今夜は君の夜屑
 
 
 
 
 
 
「達樹、勝手に入るからね」
「ん…」

廊下の電気をつけ、二人分の荷物を滑り落とすように床に置いた。
詩乃の家とほとんど同じような間取りの部屋の中を進み、リビングの奥に繋がっている部屋のベッドに、朝川をゆっくりと寝かせた。

「薬とか飲んだほうがいいの?水は?冷蔵庫開けていい?」
「開けて…ごめん、お茶とかあっためてもらってもいい…?」
「分かった、勝手に使うよ」

クーラーのリモコンを探しスイッチを入れると、詩乃は冷蔵庫を開けた。
扉側にあったお茶を、近くにあったマグカップに入れて温める。
ぽつりぽつりと漏らされる指示に従って薬を持っていき、朝川に渡した。

「寝てなくて大丈夫?」
「ちょっと…横になると気持ち悪くて」
「そう…最近、飲み会でも続いてたの?」
「うん、ちょっとね」

詩乃はマグカップを一旦受け取り、朝川が薬を飲むのを見つめた。
明るいと気持ち悪くなるかもしれないと思い、部屋の電気はつけなかった。廊下から入ってくる光が、やんわりとこの部屋を照らしていた。

「断れ…ないか、入社二ヶ月だもんね…」
「調整してたつもりだったんだけど…またミスったな…」

また、という言葉に詩乃は朝川をちらりと見つめる。

「無理しないで。岸田さんも知ってるし、明日は休んだら?」
「詩乃…病気のことは、」
「言ってないよ。飲みすぎたみたいでって言ったから、明日フォローの連絡しておいたら」
「そうする…」

朝川が詩乃をちらりと見て、マグカップに手を伸ばした。
詩乃がそれを手渡すと、朝川はそれをゆっくりと飲んで息を吐いた。

「…ごめん…詩乃にも抜けさせて」

朝川は手の中のマグカップを見つめながらそう言った。
落ち着いたからか、薬のおかげか、先ほどよりかはしっかりと話せていた。

「いいよ、気にしないで」
「……俺、なんで…」

朝川は何かを言いかけて、言葉を止めた。
その手の中のお茶の表面がかすかに波打っていた。
「もう飲まない?」と声をかけて、詩乃はマグカップを受け取った。


それをリビングのテーブルの上に置き、ベッドサイドに腰かけた、その瞬間に気づいた。


あ、間違えた。


「ごめん、ちょっとだけ…」

朝川がゆっくりと詩乃の手を引いた。
ゆらりと身体が傾き、流れるように朝川の腕の中に収まっていたことに、詩乃は遅れて気づいた。


「たつき」
「詩乃、ごめん、分かってる、ちょっとだけ、ほんとに、今だけ」


朝川の身体は熱を帯びていた。
熱い頬が触れているのを、腕が背中に回っているのを感じて、その懐かしさが蘇ったことにひどく動揺した。

「だめ」
「分かってる、ふらついただけ、すぐ離れるから」

そう言いながらも、朝川の腕の力は弱まらない。
少し身を捩るも、覆いかぶさるように体重をかけられた朝川の身体を振り解くことはできない。

「私、彼氏いるの」
「うん、うん…、ごめん、俺が、弱いだけで…」

どこかで時計の針が、規則的に音を立てていた。
ほのかに暗いこの部屋では、何がどこにあるのかすら分からない。
ベッドからは、ほのかに朝川の香りがした。

さっき腕を肩に回した時に感じた香水も、柔軟剤も、あの頃とは違ったのに。


「彼氏のこと、好きだから」
「うん…知ってる、邪魔する気なんてない…」

懐かしさだけが、あの頃の色褪せた記憶だけが、きっと自分の中で渦巻いている。
心臓の音は、いつもと変わらないリズムを刻んでいる。
くしゃりと指先に触れるワイシャツから、ほんのりと出汁の香りがした。


「…達樹、もうだめ」
「詩乃、詩乃、おれ、…あの時は、…ごめん……っ」

朝川の声は震えていた。
引っ張られた時に咄嗟に掴んだシーツが、詩乃の手のひらの中で柔らかくうねっている。

「もう、いいって」
「っ違う、俺、ごめん…もっと…大切にしなきゃいけなかった…っ」

家に、来るべきではなかった。
でもきっと、時間が巻き戻ったとしても、私は達樹をここに送り届けるだろう。

「付き合ってる時は…楽しかったから。もういいんだよ」
「……俺、…っ」

もう、本当に終わりにしなければ。
そう思って、詩乃が身体を動かすと、呆気なく腕は解けていった。

「…もう大丈夫そう?落ち着いた?」
「……うん」

朝川は手のひらで顔を覆って、ゆっくりと言った。

「…よろけて、ごめん」

詩乃はベッドから降りて、朝川を見つめた。
シーツを握りしめていた手のひらが、少しだけ熱い。

「…うん。お大事にね」
「…ありがとう」

今になって、ストッキングしか履いていない足裏が、フローリングに触れて冷たい。
抱きしめられても揺れない心が、私の今の気持ちだろう。

詩乃はゆっくりと朝川の部屋を後にした。
かさりとストッキングが床に擦れる音がして、廊下の明かりはつけたままにした。

朝川は何も言わなかった。
だから詩乃も、何も言わなかった。

大人になって、誤魔化すのが上手になったね。
無意識に浮かんだ気持ちに、自嘲気味の笑みが漏れて、詩乃はマンションを出た。
歩ける距離ではあったが、大通りに出てタクシーを拾った。

先ほどと同じ深夜料金という表示が、少しだけ目に焼き付いていた。
 

 
 
 
 
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