今夜は君の夜屑
「新田さん」
会議が終わってエレベーターに向かっている時だった。
後ろから声がかかり、詩乃が振り返ると、橋立が手を振りながら歩いてきた。
「どうしたの?」
「前言ってた中途採用コンテンツの飲み会、岸田さんの予定が定まったから、日程も決まってチャットで送った。で、お店の候補の相談に乗って欲しくて」
「うんいいよ、いくつかもう見繕ってあるの?」
橋立と朝川と三人で始まったプロジェクトは、途中で関係者が増え、現在は七人ほどのメンバーが集まっていた。
方向性が定まり、一旦区切りとのことで飲み会が開催されることになっていた。
今回も橋立が幹事を買って出ていた。
「うん、この辺で使えそうな店ならあらかた把握してあるし」
「さすが、抜け目ないね」
「詩乃ちゃんも一緒でしょ?情報と人脈を最短で取りにいけるから、毎回誘ったら来るんでしょ?」
「…まあね」
橋立がニコリと首を傾げながら言った。
軽くて調子のいい、飲み会好きな男だけではないことくらい、分かっている。
「せっかく人事に配属されたんだから、人脈作っていかないとね」
「ふ、変わんないね」
「詩乃ちゃんもね。そんなふうには見えないのに計算高いところ、俺好きだよ」
「ありがと」
詩乃は橋立の言葉を受け流しながら、そういえばと一歩近づいて距離を縮めた。
「朝川くんのこと、橘に言わないでね」
「別にわざわざ言わないけど、なんで?」
「橘、結構気にするタイプなの」
「ええ?そうなの?今までと違うんだ」
以前の同期の飲み会のように、橘がいるところで余計なことを言われては困る。
ちゃんとお願いしておけば分かってくれる人だということは知っているし、何より橋立を味方につけておいた方がやりやすいと思い、詩乃は簡単に橘とのことを話した。
「へえ…そんな橘、確かに初めてかもなぁ」
「そうなの、だからちょっと変なことは言わないで、本当に」
橋立は驚きつつも自分を納得させるように話を聞いていた。
きっと自分なりに分析をして落とし込んでいるのだろう。
「ふうん、分かったよ。それで詩乃ちゃんは窮屈じゃないの?」
橋立は不思議そうに聞いた。
「んー別に?橘が嫌ならやめるっていうだけだし、特に負担があるわけじゃないかな」
「そっか?それならいいけど」
これで、きっと橋立は味方でいてくれるだろう。
朝川のことは言いたくないが、結局は橘に変に思われなければいいので、共有はここまでにしておこうと、詩乃は橋立に手を振った。
「うん、じゃあ、お店後で送っておいて」
「分かった、またね」
エレベーターに向かいながら詩乃は橋立の言葉を思い出していた。
付き合いの長い橋立が初めてというのだから、橘の言葉は本当なのだろう。
少しだけ口元が緩みそうになるのを抑えつつ、詩乃は仕事に戻った。
そしてその昼休み、今日は真菜とは別のタイミングで休憩に入った。
簡単に済ませようとコンビニのレジで会計を済ませ、エレベーターで食堂に向かうと、いつもより席は空いているように感じた。
詩乃は食堂の端にある電子レンジでスープを温めようと向かった。
台の上にいくつか並んでいるレンジの一つを使おうと立つと、隣から視線を感じた。
「あ、お疲れ」
その声の方を向くと、朝川が立っていた。
「詩乃も、昼?」
「ちょっと、会社で詩乃はやめて」
「あ、ごめん…新田?」
思わず声をひそめると、朝川も同じように小声で謝った。
長い時間を過ごした記憶が染み付いているからだろう。
「すぐ噂になるんだから、気をつけて」
「ごめんね。新田も今日はコンビニなの?」
「うん、たつ、…朝川くんは?」
そんなことを考えていたからか、すらりと自分の口からも名前が出てきそうになり、急いで訂正した。
朝川は柔らかく笑うと、先ほどと同じ声量で言った。
「わー、朝川くんって新鮮だなぁ。俺はコンビニか弁当作ってくることが多いよ。今日はコンビニ」
「すごい、ね…」
朝川の前のレンジが、温め終わったことを知らせる音を鳴らした。
隣で電子レンジから取り出されたコンビニの白い器を何気なく見て、詩乃は思わず朝川の腕を引く。
「わ、どうしたの」
「ねえ、体調悪い?」
「え?」
詩乃の視線は、朝川の手にあるうどんに吸い寄せられていた。
お出汁たっぷりたぬきうどん、と書かれたラベルが、レンジの熱によって少しだけ縮こまっていた。昔と好みが変わっただけならいい。
昔は一緒に、ファミレスでスタミナ丼を食べていた。もう何年も経っているのに。
「…胃は大丈夫なの?」
「ああ…大丈夫だよ。…これは俺が食べたかっただけ」
「ほんと?無理してない?」
「うん……大丈夫、ありがとう」
朝川は少し呆然とした顔で、詩乃を見ていた。
その視線に気付き、詩乃は慌てて朝川の腕を離す。
噂になるから、なんて言ったばかりなのに、私は食堂で何を。
「ごめん」
「ありがとう、新田」
食堂は相変わらず喧騒に包まれていた。
名字で呼んで、だなんて、少し言い方がきつかったかもしれない。
誰も気にしていないのに。
気まずさから朝川と距離を取ると、ちょうど詩乃の前のレンジが音を鳴らした。
詩乃はすぐにそれを取り出し、温められたスープを手に取った。
「…じゃあ」
「ひとり、なら。一緒に食べない?」
「…や、噂に、なるから…」
詩乃は足早にその場を離れた。
そう言われる気がしたから、すぐにレンジの扉を開けたのに。
違う、私が、動揺したからだ。
つい会社で、気兼ねなく腕に触れてしまったことに。
「あつ…」
温めすぎていたらしいスープの容器の底は熱く、詩乃の指をじんじんと叩くように熱を伝えていた。
席は事前に取っていなかったが、ちょうど両隣が女性で埋まっている席に座った。別に不自然ではない。自衛すると決めたばかりなのに、良くない。
冷めるまではそのままでいいと思って、食事の最後まで放置していたスープは、食べる頃にはすっかりぬるくなっていた。