大通りから外れて住宅街に進むと、車の音がなくなって急に静かになり、詩乃も声を落として話す。
「いや…元彼も、こっちの方で…」
『はぁ…今から家に行っていい?』
「え、もう二十二時…」
『じゃあ明日、定時で終われる?』
「明日…は厳しいかも…しれないんですけど…」
『…そしたら明日の昼、食堂で隣に座って問い詰めるけどいい?』
「終わらせる…ように…します…」
電話越しに圧を感じて、思わず敬語で返事をしていたことには後から気づいた。
『あー、やっぱ行こうかな今から』
「でももう夜遅いよ?明日も仕事あるし…」
『こんな時間に一人で帰ってる女の子に言われてもね。もう家着く?』
「うん、もう着く。目の前まで来た」
『…じゃ、明日ね。俺は明日直帰だから、俺ん家でもいい?』
「わかった…」
詩乃が返事をすると、橘は分かりやすく大きなため息を漏らした。
自宅のマンションに辿り着き、エントランスに入ると涼しい空気が出迎えてくれる。
エレベーターを呼び出した音が鳴ると、橘はその音が聞こえたのか、家に着いたかと問いかけた。
「うん、着いた」
『じゃあ、明日』
そうして切れた電話を見つめて、もしかしたら家に入るまで繋いでいてくれたのかな、なんて思いながら詩乃は自宅に帰った。
服装のことは言わなくてもいいだろう、と思っていたが、あの尋問のような調子では聞かれるかもしれない。
詩乃は無意識にため息をついて、パンプスを脱いだ。
「やっほー、詩乃ちゃん」
「わー…」
「なになに、めんどくさそうにしないでよ」
昼休憩、コンビニでばったりと会った橋立の顔を見て、詩乃は眉を寄せた。
真菜は別件で手が離せず、今日のランチタイムは一人だったのでコンビニで簡単に済まそうと思っていたところだった。
肩を叩かれた橋立の顔はいつものようににこやかだが、昨日の今日なので怪しさを感じてしまう。
「昨日はどうだった?朝川くんと、あの後何話したの」
「別に、昔話をちょっとしただけだよ」
「またまた、飲みに行くってなったでしょ」
「…なんで知ってるの」
橋立の言葉に詩乃はおにぎりを選んでいた手を止めて、隣の橋立を見つめた。
達樹が言ったのか、という邪推が脳内を駆け巡る。
「あ、ほんとになったの?カマかけただけだったのに」
「もう、ほんとにハシケン!」
「ごめんよー、いつ行くの?」
「さぁね」
詩乃は橋立から顔を背け、短く答えた。
昨日もう行った、なんて言う必要はない。
「今度飲み会しようよー、朝川くんも誘って」
「嫌だよ、ハシケンのいる場で話すことなんて何もない」
「ふーん?気まずい別れ方でもしたの?」
「…会計してくる!」
「はーい、またね」
今の言葉から何をどう推測して、その結論に辿り着くのか分からない。
怖すぎる、これ以上情報を与えるものか。そう思った詩乃は、早々と橋立との会話を切り上げた。
橋立はこれ以上聞き出すつもりはないらしく、振り返るとひらひらと手を振っていた。
橋立に何も話していないのに、全てを握られている気がするのは、なぜだろう。
そんなことを思いながら、詩乃はコンビニを出た。
橘がつけた跡は、まだ少しだけ赤く、念の為にと、今日もハイネックのトップスだ。
月曜から四日間連続で同じような服を着ているからか、さすがの真菜にも気づかれ、今朝問い詰められたところだった。
「なんでみんなそんな勘が鋭いのかな…」
冷たいエレベーターの壁にもたれながら、つぶやいた独り言が溶けていった。
首元を覆う布地が、いつもより少し窮屈に感じるのも、気のせいだろうか。