今夜は君の夜屑
「ほら、リュック取ってきたから一緒に帰ろう」
「待って、ちょっと休めば良くなるから…」
「いいのもう、帰るって言ってきたから。タクシー捕まえるから、立てる?」
ずっしりと重いリュックの中には何が入っているのだろうか。
それと自分のトートバッグだけで精一杯で、どう朝川を連れて行こうか迷っていると、背後から名前を呼ばれて振り返る。
「詩乃ちゃん、朝川くん」
「ハシケン、ちょっと手伝って」
「わ、顔色悪いね、もう吐いた?」
橋立の言葉に朝川は力無く首を振った。
そうだ、朝川が飲みすぎたと言って出てきたんだったと思い出すが、見られてしまっては仕方がない。橋立に事情を話そうかとも思ったが、朝川の言葉を思い出す。
それに橋立は人事課だ。言いふらすとは考えにくいが、人事の人間には一番知られたくないだろうと思い、詩乃は言った。
「ハシケン、今後奢るから、ごめんけど今日は合わせて」
「うん、分かった。とりあえず様子見てきますねって感じで俺は出てきたから、後で誤魔化しておく。あの営業の子だけ納得させれば、他は詮索しないよ多分」
「ありがとう。ちょっと朝川くんのこと支えてあげて」
橋立が朝川の身体を支えて、自分にもたれさせるようにしてエレベーターの方まで歩き出した。詩乃はそれを追い抜かして、ボタンを押して待つ。
「タクシーで行くよね?」
「うん、この辺ならすぐ捕まると思う」
「一緒に乗る?方向一緒っていうのはほんと?」
「うん、隣の駅なの」
「…まさか家も知ってるの?」
エレベーターにたどり着いた橋立が、目を丸くして詩乃に言った。
それにもたれるようにしている朝川は、目を閉じてぐったりしている。
「知らないよ、最悪ちょっと免許証とか見せてもらおうかなって」
「なるほど、あーびっくりした」
「…エレベーター来た」
開いた扉に先に乗り、開くボタンを押していると橋立がゆっくりと入ってきた。
とても自分だけでは運べなかっただろうと思いながら、詩乃は階数表示のパネルを見つめた。
タクシーはすぐに掴まり、詩乃が先に乗り込んだ。
橋立が隣に朝川を乗せると、眉を顰めながらヘッドレストに頭をもたれさせていた。
車内はクーラーが効いていて涼しかった。
「ごめん…ハシケンくん」
朝川が少しだけ目を開け、声を絞り出すようにしてそう言った。
「いいよ、無理しないで。うまく言っとくから」
「ありがとハシケン、助かった。よろしくね」
「うん、俺は詩乃ちゃんの味方だから」
そう言って橋立は離れると、運転手が詩乃に目配せをして、ドアを閉めた。
詩乃が「とりあえず菊川駅まで」と言うと、運転手は頷いて車を発進させた。
「達樹、家の住所言える?」
「ん…」
朝川がポケットから財布を取り出して詩乃に渡した。
手渡された革の財布は、体温でひどく温かかった。
朝川の目は先ほどと同じように閉じられていて、詩乃が免許証でも見せてもらおうと言った言葉は聞こえていたのだろう。そう思いながら、詩乃は問いかけた。
「財布、開けるよ?」
「うん…」
免許証の住所を運転手に伝え、信号が赤のうちにナビに入力されていった。
きっと三千円するかしないかくらいだろう、そう思った詩乃は、これ以上無理をさせないようにと何も話しかけなかった。
なんで、私こんなことしてるんだろう。
先ほども頭に浮かんだ問いが、またゆっくりと浮かんでは消えていく。
恋愛感情があるわけではない。
橘がよく思わないであろうことも分かっている。
それでも、昔の私はこの人が好きだったから。
ただそれだけの理由で、あの時の自分を救うような気持ちで助けることは、よくないことなのだろうか。
深夜料金と表示されたタクシーのメーターが、規則的に数字を変えながら赤く光っていて、窓の外を流れる丸の内の街灯が、交互に車内を照らしていた。
二十分ほど走ったタクシーがマンションの前に到着すると、詩乃は達樹が先に降りられるようにした。
ここからは自分で動いてもらわないと困る、と思っていたが、先ほどよりはしっかりと立てているように見えた。タクシーで休めたからだろうか。
「達樹、鍵は?」
「外のポケット…」
精算を終えた詩乃がそう聞くと、達樹はその場にしゃがみながら言った。
詩乃がリュックを探り、キーケースらしきものを取り出した。
「歩ける?吐きそう?」
「大丈夫…いいよここで…」
朝川はそう言ったものの、その場から動く気配はなかった。
部屋まで送ってしまえば、すぐに出ればいいだろうと思い、詩乃は朝川の腕を取った。
「ここまで来たならいいよ、何階のどこ?」
「…三〇五…」
「分かった」
ここまできたら、もう何もなかったことにはならない。
詩乃は朝川の腕を肩に乗せ、マンションの中へと進んだ。
肩にかかる朝川の腕の重みは、記憶の中にあるあの頃よりもずっと重かった。
三階の静まり返った廊下に、ヒールの音がコンクリートに冷たく反響していた。
部屋のドアに指をかけた瞬間、頭をよぎったのは橘の顔だった。