今夜は君の夜屑
「真尋、ごめん定時で終われなくて」
「いいけど、忙しかった?」
「うん、ちょっと帰りに仕事振られて」
三十分だけ残業をしてから橘の家に行った。
いきなり何か詰められたらどうしようと思っていたが、意外と普段通りの様子に見えて、少しだけ安堵する。
「ご飯、適当に買ってきた」
「わ、ありがとうー」
橘は玄関で詩乃のバッグを受け取り、リビングに向かった。
詩乃は無意識に顔色を伺いながら後をついていった。
「で?昨日の話の続き」
「んーと、大学一年の頃に付き合ってた元彼で、別れてからは全然連絡取ってなかったんだけど、会議でたまたま一緒になって、同じ会社って分かったの」
橘はリビングの隅に詩乃のバッグを置き、座るように促した。
ビーズクッションに腰を下ろしながら、詩乃は答えた。
「なんの会議?部署は?」
「ハシケンと一緒にやることになった、中途採用コンテンツ。経営企画だよ」
「同い年?そいつも中途で入ってきたってこと?」
「そう」
「ふーん、なんて名前?」
キッチンから持ってきたらしい袋から、テイクアウトしてきたらしいいくつかのプラスチック容器を出しながら、橘は言った。名前まで聞かれると思っていなかった詩乃は、その言葉に身体が固まる。
「名前…は良くない?会うことないと思うし」
「なんで?」
「なんでって…彼氏はいるって言ったけど真尋の名前は出してないし、変な目で見て欲しくないっていうか…なんともないよ?ほんとに」
「…彼氏いるかって聞かれたの?」
橘は惣菜を覆っていたビニールを剥がす手を止めた。
いつも通りの声で、いつも通りの口調なのにその言葉尻に圧を感じるのは、心配させてしまっているからだろうか。
「うん、いるって言ったよちゃんと」
「それは当然でしょ」
フェタチーズの地中海風サラダ、と書かれたラベルをベリベリと剥がし、橘は言った。目の前のパッケージには他にも、あさりの冷製トマトカッペリーニ、海鮮のブイヤベース風スープリゾットなんて名前が並んでいる。
真尋ってこんなものを選んでくるんだ。それとも私のため?なんて、それを横目で追いながら詩乃は言った。
「で、電話でも言ったけど、いい別れ方しなかったから、あの時はごめんねって言いたかったみたいで、改めて言われたっていうか…で、もう昔のことだし気にしてないよっていう感じで終わった」
「それだけ?」
「え、うん。それだけだと思うけど?会社では言いづらかったから、外で話そうって言っただけじゃない?」
「そうかなー」
テーブルの上に並んだいくつかの惣菜を持ち、橘は立ち上がった。キッチンの電子レンジまで歩いて行く橘の後を、詩乃も追った。
「ほんとに何もないんだけど、ハシケンから変な風に伝わるのが嫌で、報告しただけだから」
「…ふうん」
「…分かってくれた?」
橘は電子レンジを操作した後、冷蔵庫にもたれかかって詩乃を見た。
そういえば今日会ってから、しっかり目を見ていなかったと気づく。
「詩乃が、何も思ってないってことは分かった」
「え?うん」
「男がどうかは知らないけど」
「ええ?」
目の前で電子レンジの稼働音が聞こえてくる。
橘が詩乃に向かって手を広げ、一歩近づくと、その腕の中に詩乃を引き寄せた。
何も思ってないって、そうに決まっているのに。
彼氏がいると言ったら、いいなぁと言った。
電車で、肩が当たる距離だった。
また飲みに誘っていい?と聞かれた。
それを深く考えて意味を模索して、もしかしたらどこかに眠っているかもしれない可能性を恋人に伝えるほど、馬鹿ではない。
「…また首に跡つけてもいい?」
「だめ。こういう服しか着れないんだから。真尋が自分の首を締めるだけだよ」
「別に首元の開いた服着ればいいじゃん」
「社会人としてだめでしょ、真菜にもずっとそういうの着てるねってバレたんだから」
「ふ、春田さんすご」
橘が詩乃の首元に顔を埋めながら笑った。
自分が自衛すれば済む話だ。
眠っている種を、芽吹かせなければ、初めから無かったことと同義だ。
詩乃は腕の中でそう思って、橘の背中に手を回した。
一定のリズムで響いていた電子レンジの低い駆動音が、不意に途切れる。
電子音が鳴っても、橘の腕は詩乃を包んでいた。
何にも執着してないみたいで、そのうち、ふらっと離れていきそう。そう言われた時の表情を、もう一度させたくなかっただけの自分の判断は、きっと間違っていない。
「…なんで今日のご飯はこんなにおしゃれなの?」
「こないだ詩乃ん家で、ちゃんとしたご飯食べさせてもらったから、俺もちゃんと栄養バランスのいいやつ買ってこようと思って」
「この辺に成城石井ないでしょ?わざわざ寄ってきたの?」
「…うん」
首元に顔を埋める橘の声は、少しだけ恥ずかしそうだった。
レンジが再度電子音を鳴らした。
詩乃が首を少し動かして橘の方に顔を向けると、さらりとした髪の毛が頬に触れた。
「ふふ、ありがとう。気遣わなくても、コンビニご飯とかでも良いからね」
「…なんかさ、俺ばっかり好きな気がする」
「ええ?」
「余裕ないの、俺ばっかりじゃない?ムカつく」
橘は背中に回していた手をするりと下ろし、タイトスカートのホックをぷつりと外した。まっすぐ下りていくチャックの音がして、詩乃は慌てて身体を捩る。
「ちょ、」
「昨日、どんな服で飲みに行ったの」
「……昨日は、急に決まったから」
「だめだよって言ったのに」
「それは、っ」
詩乃が暴れても橘の力には到底叶わない。
床に滑り落ちたタイトスカートの柔らかな生地が、素足の甲を掠めていく。
てきぱきと動いていく橘の指が、今度はするりと背中を這い、ぷつりと上のホックも外しにかかる。
「見えないところなら良いでしょ」
「ね、ひゃっ、ちょっと、まひろ、」
「詩乃も俺しか見えなくなれば良いのに」
もう電子レンジは何も知らせてくれなかった。
遮る音も障害も何もなかった。
そのままするりと脱がされた服が足元に落とされて、橘の首筋に同じような跡をつけてやったらどうなるだろうと思いながら、静寂が戻ったキッチンで、詩乃は目を閉じた。