今夜は君の夜屑
橋立と相談して決めた店は、丸の内の通りから少し入ったビルの上階にあった。
エレベーターを降りると、白木と間接照明でまとめられた落ち着いた空間が広がっていた。
入り口からしてどこかきちんとしていて、仕事の延長で来るにはちょうどいい空気感だった。
「新田さん、こっち」
先に到着していた橋立が、廊下の奥にある個室の前で手を挙げた。
襖を開けると、すでに全員が座っていた。
橋立は詩乃の正面に座っていて、朝川の隣しか空いていなかったため、仕方なく詩乃はそこに腰掛けた。
「すみません、お待たせしました」
詩乃が頭を下げると、岸田が軽く手を振った。
「いや、ちょうど揃ったところ。気にしないで」
経営企画の岸田は詩乃たちより四つ上で、このプロジェクトの中では一番上の立場にあたる。
声を荒げたりするわけではないのに、不思議とその場が整うタイプだった。
会議でもそうで、橋立が話を広げ、詩乃が形にし、朝川が整理する流れを、最後に岸田が静かに一本に通す。そんな役割がいつの間にかできあがっていた。
個室は七人で座るには少しだけゆとりがあり、テーブルの中央にはすでにお通しの小鉢と、冷たい水の入ったグラスが置かれている。
襖の向こうからは他の客の話し声が遠くに聞こえるだけだった。
「ひとまず、ここまでの方向性が見えてきたってことでお疲れさま。まだ終わりじゃないけど、最初よりはだいぶ形になってきたし、一旦ここで関係者の認識も揃えておきたい」
その言葉に、何人かが頷いた。
橋立と詩乃、朝川だけで始まった小さな打ち合わせだったが、進めていくうちに、人事の感覚だけでは足りないことや、広報の見せ方だけでは弱いこと、実際の現場の声やデータや表現の幅が必要なことが分かって、少しずつ人が増えていった。
じゃあ乾杯だけしようか、と岸田が言ってグラスを持ち上げると、全員がそれに続き、グラスが触れ合って、乾いた音が個室の中に広がった。
「でも、ここまで増えると思ってなかったですよね」
営業の後輩女性が、ビールを口にしながら言った。
詩乃たちの一つ下で、現場視点を入れるために途中からこのプロジェクトに加わった。
営業らしく人当たりが良くて明るいが、数字の話になるときっちりしていて、会議では意外と発言が鋭い。
「私も、最初はインタビュー記事数本書いて終わりかなって思ってました」
「俺もそう思ってた。急に橋立が、軽く相談したいとか言うから」
「いや、軽い気持ちではあったんですよ最初は。でもやってるうちに、これちゃんと設計しないとだめだなって」
「まぁ、採用って人事と広報だけでもないし」
刺身の盛り合わせ、出汁巻き卵、豚の炙りなどの料理が運ばれてくるのを見ながら、営業の後輩女性が詩乃に言った。
「新田さんの設計、結構助かってますよ」
「え、ほんと?」
「はい。新田さんがそれだと他社と一緒ですよねって切ってくれるから」
「言ってたねぇ」
橋立が面白そうに笑う。詩乃は少し肩をすくめた。
「どこでも言ってる言葉だと、人は来ないかなって思いまして」
「そこをちゃんと噛み砕いて言語化するのが広報の仕事だよね、新田さんはそこ強いと思う」
真正面からそう言われると少しだけ照れくさく、詩乃は曖昧に笑った。
グラスを口元に持っていくと、隣にいた朝川が同じタイミングでハイボールを飲んでいた。
朝川は会議の中では必要なことだけを言うタイプで、こういう場でも変わらず静かだった。
ただ、前よりは少し話すようになっていて、人事の先輩に前職の広告代理店時代の話を振られると、困ったように笑いながら短く答えていた。
「広告運用って、やっぱ大変なの?」
「まあ、数字ずっと見てる仕事だったので…」
「メンタルやられそう」
「そうですねー、メンタルというか体調にきましたね」
さらっと言ったその言葉に、詩乃は一瞬だけ視線を上げた。
けれど朝川はそれ以上広げるつもりはないらしく、すぐに日本酒の徳利に手を伸ばした。
「朝川、飲みすぎるなよ」
「大丈夫です、ありがとうございます」
そう言って穏やかに笑う顔を隣でちらりと見ながら、その手元を少しだけ見つめた。
「ねぇ、大丈夫?」
「……詩乃?」
朝川がトイレに立ってから少しした後、詩乃も続いた。
岸田を中心に話は盛り上がっていて、抜けても誰も何も思わないだろうと思った。
店を出て少し歩いた先、同じフロアの奥にトイレがあり、そこの壁に朝川はもたれていた。
「ごめん…」
「達樹っ」
詩乃が近づくと、朝川はふらりとその場にしゃがみ込んだ。
朝川の取り皿の食べ物は、ほとんど減っていなかった。二杯目に頼んだ日本酒も、量がほとんど変わってないことに気づいていた詩乃は、心配して追いかけてきたのだ。
「ちょっと…しんどくて」
「大丈夫?吐きそう?立てないの?」
「うん…ちょっとだけ休んでから戻るよ」
「もう帰りなって、私言っておくから」
「いや、でも…せっかくの交流の場だし」
壁にもたれて小さく言葉をこぼす朝川の顔色は悪く、こめかみには汗が流れていた。
余程無理していたのだろう、と詩乃は思った。
きっと食堂でのうどんも、食べたかったのではなく体調が悪かったのだろう。
「そんなこと言ってる場合じゃないって。ちょっと待って荷物とってくるよ」
「しの、」
詩乃が立ちあがろうとすると、朝川の手が詩乃の服を掴んだ。
薄いグリーンのブラウスが、その手の中でくしゃりと丸まった。
「言わないで、俺の病気のこと」
「…わかってるよ…」
呼吸も先ほどより浅くなっている気がして、詩乃はポケットからハンカチを出して朝川に握らせた。それでも動かない朝川の手を持って、こめかみに浮いていた汗を拭いた。
「ちょっと待ってて」
ここで抜けるなんてあり得ない、誰に何を言われるか分からない、営業部の女の子伝いに、真尋に話が行くかもしれない、さすがのハシケンも誤魔化せないかもしれない。
そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。
それでも、今、達樹を置いて行くことはできない。
「すみません、朝川くんがちょっと酔っちゃったみたいで、私送っていきます」
「えっ」
「大丈夫か?俺が行こうか」
営業部の女性の驚いた声に、岸田の声が頭に響く。
そうだ、達樹の上司だもん、この人が送って行くのが当然なのかもしれない。でも。
詩乃、とか細い声で握られたブラウスは、もう元の形に戻っていた。
視線を橋立に移すと、じっと詩乃を見ていた。
「大丈夫です、家も同じ方向なので…すみません、橋立くんあとよろしく、お金は後日精算させてください、すみません!」
そう言って、椅子の下のカゴに入っていた朝川と自分のバッグを手に取り、個室を飛び出した。朝川の黒いリュックは重くて、途中から背中に背負った。
なんで、私、今こんなに焦って早歩きしているんだろう。
特別な感情なんてないのに、脳裏には橘のことも焼き付いているのに。
深い意味はないと分かりながらも、詩乃はうずくまる朝川の元に、駆け寄った。