今夜は君の夜屑
それからしばらく、橘とも朝川とも何も起こることもなく、橋立に掻き乱されることもなく、平和な日々だったように思う。
朝川と橋立のミーティングは続いているが、そこに新たな人員が加わったこともあり、個人的な会話はなくなっていた。
橘とする度に、胸や太ももには内出血の跡がついていたけれど、別に日常生活に支障が出なければ問題なかった。
詩乃が作る簡単な料理が気に入った橘の意向で、詩乃の家で過ごすことが増え、仕事帰りにそのまま一緒に過ごして、会社まで一緒に出勤することも多くなった。
洗面所の歯ブラシと枕元の充電器が二つになり、日常的に使用されている。
「ねえ、これちょっと冷蔵庫入れておいていい?」
「いいよ、好きに使ってー」
橘が冷蔵庫を自由に使うことも増えた。
風呂上がりの橘が、そう言って冷蔵庫にペットボトルをしまうと、自宅から持ってきた部屋着のまま、ソファに座った。
いつの間にかスーツが二着ほど、いくつかの洋服も置かれるようになった。
その姿を見ながら、詩乃は今日偶然見た光景を橘に尋ねた。
「ねぇ、営業部の新人の可愛い子に言い寄られてるってほんと?」
「エッ」
真菜とランチから戻ってくる際、会社の外を歩く橘を見かけた。
その隣には、以前真菜から教えてもらった、営業部の新人の女子が笑顔で橘に話しかけていた。
「今日のお昼くらい、イチャイチャしてるの見た」
「イチャイチャなんかしてないけど!」
「誰のこと言ってるか分かってるじゃん」
「……誰かからなんか聞いた?」
「真菜から、狙ってるらしいよーって前から聞いてたけど、今日見ちゃったからさ」
詩乃はそう言いながら冷蔵庫に作り置きを仕舞った。
出費は増えたが、橘が気を遣って詩乃に定期的に食費を渡してくれている。
どうせ自分も食べるし、と断っていたが、強引に置いていかれるのでありがたく受け取っている。
「…最近、ペア組まされてるんだよね。今日はその帰りだよ。昼どこかで一緒にランチしませんかって言われたけど、断ったし」
「え、そういうのどうやって断るの」
「早く会社に戻ってまとめたいことあるから、今日はコンビニでサクッと済ませたいとか適当に言ってる」
「へえ…上手にかわすんだね」
「褒めてる?」
春田さんってハシケンくらい情報通だよな、と橘は言いながら立ち上がり、後ろから詩乃に抱きついた。
「あの子はどうなったの、コンサル部の山内さん」
「…別になんともないけど」
「この間、食堂で話しかけられてたらしいって、ハシケンが」
「なんなのその二人、怖いって」
そのまま洗濯物も畳んでしまおうと洗面所に移動する詩乃の後ろを、橘が抱きしめたままついてくる。
橘にその気がないことくらい分かっているので責める気は湧かないが、橘がどの程度把握して、どうかわしているかは気になっていた。
「さすが、モテるねー」
「何も明確なこと言われてないのに、俺は会社では彼女作んないとか言えないでしょ。ていうか詩乃と付き合ってるんだから、その言い訳ももう使えないし」
「別に言えばいいじゃん」
「いつか公表するときに、は?ってなったら嫌じゃん」
「公表…」
真菜や橋立のように、仲の良い人に個人的に知らせるくらいはそのうち、と考えていたが、そこまで大々的に言うつもりはなかった詩乃は、その言葉を無意識に繰り返した。
社内で付き合ったり結婚したりする人も珍しくはないが、基本的には秘密にしているはずだ。
「だから俺は詩乃と付き合ってるって言いたかったのー」
「待って、それって断る時に私の名前出すってことでしょ?いやだよー」
「なんで?」
「だってあの可愛い子たちに、この人かーって思われるのいやだもん」
洗濯かごに入っているタオルを、脱衣所のクローゼットに仕舞いながら詩乃は言った。あの若くて可愛らしい女の子たちの好奇の目線に耐えられる気はしない。
「いいじゃん、結局いつかは知られるよ?」
「いっ、」
その言葉が含む意味を、無意識に想像してしまった詩乃は言葉に詰まった。
畳んでいたタオルの端がズレて、思わず橘を振り返ると、背中からにやりとした笑みが返ってきた。
「詩乃、なに想像したの?」
「なにもっ」
「ちなみに俺、こんなに彼女と会ってるの、人生初めて」
「えっ」
「週末どっちか予定合えばって感じで、平日会うとか考えられなかった」
橘はそう言って、詩乃が畳んだタオルを受け取って、棚の一番上に仕舞った。
そこにあるカゴには、いくつかの橘の靴下と下着も入るようになった。
「今は、毎週末会ってるよね?泊まりで」
「うん」
毎週金曜は今日のように、どちらかの家にそのまま帰っている。
お互い何も予定が入らなければ、土日一緒に過ごし、月曜日一緒に駅まで出社することが多くなっていた。
「会ったら抱きしめたくなるし、抱きしめたらキスしたくなるし、際限ない」
「…」
「それで、最後には抱きたくなるんだけど、なんで?」
「なんでと言われても…」
洗濯物を仕舞い終わると、橘は詩乃が着ていたTシャツの裾を持ち上げて脱がせた。ポイ、と空になった洗濯カゴにそれを放り投げる。
「なにっ」
「詩乃、今からお風呂入るでしょ?手伝ってあげようかなって」
「いいっ、自分でやれるっ」
「一緒に入る?」
「真尋、さっき入ったじゃん、ちょ、」
橘から逃れようと、洗面台に腰をつける形になる。
向かい合わせでニヤリと悪戯を思いついたかのように微笑む橘は、詩乃の逃げ場をなくすように詩乃の身体の横に手をついた。
「今日は、ここでする?」
「しないっ、明るいしイヤっ」
「俺もこんなとこでしたことない。詩乃が初めて」
「そうやって言えばいいと思ってるでしょっ」
橘は詩乃を抱きしめるようにして背中に手を回した。
攻められる雰囲気が和らぎ、聞き入れてもらえたのかと肩の力が緩む。
「明日はどこ行く?」
「ね、あとで話そうよ」
洗面所の白い光の中で、上半身の心許なさが落ち着かなくてそう言うと、橘は詩乃の首元で、ふ、と息を吐いて笑った。
「あの子達や今までの彼女と、詩乃は雲泥の差だって、覚えておいてね」
「わ、分かった」
そう言うとぱちんと音がして、呆気なく背中にあった最後のものが外されていく。
先ほどから橘はどこか楽しそうで、弄ばれているような気がして少しだけ悔しい。
「詩乃は、こういうとこでしたことある?」
「ないって」
「じゃあ、お互い初めてで、ちょうどいいね」
何がどうちょうどいいのか、めちゃくちゃな理論に抗うことすら許されないかのように攻め入られ、でもそれがいやではなかった。
「詩乃、鏡で自分の顔みて」
「やっ、」
橘と会うかもしれないと思って予定を積極的に入れなくなっていて、もしかして依存しているのかもしれないと思っていた。
でも、きっと橘もそうに違いないと思った。
「俺だけって、言って」
「ま、ひろ、だけ、好き…っ」
「よくできました」
共依存が心地良いなんて、どうかしている。
そう思いながら、首に手を回した。