今夜は君の夜屑
 
 
 
  

 
「詩乃」
「あ、お疲れ」

声が聞こえてメニューから視線を上げると、橘が手を上げてこちらに歩いてくるところだった。
今日はなんとなく外で食べたい気分で、いつもの二人の家の真ん中の駅で待ち合わせた。詩乃の好きな店でいいと言われたので、サクッと駅のすぐそばにある牛タンが売りの食堂に入ったところだった。

「今日は牛タン?気分だったの?」
「そう、今日真菜とのランチが軽かったから、なんかがっつり食べたくなった」

珍しいねと橘が笑った。
カウンターの隣に座り、目の前のメニューを取り出してパラパラとめくる橘を見ながら、詩乃は昨日のことをどう伝えようか考える。

「詩乃、決めた?」
「うん、私は塩レモン牛タン御膳」
「うわー美味そう」

橘はメニューを見ながら笑い、店員を呼んだ。
「塩レモン牛タン御前と、牛カツ御膳で」と店員に伝えた橘は、店内を見渡しながら水を飲んでいた。その様子を見ながら、詩乃は意を決して言った。

「真尋、あのね、ちょっと話したいことがあって」
「…うん?なに?」

橘がゆっくりとこちらを向いた。
今日のランチで真菜に相談すると、なんでわざわざそんな火種になることを言うのと言われた。それでも、隠しておく方が嫌だろうなと思って、言うことに決めた。

「前言ってた、元彼…が昨日の飲み会で、体調悪くなっちゃって、家まで送ってったの」
「…ふうん」
「嫌な気持ちになるかなって思って言ってなかったんだけど、元彼が菊川に住んでて…方向も一緒だったから」
「抜けて?」
「え?」

橘が、手に持ったままのコップの水を飲んで、ゆっくりと聞いた。

「途中で、抜けたの?二人で?」
「…ハシケンも、抜けてくれたよ。タクシーまで運んでくれた」
「…そう」
「聞いたら、分かるよ」
「別にいいけど」

何となくその静かさが不気味に感じて、詩乃は思わず目線を逸らした。
夏の限定と書かれたメニュー表の文字を、無意識に追う。

「それで、なんかあった?」
「…何も。歩くのもしんどそうだったから、送って、すぐに帰ってきたよ」
「ふうん。…何で報告してくれたの?」

怒られるかなと思っていた分、静かに聞かれたことは予想外だったが、橘の声が思ったよりもいつも通りで少しだけ胸を撫で下ろす。
何も起こらなかった。よろけた達樹を、支えただけ。報告する必要はない。

「営業の子もいたし…変な感じで真尋に伝わって誤解されたら嫌だなって思ったからだよ」
「ふうん、分かった」

橘は詩乃に向かって少しだけ笑みを浮かべた。
流石に、体調が悪い人を送っただけなら、仕方ないと思ってくれたのだろう。そう思って背中の力を抜いた詩乃を見て、橘が言った。

「ねぇ、今日、やっぱり俺んちでもいい?」
「え?うん、いいよ。どうしたの?」
「ちょっと、荷物取りに行きたくて」
「そうなの?分かった」

自分の部屋には、すでにそれなりの橘の服やコンタクトなどが置かれているが、まだ必要なものでもあるのだろうか?まぁまだ置き場に余裕はあるし、と思っていると店員が料理を持ってきたので、会話は途切れた。

一緒に運ばれてきた御前に「美味そー」と呟く橘は、いつも通りにも見えるが、今までの傾向からしてそれだけで終わるのが何となく納得いかない。
トラブルが起こらないならそれでいいはずなのに、どこか胸に引っ掛かりを覚えたまま、詩乃は食事に集中した。








「お風呂入る?」
「…あ、うん」

何となく家に入るまでは、もしかしたら前みたいに玄関で、とか見えるところにキスマークをつけられるかも、などと考えていたが、橘はどこか含みのある笑みを浮かべたまま、詩乃を優しく部屋に通した。

「…なに?」
「え?なにって、何?」

何だか、まるで嵐の前の静けさかのような感覚。このあと、とんでもないことが待っているんじゃないかという予感がする。
背筋を指でつーっとなぞられたかのようないやな感じがしたが、確かに普通に振る舞っているだけではある。

部屋でテレビを見ながら過ごしているとお風呂の音が鳴り、橘は洗面所からわざわざタオルを持ってきて、詩乃に渡した。

そんなにすぐに入るの?いや、でも変に勘繰りすぎか?と思いながら、詩乃はタオルを受け取った。「ゆっくりあったまっておいで」と言った橘に、訝しげに頷く。

「なんか、変…」

服を脱いで浴室に入った。
詩乃の家に来ることの方が多かったので、橘の家で風呂に入るのも久しぶりだ。
最低限のスキンケアは置いてあるので問題はないか、と、湯船に身体をつけた時だった。

「あったかい?」
「えっ」

ガチャ、と音がして、橘がありのままの姿で浴室に入ってきた。
その勢いのまま詩乃を一瞥もくれず、バーを捻ってシャワーで顔を洗い出す。

その動作があまりにもスムーズで、浴槽の中で固まる詩乃は、それを呆然と見ていることしかできなかった。

「…っ!」

手が二つしかないのに、隠したい場所だらけだ。
こんな明るくて狭い風呂の中なんて、冗談じゃない。しかもさっき御前を食べたし!ご飯もお代わりしちゃったし!頭の中が半分パニックになりながら、慌てて浴槽から身体を浮かせた詩乃を、橘はシャワーを止めて、にこりと見た。

「逃げようとしてんの?」
「…〜っ」

さっきまでの違和感は、やはり間違いではなかった。
きっとずっと、これを企んでいたに違いない。

「いいでしょ、一緒にお風呂くらい」

そう言って、水分をたっぷり含んだ髪を後ろにかき上げた。
悔しい、あまりにも絵になっている。

遠慮なく湯船に入ってきた橘は、詩乃を後ろから抱きしめるかのように、背中側にざぶりと身体を入れた。
二人分の体積が増えて、浴槽のお湯があっけなく溢れていくのを、詩乃は見つめることしかできない。

無機質なオレンジ色のライトが、湯気に濡れた肌を容赦なく照らし出している。
目の前の自分の太ももには、橘がこの間つけたばかりの痕が揺らめいていた。

「ひゃっ」

するりと腕がお腹に回され、無意識に力を入れて引っ込めていた場所をピンポイントで触られた。

きっと、自分の思い通りになって、さぞかし満足そうな顔をしているに違いない。
相変わらず性格が悪い男だ。

「あったまるね」
「……なにしてんの」
「一緒にお風呂入ろうかと思ってさ」
「先にそういうのは私に聞くんじゃないの?」
「聞いたらダメっていうでしょ」
「…聞かなかったら無理やり決行していいわけ?」

橘が背後で笑ったのを感じた。
もうだめだ、こうなったら橘の手のひらの上だ。


「さっきの元彼の話、続き聞かせて?」


やっぱり、全然納得してなかった。
 
 
 
 

 
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