今夜は君の夜屑
 
 
 


あのまま土日はまた一緒に過ごした。
特に改めて約束もしないまま、他の予定も入れず、橘と会うことが当たり前の日常として過ぎていく。 

橘と付き合って二ヶ月ほどだが、すっかり半同棲状態になっている。
まあでも、プロジェクト単位で動くので、そうはいかないこともあるだろうし、会える時に会っておいて悪いことはないか、などと考えながらパンを貪っていた、木曜日の昼休み。
 

「詩乃、今日も行っていい?」

今日は真菜は別件でおらず、詩乃一人でのランチタイムだった。
窓側に向かってスマホ片手にSNSのタイムラインを追っていると、その声と共に隣の椅子がギィ、と音を立てて引かれた。

「えっ」
「帰り何時になりそ?」

当然のように話しかけ、詩乃と名前で呼んで、帰りの時間を聞いてきたのは橘で、まるでいつもの家で見せるかのような笑みを浮かべていて、詩乃は思わず小さく声が漏れる。

「な、ちょっと、なに」
「なにって?」

茶色のビニール袋をがさりと机に置いて、橘はコンビニ弁当を取り出した。
今日は朝、メッセージのやり取りで確かに昼はコンビニだと、一人の予定だと伝えて、もしかしたら会えるかもねーなんてことは言ったが、「詩乃」と呼んで家の話をするなど、どういうつもりだ。

「なんで、隣」
「え?隣に座ったことなんか今までもあったでしょ」
「そうだけど…家の話なんかしないでよっ」

小声で話す詩乃の声が聞き取りづらいのか、「ん?」と肩を寄せるようにしてきた橘の身体を思わず避ける。
反対側に動いた詩乃をちらりと見て、橘は弁当の蓋を開けた。

「どうしたの」
「近いって、見られる」
「何でだめなの?」

企んでいる表情すら見せず、いつも通りに振る舞う橘の様子に、自分がおかしいのかという気持ちにすらなってくる。
この間、営業部の女の子たちは噂が好きだとか説教してきたのは、どこのどいつだ。

「待って、おかしい橘」
「詩乃、この唐揚げ食べる?」
「いらないっ、てか待って、名前やめてって」
「えー?じゃあ俺が食べる」

持っていたチョコチップパンに、手の中でぐしゃりと圧がかかる。
先ほどより声は小さくしてくれているが、その調子は変わらず、とても続きを食べる気になどならない。

「夜どうする?」
「…何でもいいけど…作ろうか?」
「ほんと?嬉しい」

橘が唐揚げをぱくりと口に放り込みながら言った。
その顔は言葉通り嬉しそうに笑みを浮かべていて、詩乃は戸惑いながらその顔を見つめた。

「なに?」
「なに企んでるの?」
「なにそれ、別になにも」
「…なにもってことはないでしょ」

手についたらしいソースを、ぺろりと舐める橘は「早く食べなよ」と詩乃の手の中のパンを指差し、渋々とそれを口に運ぶ。

「食べ終わったらコーヒー買いに行く?Mサイズ百円クーポン出てたよ」
「……」
「詩乃が行くなら俺も行こうかな」

またしてもさらりと名前を呼ばれ、いっそのこと早く食べ終わって時間差でもいいからこの場から離れたほうがいいんじゃないかと思い、パンを二口一気に頬張る。

「そういえば、スタバ今日から新作だって」
「……そう」
「飲みたいって言ってなかった?」
「…言った」
「週末、買いに行こっか?」
「ねぇっ、ちょっと静かにして」


頭の中で原因を探すも、心当たりは微塵もない。
朝川ともあれからは顔を合わせていないし、連絡も取っていない。
橋立が余計なことを言ったのだろうか?でもこの間のあの様子からすると、何となくの事情は分かってくれているようだった。

今日の夜会うというなら、ちゃんと話をしなければ。

せっかくダイエットと天秤にかけて、背徳感の元選んだチョコチップパンは、無理矢理流し込んだカフェラテと一緒に、満足感なく喉の奥へと流れていった。








「しーの」
「おかえりー」
「ただいまー」

買い物を済ませて帰宅後、しばらくすると橘が家にやってきた。
もういっそのこと合鍵でも渡してしまおうか、などと思いながら玄関を開けると、橘が甘えるように抱きついてくる。

「ふふ、今日は麻婆豆腐にするよ」
「えっ、最高じゃんありがとう」

そう言って軽いキスを落とす橘からは、可愛らしい甘い空気が漂っていて、その子どものような振る舞いに、思わずきゅんとしてしまう。
この男、自分の顔がいいことも分かっていて、こんな甘え方もしてくるなんて、ずるい。

今日の食堂でのことを問い詰めようと思っていたのに、後でいいかなんて思ってしまうような甘え方に、詩乃は言葉を飲み込んだ。

「ねぇ、詩乃」
「ふふ、なにー?動きづらいよー」

リュックを玄関に置いたまま、スーツ姿で後ろから抱きついてくる橘に返事をしながら、冷蔵庫から豆腐を取り出す。
隣の炊飯器からは米が炊ける匂いと、吹き出す白い蒸気。

「可愛いねー詩乃は」
「なにー急に」

ゆるりとした橘の話し方に、詩乃も似たような言葉尻になる。
甘ったるい雰囲気がこの空間に充満していて、むせ返りそうなくらいのそれが全く嫌ではない。
むしろ料理なんて放り出してしまいたいくらいの気持ちで、背中から回される腕を受け入れる。

「詩乃は、俺のー?」
「ふふ、何それ、そうなんじゃないの?」
「うん、そうー」

可愛らしいことを甘えた声で言ってのける橘に、たまらず手に取った豆腐をキッチンに置いて、くるりと振り返る。
その腕の中に包まれて、がっしりとした背中に腕を回した。

ああ、この甘い雰囲気のまま、合鍵の話もしてしまおうか?
それで橘が安心するなら何でもいいし、いつ来てもらっても構わない。

そう思って詩乃が口を開こうとすると、橘の顔が近づいてくる。
唇を閉じて待っていると、その綺麗な顔と柔らかい唇が降ってきて、甘いキスを落とされる。

「ん」

ワックスで固められた、パリっとした前髪が額に触れて、それが少しだけくすぐったい。

理性があるうちに、背後でぐつぐつと音を立てる中華スープの火を、止めなければ。
そう思って唇を離した。
二人でふふ、と顔を見合わせて笑い、詩乃はコンロの火を止めた。

「ねぇ、詩乃」
「んー?」

このまま豆腐も冷蔵庫に仕舞おうか、それとも作ってしまおうか?
そう思っていると、後ろに立ったままだった橘が、柔らかく名前を呼んだ。

スープの鍋に蓋をして、詩乃が返事をすると、橘が言った。


「同棲しない?」
「…え?」


勢いよく振り返ると、橘は穏やかな顔をして詩乃を見ていた。
合鍵なんていう自分の提案を、はるかに上回ったそれに、詩乃は言葉が出てこない。

「…どうしたの、急に」
「んーどうしたのっていうか…」

ようやく振り絞った声は小さくて、炊飯器の電子音にかき消されるくらいだった。
橘は柔らかい表情のまま、呆然と立ち尽くす詩乃の背中に手を回し、ふわりとまた抱きしめた。


「…今か後かの、違いでしょ?」


耳元でゆっくりと囁かれた言葉が、じんわりと血液のように身体に広がっていく。
どういう意味かと聞く暇を与えられず、続いて再び降ってきた唇を、詩乃は黙って受け入れる。

この男は、また、一体。


 
  
 
 
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